歌舞伎の『与話情浮名横櫛』をもとにした歌謡曲「お富さん」がヒットしたのは、昭和29年のことである。当然、生まれていない。けれども、子供のときからこの歌のことは知っていた。祖母が話してくれた。――伯父(母の兄)が子供のとき、最初に抽選があるどこかの付属小学校を受験しに行った。けれども、朝から、同行した祖母の頭の中で、「♪死んだはずだよ お富さん」が、何度も何度も流れる。何度消そうとしても、流れる。…これ、絶対落ちるわ…と思ったら、やっぱり落ちたわ、と。
 4月に、『与話情浮名横櫛』をもとにしたコクーン歌舞伎『切られの与三』の製作発表があって、演出・美術の串田和美さんが、「『お富さん』って変な歌謡曲があって」と語った、そのとき、うんうんとうなずけたのはそういうわけだったのだけれども、…その後で、不思議な気持ちになったのだった。あのとき、祖母の頭の中に「お富さん」が流れなくて、どこぞの付属小学校に受かっていたら、伯父は、成蹊小学校に行って串田さんと同級生になることもなかったんだろうな…と。串田さんが思い出話でときおり語ってくれる伯父は、何だかとてもかっこいい。

 ぼんぼん育ちなのに、お富と出逢ったばっかりに、全身、傷だらけになる与三郎。しかし。彼は、すべての傷を癒す薬を飲むことを拒む。――その傷が、彼の人生だから。
 傷。人生の傷。
――今年、とあるところで、かつて、私にこう言った人を、思いもかけず見かけた。
「宝塚ファンなんて、バカばっかりだから!」
 今、記していても、心が凍る。傷。心の傷。
 …私にそう言ったことを、本人は覚えていないんだろうな、と思った。私のことすら覚えていないかもしれない。それでいい。また傷つけられたくはない(苦笑)。でも。今となっては、そのことでその人に恨みを抱いているとかは、全然ない。それどころか、その言葉で受けた傷ゆえに、ここまで走ってきてしまったなと、不思議な感慨さえ覚えて。
 いったい、なぜ、そんな言葉が飛び出すこととなったのか――。
 それが知りたくて、その言葉をもう言わせまいと思って、しゃかりきになってやってきた。そして、今の私は、思う。言う方がおかしい、と。行き過ぎた熱狂は、宝塚に限らない。どのジャンルでも起こり得る。それを、宝塚だけ取り上げて言うのは、その人が宝塚が好きじゃないというだけ。
 あのとき、即座にそう言い返せていたら、傷つくこともなかったのかもしれない。でも、今の私はいないわけで。不思議。相手に感謝すべきなのか。…うーん。そこまでは、人間、練れてはいないかなあ…。

 もちろん、自分だって、知らず知らず人を傷つけていることもあるわけで。
ほめているのに、相手は侮辱と受け止めていたり、言葉はいろいろ難しい。書き手として、もっと精度を上げて行かなくてはいけない。
 …書いた相手に対して、十字架を背負っているように思っている。その感覚を教えてくれたのが、他ならぬ、与三郎を演じていた中村七之助である。どの文章のどの部分が、彼に対する十字架なのか、自分の心に深く留めている。たとえ、彼が忘れても、覚えている。
今年も、…ああ…と思う瞬間が何度かあったし、まだ、気づいていない分もあるかもしれないけれども。

 傷。心の傷。――一番最近受けた、大きな傷。最近と言っても、もう一年経ったけれども。
「あなたのその心の傷は、僕が癒します!」と言ってくれた、優しい人もいるけれども。
 ――私はきっと、その傷についても、一人で考えていくのだろうと思う。そして、なぜ、その傷を負わなくてはいけなかったか、いつの日か結論を出すのだろうと思う。相手に対して、もう、何の感情もない。ただ、そこに傷があるだけ。その傷を、見つめているだけ。
 消そうとは思わない。それは、与三郎と同じ。

 けれども。私は、『切られの与三』を観ていて、思った。――傷について語り始めるということは、その傷が、どこか癒え始めているということではないかと。本当に傷ついているうちは、語れない気がする。――時間が、必要。
 そして、『切られの与三』という、傷だらけの男が主人公である舞台を創った、その人の心の傷を思った。与三郎。流刑地から江戸に必死に戻って来て、その江戸は、今の渋谷のように大工事、大改造が行なわれていて、家族に受け入れられるわけでもなく、「まだ生きなきゃなんねえのかよ!」と、走り続ける与三郎。
 私は、その人を包容し、抱擁したかった。――物理的にも試みてみたのだが、うーん、人としての器がまだまだでした。だから、せめて、文章で包容できればと思って、書いている。

 ラスト。与三郎は、屋根の上にいる。少年時代の、与三郎。
 ――実は私は、ちょっと、伯父に怒っていることがあって、でも、この場面を観ていて、はっと思い出したのである。私の実家は、建築家である伯父の設計による。リビングが二階部分まで吹き抜けになっていて、床はレンガでそのまま庭まで続いていて、寒いわ、暑いわ、光熱費はかかるわ…。住みにくい。でも。自分の部屋の窓からリビングの屋根部分に出られて、子供のころ、夏はよく、そこから夜空を見上げていて――。それで、何だかもう、伯父を許した。
2018-12-30 19:28 この記事だけ表示
 本を所有してはいけない世界。本は焼かれるべき世界。ファイアマンである主人公は、本を焼く。華氏451度で。――しかし、彼の内に、次第に疑問が生じてくる。なぜ、本は禁止されるべきなのか。そして、禁じられている本をこっそり持ち出して読むようになり、それが原因で、追われるようになり…。
 レイ・ブラッドベリのSFディストピア小説が原作である(上演台本・長塚圭史、演出・白井晃)。けれども、今回のこの舞台は、管理社会の恐ろしさを主題にするというよりは、書物が、ひいては、芸術作品が人間にもたらしているものとは何なのか、その深い意味に迫ろうとしている。そして、実にサスペンスフルな展開が舞台上構築されていて、…つかまる、どうしよう、どうしよう…と、後半にかけて、観ていてものすごくドキドキした。
 最終的に、主人公は、本をそれぞれに記憶し、語り継いでいっている人々のグループと出会う。舞台が描き出してゆくのは、人間にとって、それぞれの頭でしっかり物を考えていくこと、その大切さである。管理社会の恐ろしさも、そもそもそこにあるわけで。
 私が書いていることも、この世界のほんの一部に過ぎない。どうぞ、このブログ以外にも、いろいろ読んでください。
 堀部圭亮の、対照的な二役の演じ分けが、とても印象に残った。

(10月1日14時の部、KAAT神奈川芸術劇場ホール)
2018-12-30 19:06 この記事だけ表示
 舞台ラスト、主人公・耳男(妻夫木聡)と夜長姫(深津絵里)は壮絶な闘いを繰り広げる。耳男は、夜長姫の鬼の仮面の角を取り、彼女の身体に突き立てる。…これは! クリエイターと評論家のあるべき姿ではないかと! スリリングで、セクシーで…。これ、やりたい〜! 高揚するあひる。
 耳男は仏像を彫る人。夜長姫を呪いながら彫った仏像は評価を得たけれども、その名声を受けて、「夜長姫、好き好き」とばかりに彫った仏像は…。舞台では、その顔は、「へのへのもへじ」が描かれた巨大な風船として登場する。わかる! 好き好き言っているだけだと、関係性に何の緊張感もないんだわ。自戒をこめて言うのだけれども、「好き」って思うに中毒性のある感情で、ものすごく気持ちがよくて…。もちろん、人には、そのときどきで「好き」をたくさん言われなくてはいけない状況というのもある。長らく、ものすごく自尊心が傷つけられてきた人とか。でも、ただ漫然と「好き」に酔っているだけだと、それが単なる自己愛へと変化することだってある。
 だから。私、ときどき、鬼になるわ。
 ここで整理。「鬼になる」のは、「魔物になる」のとは違う。例えば、あひるが、誰かの魔物になる、とする。この場合、その誰かの心の中のネガティブなものが、あひるの形になってしまっているということ。類似の表現に、「黒鳥になる」というのもある――『白鳥の湖』の、あの黒鳥。人に、裏切られた! と思う――それは、その相手に裏切られたのではなくて、自分が相手に勝手に抱いていた期待に裏切られたということも多い。
 魔物も、黒鳥も、人から投影されるもの。それに対して、「鬼になる」は違う。こちらが自発的になる。自ら志願して、なる。「魔物だよ!」とか「黒鳥だよ!」とか、ひるむことなく指摘する。そのことで、ときには角を突き刺されることもあるだろう。当然、痛いだろう。うーん、自分でも、どこかマゾヒスティックだなと…。でも、それでこの世に一つでも多くの美が生まれるんだったら、評論家冥利に尽きるというものであろう。別に、自分にヒロイックに酔いたいわけではないのですが、何だかそれが、今の自分が果たすべき役割なのかなと。
 だから。私、ときどき、鬼になる――もう何度か、なった――わ。

 昨年夏の歌舞伎版と、まったく印象が変わった。一番変わったのは、マナコ役の存在――役者の違い、その演じ方の違いということだけではないと思う。マナコ役には、「俺は銀座のライオンで……」に始まる、シャガールの絵の美しさよりその値段に目を奪われたと語る“俗物性スピーチ”がある。今回の舞台でのマナコ(演じるは古田新太)は、自らの俗物性を認めながらも、それでも、耳男が彫った「へのへのもへじ」の、作品としてのひどさを看破する鋭さを強く感じさせて。“俗物性スピーチ”を朗々と語る姿は、ほとんど神々しくすらあった…。
 天海祐希が久方ぶりの男役で演じたオオアマ。――私はちょうど、フィギュアスケートをきっかけに、『蝶々夫人』についてきちんと考えなくてはならないと決意し、その過程で、野田秀樹の『パンドラの鐘』を思い出した。あのとき、野田版で、天海が演じたヒメ女と、今回のオオアマとが重なって。蜷川幸雄がシェイクスピア作品の王を考えていたとき、私は、宝塚のトップスターについて考えることで対峙していた。だから、野田秀樹が天皇制について考えるならば。
 鬼の一人、ハンニャ役の秋山菜津子が、お尻をふりふりしているかわいさが、忘れられなくて…。「鬼になる」上で参考にする。
2018-12-30 19:04 この記事だけ表示
 病院の無菌室を連想させる舞台装置。けぶったような蛍光灯の光。
 暗い部屋で、戦争について語る家族――リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を初めて聴いたときのことを思い出す。ナチス・ドイツ崩壊直前、母国が爆撃され、破壊されていく中で、書かれた曲。曲の向こうに、確かに聴こえるもの。軍靴の響き。ラジオが伝える戦争のニュース。
 人々の間に蔓延する難病の特効薬を発見した医師がいて、軍事国家の独裁者もその病気にかかっていて、医師は、独裁者に、戦争をやめれば薬を渡すと言って、それでも、独裁者は戦争をやめなくて…。いったい、何のために争っているのか。本末転倒。

 原作はカレル・チャペック。潤色と演出と美術を担当、そして主人公の医師を演じたのが、串田和美。私の、成蹊小・中・高の先輩。伯父の幼なじみ。――彼の創る舞台を観ていると、…ああ、同じ学び舎で学んだ先輩だな…と感じるときがある。いい意味で。私は母校について書くことが多いけれども、何も成蹊学園のすべてを好きというわけではない。嫌なところもある。アンビヴァレントである。けれども、串田先輩の舞台には、私の好きな成蹊学園を感じる。のんびり、おっとりしているところ。ガツガツ競争しに行かないところ。品のいいところ。そう感じていると、成蹊のあのキャンパス、桜並木にケヤキ並木、『赤毛のアン』ごっこをした林、『メリー・ポピンズ』を真似て飛ぼうとしたグラウンド、四季折々に美しい景色を思い出す。
 その目で、権力の座にある、もう一人の小・中・高の先輩を見る。
 …うーん。この人、本当に先輩? いい意味でも、悪い意味でも、成蹊らしさをまったく感じないんですよね…。ものすごく、謎。

(3月9日14時の部観劇、KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ)
2018-12-30 18:34 この記事だけ表示
 11月14日19時の部、KAAT神奈川芸術劇場ホール。
 MEGに掲載された観劇レポート(http://www.meg-net.com/blog/entry-565.html)もあわせてお読みください。
 主人公ウィリー・ローマンを演じる風間杜夫が居丈高にまくし立て始めたそのとき…、自分の父親のことを思い出した。KAATに向かう電車の中で戯曲を読んでいたときには、まったく思わなかったのに。
 基本的には本当に心優しい人で、…でも、弱いのに、お酒を飲んで、家で荒れることがごくたま〜にあって…。暴力をふるうような人では絶対にないのだけれども、物には当たっていたな…と。高校三年生で大学受験を控えた秋にもあったし、一夜漬けで必死な大学三年の試験の前夜にも…。その試験のときは、なぜか学年で数人しか取れない優を取ってしまい、お父さんのおかげで火事場の馬鹿力が出たのだろうか…と、不思議だったけれども。
 そのころの父の年齢に近づいた今、思う。…何をそんなに荒れたいことがあったのかな…と。聞いてあげられることはなかったのかな…と。しかし、まあ、ないだろうな…。人に言う人じゃないし。だから、溜めていて、ときどき爆発するわけで。ましてや、当時の私は、今の私じゃない。大人じゃない。今ならば理解してあげられるのかもしれないのに…というのは、どんなに願っても叶わぬ夢でしかないのだけれども。
 つらかったんでしょうね、きっと。いろいろ。男として、社会に出て、家族を養うために働くということが。ましてや彼は、藤本家を守るためにそこに養子に出されたという、彼にとっては大きな心の傷となった出来事をずっと抱えて生きていたわけで、そりゃまあ、たまにはお酒を飲んで荒れたくもなるだろうな…と、今ならばわかる。あひるだってたまーに飲んだくれたい夜もあるもの。ただまあ、父と、これまたお酒に弱い母の血を受け継いで、ほぼ飲めない体質なので、飲んで鬱憤を晴らすということは一切できませんが。…じゃあ、どうやってストレス解消しているかって? うーん、やっぱり、好きなことを一生懸命やることですかね。それと、好きな近代建築を観に行ったりとか。一番手っ取り早いのは、日本橋三越本店に行くこと。近代建築の重要文化財の中で、ウィンドーショッピングしたり、お茶したり。中央の巨大吹き抜けの美しい装飾の下にたたずんで、おわします天女像に最近の出来事を報告したり。

 それとはまた、まったく別に。今年、…なんでそこまで「男」を頑張って「演じ」なきゃいけないんだろうか? と思う出来事があって。舞台とかフィギュアスケートとか、演じるということが要求されている場においてではない。普通の、一般の、日常において。「男」とか、「家長」とか。昔だったら、「それはそういうものだから」と周りも思っていて、それで「演技」を合わせている部分もあったと思う。でも、もはや周りにそういう気持ちがないのに、もはやそういう時代でもないだろうと周りは思っているのに、一人、そういう「演技」を頑張ってされたとしても、…大変だな…というか、そんなめんどくさいこと、もう、背負うのやめちゃったらどうですか? と思う。そんな「演技」なんかやめて、普通に人と人として接していった方が楽じゃないですか? と。
 そんなことを思う機会があったので、舞台のラスト、「鎮魂歌」と題されたウィリー・ローマンの葬儀のシーン、父ウィリーと同じ道をまたなぞろうとしている次男ハッピーを観ていて、…腹立たしさに、膝に抱えていたバッグを殴りたいくらいで…。
 自分で、自分に、自分を苦しめるようなことになる「演技」なんて課さなくていいんです。男も、女も。自分でないものに無理になろうとする必要なんてない。――もちろん、頑張って「何か」を「演じて」いるうちに、その「何か」に自然となれていたということもあるとは思うけれども。あなたがあなたであることの中に、美しさがあるはずなのである。美が見えないとしたら、それは何かがその美を覆い隠しているから。魔物とか。幻想とか。
 父ウィリーの「演技」を見破ったビフが、…ああ、こうして、またしても「演技」は続いていくんだな…と、冷徹な目でその場に立っているのが、せめてもの「鎮魂歌」に思えて。ビフに扮した演じた山内圭哉は、今年の最優秀助演男優賞ものの演技。
 長塚圭史の演出には、熟練した高級時計職人の名人芸を思わせるものがあった。役者がパーツなのでは決してない。個々の役者が発する一つ一つのセリフ、間、しぐさ、そういった実に細かなものを、一つ一つ切り出し、丁寧に磨き上げ、組み合わせ、一切が滑らかに動くように、寸分の隙もなく調整していく。そうして紡ぎ出された、三時間超の時間。そこに、人間がいた。人生があった。真実があった。――私も、改めて父に出逢えた。父がいて、私がいて。今さら変えようがない、事実。父が幸せだったか、今の私には何とも言いようがない。けれども、私には言うことができる。お父さんの娘に生まれてきて、私は幸せです、と。
2018-12-30 14:33 この記事だけ表示
 子供のころから、原作小説『メアリー・ポピンズ』が大好きだった。小学生のころ、彼女のように空を飛びたくて、風が吹くと飛んでいこうとして傘を広げて、…それでよく傘を壊して、母に怒られた。
 昨年、舞台のヴィジュアル撮影日に、取材があった。スタジオを訪れると、濱田さんがメリーの扮装をして、撮影している。…メリー・ポピンズがいる! と思った。そしてその取材で、改めて考えさせられた。メリー・ポピンズは、いったい何者なんだろう? と。魔法使い? 宇宙人? ミュージカル『メリー・ポピンズ』は、2004年に開幕してすぐ、ロンドン・ウエストエンドで観ている。そのときはあまりあれこれ考えずに、楽しい舞台だなあと思っていたのだけれども。
 そして、日本版の観劇(3月26日18時の部、シアターオーブ)。メリー・ポピンズ=濱田めぐみ、バート=柿澤勇人。
 原作が大好きだったから、私は、子供のころにジュリー・アンドリュースが主演した映画版を観て、ちょっとメリーの愛想がよすぎると思ったくらいだった。濱田メリーは、原作と映画版の中間くらいの不機嫌さに感じられて、いい塩梅。そして、もう、メリー・ポピンズそのものにしか見えなかった。「濱田めぐみ」が消えていた。それこそ、魔法のような。
 …最後、どうして、メリー・ポピンズは去っていってしまうのかな、と思った。バンクス一家がうまく行くようになったら、いなくなってしまう。さみしい! 彼女自身はさみしくないんだろうか。みんなとずっと一緒にいたいと思わないんだろうか。
 何だか、その姿が、自分の仕事とも重なって。
 どこまで書くとおかんになってしまうのか、その辺のさじ加減が難しいなあと、いつも思う。書いた方がいい場合と、書かない方がいい場合と…。いい感じの関わり方。距離感。悩むところ。
 柿澤勇人も非常によかった――彼は、昨年上演された彩の国シェイクスピア・シリーズ『アテネのタイモン』のアルシバイアディーズ役もすばらしく、彼岸に誇らしく思った。今回の舞台では、バンクス家の子供たちを温かく包み込み、見守るバート。舞台を観ていて、自分もすっかり子供に戻っているから、「メリーがいなくなっちゃったの」と、子役たちと一緒になってバートに訴えかけたいくらい。そして、心から熱い炎を発して、柿澤バートは歌い踊った。楽しかった! 一緒にそんな時間を過ごせたことを、本当に幸せに思った。
2018-12-30 00:50 この記事だけ表示