チャイコフスキーとラフマニノフ2曲とプロコフィエフを一度に一人の人間が弾く。「横山幸雄 華麗なるロシア4大ピアノ協奏曲の饗宴」(13時の部、オーチャードホール)3時間が凄まじくボリューミー。受信力の限界を超えた果てに、美の幻影が顕れたのだった…。ということで、今宵は受信力電池切れ〜。「フランス杯」は後日ゆっくり観ます!
2018-11-25 23:16 この記事だけ表示
 11月16日18時半の部、東京文化会館大ホール。
 第一幕。カポーテ(闘牛士のケープ)を激しくひるがえして踊るエスパーダ役の栗山廉(80年代のボーイズアイドルを思わせる美男子である)のあまりのかっこよさに、…「きゃっ」と声が本当に出そうになるのを抑えるのが大変だった。それくらい、熱の入った、堂に入ったカポーテさばき! 宝塚でも、マントさばきの美しさに男役としての成熟度が出るからして。第二幕。…ううむ。カポーテなしだと、声は出ない感じかな…。第三幕。カポーテ復活。これこれ! 再び昂揚。…なぜ、布を持っているのと持っていないのとで、こうも自分のテンションは変わるのか。布という客体があることで、何かに必死に、ひたむきになっている、その表情が現れやすいからか。今後の研究課題。
 バジル役は山本雅也。…こちらが落ち込んでいるとき、何食わぬ顔でおもしろいことをして笑わせてくれた後、「元気出せよ」と肩を叩いてくれて、…あ、気づいて心配してくれてたんだ…とうれしくなるような、そんな、明るい好青年の魅力。第三幕、黒い衣装で出てくると、ぐっと色気が増す。そして、回転しながらその脚で鋭く宙を切り裂いていったとき…、観ているこちらの胸も、一瞬、鋭く切り裂かれるような気がして。それにしても、バジルはキトリに激しくチュッチュチュッチュしていて、…数年前、銀座の四丁目交差点付近で迷っていたので道を案内した、その出会ってわずか5分後には隙ありとばかりにほっぺにキスしてきた見知らぬスペイン男のことを思い出し…。いや、たった一人の印象で決めつけてはいけませんが、でも、スペイン男…。
 キトリ役の小林美奈は大柄な人ではないので、第一幕の衣装、たっぷりとしたスカートが少し重そうに見えたのだけれども、グラン・パ・ド・ドゥでは山本バジルと丁々発止のテクニシャンぶりを見せて。『ドン・キホーテ』のバジルと言えば、熊川哲也芸術監督の当たり役としてよく挙げられる役柄(個人的に好きなのは『コッペリア』のフランツなのですが)。ということで、全体的に猛特訓が行なわれたことがうかがえる、引き締まった舞台。もちろん、夢追い人ドン・キホーテには、美の夢を追い続ける人の姿が投影されて。1999年、芸術監督がバレエカンパニーを立ち上げたとき、彼をまるでドン・キホーテでもあるかのように言う人もいなくはなかったなと。でも、来年でもう設立20周年。夢は美しい現実となり、さらなる美しい夢に向かって前進し続けていっていて――。

 バジルが死を装って、キトリとの愛を成就させようとする場面。
 …先月のあの美しい『ロミオとジュリエット』のパロディにしちゃうの、ちょっと早すぎやしなかった?(苦笑い)
 私はとりあえず、先週末が終わらなければわからないと思った。それがあっての「また後日」だった。…気持ちはわかる。でも、たとえあの“物語”がその前の時点でもう終わってしまっていたとしても、私は、あの『ロミオとジュリエット』が観られただけでも――見守る人の心の美しさにふれられただけでも――“物語”の価値はあった、そう思っていたから。…私はあくまで、作品の美しさ、その名誉のために言っているのですが。願わくば、2018年版『ロミオとジュリエット』も、2011年版『ロミオとジュリエット』と同様、永らえんことを(2011年版についてはhttp://daisy.stablo.jp/article/448444611.html及びhttp://daisy.stablo.jp/article/448444612.html>。でも、今回の『ドン・キホーテ』で、久しぶりに芸術監督のやんちゃな魂にふれられて、何だかうれしかったなと(最近めっきり円熟路線だった故)。
 それで、『ロミオとジュリエット』のときに書き残したことを一つ。
 私たちは、残された肖像画を通じて、シェイクスピアがどんな顔をしていたか、何となく知っている。けれども、シェイクスピア作品を愛するというとき、それは、あくまでその文章に対する愛であって、シェイクスピアの見た目自体ははたして、その愛の理由に含まれているんだろうか。舞台に立つ人間、生身で美を体現する人間においては、その人の見た目と美は不可分であるから、その人の体現する美を愛するというとき、そこには見た目に対する愛も当然含まれているだろうけれども、物書きと文章においては、そういった関係性は必ずしも成立するものではないような。F.スコット・フィッツジェラルドの研究をしていた私の母が、「やっぱり顔も好きだったんだと思う」と真顔で語ったときがあって(“ジャズ・エイジの寵児”と呼ばれるにふさわしい美男ですよね)、無論、そういうところから入る愛もあるとは思うものだけれども。
 舞台に立つ人間は、演技が終わって、目の前にいる観客から拍手をもらうことができる。物書きにおいてはそうはいかない。誰がいつ、どこで読んでいるかもわからないし、拍手をもらうということもない。昔はうらやむこともあったけれども、今では、それぞれ異なるつながり方をしているだけなのだと思うようになってきていて。そう考えると、会ったこともない、顔も見たこともない人間の書いた文章を、会ったことのない誰かが愛してくれるというのは、物書きにとってはある意味、究極の経験であって。
 あ、でも、何も私は、ただただ芸術のために、他のさまざまな思いを犠牲にして、会わない、話さない相手と、もっぱら文章を通じてコミュニケーションを取ろうとしているわけではないですよ。美の追求のためだけにそのような状況を作り出そうとか、そんな思惑なんて一切ない。ただ、なぜか、そういう状況が多発するというか…。私だって普通に人と会っても話したい、そう長らく思い続けているのだけれども、不器用なのがいけないのか、なかなかそうはならなくて…。ときに自分でも激しく困る。
 来週の記者懇談会、3月の会見以来の肉声を聞けるのを楽しみにうかがいます。
2018-11-24 23:37 この記事だけ表示
 本日16時半の部観劇(新橋演舞場)。非常に見応えのある舞台! 話を何となくしか知らなかったあひる(血やミステリーやホラーが苦手故)は、途中からもうもう、ドキドキハラハラ、ムンクの『叫び』のような形相で舞台に見入っており。
 澤瀉屋より入団した喜多村緑郎(名探偵・金田一耕助役)と河合雪之丞(笑いをビシバシ巻き起こす犬神家の三女梅子役)の存在によって、あひるにとってぐっと身近なものとなった新派。遺産相続をめぐり、骨肉の争いが起きる一族。そんな物語を通じて、決して忘れてはならない、未来にも伝えていってほしい、戦後日本に生きる人々の精神性が描き出されて――。今年は新派創始130年、考えてみれば、明治以降の西洋文化受容の歴史とも当然相関関係をもって歩んできたわけで、あひるとしても非常に興味のあるところ。近代建築好きとして、神戸のモダニズム文化にも関心が広がり、最近、西秋生の『ハイカラ神戸幻視行』『ハイカラ神戸幻視行 紀行篇 夢の名残り』を楽しく読み終えたばかり。この本を通じて、横溝正史が神戸っ子であることや、日本における探偵小説の発展が神戸という街に縁が深いこと(例えば、江戸川乱歩の『人間椅子』に出てくるような椅子が現実にあるのかどうか、乱歩と横溝でトアロードの洋家具店を見に行ったとのこと)を知ったので、今回の舞台の中でも、神戸という街への言及があるのを大変興味深く聞いており。
 あひるの中では、同じ新橋演舞場で上演されたスーパー歌舞伎U『ワンピース』とセット(とりわけ、市川右團次扮する「白ひげ」が壮絶な最期を遂げるあたり)で、一つの大きな物語。ラスト、…一族にはきっと新たな物語が始まる…と、花道を去ってゆく喜多村金田一の晴れやかな笑顔が非常に印象的。明日25日11時半の部が千穐楽!
2018-11-24 23:36 この記事だけ表示
 田中刑事。最後まで前向きな気持ちが伝わってきて、これまでより演技時間が短く感じられた。長い手足を活かした一つ一つの動きが大きく、すっきりした表情も◎。
 ジェイソン・ブラウンの演技は、「ロシア杯2018」の羽生結弦の「秋によせて」の流れに続く、男性美の新たな可能性を強く打ち出した演技。
 本田真凜。しなやかさや伸びやかさ、彼女の美点をじっくり引き出しにかかっているコーチのラファエル・アルトゥニアンに頭が下がる。「スケートアメリカ2018」のときに気になった点も解消されつつある。「自分が好き」な本田真凜より、今回のように「スケートが好き」な本田真凜の方が、断然魅力的!
 紀平梨花。画面のこちら側にまで緊張が〜。けれども、頭上で手を組んだ三回転ルッツはシャープな美しさがさらに増していたし、スピンも見惚れる。「月の光」にのって滑る彼女の姿に、昨夜の東京で見られたとても美しい満月を思い出して。
 三原舞依。彼女のふんわりとした魅力が引き立つ今回の衣装◎◎◎。内面からどんどんあふれてくるものがあって、女性ヴォーカルの「It’s Magic」に、うっとり、ロマンティックに酔うひととき。優雅な大人の女性を感じさせて。
2018-11-24 13:26 この記事だけ表示
 本日の初日前の舞台稽古を見学(10時、東京宝塚劇場)。まずは、日本物レヴュー『白鷺の城』作・演出の大野拓史&宙組トップスター真風涼帆の復調が喜ばしい限り。陰陽師・安倍泰成(安倍晴明の子孫)と妖狐・玉藻前が、千年に渡って互いに転生を繰り返して対決を続け、桜咲く白鷺の城(姫路城)で遂に決着をつけることとなる――。眼前でめくるめくスペクタクルが展開されている、と同時に、脳内では羽生結弦の「SEIMEI」と「春よ、来い」と四代目市川猿之助の『義経千本桜』と『元禄港歌』(で糸栄役として語った『葛の葉』)が一気に上演されているような、四回転ジャンプと宙乗りが一度に繰り広げられているような、そんな大昂揚の舞台。大野作品では過去に『花のいそぎ』(2004)でも小野篁のマジカルな魅力を取り上げていたのを思い出し&この夏訪れたのですが、『元禄港歌』の舞台となった室津は白鷺の城からもそう遠からず。『異人たちのルネサンス』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」誕生秘話異聞。作・演出の田渕大輔の芸術論、ミューズ論で、こちらも自由を象徴する白い鳥がモチーフ。レヴュー、芝居とも、トップ娘役星風まどかの大奮闘が光る。童顔なのに妖艶な美しさ、そしてデュエットダンスではにっこりキュートなスマイル! ちなみに本日あひるはイタリアの「モナ・リザ」というブランドの白鳥ワンピースを着て行っていたのでした(後でブランド名を思い出して自分でもびっくり)。公演のますますの進化が楽しみ。
2018-11-23 22:30 この記事だけ表示
 2017年12月25日以来、オレは友野一希のエキシビションの演技を観るのを楽しみに待っていた!!!
 なぜって。友野一希と言えば。「エキシビションがすごいらしい」&「ラーメン大好き友野くん」として有名(夜中に彼のインスタグラムを見ない方がいいです。ラーメン食べたくなります)。そして、遂にその日がやって来た!
 ロボット振り!
 カクカクとしたその動きに、笑笑笑。さすがはエンターテイナー!
 でも。フリーの「リバーダンス」から、ちょっと感じていたのである。この短期間に、彼は多くを吸収し、猛スピードで成長していっている。だから、まだまだ少年っぽい面差しに、ふと大人っぽい表情を浮かべるようになったのを。そして、エキシビションで滑る彼の姿に、初めて男らしい魅力を感じて。
 たった一回の演技でわかったみたいに書いて申し訳ない。友野一希はエンターテイナーである。と同時に、まだまだ秘めている多くの顔がある。これから、その顔を次々と見せていってくれることに期待。ラーメン食べて頑張って!
2018-11-19 23:01 この記事だけ表示
 山下真瑚。待てど暮らせど帰って来ないピンカートンを待つ、蝶々夫人の想い――。やわらかい演技で、音楽の世界に没入させてくれた。
 松田悠良。ところどころに感じさせるエレガントさ。怪我を克服してリンクに帰ってきたときの演技が楽しみ。
 白岩優奈。エキシビションの方が、一つ一つの動きをメリハリつけて滑れている印象。

 アリーナ・ザギトワは、…今シーズン、どんどん顔つきが険しくなっていっていて…。心がいつまでもつんだろうか。心配。一つだけ思いついたのは。みんなでますます楽しく滑っていって、「こっちの世界においでよ!」といざなう『北風と太陽』作戦だ!
2018-11-19 22:59 この記事だけ表示
 今、振り返ってみると、その演技を観ていたときの、音と視覚の一切の記憶が、私にはない――。
 もちろん、ニュース映像や写真を観れば、そうだ、こういう衣装でこういう演技をしていたと思うし、曲を聴けば、そうだ、こういう曲だった、と思う。でも、初めてその演技にふれた瞬間の、それが残っていない。残っているのは、まるでブラックホールのような空間で、ただ、相手の心――狂おしいまでに自らの生の意味を求める心――を受け止めたという、その衝撃だけなのである。
 人間の身体には、見るために目という器官があり、聞くために耳という器官がある。だから通常、それを用いる。だが、肉体がなく、ただ心だけが存在し得ると考えた場合、心そのもので見、聞かなくてはならない。だから、あれは、ただ心だけを、ただ心だけで受け止めるという、究極の経験だったのだ。それだけでも、この世に生を享けてよかったと思えるような類の。
2018-11-19 20:43 この記事だけ表示
 掲載されました。

http://www.meg-net.com/blog/entry-565.html

 幕間、ひどい泣き顔で感想を伝えに行ったあひるに、演出の長塚圭史さんが、…大丈夫ですか…とばかりに手を差し出してくれて、…その笑顔が優しくて、美しかった。
 またブログでも書きます。
2018-11-19 20:35 この記事だけ表示
 …エーテルの如くただよう、珠城りょうの“トート=死”。その姿に、改めて思った。
 『エリザベート』の結末。“死”と、人が、一つになるとは――?
 単なる死ではない。“死”という不可視の、でも絶対的な存在と、人とが一つにならなくてはいけない。さて、どうやって?
 トートは肉体を持たない。だから、彼が何か事を起こすには、彼の意図を理解し、それを実行してくれる人間を探さねばならない。エリザベートと、一つになる。エリザベートを、殺す。この場合、イタリア人テロリスト、ルイジ・ルキーニが彼の“実行犯”となったわけである。凶器はナイフ。ここで、ナイフを“ファルス(男性器)”のメタファーととらえたならば、突き刺す行為は“挿入”である。ここに、肉体を持たないトートと、エリザベートの結合は完成する。
 死はそもそもエクスタシーのメタファーでもある。エクスタシー。――それは、芸術の場において、しばしば経験され得るものではないか。演技や音楽の名演に、観衆、聴衆は、平気で心を一つにしてしまう。演技者、演奏者も然り。…自分のタクトのもと流れる音楽と一つになっていたんだろうな…と思いたくなるような昂揚した表情で、終演後、舞台に現れるマエストロもいる。
 となると、トート=死は、美の表象とも考え得るのだった。いつかたどり着くところ。死の、――美の、彼岸。
 無論、東宝公演でも、井上芳雄のように、男性性/女性性を超えた、優れたトートの演技を見せる役者もいる。けれども、宝塚歌劇の場合、そもそもが女性である男役がトートを演じる時点で、作品に仕込まれたその仕掛けがデフォルトで発動している。そのことに、今回の月組公演で改めて気づかされたのだった。
2018-11-18 01:37 この記事だけ表示