3月13日18時半の部、シアターコクーン。作・演出は三浦大輔。
 恋人から逃げ、友人から逃げ、仕事から逃げ、先輩から逃げ、家族から逃げ…。逃げに逃げての、後ろ向き大疾走ロードムービー的味わいの舞台。…私もいろいろ、逃げたかな…と思う。公園デビューとか、PTAとか、言葉を見ただけで、自分にはもう、到底無理な感じが…。やってみたら、意外にできていたんだろうか。――でも、好きなことからは決して逃げなかった。ときに逃げたいときもあったけれども、女がすたると思って逃げなかった。ときどき、ドン・キホーテか?! と、自分で自分に突っ込んでいるときがある。何でしょう、性分なのか。
 でもそれで、今、こうして彼と向き合っている。
 冒頭と同じやりとりが、ラスト、再び繰り返され、そして主人公は渋谷の街へ…。今度は、逃げない。何とか。自分自身の人生を振り返ってみても、一度つまずいたところからまたやり直さざるを得ないものかもしれず。
 音楽の趣味がとてもいい。そして、…え、あれは、あれは流れないの? とずっとずっと思っていて、カーテンコールで遂に流れる、大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」。その曲に思う。同世代同士、今後ともよろしくお願いします!
2018-12-29 23:48 この記事だけ表示
 長年赤坂ACT劇場で上演され、赤坂サカスの冬の風物詩となっていたKバレエカンパニー『くるみ割り人形』、久々のオーチャードホールでの上演である(12月6日18時半の部)。赤坂ACT劇場では録音による上演だったけれども、今回は生オーケストラの演奏、そして舞台装置も改訂。
 いつにも増して美しい、「雪の国」の情景。激しく舞う踊り手。激しく降る紙吹雪。雪。雪。雪は、無音で降る。けれども、チャイコフスキーは鳴り響く。…その音は、心象風景。雪景色を見守る者の。――カナダの雪の中の少女が、手を伸ばす。と、そこには、時空を超えて、北海道の雪の中にいる少年がいる! …それは、十日ほど前、同じオーチャードホールで開催された「横山幸雄 華麗なるロシア4大ピアノ協奏曲の響宴」で観たヴィジョン、金がかった白一面の世界とも重なった。その白の世界で踊っていた相手の一人は、もちろん。
 二幕の「人形の国」に入ると、…ちょっと、オーケストラとダンサーの呼吸が合っていないかな…と。それと、一幕ラストの「雪の国」が息を吞むほど美しかったのとの対比で、ラストが少々物足りなく感じてしまい…。「人形の国」のラストの総踊りで、舞台前方までうわあっと押し寄せてくる、あの迫力が、インティメートな赤坂ACT劇場の劇場空間でなされたときと、劇場空間がさらに広がったオーチャードホールとでは、観ている側の受け取り方も異なってしまうからかな…とも思うのだけれども。もちろん、前述した演奏との呼吸の問題があるのかもしれず、来年以降に期待。

 10月の『ロミオとジュリエット』に寄せて、書いた。「同い年で、もう20年以上も芸術監督の携わる舞台を観てきていて、どこか、空気のように当然そこにいて、いつも当然のように美しい舞台を創り続けているように思っていて、私は何だか相当甘えているなと思ったのである。それは決して当然ではないのである。純粋な愛と同じくらい、純粋な美は存在し難い」と。最近、自分で書いたこの言葉の意味に深く気づかされた。芸術監督に、甘えている。ということはイコール、他の人、とりわけ自分より下の世代に対しての要求水準が厳しいということなのである。何しろ、同い年に、熊川哲也芸術監督という人がいたから。
 来年、創立20周年。ということは、Kバレエカンパニーを立ち上げたとき、熊川哲也は26歳である。
 先月の記者懇談会で、芸術監督は、「自分は蜷川(幸雄)さんみたいに(舞台を)年に十本とかはできない」と言いつつも、「人の三倍のスピードで走ってきたよね」と語っていた。もちろん、稀有な人である。それは否定しない。そりゃあ、世間にそうそう熊川哲也はいまいという思いと、でも、熊川哲也を見習ってみんな頑張ろうぜ! という思いと。本当にぶれない人なのである。美を探求して、とどまるところがない。
 来年一月の『ベートーヴェン 第九』と三月の『カルメン』で、芸術監督は久々、舞台に立つ。先月の記者懇談会で、その理由について語っていた。――観客のためではない。自分のためでもない。若いダンサーに、自分と同じ舞台に立って同じ空気を吸うということはどういうことなのか、その経験からしかわからない何か霊的なものを伝えるために、自分は舞台に立つのだと。

 同い年の人間、評論家として、私は、熊川哲也芸術監督に恥じるような文章は決して書きたくない。これまでもあったその覚悟を、さらに固めた2018年。
2018-12-29 23:46 この記事だけ表示
 11月25日13時、オーチャードホール。
 観劇、鑑賞時のコンディション作りには頭を悩ませる。睡眠時間はどのくらいとるべきか。開演前、どのくらい食べておくべきか――食べ過ぎると眠くなる恐れがあるし、空腹だと途中でやり過ごすのが大変になってくる。心の悩みも可能な限り持ち込まないようにしないと、解釈がそちらに引きずられる可能性がある。
 この日のプログラムは、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op. 23」「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18」、休憩をはさんで「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op. 26」、さらに休憩をはさんで「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op. 30」、16時終演予定という超ボリューミーなものだった。それなのに…、あひるは諸事情により睡眠不足だった。最後までもつのか? 体力とか、気力とか、いろいろ。心配になりながらも着席。
 チャイコフスキー。…雄大なロシアの自然の中、気持ちも実に激しくアップダウン。『白鳥の湖』も『くるみ割り人形』もそういうところあるな…と。ラフマニノフ。ときにメランコリック。そしてエリック・カルメンの「All By Myself」の元ネタ。私は、ちょうどこの一週間くらい前に、サビで「♪抱きしめたい〜」と歌われる「All By Myself」の宝塚バージョン(安蘭けいが絶唱。石丸幹二版も同じ歌詞)を思い出していた。聴きながら、考えていた。エリック・カルメンが、ラフマニノフのこの美しい曲に、「♪もう二度と一人きり(all by myself)にはなりたくない」という、孤独からの決別を聴きとって歌詞にしたためた、その思いを。
 プロコフィエフ。やはりどこか”doomed”の暗い影が差す。…そして、このあたりであひるは限界に達しようとしていた。曲の盛り上がりで、「さあ、ここからジャンプの基礎点が1.1倍です!」という謎の脳内アナウンスすら聞こえてきて。自分、大丈夫か?! 曲が終わり、よろよろとロビーに出る。
「お客さんも疲れて、あんまりロビーに出て来ないね」と、幼なじみの友人。
 …疲れますよね。私だけじゃないよね。
あひる「ここまで一度に弾くこと、聴くことで、見えてくるものってあるのかな」
友人「蜃気楼が見えるんじゃないか」
 気を取り直して客席に戻る。そして、ラフマニノフ。
 …きらきらしている。きらきらとしかしていない! 瑞兆である。「クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル」(http://daisy.stablo.jp/article/448444907.html)を思い出して、聴き続ける。
 …見える!
 一面、真っ白な世界!
 日が差しているからか、その白が、うっすらと金がかって見える。そして私は、ある人と踊っている。くるっと身をひるがえすと、相手の顔が変わる。そして身をひるがえすと、また一人…。
 新しいものを取り入れることは、これまで親しんできたものを疎かにすることじゃない。新しいものを取り入れて、新しくなった自分として、親しんできたものと向き合うことに他ならない。もっと、もっと、未知へと心拓かれていきたい!
 数年前、どこでだったか、一面の凄絶な桜吹雪の中、誰かと二人、桜の木の下で立ち尽くす光景を観た。それ以来の、美のヴィジョン。
2018-12-29 19:01 この記事だけ表示
 …では、蜷川幸雄と私の間にあった感情がどのようなものであったか、はっきりと説明するのは難しい。師弟愛もあった。私の方では父に対するような愛を感じていたし、母のような愛への希求を感じたこともあった。シェイクスピア作品における王と道化のような関係にまでなれていたかどうかは、私の方にどこまで“道化”としての才能があったかによるけれども…。今年、「お二人は、僕の目にはこう映っていましたよ!」と、本当に素敵な、おしゃれな形で伝えてくださった方がいて、…そんな風に見えていたんだとしたら、うれしいな…と、ぐっと来るものがあったけれども。
 いずれにせよ、私は、彼が亡くなってからしばらく、自分の胸の中にぽっかりと空いた穴をぼんやり見つめていて、ある日、悟ったのである。…ああ、これは、失恋したときと同じ感覚だな…と。「それは恋」だと――「それは恋」は、蜷川幸雄がかつて演出した『近松心中物語』で流れた、森進一の歌う主題歌である(戯曲も歌詞も秋元松代の手による)。恋と言っても無論、「芸術上の恋」である。そして、通常「恋」という言葉から想像するような、甘い雰囲気というものは一切なかった。激しく切り結び合って、隙あらば斬る、そんな、凄絶な魂の闘いだった。そのときのことを思い出すと、…今の自分は自分に甘すぎるだろうか…と反省するときがある。もっと自分に厳しくあらねばならないのではないか、と。
 そして私は、昨年秋、『欲望という名の電車』に出演する大竹しのぶさんの取材に行った。
 …ああ、この人の胸にも、同じ穴が開いているんだな…と思った。「手を取って一緒に泣きたかった」と書いたのは、そういう思いからである。

 さて、取材をしているとき、私の胸にはもう一つの思いもあった。…自分、何やっているんだろうな…という思い。
 好きなミュージカルの曲は多い。けれども、その中で、『リトル・ナイト・ミュージック』の「センド・イン・ザ・クラウンズ」(道化!)と、『グレイ・ガーデンズ』の「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」が、とりわけ好きである。…どちらも、女性が年齢を重ねることを歌ったナンバーなのだけれども、「センド・イン・ザ・クラウンズ」が「…歳をとったことよ…」としみじみするのに対し、「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」は「…私ってば、いつの間にか歳をとっちゃってたんだ!…」と、自分で自分に驚く感じというか。
 『リトル・ナイト・ミュージック』に関しては、1973年のブロードウェイ初演のCDを一時期毎日繰り返し聴いていて、その中で「センド・イン・ザ・クラウンズ」を歌うグリニス・ジョーンズは少々声が老いすぎているようにも感じて、ロンドンのウエストエンドにあったミュージカル専門店「ドレス・サークル」の店員のおじさまに「他にいいのないですかね」と相談したら、「老いた女の歌なんだからあれでいいの!」とちょっとガミガミ言いつつ他の人のCDを出してきてくれたことも。ちなみに、2009年のブロードウェイ再演も観たけれども、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが、まったく気持ちは盛り上がっていないのに、この曲を歌う瞬間になったら突如として涙だけ流し始める、その芸当に、本当にびっくりした…。
 『グレイ・ガーデンズ』については2006年のブロードウェイ初演を観て大好きになり、これまたCDを一時期毎日繰り返して聴いていたけれども、「♪私の季節はだいぶ前に終わってしまった/なのに、誰もパーティのテントをしまいに来なかった」と歌う「アナザー・ウィンター・イン・ザ・サマー・タウン」の歌詞は、今かみしめると『欲望という名の電車』に何だかとても重なるような…。ちなみに、『グレイ・ガーデンズ』で主人公イーディス・ブービエ・ビールを演じたクリスティーン・エバーソールは、この演技で2007年度のトニー賞ミュージカル部門主演女優賞を受賞するのだけれども、その際、…ハリウッドではもう歳が行き過ぎていると言われた私が、今こうしてブロードウェイで賞を受けるなんて! …という、女性が年齢を重ねることについてあれこれ言われることに対するある種の告発のようなスピーチを、実に美しい澄み切った声でしていて、それは凄みがあったことだった。
 30代の私は、この二つの曲を繰り返し聞いていて、「…いつか、自分が歳をとったなと思ったとき、この二つの曲を歌いこなせる女優が日本に現れて、その歌を聴いてしみじみしたいな…」と思っていたのだった。同世代で、そういう女優になれそうな人がいたらいいな…と思っていた。それで何だかあれこれ必死になっていた部分も大いにあったのだった。
 …いるじゃん! 目の前に! 『グレイ・ガーデンズ』もやって、今度『リトル・ナイト・ミュージック』をやろうとしている人が。
 大竹しのぶ!
 私とは15歳違いである。私が10歳のとき、相手は25歳。子供にとっては、…大人! という感じである。それが、年齢を重ねていくにつれて、年齢差、その体感は、薄れたり、揺らいだりしていくものであるということに、年齢を重ねたからこそ気づいた。その人の中で年月がどう重なっているかが重要なのである。だから、年上でも若いな、幼いなと感じる人もいれば、年下でも立派な大人だなと感じる人もいる。年齢は本当に一つの数的メルクマールに過ぎない。そして、45歳(取材当時)になった私からすれば、大竹しのぶは、いい意味で年月を重ねていて、でも、いい意味で本当に若々しくて、…あちらから見ればずうずうしく映るかもしれないけれども、もう、同世代ってことでいい! と。
 彼女の『グレイ・ガーデンズ』は、残念ながら観られなかった――実家の愛犬は死ぬわ、厳寒のニューヨークに出張はするわ、帰ってきたら仕事が大変なことになっているわ、そんな2009年12月だった――。『リトル・ナイト・ミュージック』こそは!

 『リトル・ナイト・ミュージック』は、イングマール・ベルイマンの映画『夏の夜は三たび微笑む』をミュージカル化したものである。ヒロイン・デジレは、娘フレデリカを母に預けて旅回りの役者稼業をしている。母はかつて貴族の囲われ者で、デジレの生き方についていろいろ思うところがある。デジレは今はカールマグナス・マルコムという軍人の愛人であり、彼の妻シャーロットもその関係に気づいている。一方、成功した弁護士フレデリック・エガーマンには、息子ヘンリックよりも年下の18歳の幼な妻アンがいるが、結婚から一年近く経とうというのにアンはフレデリックとの同衾を拒み続けており、ヘンリックもまた深く悩める若者である。ある夜、フレデリックはデジレの公演を観に行き、かつて恋仲だった二人は再び愛を交わす。フレデリックとアンの夫婦仲がうまく行っていないことを知ったデジレは一計をめぐらし、週末、母の館へと皆を招待する。作詞・作曲はスティーヴン・ソンドハイム。ときにチャイコフスキーをも思わせる優美なワルツは、空の彼方へ、ふわっと、聴く者の心をいざなうように響く。音楽もセリフも実にウィットに富んだ中に、一つのテーマとして“欲望”――デジレ!――がある。女中のペトラに誘惑されたり、青春真っ盛りのヘンリックは最終的にアンと駆け落ちするし、一度はデジレの求婚を拒むフレデリックも、やはり自分の心の中にある愛を認め、デジレと結ばれる。拒まれた際にデジレが一人歌い、そして、結ばれたデジレとフレデリックがラストで二人、今度はリプライズで歌うのが、「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 …迷うことなくデジレでしょう!!!
 舞台冒頭からそう思ってしまったあひるであった。なんであんなにチャーミングなのか…。確かにデジレの生き方は、彼女の母が懐疑的に思うように、人生設計がきちんとできている、何らかの打算や計算ができているものではないかもしれない。未婚の母で、今は女優としても少々行きづまっていて、愛人もかっこいいにはいいけど頭が何だか空っぽぽいし…。でも、終始、生き生きしている。生を謳歌している! 立ち止まっても、傷ついても、生を謳歌することをやめない。その都度その都度、命の炎を燃やしている。だから、心ひかれる。
 「センド・イン・ザ・クラウンズ」。
 涙涙涙。
 そして、ラストのリプライズ。
 …えっ?! そっちの役?!
 いつの間にか、何だかものすごい見えない圧により、風間杜夫演じるフレデリックに自らを重ね合わさざるを得ないあひるであった。…私にとって、大竹しのぶを受け止めるということは、そういうことなのである。男の側に立つ。この後、秋に観た『ピアフ』でもそうだった。宝塚歌劇における男役/娘役の関係性を、舞台と客席とで行なう感じというか。しかし。あひるはかつて、「男役になりたかった」と書いて、笑いを誘った人間である。男役、娘役で言うなら、どう考えても娘役向き。なのだが、大竹しのぶはいつでも絶対に「女」で向かってくる。…すごいと思う。しかたない。いつか来るマブダチの日のためにも、自分の中の「男」を強固に磨いておかねばなるまい…と決意するあひる。
 それにしても。あんなに何度も繰り返し聴いていた「センド・イン・ザ・クラウンズ」を、フレデリックの立場でしみじみ聴くことになるとは、まったくもって思わなかった…。そして、そうして聴いていて、幸せだった。生きてみなきゃ、わからない。人生って本当におもしろい。ちなみに。リプライズの方の歌詞では、「リア王」への言及があるのだった。

 ヘンリック役のウエンツ瑛士が、思春期特有の青年のもやもやをナイーヴに表現していて◎。カールマグナス役の栗原英雄も、軍人ならではのぴんと一本筋の通った立ち姿に軍服がよく似合う。“欲望”がテーマのこの作品においてキーパーソンである女中のペトラ役の瀬戸カトリーヌ(このときは「瀬戸たかの」)も、「粉屋の息子」の歌唱において存在感を示していた。それにしても。あの三拍子(の曲だけではないけれども)に日本語を乗せて歌うのは難しい! スタッフ・キャストに拍手。

(4月23日13時半の部、日生劇場)
2018-12-29 18:56 この記事だけ表示