昨日、期間限定でオンライン特別配信された『須磨浦』を観ていた――中村吉右衛門が、「松貫四」の筆名で、『一谷嫩軍記』を新たな構成のもと書き下ろし、自ら熊谷直実を演じた一人芝居である。――己の、役者としての業の深さを見つめるその残酷なまでの眼差しに打たれた。そして、その一挙手一投足に、――自分がまるで、涙を流す自動装置になったかのようだった。…相手に直接伝えればいいのに…と思いもした。けれども、その人にとっては、そうすることがもっとも伝えやすい手段なのだろうとも。
 そして、今日。吉右衛門主演の『双蝶々曲輪日記 引窓』。一人の母と、幼くして養子に出されたその実子と、生さぬ仲の子と。――当然ながら私は、家を継ぐため、叔母のところに養子に出され、そのことを死ぬまで痛みとして心に抱えていた父のことを思い出す。この世においては、父は実母を「母」と呼べない。あの世に行かねば叶わぬ願い。…そう思って、自分が父の死の痛みをやり過ごそうとしたことを思い出す。幼いときから、父の痛みを知っていた。だから、父を苦しめたと私が思うところの相手を恨んだ。――今なら、間違いだったとわかる。恨むべきは人ではない。人を苦しめるところの制度やしきたりである。恨んだ相手もまた、同じ制度やしきたりに苦しめられた一人だったのだから。
 昨日、パソコンの画面の中に見ていたその人は、劇場空間において、圧倒的な生のマッスとして迫ってきた。そして、その表情が、古の浮世絵の歌舞伎役者のそれへと収斂していく様を、私は不思議な思いで見つめていた――。

 ――そう簡単にわかられてたまるか…! という思いと、わかってほしい思いと。劇場空間で感じるそのアンビバレンスは、どこか懐かしいものだった。…前にも、そうした相手と対峙していた。親子ほど齢が違うのに、こっちだって、そう簡単にわかってたまるか…! という思いと、どうにかわかりたいという思いと。そしてその思いは、今でも私の中に濃厚に残っている。相手を彼岸に失った今も。私の中に蒔かれた種を、少しずつ育てて、なおもわかろうとし続ける。――美の彼岸で再び相見える日まで。そのとき、父が私の手を引いてそこまで連れていってくれることが、私の望みなのである。
 その日まで。この世で成すべきことは、この世でかたをつけねばなるまい。そして私は、この世において成すべきことを、また一つ見つけたのだった。

(9月2日16時15分の部、歌舞伎座)
2020-09-02 23:59 この記事だけ表示
 かさね(市川猿之助)を前に台詞を語る与右衛門(松本幸四郎)を観ていて、…ふっと、自分の魂があくがれ出づるのを感じた。魂は、与右衛門とかさねとがいる川堤へと彷徨っていった。そのとき、魂を境に、現実と虚構とが逆転していた――。その世界こそ、魂が本来在るべき場所であるように思えた。生者の魂も、死者の魂も、草木や川の水といった自然界の精霊も、分け隔てなく自由に交歓できる場所。――思えば、昨年の三月大歌舞伎『弁天娘女男白浪』においても、そうして戯作者の魂に出逢ったに違いなかった(http://daisy.stablo.jp/article/472849218.html)。そのときも、幸四郎と、猿之助とが居た――。

(9月2日13時40分の部、歌舞伎座)
2020-09-02 23:59 この記事だけ表示