「NHK紅白歌合戦」、チラ見しておりましたが、ビートたけしの歌う「浅草キッド」で涙。舞台が原点。そこから、テレビへ…。しみじみよかった。そして、松任谷由実の「ノーサイド」(少女のころから大好きな歌)で号泣。スポーツ選手へのエール!
 チャンネルを変えたら、「ガキの使い! 大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけない青春ハイスクール24時!」(初めて観た)で、稲垣吾郎が大変なことになっていました…。ミュージカル調で歌い上げる、さわやかなまでに堂々の下ネタ…。あっぱれ。テレビ観てあんなに爆笑したの、久しぶり。しかし。…年越しに耳について離れないのがあの歌ってどうなんだろう…(苦笑)。そして、2019年最後に更新するブログがそれってどうなんだろう…(苦笑)。でも書いちゃった(笑)。
2019-12-31 23:59 この記事だけ表示
 今年のテーマは“ゆるす”。心をゆるす。身体をゆるす。罪をゆるす。過去をゆるす。自分をゆるす。ゆるしをゆだねる――to err is human, to forgive divine。

☆『ラブ・ネバー・ダイ』

☆三月大歌舞伎『弁天娘女男白浪』

☆愛のレキシアター『ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ』

☆フィギュアスケーター羽生結弦の演技
 「世界選手権2019」、「スケートカナダ2019」、「NHK杯2019」、「グランプリファイナル2019」、「全日本選手権2019」
 芸術上の最高傑作は「グランプリファイナル2019」フリープログラムの「Origin」。
 「全日本選手権2019」については時間の都合で年内に書き上げることができませんでしたが(年明けに!)、…ここから新たなスタートなんだな…と思った次第。

☆串田和美演出・潤色・美術・出演『K.テンペスト2019』

☆『家族のはなしPART1』主演の草g剛

☆『エリザベート』主演の花總まり
 ミスター“エリザベート”の如く、彼女のエリザベートを、そしてプロダクション全体を見守るトート役の井上芳雄。レジェンド花總まりに対し、自らの個性でエリザベート役に挑んでいったダブルキャストの愛希れいか。深い諦念にありながらもなお妻エリザベートに深い愛を捧げ続ける皇帝フランツ・ヨーゼフ役の田代万里生(ほとんど諦めきっていて、それでも、諦めきれずに妻の愛を求めて歌う「夜のボート」…!)。その他キャストの力演、そしてもちろんスタッフの尽力あったればこそ可能となった舞台だと思う。

☆『人形の家 Part2』『カリギュラ』演出の栗山民也

☆宝塚月組『I AM FROM AUSTRIA−故郷は甘き調べ−』

☆『タージマハルの衛兵』

☆『常陸坊海尊』
 この作品は、年明け1月、兵庫・岩手・新潟にて公演が行なわれます!

他に
・『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』主演の井上芳雄
・『海辺のカフカ』『神の子どもたちはみな踊る』の木場勝己
・四代目市川猿之助演出・主演 スーパー歌舞伎U『新版 オグリ』
 …まだまだ行ける作品だと思う!
・NODA・MAP『Q: A Night At The Kabuki』
 ゲネプロと、それから約一か月後に観劇した本番の舞台とで、ラスト・シーンの意味合いがまるで変わってしまっていて、その結果、作品が私の中でうまく像を結ばない。今年接した新作戯曲のなかでもっとも美しい日本語のセリフのいくつかが味わえた作品だと思うものだけれども、…なセリフの連呼もあり…。『ロミオとジュリエット』の悲劇を超えて、あくまで幸せな物語を生きようとあがき続けるヒロイン松たか子の、ふてぶてしいまでに前向きで逞しい生命力に、爽快な魅力を感じた。ときに甘美にも思える不幸に酔って気力体力を奪われるより、今この目の前にある現実をさらなる幸せへとどうつなげていくか。その様がたとえ年齢を重ねた女のふてぶてしさに映ろうとも、私自身、私固有の幸せな物語を生き抜く所存。

 2019年のインスピレーション大賞は、フィギュアスケーター羽生結弦の演技と、長塚圭史演出、白石加代子主演『常陸坊海尊』に。
 羽生結弦。
 彼は、“難しい入りからのジャンプ”ということを試みていて――例えば、“ツイズル〜トリプルアクセル〜ツイズル”等――、それが美の表現ともなっている。自分も最近、文章の入りということを今まで以上に意識するようになった。書きたいことのコアがあって、そこにたどり着くまでに、どこから入るとするっと気持ちよく書けるのか、この入りじゃうまく行かないな…等。そんな発見もおもしろく。それにしても、それまで思っていた以上に気骨があって心優しいスケーターなんだな…という発見があった「NHK杯」から、一回の演技ごとの人間的成長には目を瞠るものがあって、…一緒に走り続けていくためにも、自分もますますきちんとした人間になっていかなくてはいけないな…と。
 長塚圭史演出、白石加代子主演『常陸坊海尊』。
 年末、一連の文章を書きながら、夜の散歩の際、近所の神社に祈りを捧げていた――そうすると、あの箇所は変えた方がよいとか、ここは削った方がいいとか、いろいろとアイディアが浮かぶのである。ある晩、…書いている際の気持ちよさを大切にする…という思いが浮かんだ――その「気持ちよさ」は、「全日本選手権」のショートで羽生結弦が観る者をいざなったあの世界にたゆたう感覚につながっていた――人の美の感覚とは、この世に生まれ出ずる前の記憶とどこかつながっているのかもしれない。そして、『常陸坊海尊』について書きながら、…私は、この文章を書くために生まれてきた、この文章を書くために今この瞬間までの人生があった…との確信が身体を満たして、それが、この上もなく気持ちよかった…。そんな文章を書いていけるように、これからも精進を重ねていきたい。目の前で素晴らしい演技を見せてくれるすべての人々への深い感謝のためにも、さらにいい評論家へと成長していきたい、そんな思いで今、いっぱいである。

 …観られなかった舞台、いっぱいあったな…と。それが残念。
 来年は時間の使い方をさらに工夫してますます真摯に歩んでいきたいと思います。出逢えた、縁のあった、すべての皆様に感謝して。本年も本当にありがとうございました。皆様の幸せと健康を心から祈っています。それでは皆様、よいお年を!
2019-12-31 16:27 この記事だけ表示
 劇作家秋元松代が前回の東京オリンピックの年である1964年に発表した『常陸坊海尊』は、彼女の最高傑作の一つとされる。だが、上演機会は少なく、私はこれまで1997年の蜷川幸雄演出版(共同演出・釜紹人)を観たのみである。常陸坊海尊は源義経の家来であり、武蔵坊弁慶らと共に都落ちした彼は、義経が命を落とした衣川の戦い(1189年)を生き延びた。そこから海尊の伝説が始まった。不老不死となり、その後、何百年もの間、源平合戦について人々に語り聞かせたという。そんな、実際に東北地方にあった伝説をモチーフとした作品で、今回演出を務めたのは長塚圭史(KAAT神奈川芸術劇場芸術参与)。白石加代子が、22年前の舞台でも演じたおばば役に扮している。
 ――第二次世界大戦末期の東北の山林地帯。東京からの疎開児童である啓太と豊は、常陸坊海尊の妻と称するいたこのおばばと、その孫娘である美しい雪乃に出会う――人々から頼まれて占いもするおばばが、「占いというもんはのう、頼むほうも頼まれるほうも、心のまことが一つにならねば、神様はお下りなさらんのじゃ」と語る言葉は核心をついている――。おばばの家には、かつて彼女が若い娘であった時分に契った常陸坊海尊のミイラがある。我が身惜しさに主君義経を見捨てて生き延びた海尊は、己の罪深い心に比べれば世の人々は清い心を持っているとして、この世の罪科を一身に引き受けた存在である。ここに、海尊は一つの宗教的な帰依の対象である――「悲すいことや苦すいことがあったら、海尊さまを心に念ずるんじゃ。すたら必ずお助けをくださるでや」。そのミイラを守りながら、ときに金銭や物品と引き換えに自分の身体を男に与えることもあるおばばのありようは、古代の神殿娼婦の存在をも連想させる――彼女のその肌には忘れ難きものがあると、作中何度か言及される。
 空襲によって啓太と豊は親兄弟を失う。年若い啓太に、おばばは愛しさを抱く――母が子に抱く愛しさと、女が男に抱く愛しさと。そこには、海尊の血筋を絶やしてはならないという彼女の信仰上の「企み」もある――おばばは、雪乃と啓太を結び付けようという腹なのだ。母恋しと泣く啓太のため、おばばはいたことして我が身に啓太の母を降ろす――“母”として啓太をかき抱く白石おばばの姿に、彼女の代表作の一つである『身毒丸』(蜷川幸雄演出、寺山修司・岸田理生作)の継母役の記憶が重なる。中世の説話をモチーフに、継母と義理の息子との禁断の愛を描く『身毒丸』。“母”と“息子”として出逢うしかなかった男と女。二人は、「お母さん! もういちどぼくをにんしんしてください」「もういちど、もうにど、もうさんど、できることなら、おまえを産みたい。おまえをにんしんしてやりたい」と想いを交わす――それは、狂おしい恋情がときに人にもたらす不可能の願望である。孤独に生まれた人間が他者と一体となれるのは、母の胎内にいるときと、身体で契るとき。そして、美の力によって一つに結び合わされるときである――。
 終戦。地元の人々は、身寄りのない疎開児童たちを引き取る相談をしている。――だが、啓太の姿はない。涙にくれる児童たちの前に「第二の海尊」が姿を現す。彼は、源平合戦に重ねて、第二次世界大戦の敗北をも語る――主君を見捨てて命拾いした海尊と、仲間が死んでいく中、生き残った兵士とが、ここに重ねられる――だが、そうして生き残る者がいなければ、日本という国は滅んでいただろう。
 ――それから十六年。
 親戚に引き取られて東京で暮らしていた豊が、久方ぶりに東北の地にやって来る。――とある神社。そこには、巫女となった雪乃、下男となった啓太がいる。豊は啓太との再会を喜ぶが、啓太は雪乃に憑かれて異様の態である。雪乃は豊に、ミイラを見ていくよう勧める。――今は、ミイラは二つあると。男体と、女体と。海尊と、おばばの。おばばのミイラを作った罪で、啓太は服役を余儀なくされた。そして、宮司補の秀光もまた、雪乃の魔性に狂わされた男である。男体と女体、二体のミイラの前で美しく舞う雪乃のその魔性について、秀光は「色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょぐ)、五欲五毒の頭首(かしら)」と描写する。彼は、その魔性から離れんがため、試みた者の多くが死ぬというソ連への密航を実行しようとしている。おばばと雪乃に惑わされた啓太を激しく罵倒する豊だが、雪乃を前にするとその姿に魅入られて我を忘れる。そんな豊の両の手を、雪乃は冷ややかに踏みつける。思わず、「かいそんさまあ!」と叫んだ啓太の前に、――「第三の海尊」が姿を現す。そして、助けを求める啓太に、「あんた、もすかすたら、わしとおなじく、海尊法師でねえだべか――?」「あんたの胸さ、琵琶があるす!(中略)――さ、弾いてみなされ。あんだの音色をば聞こう」と言う。啓太は、胸にある内なる琵琶を鳴らす――鳴る! こうして啓太は「第四の海尊」となり、自らの罪科を懺悔する旅に出る。
 この終幕は、――凄まじい芸術論である。男体と女体、二体のミイラの前で舞う巫女。その冷ややかさ、驕慢さは、美に仕える者がときに感じさせるであろう冷ややかさ、驕慢さをも連想させる。――そして、ミイラは二体要る。男体と、女体と。人間には、男と女がいる。人間存在すべてを包み込んで描こうとするならば、そのどちらも愛し、理解しなくてはならない――ウィリアム・シェイクスピアは『ソネット集』で、男性に捧げる愛と女性に捧げる愛、その両方をはっきりと歌っており、その精神が『ロミオとジュリエット』をはじめとする彼の作品群にも流れていることは言を俟たない――。そして、その愛し方にも、男のそれと女のそれ、両方が必要なのである。私には、その二体のミイラは、作者自身の魂が吸い取り、芸術家としての自らの養分とした存在の象徴に思えた――。
 神の愛とは違い、人間の愛は色欲と切り離せないところがある。その魔力に狂わされた者が、内なる琵琶を鳴らして海尊となる。それは、自分の中にあるときに御し難い欲望を芸術、美へと昇華した者が鳴らす音色である。――芸術家宣言である。『常陸坊海尊』の終幕において、劇作家は、自らの胸の内にある琵琶を鳴らす――そして、演出家もまた、この舞台において、自らの胸の内にある琵琶を鳴らす――その様に、自らの胸の内にある琵琶をまた鳴らす者もいる。
 ――進むべき道が示される。
 生活に根付いた東北の方言を語って、自らの声を自由自在に操る白石加代子。彼女こそ、日本における巫女の系譜にある者である。――齢78にして妖艶。自らを強固に律して舞台に在りながら、その日その時の劇場の空気を感じ取り、即興演奏のように演技に加えていく当意即妙さ。そのあまりのノリのよさに、深い敬意と愛をこめて「加代ちゃん!」と呼ばせてほしい。その加代ちゃんの、そして彼女のいる世界に生きる数多の人々の舞台への深い想いのためにも、さらにさらに奥へと踏み入って行かなくてはならない。私は、歌舞伎と宝塚歌劇という伝統をもつ日本に、女として生を享けた評論家なのだから。

参考文献)ハヤカワ演劇文庫『秋元松代T 常陸坊海尊/近松心中物語/元禄港歌』
     岸田理生戯曲集『身毒丸・草迷宮』
2019-12-30 22:13 この記事だけ表示
 ――全身で、叫んでいた。魂が、叫んでいた――。
 …転火した炎に、胸が焼き尽くされそうだった。
 そして彼は、――演技後のインタビューで、泣いていた…。

 その姿に、私は、かつて自分が受けた愛に思いを馳せる。その愛すべてに値するだけの感謝を返すことができていただろうか――。
 今、この胸に広がる爽快感――見渡す限り雲一つなく澄み渡り晴れ切った大空の下、360度、視界をさえぎるものが何もない地平に立って、両手を大きく広げ、胸いっぱいに大気を吸い込み、生きる喜びを一身に謳歌するような――。二年ほど前、私は彼の演技について、「美を司る大いなる存在よ、この気高き魂を守りたまえ――」と祈りを捧げた(http://daisy.stablo.jp/article/454392036.html)。祈りは既に叶えられていた――と記して数日後、私は、『新約聖書』の「ヨハネの手紙 一」第五章の中に、神の御心について同様の言葉が書かれているのを見つけたのだった。

 そして私は、目の前にある、<「スケートカナダ2019」エキシビションの羽生結弦の演技に、宝塚の男役を思うhttp://daisy.stablo.jp/article/471222081.html>の文章を眺めていた。とにかく、書くには書いた。けれども、自分の内からなぜそんな文章が出てきたのか、自分自身でもさっぱりわけがわからなかった。
 ――自分はこれまで、男というものにいまいち真剣に向き合って来ていなかったんだな――と、はっきり気づいたのは、数日経ってからである。めっちゃ腰が引けていました! ――恐らく、結婚した23歳のその前後から。あくまで人と人として接すればそれでいいと思っていた。…でも、何だかそれではうまく行かないときもあるな…と、評論家として歩んできてから、…ここ最近かな…、思うようになった。女の気持ち、女の人生を長時間考えてきてしまっていて、男心の理解が圧倒的に足りない。だから、男性と最前線で切り結んでいるところの女優についての理解も深まらない。でも、それではいけないのである。舞台評論家としてさらなる高みを目指す上では、女を理解するように、男も理解するように努めていかなくてはならない。そうしてこそ、人間存在すべてを愛して書くことができる。
 自分の限界に気づいて、それを超えたとき、――そこが天井だと思っていたところに実はガラスのように透明な層があって、それがパリパリパリッと粉々に砕け散って自分に降り注いでくるような、そんな感覚にとらわれる――。視界がうわあっと開ける。慣れるまで、心が不安定になる。――それが、美の一つの凄まじい効用なのだろうと思う。それほどまでに、あの「パリの散歩道」は圧巻だった。
2019-12-29 19:29 この記事だけ表示
 12月10日14時の部、新国立劇場小劇場。インド系アメリカ人である劇作家ラジヴ・ジョゼフ作。演出は小川絵梨子(新国立劇場演劇部門芸術監督)。
 舞台は1648年、インドのアグラ。
 第一場。明日の早朝完成しようという「タージマハル」を、フマーユーン(成河)とバーブル(亀田佳明)、二人の衛兵が見張っている――タージマハルは、皇帝シャー・ジャハーンが、愛する亡き妃ムムターズ・マハルを弔うため、16年間の歳月をかけて建てさせている霊廟であり、建築に関わる者たち以外は完成までその姿を見てはならないというのが皇帝のお達しである。
 二人の衛兵は昔からの友達である。任務中は私語厳禁、しかし、二人はついつい会話を交わす――ハーレムについて。扇動罪について。鳥について。星について。神について。片方がボケれば片方がツッコむ。軽妙で笑い誘うそのテンポのよいやりとりは、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のヴラディミールとエストラゴンの会話を思わせる。フマーユーンは言うならば常識派であり、バーブルは夢想派である。彼は、何千年後に、星まで飛んで行けるようなのりものができることを夢想する。そして彼は、二人の背後にそびえるもの、完成までは誰も見てはならないもの、世界で一番美しいものになるはずのそれを見たいと願い始める。彼はタージマハルの建築家ウスタッド・イサへの敬意を語る。フマーユーンは語る。建築家は、皇帝に個人的な願いを申し出た。タージマハルを造り上げて来た二万人の職人全員と、タージマハルの完成を共に見、その美を分かち合いたいと。皇帝に個人的な願いをすることなど禁忌である。怒った皇帝は命令を下した。今後、タージマハルに並ぶ美しいものを造り出してはならない。そのために、建築家を含め、関わった全員の手を切り落とすと。そして二人は気づいてしまう。その残虐な仕事を行なうことになるのは恐らく自分たちになるだろうと。バーブルは夢想する。空飛ぶのりものに乗って、果てまで飛んで行って、自分たちの姿を俯瞰することを。そして、ついに振り返る。フマーユーンは止める。しかし、彼も、最後にはバーブルと共に見てしまう。朝日に照らされた、その美を――。
 ――舞台上、装置や何かが登場するわけではない。けれども、そこには、演出家が最近目撃したところの美の衝撃、その戦慄が確かに現出されていた。

 第二場。二人は血だまりの中にいる。二万人の職人の四万本もの手を切り落とした――バーブルが切り、フマーユーンがその傷跡を鉄で焼いた。どちらが嫌な仕事かをめぐって、二人は議論になる。二人は空飛ぶのりものに類するような新たな発明を語り合いながら、その血だらけの場所を掃除する――発明についての二人のやりとりは、私に、…人類が「何か」を発明するのではなく、「何か」はもうすでに存在していて、人類がそこに到達した瞬間、この世に現出される…という、シルク・ドゥ・ソレイユ『キュリオス』の脚本家・演出家ミシェル・ラプリーズの独特な発明観を思い起こさせた――。フマーユーンは、四万本もの手の切断によって、もはや美しいものが造られることはなく、タージマハルこそが今後永久に世界で一番美しいものであり続けると語る。バーブルはこの言葉にショックを受ける。彼は言う。「美は殺された、殺したのは俺だ」「俺が美を殺した!」――
 舞台芸術の分野を離れて語る。昨年、――これは、私の命の長きを超えて、未来永劫人類に受け継がれていく美の遺産なのだと確信できる二つの芸術作品に出逢った。一つは、「ヌード NUDE――英国テート・コレクションより」展に出展されていた、ロダンの彫刻『接吻』――約3.5トンのギリシア大理石に彫り出された、抱き合う男女の裸の像――何故だかわからない。けれども、私は、この像を目にした瞬間、あまりの美しさに打たれて涙を落とした――。そしていま一つが、東京・日比谷の地から、愛知県犬山市の「博物館明治村」へと移築され、玄関部分だけが保存された、フランク・ロイド・ライト設計の「旧帝国ホテル」――伯父(母の兄)が建築家だった関係で、母は結婚前、この建物の保存運動に少し関わっていた。その話を聞いていたから、子供のころから憧れがあった。大学生のときにも一度、クラスの女友達全員で、明治村まで観に行ったことがある。そして昨年、久方ぶりに一人で訪れたのだけれども、――いつまでもその中にいたかった。永遠にとどまっていたかった――まるで、母の胎内から決して出たがろうとしない赤子のように――。その館内では、建物にまつわる短い映像が流されている。保存運動実ることなく、日比谷の地において、巨大な鉄球によってライト館が壊されていく光景を目の当たりにして、私は泣いた――1968年時、実際に壊されているとき、何人もの人々が泣く思いだったことだろう――泣いたことだろう――バーブルの如く、「美は殺された」と感じただろう――。
 二人の衛兵は、タージマハル以外で美しいと思えるものについて語る。しかし、バーブルは、女や鳥に美を感じるフマーユーンを否定する。タージマハルの美しさについて、「月が川にぶつかったんだと思った」と語るフマーユーンに、「あれは月なんかよりきれいだよ」と返す。バーブルは、フマーユーンのようには、自然界には美を見出さないようである。そこが哀しい。――月。青空。夕焼け。桜。富士山――人類が共に分かち合える、その美を認められないとは。

 第三場。二人は第一場と同じ場所で警備の任に就いている。四万本もの手を切り落とし、その場を綺麗に掃除した二人は、その褒美として、皇帝陛下付き帝国ハーレム護衛兵に出世することとなった。バーブルは、皇帝と三人だけになった瞬間、皇帝を殺すことを夢想する――そうすれば美が生き残る。そうして殺して二人で逃げて、かつてジャングルの中を二人彷徨った際に造った秘密基地で生きていくことを夢想する――皇帝や規則、さまざまなものから逃れて。フマーユーンはその思いつきを激しく否定する。皇帝という中心の近くにいる自分たちは食べて行けるが、そこから外れた人々は食べては行けない。そんな人間たちが、二万人の普通の人々の手によって造られた美しいタージマハルを見、そのことによって自分たちの人生を変えることができるかもしれないなどと考え始めたら、中心も自分も弾き出されてしまうと。タージマハルを最後の美にしたくないバーブルはこれに抗う。「皇帝は死ね! 美は絶対生き残る!」と叫び始めたバーブルを、フマーユーンはその言葉に相当する反逆罪――となれば、死刑――ではなく、三日間の禁錮で済む冒瀆罪と偽って捕える。

 第四場。バーブルは牢屋にいる。そこへフマーユーンがやって来る。バーブルが実は反逆罪に値することが見抜かれてしまい、必死に命乞いをした結果、フマーユーンはバーブルの両手を切り落とさなくてはならなくなった。逃げたいと叫ぶバーブルの手を、フマーユーンは剣で切り落とし、その場を去る。――第三場と第四場の二人のやりとりは、一人の人間の中で起きている対立、葛藤を描き出しているかのようにも思える。

 第五場。十年後。
 ――フマーユーンは独りで警備をしている。彼は、かつてバーブルと共に過ごしたジャングルでの日々を思い出す。二人は樹の上に秘密基地を造った。――遠くに、ピンクの湖が見える――ピンクと紫と緑の鳥に埋め尽くされた湖を。その美しさを二人は愛でる。そして、無数の鳥たちが、二人の上を羽ばたいてゆく。その様に心打たれる二人――。
 しかし、それはフマーユーンの思い出に過ぎない。彼は今、独りである。

 ――その終幕に、私は、評論家として――人間として――二つの決意を固めたのだった。
 一つ。私は、凄絶な美しさを湛えたこの舞台が生まれる契機の一つとなった美を体現した人と、作品を分かち合えないことを、一瞬、心から残念に思った――その人が隣にいないことをさみしく思った。――違う。分かち合える。私がその美を書き表せばいい。そうして、その人の目となり、耳となればいい。その人が、未知なる世界を私に見せてくれたように――そうして自分の世界を私と分かち合ってくれたように。――否、その人一人に限らない。映像に残せるものと違い、舞台は一回性である――観劇日はたまたま記録映像収録日だったけれども――。その日その一回限りの公演に臨席していなかった人々の、目となり、耳となること。その場にいない人とも美を分かち合えるような言葉を記すこと。
 そして、いま一つ。――かつて、美しい光景を共に見た人を、分かち合えたからこそ美しかった光景を共に見た人を、この手に取り返すこと。――諦めていた。絶望していた。相手の幸せを願う権利すらないと思った。そうして忘れ去ろうとした。――でも、それでも、あの美の記憶は、私の中に確かに残っている。記憶は、強い。何度でも、何度でも、不死鳥の如く甦ってくる。その記憶が、相手の中にもまだ残っているのだとすれば――。

参考文献)戯曲『タージマハルの衛兵』(ラジヴ・ジョセフ作 小田島創志訳・「悲劇喜劇」2020年1月号掲載)
2019-12-29 17:50 この記事だけ表示
 9月19日夜の部、ロンドン・ギールグッド劇場。
 ――そこは、さながら“戦場”だった。<『レ・ミゼラブル』の有名な歌を歌いたい/聞きたい>人たちと、<『レ・ミゼラブル』を上演するからには、それがコンサート・バージョンであろうと、真実の『レ・ミゼラブル』の物語を伝えたい/観たい>人たちとの。あひるは後者! ――闘いの熱気立ち込める劇場。
 <真実の『レ・ミゼラブル』を伝えたい>派の旗頭は、日替わりで主人公ジャン・バルジャンを務めるジョン・オーウェン=ジョーンズ。そして、芝居の要をがっちり固めるのが、アンジョルラス役のブラッドレー・ジェーデンである――大がかりな舞台装置やその転換に頼れないコンサート形式、演奏会形式ほど、演者の演技力がより一層浮き彫りになることは、今年8月に聴いた<パーヴォ・ヤルヴィ&N響 オペラ『フィデリオ』演奏会形式初日http://daisy.stablo.jp/article/469315262.html?1577597446>でも感じたことである――。ジェーデンは、これまで通常形式の公演で、アンジョルラスに加えてジャン・バルジャンとジャベールを演じた経験もある。誰かが下手をかまそうものなら、俺が代わりにやってやろうか! くらいの勢い――もっとも、ジョン・オーウェン=ジョーンズにその心配はいっさいなかったけれども。彼は、ジャン・バルジャンとして、その歌と演技のうちに、重厚な物語を細やかに、ていねいに語っていくのだった。
 「One Day More」。
 …なぜだろう、ジョン・オーウェン=ジョーンズが、そのたった三音節の三語を発するだけで、こんなにも涙があふれるのは…。それはきっと、その夜その一瞬のことではなく、彼という役者、人間が、これまで生きてきたすべての時間が凝縮されてほとばしるからなのだ。その三語をそのように歌える領域に到達するまでに、彼が費やしてきた膨大な時間を思う。この夜の舞台。そしてまた次の夜の舞台。――“One stage more”。そうして舞台を積み重ねてきた人間の真実が、その刹那にあふれ出る。
 ――『レ・ミゼラブル』を観るのは久しぶりだった。日本で新演出になってからも観ているのだけれども、私の脳裏に焼き付いているのは山本耕史のマリウスである(ということは、2003年か2004年の上演)。そして今回、ジョン・オーウェン=ジョーンズ&ブラッドレー・ジェーデンたちの奮闘のうちに、私は、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の物語の一つの軸が、神の意志をいかにこの地上において実現させるべきかをめぐる対立であることに深く思い至ったのだった。<真実の『レ・ミゼラブル』を伝えたい>派の大勝利!
2019-12-29 15:58 この記事だけ表示
 2015年の公演の際、トート役の井上芳雄が、エリザベート役の花總まりのことを、「日本『エリザベート』界のレジェンド」と呼んでいた。絶大な人気を誇るこのウィーン・ミュージカルが1996年に宝塚雪組によって日本で初演された際、エリザベート役を務めたのが花總まりだった。1998年に宙組でもう一度、退団後は2015年、2016年、そして2019年と、彼女はこの役を演じ続けている。
 6月半ばに舞台を観たとき、…ちょっと苦戦しているかな…という印象を受けた。しかし、決してそこで終わらないのがレジェンドのレジェンドたるゆえんである。約一カ月後。――そこには、一段と光と輝きを増した花總エリザベートがいた。彼女が自分自身の人生を振り返り、人間存在が表皮を介してすっかり裏表になるほどすべてを絞り出すという行為をもって、いま一度この役を創り直したからこそ、その光と輝きを得ることとなったのである。けれども、そのために、彼女がそれこそ心から血反吐を吐くような過程をくぐり抜けたであろうことを考えると、私は、その強靭な精神力に気の遠くなるような思いがする…。レジェンドだから、演技がよくて当たり前とされる。よくて当たり前のその先に行くには、一つ一つのセリフ、歌詞、動き、しぐさをていねいに洗い直し、そこにまた新たな意味を付加して、役柄の全体像をさらに大きなものへと創り上げていくしかない。――彼女は見事にそれをやり遂げていた。そこにレジェンドのプライドがあった。
 花總まりは、私の一つ下の年齢である。永遠の少女のように、いつまでも若々しく、美しい人である。――でも、それでもやはり、年齢を重ねた者は、永遠の少女ではいられない。自分自身、そう思う。――失くした夢もある。叶わなかった願いもある。時を巻き戻してやり直したい出来事もある。心の中に少女のままの自分がいて、けれども、自分の中にそうして積み重なっている時間もあって、心のピントのズレに視界がくらっとしそうなときもある――。そんな、時の流れを、花總まりはエリザベートという役柄の中に生きる。若くしてオーストリア皇帝に見初められ、皇室の中で籠の鳥となり、いつまでも自由を求め続ける一方でどこか縛られ、自分をこの世界でない場所へといざなう<トート=死>と対峙し、ときに戯れながら、人生の時間を積み重ねていく一人の人間を。その生の普遍。19世紀の西洋の皇后というかけ離れた存在に、日本の観客が熱い想いを寄せ続ける理由も、そこにあるのではなかったか。
2019-12-29 15:57 この記事だけ表示
 この長いタイトルの作品は、トルストイの長編小説『戦争と平和』のブロードウェイ・ミュージカル版である。そして、…陰気くさく背を丸め、眼鏡姿でやる気なくマラカスを振る男ピエール、それが、本作における井上芳雄の役どころである。
 …これまで観てきた井上芳雄の中で、一番心に来る! 陰気くさいのに、否、陰気くさいところが世にも色っぽい。
 2000年の役者デビュー作『エリザベート』のルドルフ皇太子役は、衝撃だった。その好演は彼に“ミュージカル界のプリンス”の称号をもたらした。それから20年間が経って、井上芳雄は今でもプリンスである――ミュージカル界におけるありようがプリンスなのだと思う――その内面がちょっとスパイシーでブラックなところもおもしろいのだけれども。しかし、ルドルフをおいておいて、彼に本当にぴったり来る役は、いったい何なのだろうか。その疑問が、この数年ずっと私の中にある。ただ、…これ、彼に合う役なのかな…と思っていても、いざ劇場に足を運んで客席に座れば、その強固なまでに構築された役作りの前に、感服する他ない自分がいる。2017年の『グレート・ギャツビー』タイトルロールの演技は、観劇後、F・スコット・フィッツジェラルドの研究者だった母との間で、…フィッツジェラルドはなぜこのようなキャラクターを生み出したのか…という議論を交わすきっかけとなった。そして、昨年の『黒蜥蜴』。――私はそれまで、この作品において、自分は黒蜥蜴を追いつめる名探偵明智小五郎向きであることに絶大な自信を持っていた――そのような目線で舞台を観るわけである。しかし。井上芳雄の確固たる演技の前に、私は、…こんな明智になら、黒蜥蜴としてぜひ追われてみたい! と、うっかりうきうき信念を180度曲げる結果となった――そうやって私は、自分の中に新たな自分を発見したわけである。
 ピエール。
 貴族の私生児として生まれ、財産はあるものの妻との仲は冷え切り、無為に生きる男。現実と接点をもつわけではない思索に耽る男。しかし、若き伯爵令嬢ナターシャとの出会いが彼を変えていく。ある魅力的な男と駆け落ちしたことで、婚約も解消され、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられるナターシャ。ピエールは彼女の命を救いたいと願う。自分が、彼女の愛にふさわしい人間となった日には、その愛を受け取ってほしいと――。
 そんな終幕のピエール井上の上空に、…宇宙的に美しいヴィジョンが見えたのだった。何十年に一度しかやって来ない彗星(コメット)の上から、こちらに手を伸ばしていざなう人がいる。その彗星の目指す果ては、日本ミュージカル界のさらなる美しき発展――。
 2019年、ミュージカル作品についてひときわ深く観て考えるようになったのは、この年始の舞台で、井上コメットと遭遇し、その魂と出逢ったからなのだろうと思う。
2019-12-28 18:45 この記事だけ表示
 2月に、長塚圭史が演出したこまつ座『イーハト―ボの劇列車』を観ていて、…確かに、何故、伯父を許すきっかけを与えてくれたから、コクーン歌舞伎『切られの与三』がインスピレーション大賞なのか、説明が足りなかったかもしれないな…と思った。
 私の周りは基本勤め人ばかりである。だから、自分で建築事務所を開いて建築家をやっている伯父が憧れだった。もう一つ憧れの理由がある。子供のころ、「学校で作文ほめられたよ〜」と祖母に言ったら、子供のころの伯父もやはり文章で賞を受賞したことがあると言って、その文章が収録された本を見せてくれた――紫式部、与謝野晶子、有吉佐和子、私は子供のころから物を書く人への憧れが強い人間だった。…伯父に才能があるなら、自分にもあるかもしれない。
 …うーん、でもどうやら、経営者としての才能はあまりなかったみたいで…。私も詳しいことはよくわからないのだけれども。彼は、中野区中野にあった自邸を引っ越さざるを得なかった。跡地にはワンルームマンションが建った。祖母も共に住んでいたその家がこの世から消えてしまったことを認めたくなくて、私は長らくその界隈に足を運ばなかった。
 その家というのがまあ、不思議な家で…。この世にあんな家は一軒しかないと思う。やはり伯父が設計した私の実家も住みにくいところがあるけれども、リビングの天井部分が二階分まで大きく斜めになっていて、電球を変えるのに梯子がいるのと、光熱費がかかることを除けば全然普通と思えるほど、その中野の家は不思議だった。
 白いかたまりである。コンクリート打ちっぱなし。ドアを入ると、玄関はない――ほぼ全館土足だから。そしてそこには、二階まで吹き抜けになった巨大空間が広がっていて、二階へと上がる宙に浮いたような階段が右に、半地下へと降りる階段が左にある。降りてすぐ、左の部屋は伯父の書斎である――今から思えば60年代アングラ演劇のポスターに似た雰囲気のポスターが貼ってあって、子供時代の私には多分に扇情的なものとして映った。半地下のその先は、伯父一家の居住空間。
 階段を二階へと上がると、そこは共有の客間である。そして、通りに面した壁は、一部窓となっているのを除いてすべて飾り棚となっているのだけれども、家の入口ドアの上に置かれたものなどは、いったいどうやって飾ったものやら、足場が見当たらない。二階は、客間以外には祖父母のための台所があり、簡単な食事は壁際に設けられたカウンターで取った。二階奥は祖父母の居住スペースで、そこは靴を脱いでの和室畳敷き。ちなみに、二階へは外階段も設けられていて、そちらのドアから入るとすぐにあるトイレは奥行き5〜6メートルという長さ。三階部分まで吹き抜ける空間で、天井はガラス窓となっている。
 そのトイレの前の階段を昇っていくと三階があって、バスルーム、畳敷きの部屋、物置、そして洗濯室の先には屋上があり、主に洗濯室を居住空間としていた飼い犬は、屋上で遊ぶためには急な階段を数段上がらなくてはならなかった。
 …変な家でしょ?
 3月に伯父はこの世を去った。6月、出張がてら、伯父が助手として関わったという仙台の東北大学附属図書館を訪れて、…うわあ、中野のあの家だよ〜と思った。入ってすぐがやはり大きく開けたスペースで、上がったり、下がったりする階段があって、多層的な構造になっている。ちなみに伯父は、共著で『図書館建築―施設と設備』という本を出している。私の実家には二階に何千冊もの家族の本が詰め込まれた書庫があるのだけれども、あの東日本大震災でもびくともしなかったので、そこは伯父の力が大いに発揮されたところだろうと思う。
 ――私は、伯父が関わった東北大学附属図書館と、その父である祖父が二高に在籍していた時代に滑っていたのかもしれない日本フィギュアスケート発祥の地である「五色沼」と、そしてフィギュアスケートオリンピックモニュメントが建つあの仙台の三角地帯――行くまでは何の思いもなかったのに、行った瞬間聖痕のように私の中に刻み込まれることとなった三角地帯――を歩いていて、――ああ、今こんな気持ちになるくらいなら、生きている間に優しい言葉の一つもかければよかった…と、それは激しい悔恨の念で、泣いていた――。私はずっと怒っていた。伯父が妹である母に優しい言葉をかけないこと。お酒を飲んで姪や母に迷惑をかけること。――そして、今になって気づけば、憧れのままでいてくれなかったことに。なぜなら、私が今の職業を選択するにあたって、伯父の存在は決して小さくなかったわけだから。――最後の方は、結構ぴしぴし意見していた。だから、私が口を開こうとすると、ちょっと怯えていた。そういうとき、自分でも思うに、厳しいんですよ…。「人としてちゃんとして!」とものすごく思う。病を得た後の父にも決して単純に優しくはなかった。でも、優しくするだけが優しさじゃないからな…。伯父に関して言えば、途中でお酒を断って、その決心を生涯守り通したことは本当によかったと思う。
 さて。『K.テンペスト2019』をタイトルに掲げながら長らく伯父の話をしてきたのは、この作品の演出・潤色・美術を担当する串田和美が、伯父の子供のころからの友人であり、彼が手がけた昨年の『切られの与三』なくして、伯父を許すことはなかったからである――でも、本当はあのとき、私は自分を許したのかもしれない。どうしていつまでも憧れの存在でいてくれないんだ〜と伯父に甘えていた自分を。伯父は、坊ちゃん育ちなのです――『イーハトーボの劇列車』で描かれる宮沢賢治のように。そして、そんな育ちから来る甘さが、私自身の中にもないとは言えない。世間に揉まれ足りていないかもしれない。でも、私は、組織に属せず、独りでやっていくことを選んだ。だから、伯父へのかつての憧れを切り離して、自分自身の道を進んでいかなくてはならない。
 中野の家はなくなってしまったけれども、最近、実家に行って、リビングに座っていると、…何だか伯父に包み込まれているようにも思う。伯父の創った家で育った私がこれまで以上に頑張ればいいじゃないかと、今は思える。
 シェイクスピアの『テンペスト』は許しの物語である――演出論、劇場論で読み解かれることも多いと思う。けれども、串田和美の『K.テンペスト2019』は、群像劇なのだった。四方を客席に包み込まれた空間で、キャスト一人一人がそれぞれの記憶を持ち寄り、束ねて、観客のそれとも分かち合って創り上げていくような。途中、キャストそれぞれが、自分についての話、自分のしたい話を差し込む。「劇団カムカムミニキーナ」主宰の松村武が開陳する蘊蓄話なんて、劇団公演でもよくよく披露される感じの、いかにも彼らしいマニアックな話! ――そうしてみんなで分かち合う『テンペスト』の物語は、これまで観てきた中で一番面白かった。だから、私もここで、自分自身の許しの物語を分かち合うことにした。そうして、伯父・建築家木野修造を送る――六本木交差点の近くに、彼が手がけた「瀬里奈」のビルが今でも建っています。
2019-12-28 18:38 この記事だけ表示
 11月13日13時半の部、新国立劇場中劇場。
 アルベール・カミュによる『カリギュラ』の上演を、私はこれまで蜷川幸雄の演出で二度観ている――2007年版と、さいたまネクスト・シアターによる『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』。2007年版については、今となっては、その作品をも起因として生まれた“演出論”たる『じゃじゃ馬馴らし』(2010)の印象の方が強い。そして、2014年版の舞台については、演出家が作品の中でこだわっていたセリフをこのたびはどう解釈して演出するのか、そのことばかりに私自身の意識が行きすぎていたように思う。
 その『カリギュラ』を、このたびは栗山民也が演出した。
 …最初のセリフから、最後のセリフまで、「同意!」「不同意!」「即答保留!」と、一言一言すべてについて思考の決断を鋭く迫られる、そして、その一言一言を発する演技の強度についての判断をも迫られる、緊迫の舞台が展開していった。政治について。美について。さまざまな論点が油断も隙もない網目のように張りめぐらされた言葉の世界に、全身の毛を逆立てたようにして見入るしかなかった。――終演後、立ち上がると、足がよろよろした。脳が高カロリーの食べ物を欲した。
 ――カミュってこんなにおもしろかったんだ――と、茫然としていた。
 私の青春時代に、不条理文学はもはや遠いものだった。カミュに初めて接したのは、大学のフランス語の授業で読んだ『異邦人』――ほとんど馴染みがない。でも。こうして再びカミュと向き合っていけることの幸せを感じた。そして思った。――栗山民也の魂とさらに深く出逢いたい――と。
 セゾニア役の秋山菜津子は、今年2月の『出口なし』(白井晃上演台本・演出)ではジャン=ポール・サルトル原作作品に挑戦している。煉獄にいる男と女と女がやりとりを交わす作品で、…こんな女性が同じ煉獄にいたら、心のすべてを吐露してしまうしかないな…と思わせる凄絶美だった。『カリギュラ』では、追い込まれていく姿の壮絶な美しさが印象に残る。キャストは男性ばかり、女性が彼女の他は一人しか登場しない舞台にあって、媚びるでもなく、女性としての特殊性を強調するのでもなく、それでいて馴染むのでもなく、そこに在って己としての存在感を確かに発揮していく、役者としてのその強度さに心惹かれる。そこに、「女優」という呼び名をほしいままにする者の秘密があるのだと思えてならない――「女優」についての私の考察は、まだ始まったばかりである。
2019-12-28 17:31 この記事だけ表示