…エーテルの如くただよう、珠城りょうの“トート=死”。その姿に、改めて思った。
 『エリザベート』の結末。“死”と、人が、一つになるとは――?
 単なる死ではない。“死”という不可視の、でも絶対的な存在と、人とが一つにならなくてはいけない。さて、どうやって?
 トートは肉体を持たない。だから、彼が何か事を起こすには、彼の意図を理解し、それを実行してくれる人間を探さねばならない。エリザベートと、一つになる。エリザベートを、殺す。この場合、イタリア人テロリスト、ルイジ・ルキーニが彼の“実行犯”となったわけである。凶器はナイフ。ここで、ナイフを“ファルス(男性器)”のメタファーととらえたならば、突き刺す行為は“挿入”である。ここに、肉体を持たないトートと、エリザベートの結合は完成する。
 死はそもそもエクスタシーのメタファーでもある。エクスタシー。――それは、芸術の場において、しばしば経験され得るものではないか。演技や音楽の名演に、観衆、聴衆は、平気で心を一つにしてしまう。演技者、演奏者も然り。…自分のタクトのもと流れる音楽と一つになっていたんだろうな…と思いたくなるような昂揚した表情で、終演後、舞台に現れるマエストロもいる。
 となると、トート=死は、美の表象とも考え得るのだった。いつかたどり着くところ。死の、――美の、彼岸。
 無論、東宝公演でも、井上芳雄のように、男性性/女性性を超えた、優れたトートの演技を見せる役者もいる。けれども、宝塚歌劇の場合、そもそもが女性である男役がトートを演じる時点で、作品に仕込まれたその仕掛けがデフォルトで発動している。そのことに、今回の月組公演で改めて気づかされたのだった。
2018-11-18 01:37 この記事だけ表示
 …今、とても不思議な気持ちでこの文章を書いている。
 愛希れいかが2012年に月組トップ娘役になったとき、私は彼女のことを全然認めていなかった。その3月、前トップ娘役蒼乃夕妃の退団記念のミュージックサロン(ディナーショー)『THE VERY BEST OF ME』を、宝塚ホテルまで観に行った。そこに愛希も出ていたけれども、…全然娘役の動きができていない…と思って、視界に入れないようにしていた。ミュージカル『ロミオとジュリエット』でトップお披露目(しかもロミオが役替わりという重圧)。…全然ジュリエットじゃない…と思った――彼女の名誉のために言えば、今年お亡くなりになった評論家の小藤田千栄子さんは、彼女は自分のイメージするジュリエットにとても合うとおっしゃっていた。
思えば、そのころ、「どうしてそんなに愛希れいかをかばうの!」と、何度夫婦喧嘩したことだろう(変な夫婦ですよね…)。あれもできない、これもできない。『エリザベート』でいえば、「皇后の務め」ならぬ「トップ娘役の務め」である。憤っているあひるはゾフィーさながらの怖さだったであろう…。そんなあひるに、夫はいつも、「でも、彼女には可能性を感じるから」と言うのだった。夫の方が正解である。愛希れいかは、宝塚史に残る名娘役として退団していく。
 …今でも不思議なのである。2013年の宝塚大劇場のお正月公演『ベルサイユのばら』。前年の『ロミオとジュリエット』とは打って変わって、愛希は可憐なロザリーとして現れた! ロザリーは、宝塚の娘役ならば絶対必要なスキルを身につけていなければ演じられない役である。けなげな気持ちを銀橋で歌う姿が今でも心に焼きついている。…あの間に、いったい何があったのだろう。娘役超速習スペシャル猛特訓? やり遂げた本人もすごいけれども、施した方もすごい。
 そして彼女は、才能を開花させていった。
 まずはショースターとして。そして、芝居作品で。2015年の『1789−バスティーユの恋人たち−』で演じたマリー・アントワネット。第二幕、王妃として、母としての立場を悟っていって後の演技が非常によかった。年若い人だけれども、もし近くにいたら、大人の女同士、友達としてつきあっていける、そう感じさせる深みがあった。実際、彼女は初日前囲み会見でも機転が利いていて、フォローして答弁をまとめるのが上手かったので、困ると、「では、愛希さんは?」「愛希さんはいかがですか」と振りがちだったかつての日々。2017年の『グランドホテル』ではエリザヴェッタ・グルーシンスカヤ。特別監修を務めたブロードウェイの大スター、トミー・チューンが、「彼女をブロードウェイに連れて帰りたい」と発言した公演である。このとき、自分の実年齢よりかなり上の役を演じるにあたって、「グルーシンスカヤが人生において嗅いできた香りを考えて役作りした」と言っていて、…この人、変かも…と思った。無論、「変」はほめ言葉である。そういう役作りをする人を初めて知った。そして、小池修一郎のスマッシュヒット、『All for One〜ダルタニアンと太陽王〜』では、女を男と偽り、フランス王を務めるルイ14世役。女性の姿に戻っているとき、…“若い娘”ってこういう感じよね…と考えながら演じているのを観て、それはびっくりした。もちろん、女性がすべての役を演じる宝塚だから、生のままの若い娘では舞台に乗れない。娘役としての技量が必要である。でも、貴女そもそも若い娘だから!!! なぜそこを考えるの〜〜〜。…ますますもって、変。
 思えば。彼女は6年の長きにわたってトップ娘役の重責を担ってきた。そして、その務めを立派に果たしてきた。だから、…人として立派になりすぎて、若い娘感を失ってしまったのかな…と、ちょっと心配に。
「♪オリンピックの顔と顔〜」、『カンパニー』で歌った「東京五輪音頭」は、それにしてもみなぎる昭和感が素晴らしかったな…。平成生まれなのに、なにゆえ。やっぱり、変である。それ以来、平成風に、今っぽく歌われているのを聴くと、何とも物足りないあひる。…トップ娘役が歌った名唱として「東京五輪音頭」をあげるあひるも、負けず劣らず変なのであるが。

 そして彼女は、娘役としては17年ぶりに、宝塚バウホールで主演を務めた。
『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』。タイトルの「♡」からしてすでに、齋藤吉正感たっぷりだ! 聖処女ジャンヌ・ダルクが現代にタイムスリップして起こる大騒動を描くこのコメディ。ジャンヌは、「スタバ」ではなく「スマダ」、あひるマークが気になる「スマイル・ダック・カンパニー」でバイトして、自ら狩ったウサギなどを調理して提供する始末。しかし、ジャンヌは、自分の代わりに過去へと行ってしまっている女性ドクターを救うため、火あぶりになる己の運命を全うせんと、帰ってゆく。その覚悟。ショー作品でも、「ここで娘役を使ってくれるのがうれしい!」という起用をよくよく見せる齋藤が、娘役がヒロインという異例の作品において、ジャンヌの生き方に憧れる現代っ娘等、娘役を多分に活かした作品作りを見せた。このとき、飲んだくれの女性ドクター役で、娘役としてかなりはっちゃけた演技を見せたのが、白雪さち花。冒頭であげた『THE VERY BEST OF ME』でも、蒼乃と共にかっこよく踊っていた。
 …私は、あのとき視界に入れようとはしなかった彼女の退団記念公演を観に、3年ぶりに宝塚までやって来たんだな…。
感慨深かった。宝塚月組娘役・愛希れいかの歩みは、私に本当に大切なことを教えてくれた。なぜ、私は、あのとき、あんなにも意固地だったのだろう。人には限りない可能性がある。どうしてそのことをまずは見出せなかったのだろう。
 …私は、娘役が主役を務める公演をずっと観たいと願ってきた。その夢を、愛希れいかが叶えてくれた。“ゾフィー”と“エリザベート”のような出逢い方をした人が。

 最後の公演、『エリザベート』。
 …私は、何だか安心したのである。ちゃんと若い! と。
 無論、技術的には申し分ない。高水準である。例えば、「♪あなたには 頼らない〜」を、最後まで地声で力強く歌いきる歌唱力。エリザベートが真のタイトルロールである東宝公演でも、男性相手にどんな舞台を務めるか、それは観てみたいものがある。
 でも。これまで驚異的な想像力で埋めてきたけれども、表現者にはやはり、人生経験も必要なのである。それに、今全部できてしまったら、後の人生の楽しみが何にもなくなってしまうではないですか。
 これからの人生、多くの人と出会ってください。いろいろな経験をして、いろいろな物を見て、その都度、心を動かして…。それは、貴女が今後、表現者として生きようと、生きまいと、貴女の人生を豊かなものにしてくれます。それが、貴女だけの心の財産です。その心の財産が、表現に生きてくる。技術を裏打ちするものとなる。いろいろな経験を積んで…、初日前囲み会見で顔を合わせていた評論家のことは、忘れるくらいでいい。でも、貴女がまた舞台に立って、「…あの人だったら、どう言うかな?…」と思う日が来るかもしれない。そのとき、私たちはまた逢いましょう!
2018-11-18 01:15 この記事だけ表示
 思えば、娘役・憧花ゆりのは昔から颯爽としていた。若手娘役時代、同期の城咲あい(Kバレエカンパニー伊坂文月夫人!)と共に、溌溂と踊っていた姿を今も思い出す。颯爽とか、溌溂とか、かっこいいとか、男前とか、月組娘役にはそういう言葉がしっくりくるのである。男役陣が多少不甲斐なければ、娘役だけでも前線に攻め上がってくる。そんな娘役の攻めの姿勢は雪組にも大いに感じられるものだけれども、“武器”が、拠り所が何だか違う。組文化の違い、そのおもしろさ。月組は、トップ男役が多少危ういとき、トップ娘役が代わりにエースアタッカーを務めている、務めざるを得ないケースが多いような。もちろん、それも、宝塚における男役と娘役との関係性の中で、「エースアタッカーはこの人です」と隣をあくまで立てながら、代わりに強打を相手コートにビシバシ打ち込んでゆく感じ。
 そんな月組で、憧花は2013年から副組長を、2016年からは組長を務めてきた。五組一、学年の若い組長である。
 最後の作品『エリザベート』で演じるは、姑ゾフィー。「皇后の務め」は、ゾフィーがエリザベートをイビる怖い怖いシーンとして知られ、これまで多くの役者が名演を見せてきた。だが。憧花の演技は破天荒だった。田舎者だの寝坊だの歯が黄ばんでいるだの古いしきたりを守らなくてはいけないだの、さんざんエリザベートに小言を言う、そのすべてが、周りの女官共々「ごもっとも」と思わず唱和してしまいたくなるほど、ごもっともすぎる! あまりにごもっともすぎて、エリザベートがその直後に名曲「私だけに」を歌いにくそうになるほど。――やりすぎとは私は決して思わない。ここまで“ごもっとも”なゾフィーが出たからには、今後のエリザベート役者には、その“ごもっとも”を超えてなお「私だけに」を成立させるだけの、人間としての並外れた偏屈パワーが求められる。
 …そんな憧花ゾフィーを観ていて、私は、彼女の前に副組長を務めていた花瀬みずかのことを思い出さずにはいられなかった。男役から転向後、娘役としてのキャリアがまだ浅い時代に、愛希れいかはトップ娘役の座に就いた。そのとき、月組娘役陣を率いていた人のことを。花瀬が、今回の『エリザベート』を観て、愛希エリザベートと憧花ゾフィーの件のやりとりに深く納得したのならば、三人の娘役たちのそれぞれの奮闘はすべて報われるものとなったのだと私は思う。そんな、美の結晶のようなシーンだった。
 前トップ娘役、蒼乃夕妃が退団するとき、憧花が贈った言葉が、今でも心に残っている。まりも(蒼乃)と芝居をすると、スカッとするのよ、と――。そのスカッと感は、憧花の演技にも感じられるものだった。蒼乃と親友役を演じた『THE SCARLET PIMPERNEL』。ぼそっとつぶやく一言が強烈な、『カンパニー』のシングルマザーのバレエ教師。『THE LAST PARTY〜S. Fitzgerald’s last day〜フィッツジェラルド最後の一日』のシーラ・グレアム。フィッツジェラルドの晩年の愛人であるシーラを演じて、実にいい女だった! きりっとスーツを着こなして、不遇の作家を愛で包む、粋な女。得難い人。
 いつぞやの新年互例会で、彼女と話をする機会があって、彼女は、「一人くらい毛色の変わった娘役がいてもいいかと思って」と、自分について語っていた。もちろん、毛色を変えるには、まず本道を知らねばならないわけであるが。そして彼女はなぜかしきりと、「前にもお話ししましたっけ」と言うのだった。実際に話すのはそれが初めてだったけれども、思っていた。――−「心の中では、何度もお話ししていた気がします」と。そして、思い出していた。その数年前、宝塚大劇場付近の道を歩いていて、反対側の道の向こうから彼女がやって来て――。よほど手を振ろうかと思った! でも、取材で顔を合わせたこともなく…。
 ――なぜ、今、退団?
 退団が読める人と読めない人がいて、彼女については読めなかったなと…。次のトップもその次のトップも、まだまだ盛り立てていきそうな、パワフルなオーラがあったから。でも、きっとそこには“ごもっとも”な理由があるのだろうと思うから、幸せだけを祈っている。今度街で出逢ったら、絶対手を振る! 話しに行く。そのときまた、いろんな苦労話を、あなたらしくぼそっと強烈に、粋に話してください。忘れ難い、いい女!
2018-11-18 01:12 この記事だけ表示
 …実はあひるは、『雨に唄えば』に、あるときから非常に引っかかるものがあり…。大女優リナ・ラモントのことが、心にずっと引っかかっていて。
 サイレントからトーキーへと移り変わる時代のハリウッド。しゃべらなければ素敵だけれども、しゃべると魅力ぶち壊しのリナ。このままではまずい。リナとコンビを組んできた主人公の映画スター、ドン・ロックウッドは、親友コズモの助けも借り、リナに黙って、恋人となった新進女優キャシーの美しい声で、リナの悪声を吹き替えてしまうことにする。それがリナの知るところとなり、彼女は大激怒。自分にはパブリシティの全権限があると、契約を盾に、キャシーの存在を秘密にし、これからも自分の吹き替えを黙って務めるよう命じる。そんなリナの悪だくみは、映画試写会の場で、ドンとコズモの機転で天下の知るところとなり、ドンとキャシーは晴れて結ばれる――、わけですが。いや、確かにリナはしょうのない人ですよ。自分を客観視できていない。ゴシップ誌の記事を鵜呑みにして、自分とドンとは熱い仲だと(そんな事実はどこにもないのに)信じ込んでいるし、自分の悪声や変な発声とも向き合ってはいない感じだし。でも…、最後、あそこまで公の場でコケにされなくてもいいような…。あの後リナはどうやって生きていったんだろう…。実際、声に魅力がなくて、トーキーへと移り変わる際、映画界を去った人もいたんだろうし…と思うと複雑。歴史的事実を曲げてリナを悪役に描いているのも気になる。ハリウッド映画産業の興隆と法整備との関連を論じた内藤篤の著書『ハリウッド・パワーゲーム―アメリカ映画産業の「法と経済」』によれば、『雨に唄えば』の時代、一女優がパブリシティの全権限をもつといった契約を映画会社と結ぶことは不可能だったとのこと。
 それと、重大な点がもう一つ。リナ役を演じるにあたっては、悪声でセリフを言って歌を歌って、本当に芸達者でなければ務まらないのに、この役を演じていて、役者として、それに報われるだけの喜びははたして味わえるんだろうか――。映画版でリナ役を演じたジーン・ヘイゲンは、キャシーがリナを吹き替えたという設定のセリフも、実際には自分自身でしゃべっていたそうな。何だか、とっても複雑! そんなこんなを考えていると、あんまり楽しめず…。
 そんな思いを抱えて、今回の月組版を観た。
 楽しかった!!!
 まずは、私の心のもやもやなど吹っ飛ばすくらい、輝月ゆうまがリナ役を快演! 嬉々としてこの役を演じていた。世にも楽しそうに、悪声をものともせずに生きていた。ゴシップ記事の妄想をすっかり信じ込むお花畑加減もアホかわいらしい。自分を客観視できていないところが逆に痛快なまでに見えるキャラ作り。これなら、吹き替えがバレた後も、世を忍ぶでもなく、変な声がチャームポイントのおもしろさ抜群の女優として、立派に世間を渡っていけそうなたくましさ。今でも、輝月があのふにゃふにゃした声で晴れやかに歌い上げるラブ・ソングが耳の底に残る。その記憶だけで楽しくなってくる。そして、フィナーレのショーがつくのも、宝塚で『雨に唄えば』を上演する際のいいところだな…と。さっきふにゃふにゃ歌っていた歌を、輝月がきりっと歌って歌唱力を示す。「リナ役は芸達者でないと演じられない」というところを、舞台上できちんと示せる機会があるわけである。ちなみに、輝月ゆうまは男役、公表身長177センチ。ゴージャスなドレスを着て立つ姿に、デカッ! と思う。そんな大きな身体に秘めた、あのふにゃっとしたかわいらしさ。現在公演中の月組『エリザベート』では、エリザベートの父マックス役としていぶし銀の魅力を放っている。…宝塚って本当におもしろいところですね。
 こうして、あひるの心の懸案が見事クリアされたことで、クラシックさが魅力のラブ・コメディの世界に没入できるように。そして、主人公ドン・ロックウッドを演じる珠城りょうが、実にロマンティックで素敵だった! 男役として、初めてドキドキした。彼女の持ち味は真面目一途なところ…と思いきや、これまで数々のラブ・アフェアを楽しんできたプレイボーイに見える。そんなドンが、キャシーに出逢って初めて「僕にはもう君だけだ」となるところに、胸がきゅんとするわけである。
 ドンの相棒コズモを演じる美弥るりかの芸達者ぶりにも目を見張るものがあった。彼女が歌う「メイク・エム・ラフ」は、さまざまな大道具や小道具を使っての身体を張ってのアクションが寸分の隙もなく詰め込まれたコミカルなナンバーである。周囲のキャストとの密な協力関係が成立していないと、タイミングが狂ってしまう。この、実にトリッキーなナンバーを、美弥コズモは、汗一つかいていないような涼しげな顔で、「何にも大変なことはないんですよ」とばかりに楽しげに歌いきって見せた。コズモはドン同様、もともとは芸人。その芸人魂を体現できるだけの美弥の役者魂に、感服した。彼女は小柄な男役である。けれども、フィナーレで、身長177センチの輝月はじめ月組男役陣を率いて踊る姿に、――この身体で組を率いるところを観てみたい、そう感じた。そのとき、宝塚歌劇の新たな地平がまた、拓かれるような。
 ヒロイン・キャシーに抜擢されたのは美園さくら。彼女がヒロインを演じているところを観るのはこれが初めて。最初のうち、緊張が隠せないようだったけれども、ドンとコズモと三人で楽しく歌い踊る「グッドモーニング」のシーンで、何かがほどけたのか、…ぱああっと、ドンをもコズモをも凌駕するようなオーラを放つ一瞬があった。前月組トップ娘役、蒼乃夕妃を彷彿とさせる、思い切りのよさを感じたからかもしれない。『エリザベート』二幕冒頭の「キッチュ」のシーンでは、クレオパトラのような扮装で“エジプトの美女”として歌い踊っている。娘役としての可動域を超えかねないその動きに、元宙組トップ娘役、陽月華をも思い出したことだった。そして、エトワール。あんなに正面きって自分の率直な思いを歌で堂々伝えてくる娘役は、雪組スター晴華みどり以来かもしれないなと…(雰囲気も少し似ている)。月組の次のトップ娘役として、期待大である。
2018-11-18 01:11 この記事だけ表示