藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
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海外出張です。『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』第10話をリアルタイム視聴できないのが残念。第9話はゆっくり書きたいです。
指揮=園田隆一郎、演出・振付・美術・衣裳・照明=勅使河原三郎、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団。2022年に初演されたプロダクションの再演。公演プログラムの井内美香「オルフェウス伝説とオペラ」の項がおもしろく、オルフェオがエウリディーチェを黄泉の国から連れ戻すにあたり、会話をすることは許されていても姿を見てはいけない、つまり、聴覚は許されていても視覚は禁じられているという状態について興味深く思いながら鑑賞。初演時から出演のダンサー、アレクサンドル・リアブコが踊るとき、物語を必要以上に補足するでもない、でも、そこに人が存在して動いていることの向こうにある豊饒さを思った。
(12月6日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
(12月6日14時の部、新国立劇場オペラパレス)
『与話情浮名横櫛 源氏店』 名場面の醍醐味をよく伝える舞台だった。すべての瞬間の濃密さを緊密に感じる55分。和泉屋多左衛門(河原崎権十郎)に世話されているお富(坂東玉三郎)が、囲われ者であるということもあり(実は違うのだが)置かれている立場の哀しさが、番頭藤八(片岡市蔵)や蝙蝠の安五郎(松本幸蔵)とのやりとりからくっきりと浮かび上がる。そして、お互い死んだと思っていた与三郎(染五郎)との再会――。お富は知らないのだが、実は多左衛門はお富の兄。その実兄の前でお富は与三郎を兄だと言いつくろう。そんなお富の人となりについても承知しつつ、妹を添わせて大丈夫なのか与三郎の人となりを見定めつつ、言葉では何も言わずに、兄妹の証拠の品をそっとお富に手渡して出ていく。たたずまいに多くをにじませる権十郎の多座衛門。
『火の鳥』 初演は今年の「八月納涼歌舞伎」。現実社会のありようを念頭において作られた作品ながら、観ている間の俗世界との切り離され方がすばらしく、デトックスされたようなすっきりとした思いで劇場を後にした。今回さらにブラッシュアップしての上演。演者が変わったこともあるのか、初演とはまた異なる寓話性を観た思い。今回は、父である大王(市川中車)に永遠の力をもつとされる火の鳥(坂東玉三郎)を探しに行くよう命じられるヤマヒコ(市川染五郎)とウミヒコ(市川左近)の兄弟に、歴史上も多くある兄弟の相克の物語を連想したり。玉三郎の火の鳥が、衣裳の袖のところについた棒を手で優雅に操って布を波打たせる様は、20世紀初頭に活躍したロイ・フラーの舞を思わせて。そして、クレーンに乗っての宙乗り。語り口調も優雅で、思わず火の鳥ごっこをしたくなる魅力。
(12月5日18時10分、歌舞伎座)
『火の鳥』 初演は今年の「八月納涼歌舞伎」。現実社会のありようを念頭において作られた作品ながら、観ている間の俗世界との切り離され方がすばらしく、デトックスされたようなすっきりとした思いで劇場を後にした。今回さらにブラッシュアップしての上演。演者が変わったこともあるのか、初演とはまた異なる寓話性を観た思い。今回は、父である大王(市川中車)に永遠の力をもつとされる火の鳥(坂東玉三郎)を探しに行くよう命じられるヤマヒコ(市川染五郎)とウミヒコ(市川左近)の兄弟に、歴史上も多くある兄弟の相克の物語を連想したり。玉三郎の火の鳥が、衣裳の袖のところについた棒を手で優雅に操って布を波打たせる様は、20世紀初頭に活躍したロイ・フラーの舞を思わせて。そして、クレーンに乗っての宙乗り。語り口調も優雅で、思わず火の鳥ごっこをしたくなる魅力。
(12月5日18時10分、歌舞伎座)
1976年にロンドンで初演され、宝塚では1981年の初演以来再演を重ねてきた作品を、谷貴矢の新潤色・演出で27年ぶり4度目の上演。タイトルロールのジェームズ・ディーンを演じる極美真は星組から花組に組替えしたばかりでこれが初東上公演。主演映画『エデンの東』『理由なき反抗』『ジャイアンツ』の撮影風景(つまりは名場面の再現)を絡めつつ、ディーンの短い人生、その生き様を通して青春のきらめきを描く。
一幕ラストで、生きていく寂しさを歌い上げる極美のディーン――同じ演じる人間として、ディーンの哀しみや孤独に寄り添おうとする、その誠実な姿に心打たれた。映画で役柄を演じるうちに、現実と虚構との境をときに忘れてしまうかのようなディーン。極美はこれまで一心に体当たり的なパフォーマンスのインパクトが強かったけれども、案外憑依系? と思う瞬間も。ディーンの前傾姿勢もよく再現し、一世を風靡したそのファッションも着こなし(女性が演じる男役としては難易度の高いものもあると思う)、社会の常識にとらわれない言動で周囲をときに困惑させつつ、よき役者になりたいという願望の追求に貪欲なところを描き出していく。観終わったとき、ジェームズ・ディーンの物語を観たと同時に、極美慎が芯を務めるショー作品を観ていたようにも感じるのが不思議である。
『エデンの東』の監督エリア・カザン(紫門ゆりや)、『理由なき反抗』の監督ニコラス・レイ(一之瀬航季)、『ジャイアンツ』の監督ジョージ・スティーブンス(涼葉まれ)、それぞれに個性も手法も異なる監督とディーンとのやりとりも興味深い作品である。紫門のカザンは、極美ディーンからいい演技を引き出そうと対峙する様にどこかメフィストフェレス的な味わいを感じさせ、……二組に分かれたもう一方の『Goethe(ゲーテ)!』ではトップ娘役星空美咲が芸の鬼、こちらでは副組長が芸の悪魔と、花組、何だかすごいことになっているな……と。どこか生き急いでいるようなディーンの前に現れる「謎の少年」役の彩葉ゆめも、セリフのほとんどない役どころで確かな存在感を示し、ディーンの破滅願望を表すような場面では、違う世界にふっと引きずり込んでいくような怖さがあった。彩葉は、この前の東京宝塚劇場公演のレビュー『愛, Love Revue!』のラインダンスで、愛くるしい表情作りといいしぐさといい、入団2年目とは思えない娘役芸の高さで目を引く存在だったが、今回大いに芝居心を感じた。全体的に極美の組替えがよい刺激になっていと感じられた舞台だった。
24歳で死したジェームズ・ディーン。この作品を観ていると、彼のどこか野放図な生き方、その生き方が投影された演技が当時の若者の心をとらえたこと、彼の遺した作品を通じてその当時のアメリカ社会を知ることができるのだと、改めて気づく。
そして、自分自身の青春時代も思い出す。“ジェームズ・ディーンの再来”とも言われたリヴァー・フェニックスが好きだった。その初主演作が『ジミー さよならのキスもしてくれない』という青春映画で、……うーん、『スタンド・バイ・ミー』とか『モスキート・コースト』とかすごくよかったのに、これは何だかよくわからん作品だなあ……と思ったのだけれども、リヴァー・フェニックスがジェームズ・ディーンよりさらに若い23歳で死んでしまったとき、……人生をあっという間に駆け抜けてしまった人に何だか似合う、生き急いでいるような映画だったな……と妙な納得をした――「ジミー」「ジミー」と呼ばれるディーンが生き急ぐかのようなこの舞台を観ていて思い出した。それと、リヴァー・フェニックスと仲がよかったキアヌ・リーヴスは『マイ・プライベート・アイダホ』(シェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』が原作と知って当時びっくりした。キアヌ・リーヴスが「ハル王子」の役どころ)等で共演もしているけれども、キアヌ・リーヴスはポーラ・アブドゥルの「Rush Rush」のプロモーション・ビデオでは『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンを再現しているのである――当時観ても今観ても、このビデオでのキアヌ・リーヴスにはこの世のものではないような美しさがある。それから時が流れて、“ジェームズ・ディーンの再来”というキャッチフレーズが今の時代も有効なのかわからないけれども、80年代、90年代にはそのようにしてジェームズ・ディーンの“残り香”がただよっていたこと(そう言えばボーイッシュな大沢逸美が歌う「ジェームズ・ディーンみたいな女の子」という曲もありました)、そして、人々が歳を重ねていく中、ジェームズ・ディーンもリヴァー・フェニックスも永遠に若い姿でそれぞれの時代を鮮烈に象徴していることを思って、――何だか泣いてしまった。
一幕ラストで、生きていく寂しさを歌い上げる極美のディーン――同じ演じる人間として、ディーンの哀しみや孤独に寄り添おうとする、その誠実な姿に心打たれた。映画で役柄を演じるうちに、現実と虚構との境をときに忘れてしまうかのようなディーン。極美はこれまで一心に体当たり的なパフォーマンスのインパクトが強かったけれども、案外憑依系? と思う瞬間も。ディーンの前傾姿勢もよく再現し、一世を風靡したそのファッションも着こなし(女性が演じる男役としては難易度の高いものもあると思う)、社会の常識にとらわれない言動で周囲をときに困惑させつつ、よき役者になりたいという願望の追求に貪欲なところを描き出していく。観終わったとき、ジェームズ・ディーンの物語を観たと同時に、極美慎が芯を務めるショー作品を観ていたようにも感じるのが不思議である。
『エデンの東』の監督エリア・カザン(紫門ゆりや)、『理由なき反抗』の監督ニコラス・レイ(一之瀬航季)、『ジャイアンツ』の監督ジョージ・スティーブンス(涼葉まれ)、それぞれに個性も手法も異なる監督とディーンとのやりとりも興味深い作品である。紫門のカザンは、極美ディーンからいい演技を引き出そうと対峙する様にどこかメフィストフェレス的な味わいを感じさせ、……二組に分かれたもう一方の『Goethe(ゲーテ)!』ではトップ娘役星空美咲が芸の鬼、こちらでは副組長が芸の悪魔と、花組、何だかすごいことになっているな……と。どこか生き急いでいるようなディーンの前に現れる「謎の少年」役の彩葉ゆめも、セリフのほとんどない役どころで確かな存在感を示し、ディーンの破滅願望を表すような場面では、違う世界にふっと引きずり込んでいくような怖さがあった。彩葉は、この前の東京宝塚劇場公演のレビュー『愛, Love Revue!』のラインダンスで、愛くるしい表情作りといいしぐさといい、入団2年目とは思えない娘役芸の高さで目を引く存在だったが、今回大いに芝居心を感じた。全体的に極美の組替えがよい刺激になっていと感じられた舞台だった。
24歳で死したジェームズ・ディーン。この作品を観ていると、彼のどこか野放図な生き方、その生き方が投影された演技が当時の若者の心をとらえたこと、彼の遺した作品を通じてその当時のアメリカ社会を知ることができるのだと、改めて気づく。
そして、自分自身の青春時代も思い出す。“ジェームズ・ディーンの再来”とも言われたリヴァー・フェニックスが好きだった。その初主演作が『ジミー さよならのキスもしてくれない』という青春映画で、……うーん、『スタンド・バイ・ミー』とか『モスキート・コースト』とかすごくよかったのに、これは何だかよくわからん作品だなあ……と思ったのだけれども、リヴァー・フェニックスがジェームズ・ディーンよりさらに若い23歳で死んでしまったとき、……人生をあっという間に駆け抜けてしまった人に何だか似合う、生き急いでいるような映画だったな……と妙な納得をした――「ジミー」「ジミー」と呼ばれるディーンが生き急ぐかのようなこの舞台を観ていて思い出した。それと、リヴァー・フェニックスと仲がよかったキアヌ・リーヴスは『マイ・プライベート・アイダホ』(シェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』が原作と知って当時びっくりした。キアヌ・リーヴスが「ハル王子」の役どころ)等で共演もしているけれども、キアヌ・リーヴスはポーラ・アブドゥルの「Rush Rush」のプロモーション・ビデオでは『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンを再現しているのである――当時観ても今観ても、このビデオでのキアヌ・リーヴスにはこの世のものではないような美しさがある。それから時が流れて、“ジェームズ・ディーンの再来”というキャッチフレーズが今の時代も有効なのかわからないけれども、80年代、90年代にはそのようにしてジェームズ・ディーンの“残り香”がただよっていたこと(そう言えばボーイッシュな大沢逸美が歌う「ジェームズ・ディーンみたいな女の子」という曲もありました)、そして、人々が歳を重ねていく中、ジェームズ・ディーンもリヴァー・フェニックスも永遠に若い姿でそれぞれの時代を鮮烈に象徴していることを思って、――何だか泣いてしまった。
8年ぶりの来日公演。ピナ・バウシュは2009年に亡くなっているが、その前年に発表した『Sweet Mambo』の日本初上演で、初演時のダンサーも多く出演。ヴッパタール舞踊団の来日公演をよく観ていたのは2000年代前半。それからの年月で社会も変わり、自分の見方も変わったなと感じた。かつてはその作風に対し、飄々と悠然としたものを感じていたのだけれども、例えば、……これって(性)暴力だよね……という仕草の反復を観ていても、……根底に深い怒りや糾弾の念もあったのかな……と思ったり。
「ジュリー!」と男性の声で呼ばれ、女性ダンサーが何度も声の方向に走っていこうとするのだが、そのたびに必ず両脇を男性二人に抱えられて後ろに連れ戻される、その繰り返しのシークエンスが、一幕にも二幕にもある。その女性ダンサー、ジュリー・シャナハンが、風で舞台装置のカーテンが揺れる中、一人踊るラストに、激しい風雨にさらされ、葉を落とし、ときに枝を折られ、それでもそこにすっくと立つ一本の木を思った。
(11月27日19時の部、彩の国さいたま劇術劇場大ホール)
「ジュリー!」と男性の声で呼ばれ、女性ダンサーが何度も声の方向に走っていこうとするのだが、そのたびに必ず両脇を男性二人に抱えられて後ろに連れ戻される、その繰り返しのシークエンスが、一幕にも二幕にもある。その女性ダンサー、ジュリー・シャナハンが、風で舞台装置のカーテンが揺れる中、一人踊るラストに、激しい風雨にさらされ、葉を落とし、ときに枝を折られ、それでもそこにすっくと立つ一本の木を思った。
(11月27日19時の部、彩の国さいたま劇術劇場大ホール)


