今年のテーマは、“追体験、鬼と傷”。裏テーマは“魔物”。

☆フィギュアスケーター羽生結弦の演技
 「平昌オリンピック」、「オータムクラシック2018」ショートプログラム、「ロシア杯」ショートプログラム。とりわけ、「平昌オリンピック」のフリースケーティングと、美を追求する上で他の選手に多大な影響を与えた「ロシア杯」ショートプログラム。

☆熊川哲也率いるKバレエカンパニーの舞台
 『死霊の恋』『白鳥の湖』『ロミオとジュリエット』『ドン・キホーテ』『くるみ割り人形』。とりわけ『ロミオとジュリエット』。

☆Kバレエカンパニー『死霊の恋』『白鳥の湖』『ロミオとジュリエット』主演の浅川紫織
 とりわけ『ロミオとジュリエット』。
 なお、『ロミオとジュリエット』in Cinemaは、2019年1月5日より全国39劇場にて上映。初日舞台挨拶には浅川紫織&宮尾俊太郎が登場の予定。

☆『白い病気』、コクーン歌舞伎『切られの与三』演出・美術の串田和美(『白い病気』では潤色、出演も)
 演出・美術を手がけ、出演した『兵士の物語2018』(イーゴリー・ストラヴィンスキーの音楽のもと、語りと舞踊とバレエが融合した寓話劇)も、驚きを与える演出手法を交え、現代人にとって大いに示唆に富むものとなっていた。

☆『リトル・ナイト・ミュージック』『ピアフ』主演の大竹しのぶ

☆『贋作・桜の森の満開の下』作・演出・出演の野田秀樹

☆『華氏451度』『No.9 −不滅の旋律−』演出の白井晃
 芸術監督を務めるKAAT神奈川芸術劇場が、今、非常におもしろい!

☆『マリー・アントワネット』主演の花總まり

☆『セールスマンの死』演出の長塚圭史
 『華氏451度』では上演台本も担当。

他に
・四代目市川猿之助の一連の舞台
 誕生日(11月26日)に心機一転が見られたので、今後に期待大!
・ジェローム・ベル『Gala−ガラ』
・『父と暮せば』『マンザナ、わが町』演出の鵜山仁
 『マンザナ、わが町』は、2015年の上演時には気づかなかったのだけれども、劇作家による、自分の戯曲を形にして上演してくれるスタッフ・キャストへの感謝がこめられた作品だった。その感謝を、今回、演出家がストレートに受け取って上演した感あり。
・『君の輝く夜に』『No.9 −不滅の旋律−』の稲垣吾郎
 「新しい地図」の草g剛と香取慎吾については、『バリーターク』と『日本の歴史』のチケットが入手できず観られなかった。音楽劇『道』については、必ずしも草g剛で観たい役柄かと言われると…なのだけれども、彼の激しい魂に久々ふれられたことを幸せに思う。
・ゴールド・アーツ・クラブ『病は気から』、『命売ります』脚本・演出のノゾエ征爾(『命売ります』は出演も)
・ウースターグループ『タウンホール事件』
・『生きる』演出の宮本亜門

 2018年のインスピレーション大賞は、串田和美演出・美術『切られの与三』と、「平昌オリンピック」フリースケーティング&「ロシア杯」ショートプログラムの羽生結弦に。
 『切られの与三』。私は今、いまだかつてなく、自分自身の来し方行く末を肯定している。
 「平昌オリンピック」フリースケーティング。その演技を通じて、世界に行った。そして、「ロシア杯」ショートプログラムを経て、自分の人生が、これまで想像もしなかった展開を見せているのを感じ、わくわくする。

 さて。
 「羽生結弦はスケート界の人で、舞台芸術界の人じゃないよ!」という声もあることでしょう。そこで、私はここに宣言します。
 日本舞台芸術界と、日本フィギュアスケート界は、地続きです。
 「そんなの、今までだって地続きだったよ!」という方もいることでしょう。「フィギュアスケートはスポーツなんだから、地続きなんかじゃなくていいよ!」という方もいることでしょう。それでいい。いろいろな意見があるのが、世界。ただ、私は、「地続きです」と言う。それで幸せになる人がいれば、それでいい。もちろん、「今日はどうしても勝ちたいので表現よりそちらを優先します」という日があってもいい。ただ、荒れると芸も荒れます。自戒を込めて。
 考えてみれば。なぜ、6年前、蜷川幸雄に、『トロイアの女たち』を通じて盛大に怒られたのか。それは、日本舞台芸術界と宝塚歌劇が、何だかあんまりいい感じに地続きじゃないように私には思えて、荒れていたから。「ちゃんと地続きってことにしてよ!」と言って、当時の日本舞台芸術界の“王”が「わかった! それは俺が認める。でも、誰がトップになるとか、一番だとか、それで起きる不毛な争いは持ち込むな。多くの命が犠牲になったトロイア戦争も、その発端はといえば美女選びなんだぞ!」と怒ったという、そういう顛末。だから、和合。それが“王”の希求。
 “王”が亡くなってからしばらくして、…私はまた、あの地続きの話を、次の“王”としなくてはいけないのか…と、ちょっと暗澹たる思いになった――ただ、今はまだ、“王”はいないけれども。でも、しない。宝塚歌劇とちゃんと地続きで、フィギュアスケート界とも地続きで、そう思っている人もいる日本舞台芸術界として、次の“王”は、その王位に就かなくてはならない。

 最後に。
 先王から一つ、伝言を預かっています。
 ぶっきらぼうな渡され方だったのだけれども、「時が来たら、君から公表してくれ」ということだろうと解釈。そして今年、公表へ向けて一歩前進したなと思うことがありました。
 和合の旗印のもと、ますます前進! 少しでもそのお役に立てるならば、舞台評論家冥利に尽きるというもの。
 知り合えた、心を交わした、すべての皆様に、心から感謝。私は今、これまでになく幸せな気持ちでこの文章をしたためています。
 それでは皆様、よいお年を!
2018-12-31 16:08 この記事だけ表示
 歌舞伎の『与話情浮名横櫛』をもとにした歌謡曲「お富さん」がヒットしたのは、昭和29年のことである。当然、生まれていない。けれども、子供のときからこの歌のことは知っていた。祖母が話してくれた。――伯父(母の兄)が子供のとき、最初に抽選があるどこかの付属小学校を受験しに行った。けれども、朝から、同行した祖母の頭の中で、「♪死んだはずだよ お富さん」が、何度も何度も流れる。何度消そうとしても、流れる。…これ、絶対落ちるわ…と思ったら、やっぱり落ちたわ、と。
 4月に、『与話情浮名横櫛』をもとにしたコクーン歌舞伎『切られの与三』の製作発表があって、演出・美術の串田和美さんが、「『お富さん』って変な歌謡曲があって」と語った、そのとき、うんうんとうなずけたのはそういうわけだったのだけれども、…その後で、不思議な気持ちになったのだった。あのとき、祖母の頭の中に「お富さん」が流れなくて、どこぞの付属小学校に受かっていたら、伯父は、成蹊小学校に行って串田さんと同級生になることもなかったんだろうな…と。串田さんが思い出話でときおり語ってくれる伯父は、何だかとてもかっこいい。

 ぼんぼん育ちなのに、お富と出逢ったばっかりに、全身、傷だらけになる与三郎。しかし。彼は、すべての傷を癒す薬を飲むことを拒む。――その傷が、彼の人生だから。
 傷。人生の傷。
――今年、とあるところで、かつて、私にこう言った人を、思いもかけず見かけた。
「宝塚ファンなんて、バカばっかりだから!」
 今、記していても、心が凍る。傷。心の傷。
 …私にそう言ったことを、本人は覚えていないんだろうな、と思った。私のことすら覚えていないかもしれない。それでいい。また傷つけられたくはない(苦笑)。でも。今となっては、そのことでその人に恨みを抱いているとかは、全然ない。それどころか、その言葉で受けた傷ゆえに、ここまで走ってきてしまったなと、不思議な感慨さえ覚えて。
 いったい、なぜ、そんな言葉が飛び出すこととなったのか――。
 それが知りたくて、その言葉をもう言わせまいと思って、しゃかりきになってやってきた。そして、今の私は、思う。言う方がおかしい、と。行き過ぎた熱狂は、宝塚に限らない。どのジャンルでも起こり得る。それを、宝塚だけ取り上げて言うのは、その人が宝塚が好きじゃないというだけ。
 あのとき、即座にそう言い返せていたら、傷つくこともなかったのかもしれない。でも、今の私はいないわけで。不思議。相手に感謝すべきなのか。…うーん。そこまでは、人間、練れてはいないかなあ…。

 もちろん、自分だって、知らず知らず人を傷つけていることもあるわけで。
ほめているのに、相手は侮辱と受け止めていたり、言葉はいろいろ難しい。書き手として、もっと精度を上げて行かなくてはいけない。
 …書いた相手に対して、十字架を背負っているように思っている。その感覚を教えてくれたのが、他ならぬ、与三郎を演じていた中村七之助である。どの文章のどの部分が、彼に対する十字架なのか、自分の心に深く留めている。たとえ、彼が忘れても、覚えている。
今年も、…ああ…と思う瞬間が何度かあったし、まだ、気づいていない分もあるかもしれないけれども。

 傷。心の傷。――一番最近受けた、大きな傷。最近と言っても、もう一年経ったけれども。
「あなたのその心の傷は、僕が癒します!」と言ってくれた、優しい人もいるけれども。
 ――私はきっと、その傷についても、一人で考えていくのだろうと思う。そして、なぜ、その傷を負わなくてはいけなかったか、いつの日か結論を出すのだろうと思う。相手に対して、もう、何の感情もない。ただ、そこに傷があるだけ。その傷を、見つめているだけ。
 消そうとは思わない。それは、与三郎と同じ。

 けれども。私は、『切られの与三』を観ていて、思った。――傷について語り始めるということは、その傷が、どこか癒え始めているということではないかと。本当に傷ついているうちは、語れない気がする。――時間が、必要。
 そして、『切られの与三』という、傷だらけの男が主人公である舞台を創った、その人の心の傷を思った。与三郎。流刑地から江戸に必死に戻って来て、その江戸は、今の渋谷のように大工事、大改造が行なわれていて、家族に受け入れられるわけでもなく、「まだ生きなきゃなんねえのかよ!」と、走り続ける与三郎。
 私は、その人を包容し、抱擁したかった。――物理的にも試みてみたのだが、うーん、人としての器がまだまだでした。だから、せめて、文章で包容できればと思って、書いている。

 ラスト。与三郎は、屋根の上にいる。少年時代の、与三郎。
 ――実は私は、ちょっと、伯父に怒っていることがあって、でも、この場面を観ていて、はっと思い出したのである。私の実家は、建築家である伯父の設計による。リビングが二階部分まで吹き抜けになっていて、床はレンガでそのまま庭まで続いていて、寒いわ、暑いわ、光熱費はかかるわ…。住みにくい。でも。自分の部屋の窓からリビングの屋根部分に出られて、子供のころ、夏はよく、そこから夜空を見上げていて――。それで、何だかもう、伯父を許した。
2018-12-30 19:28 この記事だけ表示
 本を所有してはいけない世界。本は焼かれるべき世界。ファイアマンである主人公は、本を焼く。華氏451度で。――しかし、彼の内に、次第に疑問が生じてくる。なぜ、本は禁止されるべきなのか。そして、禁じられている本をこっそり持ち出して読むようになり、それが原因で、追われるようになり…。
 レイ・ブラッドベリのSFディストピア小説が原作である(上演台本・長塚圭史、演出・白井晃)。けれども、今回のこの舞台は、管理社会の恐ろしさを主題にするというよりは、書物が、ひいては、芸術作品が人間にもたらしているものとは何なのか、その深い意味に迫ろうとしている。そして、実にサスペンスフルな展開が舞台上構築されていて、…つかまる、どうしよう、どうしよう…と、後半にかけて、観ていてものすごくドキドキした。
 最終的に、主人公は、本をそれぞれに記憶し、語り継いでいっている人々のグループと出会う。舞台が描き出してゆくのは、人間にとって、それぞれの頭でしっかり物を考えていくこと、その大切さである。管理社会の恐ろしさも、そもそもそこにあるわけで。
 私が書いていることも、この世界のほんの一部に過ぎない。どうぞ、このブログ以外にも、いろいろ読んでください。
 堀部圭亮の、対照的な二役の演じ分けが、とても印象に残った。

(10月1日14時の部、KAAT神奈川芸術劇場ホール)
2018-12-30 19:06 この記事だけ表示
 舞台ラスト、主人公・耳男(妻夫木聡)と夜長姫(深津絵里)は壮絶な闘いを繰り広げる。耳男は、夜長姫の鬼の仮面の角を取り、彼女の身体に突き立てる。…これは! クリエイターと評論家のあるべき姿ではないかと! スリリングで、セクシーで…。これ、やりたい〜! 高揚するあひる。
 耳男は仏像を彫る人。夜長姫を呪いながら彫った仏像は評価を得たけれども、その名声を受けて、「夜長姫、好き好き」とばかりに彫った仏像は…。舞台では、その顔は、「へのへのもへじ」が描かれた巨大な風船として登場する。わかる! 好き好き言っているだけだと、関係性に何の緊張感もないんだわ。自戒をこめて言うのだけれども、「好き」って思うに中毒性のある感情で、ものすごく気持ちがよくて…。もちろん、人には、そのときどきで「好き」をたくさん言われなくてはいけない状況というのもある。長らく、ものすごく自尊心が傷つけられてきた人とか。でも、ただ漫然と「好き」に酔っているだけだと、それが単なる自己愛へと変化することだってある。
 だから。私、ときどき、鬼になるわ。
 ここで整理。「鬼になる」のは、「魔物になる」のとは違う。例えば、あひるが、誰かの魔物になる、とする。この場合、その誰かの心の中のネガティブなものが、あひるの形になってしまっているということ。類似の表現に、「黒鳥になる」というのもある――『白鳥の湖』の、あの黒鳥。人に、裏切られた! と思う――それは、その相手に裏切られたのではなくて、自分が相手に勝手に抱いていた期待に裏切られたということも多い。
 魔物も、黒鳥も、人から投影されるもの。それに対して、「鬼になる」は違う。こちらが自発的になる。自ら志願して、なる。「魔物だよ!」とか「黒鳥だよ!」とか、ひるむことなく指摘する。そのことで、ときには角を突き刺されることもあるだろう。当然、痛いだろう。うーん、自分でも、どこかマゾヒスティックだなと…。でも、それでこの世に一つでも多くの美が生まれるんだったら、評論家冥利に尽きるというものであろう。別に、自分にヒロイックに酔いたいわけではないのですが、何だかそれが、今の自分が果たすべき役割なのかなと。
 だから。私、ときどき、鬼になる――もう何度か、なった――わ。

 昨年夏の歌舞伎版と、まったく印象が変わった。一番変わったのは、マナコ役の存在――役者の違い、その演じ方の違いということだけではないと思う。マナコ役には、「俺は銀座のライオンで……」に始まる、シャガールの絵の美しさよりその値段に目を奪われたと語る“俗物性スピーチ”がある。今回の舞台でのマナコ(演じるは古田新太)は、自らの俗物性を認めながらも、それでも、耳男が彫った「へのへのもへじ」の、作品としてのひどさを看破する鋭さを強く感じさせて。“俗物性スピーチ”を朗々と語る姿は、ほとんど神々しくすらあった…。
 天海祐希が久方ぶりの男役で演じたオオアマ。――私はちょうど、フィギュアスケートをきっかけに、『蝶々夫人』についてきちんと考えなくてはならないと決意し、その過程で、野田秀樹の『パンドラの鐘』を思い出した。あのとき、野田版で、天海が演じたヒメ女と、今回のオオアマとが重なって。蜷川幸雄がシェイクスピア作品の王を考えていたとき、私は、宝塚のトップスターについて考えることで対峙していた。だから、野田秀樹が天皇制について考えるならば。
 鬼の一人、ハンニャ役の秋山菜津子が、お尻をふりふりしているかわいさが、忘れられなくて…。「鬼になる」上で参考にする。
2018-12-30 19:04 この記事だけ表示
 病院の無菌室を連想させる舞台装置。けぶったような蛍光灯の光。
 暗い部屋で、戦争について語る家族――リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を初めて聴いたときのことを思い出す。ナチス・ドイツ崩壊直前、母国が爆撃され、破壊されていく中で、書かれた曲。曲の向こうに、確かに聴こえるもの。軍靴の響き。ラジオが伝える戦争のニュース。
 人々の間に蔓延する難病の特効薬を発見した医師がいて、軍事国家の独裁者もその病気にかかっていて、医師は、独裁者に、戦争をやめれば薬を渡すと言って、それでも、独裁者は戦争をやめなくて…。いったい、何のために争っているのか。本末転倒。

 原作はカレル・チャペック。潤色と演出と美術を担当、そして主人公の医師を演じたのが、串田和美。私の、成蹊小・中・高の先輩。伯父の幼なじみ。――彼の創る舞台を観ていると、…ああ、同じ学び舎で学んだ先輩だな…と感じるときがある。いい意味で。私は母校について書くことが多いけれども、何も成蹊学園のすべてを好きというわけではない。嫌なところもある。アンビヴァレントである。けれども、串田先輩の舞台には、私の好きな成蹊学園を感じる。のんびり、おっとりしているところ。ガツガツ競争しに行かないところ。品のいいところ。そう感じていると、成蹊のあのキャンパス、桜並木にケヤキ並木、『赤毛のアン』ごっこをした林、『メリー・ポピンズ』を真似て飛ぼうとしたグラウンド、四季折々に美しい景色を思い出す。
 その目で、権力の座にある、もう一人の小・中・高の先輩を見る。
 …うーん。この人、本当に先輩? いい意味でも、悪い意味でも、成蹊らしさをまったく感じないんですよね…。ものすごく、謎。

(3月9日14時の部観劇、KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ)
2018-12-30 18:34 この記事だけ表示
 11月14日19時の部、KAAT神奈川芸術劇場ホール。
 MEGに掲載された観劇レポート(http://www.meg-net.com/blog/entry-565.html)もあわせてお読みください。
 主人公ウィリー・ローマンを演じる風間杜夫が居丈高にまくし立て始めたそのとき…、自分の父親のことを思い出した。KAATに向かう電車の中で戯曲を読んでいたときには、まったく思わなかったのに。
 基本的には本当に心優しい人で、…でも、弱いのに、お酒を飲んで、家で荒れることがごくたま〜にあって…。暴力をふるうような人では絶対にないのだけれども、物には当たっていたな…と。高校三年生で大学受験を控えた秋にもあったし、一夜漬けで必死な大学三年の試験の前夜にも…。その試験のときは、なぜか学年で数人しか取れない優を取ってしまい、お父さんのおかげで火事場の馬鹿力が出たのだろうか…と、不思議だったけれども。
 そのころの父の年齢に近づいた今、思う。…何をそんなに荒れたいことがあったのかな…と。聞いてあげられることはなかったのかな…と。しかし、まあ、ないだろうな…。人に言う人じゃないし。だから、溜めていて、ときどき爆発するわけで。ましてや、当時の私は、今の私じゃない。大人じゃない。今ならば理解してあげられるのかもしれないのに…というのは、どんなに願っても叶わぬ夢でしかないのだけれども。
 つらかったんでしょうね、きっと。いろいろ。男として、社会に出て、家族を養うために働くということが。ましてや彼は、藤本家を守るためにそこに養子に出されたという、彼にとっては大きな心の傷となった出来事をずっと抱えて生きていたわけで、そりゃまあ、たまにはお酒を飲んで荒れたくもなるだろうな…と、今ならばわかる。あひるだってたまーに飲んだくれたい夜もあるもの。ただまあ、父と、これまたお酒に弱い母の血を受け継いで、ほぼ飲めない体質なので、飲んで鬱憤を晴らすということは一切できませんが。…じゃあ、どうやってストレス解消しているかって? うーん、やっぱり、好きなことを一生懸命やることですかね。それと、好きな近代建築を観に行ったりとか。一番手っ取り早いのは、日本橋三越本店に行くこと。近代建築の重要文化財の中で、ウィンドーショッピングしたり、お茶したり。中央の巨大吹き抜けの美しい装飾の下にたたずんで、おわします天女像に最近の出来事を報告したり。

 それとはまた、まったく別に。今年、…なんでそこまで「男」を頑張って「演じ」なきゃいけないんだろうか? と思う出来事があって。舞台とかフィギュアスケートとか、演じるということが要求されている場においてではない。普通の、一般の、日常において。「男」とか、「家長」とか。昔だったら、「それはそういうものだから」と周りも思っていて、それで「演技」を合わせている部分もあったと思う。でも、もはや周りにそういう気持ちがないのに、もはやそういう時代でもないだろうと周りは思っているのに、一人、そういう「演技」を頑張ってされたとしても、…大変だな…というか、そんなめんどくさいこと、もう、背負うのやめちゃったらどうですか? と思う。そんな「演技」なんかやめて、普通に人と人として接していった方が楽じゃないですか? と。
 そんなことを思う機会があったので、舞台のラスト、「鎮魂歌」と題されたウィリー・ローマンの葬儀のシーン、父ウィリーと同じ道をまたなぞろうとしている次男ハッピーを観ていて、…腹立たしさに、膝に抱えていたバッグを殴りたいくらいで…。
 自分で、自分に、自分を苦しめるようなことになる「演技」なんて課さなくていいんです。男も、女も。自分でないものに無理になろうとする必要なんてない。――もちろん、頑張って「何か」を「演じて」いるうちに、その「何か」に自然となれていたということもあるとは思うけれども。あなたがあなたであることの中に、美しさがあるはずなのである。美が見えないとしたら、それは何かがその美を覆い隠しているから。魔物とか。幻想とか。
 父ウィリーの「演技」を見破ったビフが、…ああ、こうして、またしても「演技」は続いていくんだな…と、冷徹な目でその場に立っているのが、せめてもの「鎮魂歌」に思えて。ビフに扮した演じた山内圭哉は、今年の最優秀助演男優賞ものの演技。
 長塚圭史の演出には、熟練した高級時計職人の名人芸を思わせるものがあった。役者がパーツなのでは決してない。個々の役者が発する一つ一つのセリフ、間、しぐさ、そういった実に細かなものを、一つ一つ切り出し、丁寧に磨き上げ、組み合わせ、一切が滑らかに動くように、寸分の隙もなく調整していく。そうして紡ぎ出された、三時間超の時間。そこに、人間がいた。人生があった。真実があった。――私も、改めて父に出逢えた。父がいて、私がいて。今さら変えようがない、事実。父が幸せだったか、今の私には何とも言いようがない。けれども、私には言うことができる。お父さんの娘に生まれてきて、私は幸せです、と。
2018-12-30 14:33 この記事だけ表示
 子供のころから、原作小説『メアリー・ポピンズ』が大好きだった。小学生のころ、彼女のように空を飛びたくて、風が吹くと飛んでいこうとして傘を広げて、…それでよく傘を壊して、母に怒られた。
 昨年、舞台のヴィジュアル撮影日に、取材があった。スタジオを訪れると、濱田さんがメリーの扮装をして、撮影している。…メリー・ポピンズがいる! と思った。そしてその取材で、改めて考えさせられた。メリー・ポピンズは、いったい何者なんだろう? と。魔法使い? 宇宙人? ミュージカル『メリー・ポピンズ』は、2004年に開幕してすぐ、ロンドン・ウエストエンドで観ている。そのときはあまりあれこれ考えずに、楽しい舞台だなあと思っていたのだけれども。
 そして、日本版の観劇(3月26日18時の部、シアターオーブ)。メリー・ポピンズ=濱田めぐみ、バート=柿澤勇人。
 原作が大好きだったから、私は、子供のころにジュリー・アンドリュースが主演した映画版を観て、ちょっとメリーの愛想がよすぎると思ったくらいだった。濱田メリーは、原作と映画版の中間くらいの不機嫌さに感じられて、いい塩梅。そして、もう、メリー・ポピンズそのものにしか見えなかった。「濱田めぐみ」が消えていた。それこそ、魔法のような。
 …最後、どうして、メリー・ポピンズは去っていってしまうのかな、と思った。バンクス一家がうまく行くようになったら、いなくなってしまう。さみしい! 彼女自身はさみしくないんだろうか。みんなとずっと一緒にいたいと思わないんだろうか。
 何だか、その姿が、自分の仕事とも重なって。
 どこまで書くとおかんになってしまうのか、その辺のさじ加減が難しいなあと、いつも思う。書いた方がいい場合と、書かない方がいい場合と…。いい感じの関わり方。距離感。悩むところ。
 柿澤勇人も非常によかった――彼は、昨年上演された彩の国シェイクスピア・シリーズ『アテネのタイモン』のアルシバイアディーズ役もすばらしく、彼岸に誇らしく思った。今回の舞台では、バンクス家の子供たちを温かく包み込み、見守るバート。舞台を観ていて、自分もすっかり子供に戻っているから、「メリーがいなくなっちゃったの」と、子役たちと一緒になってバートに訴えかけたいくらい。そして、心から熱い炎を発して、柿澤バートは歌い踊った。楽しかった! 一緒にそんな時間を過ごせたことを、本当に幸せに思った。
2018-12-30 00:50 この記事だけ表示
 3月13日18時半の部、シアターコクーン。作・演出は三浦大輔。
 恋人から逃げ、友人から逃げ、仕事から逃げ、先輩から逃げ、家族から逃げ…。逃げに逃げての、後ろ向き大疾走ロードムービー的味わいの舞台。…私もいろいろ、逃げたかな…と思う。公園デビューとか、PTAとか、言葉を見ただけで、自分にはもう、到底無理な感じが…。やってみたら、意外にできていたんだろうか。――でも、好きなことからは決して逃げなかった。ときに逃げたいときもあったけれども、女がすたると思って逃げなかった。ときどき、ドン・キホーテか?! と、自分で自分に突っ込んでいるときがある。何でしょう、性分なのか。
 でもそれで、今、こうして彼と向き合っている。
 冒頭と同じやりとりが、ラスト、再び繰り返され、そして主人公は渋谷の街へ…。今度は、逃げない。何とか。自分自身の人生を振り返ってみても、一度つまずいたところからまたやり直さざるを得ないものかもしれず。
 音楽の趣味がとてもいい。そして、…え、あれは、あれは流れないの? とずっとずっと思っていて、カーテンコールで遂に流れる、大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」。その曲に思う。同世代同士、今後ともよろしくお願いします!
2018-12-29 23:48 この記事だけ表示
 長年赤坂ACT劇場で上演され、赤坂サカスの冬の風物詩となっていたKバレエカンパニー『くるみ割り人形』、久々のオーチャードホールでの上演である(12月6日18時半の部)。赤坂ACT劇場では録音による上演だったけれども、今回は生オーケストラの演奏、そして舞台装置も改訂。
 いつにも増して美しい、「雪の国」の情景。激しく舞う踊り手。激しく降る紙吹雪。雪。雪。雪は、無音で降る。けれども、チャイコフスキーは鳴り響く。…その音は、心象風景。雪景色を見守る者の。――カナダの雪の中の少女が、手を伸ばす。と、そこには、時空を超えて、北海道の雪の中にいる少年がいる! …それは、十日ほど前、同じオーチャードホールで開催された「横山幸雄 華麗なるロシア4大ピアノ協奏曲の響宴」で観たヴィジョン、金がかった白一面の世界とも重なった。その白の世界で踊っていた相手の一人は、もちろん。
 二幕の「人形の国」に入ると、…ちょっと、オーケストラとダンサーの呼吸が合っていないかな…と。それと、一幕ラストの「雪の国」が息を吞むほど美しかったのとの対比で、ラストが少々物足りなく感じてしまい…。「人形の国」のラストの総踊りで、舞台前方までうわあっと押し寄せてくる、あの迫力が、インティメートな赤坂ACT劇場の劇場空間でなされたときと、劇場空間がさらに広がったオーチャードホールとでは、観ている側の受け取り方も異なってしまうからかな…とも思うのだけれども。もちろん、前述した演奏との呼吸の問題があるのかもしれず、来年以降に期待。

 10月の『ロミオとジュリエット』に寄せて、書いた。「同い年で、もう20年以上も芸術監督の携わる舞台を観てきていて、どこか、空気のように当然そこにいて、いつも当然のように美しい舞台を創り続けているように思っていて、私は何だか相当甘えているなと思ったのである。それは決して当然ではないのである。純粋な愛と同じくらい、純粋な美は存在し難い」と。最近、自分で書いたこの言葉の意味に深く気づかされた。芸術監督に、甘えている。ということはイコール、他の人、とりわけ自分より下の世代に対しての要求水準が厳しいということなのである。何しろ、同い年に、熊川哲也芸術監督という人がいたから。
 来年、創立20周年。ということは、Kバレエカンパニーを立ち上げたとき、熊川哲也は26歳である。
 先月の記者懇談会で、芸術監督は、「自分は蜷川(幸雄)さんみたいに(舞台を)年に十本とかはできない」と言いつつも、「人の三倍のスピードで走ってきたよね」と語っていた。もちろん、稀有な人である。それは否定しない。そりゃあ、世間にそうそう熊川哲也はいまいという思いと、でも、熊川哲也を見習ってみんな頑張ろうぜ! という思いと。本当にぶれない人なのである。美を探求して、とどまるところがない。
 来年一月の『ベートーヴェン 第九』と三月の『カルメン』で、芸術監督は久々、舞台に立つ。先月の記者懇談会で、その理由について語っていた。――観客のためではない。自分のためでもない。若いダンサーに、自分と同じ舞台に立って同じ空気を吸うということはどういうことなのか、その経験からしかわからない何か霊的なものを伝えるために、自分は舞台に立つのだと。

 同い年の人間、評論家として、私は、熊川哲也芸術監督に恥じるような文章は決して書きたくない。これまでもあったその覚悟を、さらに固めた2018年。
2018-12-29 23:46 この記事だけ表示
 11月25日13時、オーチャードホール。
 観劇、鑑賞時のコンディション作りには頭を悩ませる。睡眠時間はどのくらいとるべきか。開演前、どのくらい食べておくべきか――食べ過ぎると眠くなる恐れがあるし、空腹だと途中でやり過ごすのが大変になってくる。心の悩みも可能な限り持ち込まないようにしないと、解釈がそちらに引きずられる可能性がある。
 この日のプログラムは、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op. 23」「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18」、休憩をはさんで「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op. 26」、さらに休憩をはさんで「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op. 30」、16時終演予定という超ボリューミーなものだった。それなのに…、あひるは諸事情により睡眠不足だった。最後までもつのか? 体力とか、気力とか、いろいろ。心配になりながらも着席。
 チャイコフスキー。…雄大なロシアの自然の中、気持ちも実に激しくアップダウン。『白鳥の湖』も『くるみ割り人形』もそういうところあるな…と。ラフマニノフ。ときにメランコリック。そしてエリック・カルメンの「All By Myself」の元ネタ。私は、ちょうどこの一週間くらい前に、サビで「♪抱きしめたい〜」と歌われる「All By Myself」の宝塚バージョン(安蘭けいが絶唱。石丸幹二版も同じ歌詞)を思い出していた。聴きながら、考えていた。エリック・カルメンが、ラフマニノフのこの美しい曲に、「♪もう二度と一人きり(all by myself)にはなりたくない」という、孤独からの決別を聴きとって歌詞にしたためた、その思いを。
 プロコフィエフ。やはりどこか”doomed”の暗い影が差す。…そして、このあたりであひるは限界に達しようとしていた。曲の盛り上がりで、「さあ、ここからジャンプの基礎点が1.1倍です!」という謎の脳内アナウンスすら聞こえてきて。自分、大丈夫か?! 曲が終わり、よろよろとロビーに出る。
「お客さんも疲れて、あんまりロビーに出て来ないね」と、幼なじみの友人。
 …疲れますよね。私だけじゃないよね。
あひる「ここまで一度に弾くこと、聴くことで、見えてくるものってあるのかな」
友人「蜃気楼が見えるんじゃないか」
 気を取り直して客席に戻る。そして、ラフマニノフ。
 …きらきらしている。きらきらとしかしていない! 瑞兆である。「クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル」(http://daisy.stablo.jp/article/448444907.html)を思い出して、聴き続ける。
 …見える!
 一面、真っ白な世界!
 日が差しているからか、その白が、うっすらと金がかって見える。そして私は、ある人と踊っている。くるっと身をひるがえすと、相手の顔が変わる。そして身をひるがえすと、また一人…。
 新しいものを取り入れることは、これまで親しんできたものを疎かにすることじゃない。新しいものを取り入れて、新しくなった自分として、親しんできたものと向き合うことに他ならない。もっと、もっと、未知へと心拓かれていきたい!
 数年前、どこでだったか、一面の凄絶な桜吹雪の中、誰かと二人、桜の木の下で立ち尽くす光景を観た。それ以来の、美のヴィジョン。
2018-12-29 19:01 この記事だけ表示