藤本真由
(舞台評論家・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社に入社。写真週刊誌「FOCUS」の記者として、主に演劇・芸能分野の取材に携わる。
2001年退社し、フリーに。演劇を中心に国内はもとより海外の公演もインタビュー・取材を手がける。
ご意見・お問い合わせ等は
bluemoonblue@jcom.home.ne.jp まで。
初演から50年、『ベルサイユのばら』、宝塚の舞台に10年ぶりの登場である。雪組では2013年にも『フェルゼン編』を上演しており、私事ではあるが、その宝塚大劇場公演と東京宝塚劇場公演の間に父親を亡くし、どこか痛切に透き通ったような思いで舞台上の愛と死のドラマを観ていた記憶がある。今回フェルゼン役を演じる雪組トップスター彩風咲奈は、長身で貴公子の役どころが似合う男役で、2013年公演の新人公演でこの役に挑戦している。これが宝塚生活最後の舞台となるが、非常に孤独の色濃い造形と感じた。スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンはフランス王妃マリー・アントワネットと恋をしている。二人の道ならぬ恋に迫り来るのがフランス革命の運命である。彩風フェルゼンは、二人の恋を見守る人々と愛についてのさまざまな問答を交わし、そして、最終的には己の信じるところの真の愛をその相手にぶつける――しかしながら、コンシェルジュリーの牢獄からマリー・アントワネットを救い出したいという彼の願いは、フランスの女王として死んでいきたいとの彼女の思いに阻まれる。彩風フェルゼンが人々との問答を通して己の愛を鋼の如く鍛えていく様に、この作品でもっとも有名な楽曲が「愛あればこそ」であることを今さらながら深くかみしめた。
マリー・アントワネットを救いたいと、身の危険を顧みず、再びパリへとやって来たフェルゼンが、人の命を奪う戦いの虚しさについて一人思いを述べる場面がある。突然のような反戦の思いに驚き、そして、いや、と思い直す。2022年の秋、NHKで放送されたインタビューで、『ベルサイユのばら』に初演から関わっている脚本・演出の植田紳爾(初演時は長谷川一夫と共に演出。今回は谷正純と共に演出)は、1945年の福井空襲の後、犠牲となった遺体を運ぶ仕事を12歳で担った経験を語っていた。『宝塚百年を越えて 植田紳爾』(語り手 植田紳爾/聞き手 川崎賢子)でも読んでいたエピソードだったが、彼自身の声で聞く、――最初は一つ一つの死を悼む気持ちがあっても、次第に機械的にならざるを得ない、そのとき自分自身を含む人間の業を感じたとの話は、ロシアのウクライナ侵攻が始まっていた後でもあり、一層心に迫ってきた。『ベルサイユのばら』における愛と死は、そんな生と死の経験をした人の書く愛と死なのだとそのとき感じ、そして、今回の舞台からも痛切に感じる。初演から50周年の上演にふさわしく、『ベルサイユのばら』でなじみ深い有名楽曲がふんだんに盛り込まれ、宝塚の華やかな舞台を普段から観慣れている目でもやはりあでやかさに驚くような舞台が繰り広げられ、――けれども、作品の根底にこうして流れるものを、後世に伝えていかなくてはならない、と思う。
今回、新曲として、『ベルサイユのばら』の楽曲群に「セラビ・アデュー」が加わった。作詞は植田紳爾、作曲は吉田優子。彩風咲奈の退団を盛大に演出すべく、実に効果的に用いられている楽曲である。「♪さよならだけが人生と/思い知るとき人は愛を/抱き締めるのか」の歌詞にまず思い出すのは、于武陵の漢詩「勧酒」の一節の井伏鱒二による訳「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」――井伏鱒二はこのフレーズを林芙美子との交流から思いついたようである。そして、植田紳爾の代表作『風と共に去りぬ』の有名曲「さよならは夕映えの中で」――ヒロイン・スカーレットをおいて一人去るレット・バトラーが、「♪サヨナラは言わずに 別れたい」との絶唱を聴かせる曲である。
さよなら。別れ。――出逢いなくして別れなし。さよならの数だけ出逢いがあった。さよならがせつないのは、それだけその出逢いが大切で愛おしいものだったから。
彩風フェルゼンの思い人マリー・アントワネットを演じた夢白あやは、実は案外憑依系なんだな、と。フェルゼンとマリー・アントワネットの往復書簡集を読んで臨んだというその演技は、ときに、肖像画の中からマリーその人が抜け出てきたかのようなリアリティをもって迫ってきた。本当に普通の、一人の人間である。救い出したいとのフェルゼンの申し出を断り、断頭台に見立てた大階段を一人登っていくときも。それでも、なお、自分自身を超えた何か立派なものを“演じ”なくてはならない運命を課せられた者の姿を描き出していた。
朝美絢のオスカルは女らしさと男らしさのバランスが絶妙だった。縣千のアンドレと二人で演じる有名な<今宵一夜>のシーン、美しく見せるための演者にとっての過酷な体勢に、歌舞伎出身の長谷川一夫の振付が今なお受け継がれていることをかみしめた。アンドレがオスカルの毒殺を図るシーンがないなど、出番が限られた中で、男装の麗人とそれを支える存在という二人の愛は確かに描き出されていた。諏訪さきのジェローデルも途中の語り部的役割をしっかり務めていた。音彩唯は、ロココの歌手としての歌唱、そして悪女ジャンヌ・バロワ・ド・ラ・モット役の演技とも、新公学年とは思えない堂々とした貫禄。
フェルゼンのマリー・アントワネットへの愛を諫めるメルシー伯爵役汝鳥伶(専科)の、一言言葉を発しただけでにじみ出るあの思いの深さ。フェルゼンのフランス行きを後押しする、スウェーデン国王グスタフ三世役の夏美よう(専科)の愛への熱さ。ブイエ将軍役の悠真倫(専科)はきっちり悪役に徹する。オスカルやフェルゼンの取り巻きの貴婦人、モンゼット侯爵夫人の万里柚美(専科)が宮廷の華やかさをふりまく。そして、モンゼットに対抗するシッシーナ伯爵夫人役で、長身の娘役杏野このみが存在感を発揮、柚美モンゼット共々舞台に滑稽さと悲哀とを描き出した。
これが退団となる野々花ひまりのロザリーはきりっと強い印象で、夢白マリー・アントワネットとのバランスのよさを感じさせた。同じく退団の希良々うみは、令嬢カトリーヌ役として宮廷を華やかに彩った。
マリー・アントワネットを救いたいと、身の危険を顧みず、再びパリへとやって来たフェルゼンが、人の命を奪う戦いの虚しさについて一人思いを述べる場面がある。突然のような反戦の思いに驚き、そして、いや、と思い直す。2022年の秋、NHKで放送されたインタビューで、『ベルサイユのばら』に初演から関わっている脚本・演出の植田紳爾(初演時は長谷川一夫と共に演出。今回は谷正純と共に演出)は、1945年の福井空襲の後、犠牲となった遺体を運ぶ仕事を12歳で担った経験を語っていた。『宝塚百年を越えて 植田紳爾』(語り手 植田紳爾/聞き手 川崎賢子)でも読んでいたエピソードだったが、彼自身の声で聞く、――最初は一つ一つの死を悼む気持ちがあっても、次第に機械的にならざるを得ない、そのとき自分自身を含む人間の業を感じたとの話は、ロシアのウクライナ侵攻が始まっていた後でもあり、一層心に迫ってきた。『ベルサイユのばら』における愛と死は、そんな生と死の経験をした人の書く愛と死なのだとそのとき感じ、そして、今回の舞台からも痛切に感じる。初演から50周年の上演にふさわしく、『ベルサイユのばら』でなじみ深い有名楽曲がふんだんに盛り込まれ、宝塚の華やかな舞台を普段から観慣れている目でもやはりあでやかさに驚くような舞台が繰り広げられ、――けれども、作品の根底にこうして流れるものを、後世に伝えていかなくてはならない、と思う。
今回、新曲として、『ベルサイユのばら』の楽曲群に「セラビ・アデュー」が加わった。作詞は植田紳爾、作曲は吉田優子。彩風咲奈の退団を盛大に演出すべく、実に効果的に用いられている楽曲である。「♪さよならだけが人生と/思い知るとき人は愛を/抱き締めるのか」の歌詞にまず思い出すのは、于武陵の漢詩「勧酒」の一節の井伏鱒二による訳「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」――井伏鱒二はこのフレーズを林芙美子との交流から思いついたようである。そして、植田紳爾の代表作『風と共に去りぬ』の有名曲「さよならは夕映えの中で」――ヒロイン・スカーレットをおいて一人去るレット・バトラーが、「♪サヨナラは言わずに 別れたい」との絶唱を聴かせる曲である。
さよなら。別れ。――出逢いなくして別れなし。さよならの数だけ出逢いがあった。さよならがせつないのは、それだけその出逢いが大切で愛おしいものだったから。
彩風フェルゼンの思い人マリー・アントワネットを演じた夢白あやは、実は案外憑依系なんだな、と。フェルゼンとマリー・アントワネットの往復書簡集を読んで臨んだというその演技は、ときに、肖像画の中からマリーその人が抜け出てきたかのようなリアリティをもって迫ってきた。本当に普通の、一人の人間である。救い出したいとのフェルゼンの申し出を断り、断頭台に見立てた大階段を一人登っていくときも。それでも、なお、自分自身を超えた何か立派なものを“演じ”なくてはならない運命を課せられた者の姿を描き出していた。
朝美絢のオスカルは女らしさと男らしさのバランスが絶妙だった。縣千のアンドレと二人で演じる有名な<今宵一夜>のシーン、美しく見せるための演者にとっての過酷な体勢に、歌舞伎出身の長谷川一夫の振付が今なお受け継がれていることをかみしめた。アンドレがオスカルの毒殺を図るシーンがないなど、出番が限られた中で、男装の麗人とそれを支える存在という二人の愛は確かに描き出されていた。諏訪さきのジェローデルも途中の語り部的役割をしっかり務めていた。音彩唯は、ロココの歌手としての歌唱、そして悪女ジャンヌ・バロワ・ド・ラ・モット役の演技とも、新公学年とは思えない堂々とした貫禄。
フェルゼンのマリー・アントワネットへの愛を諫めるメルシー伯爵役汝鳥伶(専科)の、一言言葉を発しただけでにじみ出るあの思いの深さ。フェルゼンのフランス行きを後押しする、スウェーデン国王グスタフ三世役の夏美よう(専科)の愛への熱さ。ブイエ将軍役の悠真倫(専科)はきっちり悪役に徹する。オスカルやフェルゼンの取り巻きの貴婦人、モンゼット侯爵夫人の万里柚美(専科)が宮廷の華やかさをふりまく。そして、モンゼットに対抗するシッシーナ伯爵夫人役で、長身の娘役杏野このみが存在感を発揮、柚美モンゼット共々舞台に滑稽さと悲哀とを描き出した。
これが退団となる野々花ひまりのロザリーはきりっと強い印象で、夢白マリー・アントワネットとのバランスのよさを感じさせた。同じく退団の希良々うみは、令嬢カトリーヌ役として宮廷を華やかに彩った。