…明日海りおのいない宝塚歌劇が、今、私には、何だかうまく想像できない。
 何も、明日海りおがいなくなったら宝塚が瓦解してしまうとか、そういうことを言いたいわけではない。宝塚歌劇は明日からも続いていくだろう――そうでなくてはならない。けれども、それだけ、私の中で、宝塚歌劇というものが、明日海りおという存在と深く結びついているということなのだろうと思う。そして、それは何も、私一人の心中に限られるものでもないだろうとも。
 長年三井住友VISAカードのイメージキャラクターを務めていて、空港などで彼女の大きな写真が看板となっていたから、その、いかにも男役向きのルックスについて知っている人は、宝塚を知る人以外でも多いだろうと思う。そして、聴く者の心を天鵞絨の布でじわじわと包み込んでいくような、男役としてのあの深い歌声。
 明日海りおは、組んだ娘役の魅力を引き出し、これを見事輝かせる手腕の持ち主だった――花組トップスターとなってから、それぞれに個性の異なる4人のトップ娘役とコンビを組んだ。どのコンビが一番心に残ったか、それは、観る人それぞれによって変わってくるだろうと思う――クラシック・バレエ界で例えるならば、組んだ女性ダンサーの魅力をそれぞれ輝かせてきたダンスール・ノーブル、マニュエル・ルグリのような存在だった。
 例えば、二番目にトップコンビを組んだ花乃まりあ。彼女は今年の夏、『フローズン・ビーチ』の急な代役に抜擢され、大奮闘を見せた。退団しても、自意識すべてを吹っ飛ばしての、あのあっぱれなまでに痛快な芸風は、健在だった! もちろん、花乃自身の才能、そして、在団中、退団後の花乃自身の弛まぬ努力も大きい。しかし、宝塚歌劇という場において、花乃まりあという学年の離れた年若い舞台人に、一人の舞台人として真摯に向き合い、じっくり育てていったという意味で、明日海りおの功績は大きい。
 三番目にトップコンビを組んだ仙名彩世は、いわゆるトップ娘役候補のルートとなる新人公演主演を経験していない。けれども、芸の人だった。実力に加え、卓越した娘役芸を持っていた。その仙名は、娘役芸を極めた上で、心解き放たれたように新たな世界へと旅立っていった――来年5月には、『ミス・サイゴン』にエレン役で登場する。明日海りおという舞台人の相手役を務めたことが、舞台人・仙名彩世の転機となったことは間違いない。
 それにしても、花乃も仙名も実に個性が異なる――そして明日海は、トップコンビとして以外でも、多くの作品でさまざまな個性の娘役たちと組んだけれども、そのそれぞれと合っていたように思う。誰が隣にいても、明日海りおは揺るがず明日海りおであり、そんな明日海りおの隣にあって、娘役たちはそれぞれの個性において存在することができた。それは何より、明日海りおが全き芸の人であったからである。男役芸を極めんとするその道のりにおいて、何の躊躇もなかった。彼女は月組時代に準トップスター(トップスターではないが、主役を務めることのできる者)になった。その後、花組に移り、5年以上の長きにわたってトップスターを務めた。主役を務める立場となってから長い。けれども、彼女は常に、自身の男役芸を磨き続け、作品の質を上げ続けていくことを目指して、宝塚の舞台に立っていた――決して倦むことなく。その姿に、彼女と共に舞台に立つ者も、そしてその舞台を観る者も、心打たれ、感化されずにはいられない。深い敬意に値する。

 では、男役・明日海りおの個性はといえば、その核に迫るのはなかなかに難しい。
 個人的に抱くイメージで言えば、『源氏物語』なら夕霧なのである――生真面目で、一途なタイプ。けれども、さまざまな個性の娘役と組んで輝かせることができるという意味において、明日海が、『新源氏物語』の光源氏、『CASANOVA』のジャコモ・カサノヴァのような、いわゆるプレイボーイ・タイプの役柄をふられてきたことも合点が行く。基本的には優等生タイプながら、少々荒っぽい感じの役もできたし、ショー作品において妖(あやかし)のような存在に扮しても黒い個性を放っていた。――ひとところにイメージを留めることを嫌って、観る者を翻弄するような、そんな、気まぐれな魅力をも感じさせる。
 だからこそ、退団作品『A Fairy Tale』において、罪を犯したがために、その罪の青の色をまとい、深い霧に覆われたミスティ・ランドをただよい続けざるを得なくなった薔薇の精という役どころを明日海に宛書した座付き作家・植田景子の手腕は、大いに光るところである。罪と言っても大罪ではない――精霊たちには、人間の子供たちが成長して大人になる前に、彼らに“忘却の粉”を振りかけ、自らの存在の記憶を消さなくてはならないという掟があるのだが、その掟に背き、愛する少女に粉を振りかけなかったという罪である。繊細な美意識を全編にわたって貫き通したこの作品において、植田が展開するのは秀逸な宝塚歌劇論に他ならない。
 宝塚歌劇を退団すれば、男役は、男役ではなくなる。もちろん、OG公演のような場で男役として登場することもあるだろう。けれども、それは、宝塚における男役とはやはり違う。宝塚の男役という存在が成立するにあたっては、宝塚歌劇という場が不可欠である。宝塚を退団し、男役ではなくなった者たち、元男役たちの多くは、自身が舞台上においてずっと馴染んできた“性”と決別し、新たな世界、新たな舞台において、新たな“性”としての生を始めなくてはならない。その生がしっくり来るまでにどのくらいの時間がかかるのか、それは、人によって異なる。けれども、ある程度の時間がかかることは確かである。それまで、多分に自身の中の男性性と向き合ってきた人間が、今度は女性性と向き合っていかなくてはならないのだから。
 これは、元男役にとどまらず、観客にとっても大きな問題となってくる。それまでその人物の男性性の部分と多く向き合ってきた観客も、今度はその人物の女性性の部分と向き合わざるを得ない。もちろん、一人の人間、一人の舞台人として、好意の対象としてきた場合も多いだろうから、その場合には混乱が生じることは少ないだろう。けれども、その混乱が全くないケースというものもまた少ないだろう。精霊と“忘却の粉”というメタファーを用いて論じられているのは、宝塚歌劇におけるこの男役/元男役と観客とのこの、ときに危うい関係性なのである。“忘却の粉”を振りかけるのは果たして、舞台に立つ者、舞台を観る者、そのどちらなのか――。
 霧の中を彷徨い続ける青い薔薇の精の前に、かつて愛した、否、今も愛し続けている少女は、年老いた姿となって現れる。彼女は、自身が手がけた美しい絵本の中に、愛する薔薇の精の記憶を永遠に封印している。二人は互いを忘れることはない――決して。すべてが浄化され、明日海が、白い薔薇の精の姿に戻り、消えていくラスト・シーンには、――宝塚歌劇作品において初めて味わう、冴え冴えとした美しさがあった。儚いようでいて、強く、確かなもの――それは、宝塚歌劇による、宝塚歌劇の全き肯定である。その肯定を可能としたのは、明日海りおという男役の存在である。
 これまで男役を演じてきた自分/相手には、女性の役を演じるようになったら、こんな個性があった――互いにそこに魅力を見出すことができれば、舞台人と観客の間には好ましい関係が末永く続いていくのである。『A Fairy Tale』の劇中歌「Like a Fairy Tale」において、こう歌われるように。
「♪おとぎ話の終わりはきっと/Happy End」

 明日海りおが演じた中で、忘れられない役柄の一つに、『THE SCARLET PIMPERNEL』のショーヴランがある。かつての恋人であるヒロイン・マルグリットへの慕情を秘めた「君はどこに」をロマンティックに歌う明日海りおの中に――明日海が追い求める“永遠の少女”を見た――振り返ってみれば、明日海は、その“永遠の少女”に相対するだけの男役を、この長きにわたって創り上げてきたに違いなかった。
 今なら、わかる。明日海りおが男役として追い求めてきたその“永遠の少女”とは、彼女自身の中に在る、一人の少女なのである。
 だから。明日からは、その“永遠の少女”を、そのまま追い求めていってください――。
 新しい人生にも、貴女はきっと、これまで通り、根気よく取り組み続けていくのだろうと思う。新たな挑戦をしていく姿を観るのが、心から楽しみである。

 城妃美伶。
 6〜7月の赤坂ACTシアター公演『花より男子』でヒロインつくしを演じた彼女は、心揺さぶるような美しい瞬間を見せて――そして、初日前の囲み会見での質疑応答で、…ああ、これはもう退団を決めているのだな…と悟った。悲しいかな、その通りになってしまったけれども。
 『花より男子』についてなかなか書かずにいたのは訳がある。ドラマ化、映画化もされている人気少女漫画だが、私自身は読んだことがなく、今回の宝塚版の舞台で初めて接した――そして、作中描かれているいじめという名の“暴力”について、深く考え込んでしまい……――宝塚版ではそれでもだいぶマイルドになっているらしいのだけれども。私の世代と、下の世代とで、容認され得る/され得ない暴力表現の違いについて考えざるを得なかった……。例えば、かつては“愛のムチ”という言葉が容認されていた――『ベルサイユのばら』においても、衛兵隊長となったオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、部下である衛兵隊士たちを平手打ちにし、「心は自由だからだ!」と説く。だが、今の時代において、“愛のムチ”という名の暴力はもはや通用しないだろう――。
 いじめに決して屈することなく、己を貫き通すヒロインつくしを演じて、城妃美伶は実に溌溂とした魅力を見せていた。輝いていた――どうしてこれをもっと前からやらなかったんだ〜と……。得意の側転を見せるシーンで、城妃は、それはもうはちゃめちゃにはじけていた――リミッターがすっかり外れてしまっていた! 無防備なまでに全開になった、その野放図な生のエネルギーの美しさに、しばし茫然としていた……。
 退団公演での城妃は、自身の娘役像を確立して揺るぎない。『A Fairy Tale』での、庭園と薔薇と絵画と、美しいものを愛する、一人の貴婦人――楚々としながら芯のある女性を演じて、存在感を発揮する。レヴュー『シャルム!』の地底のキャバレーのシーンでは、快活かつセクシーな魅力を放って踊る美女に扮し、あざやかな側転も披露してくれた。

 乙羽映見は、『A Fairy Tale』『シャルム!』共、澄んだ歌声を聴かせて大活躍。『A Fairy Tale』で演じた“Mysterious Lady”は正体不明の貴婦人、その実、自然界の女神デーヴァという役どころなのだが、神秘的かつ高貴なムードをただよわせる好演である。
 白姫あかりは、ダンサーとして大いに活躍、エレガントかつシャープな動きで観客を魅了してきた長身の娘役である。『A Fairy Tale』で演じたのは空気の精クラルス。まさに空気を操るような、美しい腕の動きがいつまでも心に残る。
 
 芽吹幸奈。
 昨年、花組で上演された『ポーの一族』について記した文章<すべての穢れなき者たちへ〜宝塚花組『ポーの一族』>(http://daisy.stablo.jp/article/458293555.html)は、彼女のブラヴァツキー夫人の演技なくして、私の内からこの世に生まれ出づることはなかった。そして、ブラヴァツキー夫人は、漫画版には登場しない、座付き作家・小池修一郎による宝塚版のオリジナルのキャラクターである。『A Fairy Tale』が『ポーの一族』に見事連なる作品であることを鑑みるに、娘役・芽吹幸奈の功績には特筆すべきものがある。
 『A Fairy Tale』で演じたのは、精霊を愛するヒロインの少女を温かく見守り続ける養育係メアリー・アン。場面場面ごと、仕草と声色に確かな年齢を重ねる演技が、作品世界に奥行きを与える。『シャルム!』のエトワールの絶唱――宝塚の舞台で出逢えなくなるのが、とてもさみしい。
2019-11-24 00:11 この記事だけ表示