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 舞台に立つということをいかに教えるか、興味津々でした。
2018-09-28 23:42 この記事だけ表示
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https://spice.eplus.jp/articles/207637

 話していて波長が合うというか、稲葉さんの死生観が非常に興味深かったです。
2018-09-28 23:41 この記事だけ表示
 観ていて…、心と、肌とが、ちりちり、ひりひり、相似形を成して燃えていた。ひりひりと言っても、焦燥感といったネガティブな風ではない。それは、未だかつて味わったことのない感覚だった。――彼我が一つになる、その恍惚感ともまた違う。むしろ、魂が一つではなく、そこに二つ有ることを互いに祝福して、向き合ったまま、いつまでもどこまでも、共に震えて揺れているような。
2018-09-22 21:06 この記事だけ表示
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https://spice.eplus.jp/articles/205440
2018-09-05 23:32 この記事だけ表示
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2018-09-02 16:05 この記事だけ表示
『凱旋門−エリッヒ・マリア・レマルクの小説による−』は、今から18年前、今回と同じ雪組で、同じ轟悠主演で初演された。「♪パララパララパララー」のリフレインが印象的な主題歌。恋人たちが杯を交わす林檎酒カルヴァドス。――心に残った。だからこそ、レマルクの原作小説の中古本を買い求めたのだと思う。――だが、買っただけで満足してしまったらしく、本は18年間、本棚の片隅に置かれたままになっていた。
 再演の舞台はひときわ心に沁みるものだった。私はようやく、18年前に買い求めた原作を手に取り、読んだ。不思議だ。すべてがよくできためぐり合わせのようだった。原作に、舞台に描かれているような、男女の、人の心の機微について、18年前の私はまったくわかっていなかった、と思った。きっと読んでも全然わからなかっただろう。18年後の私は、わかる。沁みる。何があったわけでもない。ただ、劇場の客席に座り、多くの時間を過ごしてきて、わかるようになってしまった――不思議だ、劇場は。
 主人公ラヴィックは、ドイツの有名な病院の外科部長だったが、友人をかくまったかどでゲシュタポの拷問に遭い、恋人も失い、強制収容所に入れられたところを脱出し、フランスに不法入国した身だ。パリでは無免許で手術を行なうもぐりの医者として生計を立てている。雨の降るある夜、彼はよるべない若い女、ジョアンに出逢い、恋に落ちる。だが、ジョアンは、ひらひらと舞う蝶のように魂に一切の落ち着きのない女である。ラヴィックだけでは我慢できず、自分に豪奢な生活を与えてくれる男、自分に愛というものを与えてくれる、あるいはその幻想だけでも与えてくれる男の間を飛び回る。その一方でラヴィックの心をもとらえていようとする。ラヴィックの状況を理解しようとはせずに。
 女とは、結婚できない。子供をもうけられない。家庭という名の温かな社会的保証、安定を与えてやることはできない。その法的資格がない。ラヴィックは、自分という存在を証明する書類を持たぬ亡命者だから。
 心から愛した者に、その者が望んでいるものを与えてやれないのはひどく苦しいことだ。他の誰かがその者にその望んでいるものを与えてやるのを、指をくわえて見ているしかない。――まあ。愛において、愛以外のものを望むな、とも思うけれども。愛以外のものが入り込んできた瞬間、それは愛ではなくなってしまう。
 自分を愛しているのかどうか、執拗に尋ね続ける女に対して、ラヴィックは決して自分の心の内を明かさない。けれども、原作では、彼は、他の男のもとへと去った女の家の前のベンチに座り、苦しい、引き裂かれたような思いを味わい、――そして大雨の中で、知る。「おれは生きている!」と――劇中では、轟悠演じるラヴィックが、自分が愛しているのはジョアン一人だと銀橋を一人激唱して渡るくだりに仮託されている。
 ――昨年の秋、自分がまったく同じ思いを味わったことを思い出さずにはいられなかった。人に心などなければいいと願いたくなるような痛み。その痛みが、告げていた。「お前は生きている!」、その夜のことを(http://daisy.stablo.jp/article/455867317.html)。あまつさえ、その夜、雨が降っていたような気さえし始めた。否、それは、心の中に降る雨だったに違いない。
 それでも。ラヴィックとジョアンは、幸せなのだ。他の男――ラヴィックが「おれは生きている!」と悟ったときと同じ男であるかどうかさえわからない。舞台では一人の男に集約して描かれているけれども、原作小説では、彼女は名前さえ言及されない数多の男たちの間を飛び回って生きる――に撃たれたジョアンの死の刹那、少なくとも二人は互いに確認できるのだから。それは、愛だったと。――ここで、原作では、女は女の母国語で話し、ラヴィックは自分の母国語で語る。それまでは互いに借りものの、フランス語という共通言語で語っていたのだった。「どちらも自分自身の言葉を話した。言葉の障壁はくずれ落ちて、ふたりはたがいに、いままでよりももっとよくわかりあった」(山西英一訳)。
 世界には名づけられぬ関係が多く転がっている。互いに愛と確認できただけ、幸せである。確かめ合えねば、どうしようもない。その名づけ得ぬものをいつまでも心に抱えて生きていくしかない。あれは一体、何だったのだろう? ――と、蜃気楼のように消えた何かに思いを馳せて。未練ではない。不可解なのである。
 ラヴィックは作中、“ロマンティスト”と言及される。そのラヴィックに、自分は負けず劣らずロマンティストなのだろうと思う。だから、この心にある、名づけ得ぬ数多のものを、今ここに断じる。それは、愛だったと。たとえ、他者に――ひどいときには、その相手にさえ――踏みにじられ、唾を吐きかけられ、泥にまみれようとも、愛は、愛だったと。
 数多の愛の記憶が、今もこの心にある。

 轟悠がいてよかった、と思った。――轟悠と共にこの作品に、今、こうして向き合えたことが。
 数多の入団と退団を繰り返し、宝塚歌劇団は新陳代謝していく、とされる。それは無論、組織活性化の大きな要素ではある。けれども、残り続ける人々もいる。演出家を始めとするスタッフがそうだ。轟も所属するところの専科のメンバー、組をまとめる組長副組長らベテランがそうだ。――そして、宝塚を見守り続ける観客も。繰り返される入退団の強大なエネルギーのそばで、残り続けることにもまたエネルギーが要る。かつて轟がコンサートでシャンソン『人の気も知らないで』を歌っていたことを思い出す。それ以来、思うようになった。退団後、宝塚に変な未練を見せるくらいだったら、轟悠のように残ればいい。“人の気も知らないで”。
 18年の時を経て再びラヴィック役に挑んだ轟に対して、ヒロイン・ジョアンを演じる真彩希帆は学年にして27期離れている。この学年差が、原作上も15歳違うラヴィックとジョアンのすれ違いをまずは雄弁に物語る。それだけ年齢が違えば、人生における経験値も異なる。しかも、ラヴィックは外科医だ。戦地を知り、死を知り、諦念を、絶望を知っている。それは、物語冒頭、ジョアンが襲われているところの絶望とはまた違う。そして、二人の性格が絶望的に違う。絶望にあって、だからこそ、生と性のエネルギーを燃やし尽くさんばかりに生きる者と、己の心を殺し、半ば死んだように生きる者と。だからこそ、ラヴィックはジョアンにひかれるのである。愛するのである。「きみは僕の生命だったよ――」「きみはぼくを生かしてくれたのだ――」
 それにしても。絶望の果てに愛を見つけ、その愛をも喪い、命のビザを人に譲って収容所へと死に向かう男性像は、宝塚歌劇の男役に何と似合うことだろう。脚本を手がけた柴田侑宏は、なんとロマンティストであることだろう。この作品の成功なくして、後の『カサブランカ』の成功もなかったと、今改めて思う。
 長年観続けてきた。そして、今、ラヴィックを演じる轟悠が、今までで一番好きである。――その姿に、思う。舞台と、客席と。劇場で多くの時間を共に過ごしてきた、舞台人たち。それもまた、名づけられぬ、言葉にして確かめ合わぬ、関係ではある。けれども。今ここに、もう、認めてしまおうと思うのである。友であると。――もちろん、さまざまな“友”がいる。宝塚で言えば、退団してしまって終わる友情もある。続く友情もある。個人的には一度も会わないかもしれない、けれども、確かに、人生の大切な時間を共に過ごした、数多の友たち。
2018-09-01 21:26 この記事だけ表示