今年のテーマは“俯瞰”(以下、観劇日時順)。

☆文楽・豊竹呂勢太夫(太夫)×鶴澤清治(三味線)×吉田和生(人形)の舞台
 令和6年初春文楽公演第2部『伽羅先代萩』<政岡忠義の段>、令和6年5月文楽公演Bプロ『ひらかな盛衰記』<笹引の段>、令和6年11月文楽公演第1部『仮名手本忠臣蔵』三段目<殿中刃傷の段>

☆宝塚星組『RRR × TAKA"R"AZUKA 〜√Bheem〜』(Based on SS Rajamouli’s ‘RRR’、脚本・演出=谷貴矢)&『VIOLETOPIA』(作・演出=指田珠子)

☆「壽 初春大歌舞伎」夜の部『寿曽我対面』の中村芝翫

☆Kバレエ トウキョウ『ジゼル』(演出・振付=熊川哲也、ジゼル=浅川紫織&アルブレヒト=堀内將平/ジゼル=岩井優花&アルブレヒト=ジュリアン・マッケイ)

☆『カラカラ天気と五人の紳士』(作=別役実、演出=加藤拓也)

☆『What If If Only−もしも もしせめて』(作=キャリル・チャーチル、演出=ジョナサン・マンビィ)

☆『Touching the Void タッチング・ザ・ヴォイド〜虚空に触れて〜』(原作=ジョー・シンプソン、脚色=デイヴィッド・クレッグ、演出=トム・モリス)

☆新国立劇場オペラ『ウィリアム・テル』(指揮=大野和士、演出・美術・衣裳=ヤニス・コッコス、合唱=新国立劇場合唱団、管弦楽=東京フィルハーモニー交響楽団)

☆「十二月大歌舞伎」夜の部『天守物語』(作=泉鏡花、演出・出演=坂東玉三郎、演出=今井豊茂)

☆『桜の園』(作=アントン・チェーホフ、上演台本・演出=ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

他に
・新国立劇場オペラ『エウゲニ・オネーギン』
・『インヘリタンス−継承−』前・後篇
・歌舞伎の片岡仁左衛門の舞台
・歌舞伎の中村歌六の舞台
・歌舞伎の中村勘九郎の舞台
・ミュージカル『カム フロム アウェイ』
・『リア王』(演出=ショーン・ホームズ)
・『カラカラ天気と五人の紳士』、『デカローグ<プログラムD>』、こまつ座『太鼓たたいて笛ふいて』出演の高田聖子
・彩の国シェイクスピア・シリーズ『ハムレット』(演出・出演=吉田鋼太郎)
・令和6年6月歌舞伎鑑賞教室『恋飛脚大和往来−封印切−』
・『ふくすけ2024−歌舞伎町黙示録−』(作・演出・出演=松尾スズキ)
・『リア王の悲劇』主演の木場勝己
・『ヴェニスの商人』(演出=森新太郎)

 2024年のインスピレーション大賞は、文楽・豊竹呂勢太夫(太夫)×鶴澤清治(三味線)×吉田和生(人形)の舞台に。
 今年もいろいろなことがありましたが、夫(年末年始は帰京中)の赴任先の福岡の地で東京での生活を俯瞰したことがこれからの活動を考える上で大いに役立ちました。岡田彰布前阪神タイガース監督に学んだ采配と演出の共通点や、父方のルーツの地、福岡県八女市での不思議な出来事などについては2025年に。
 2024年も同時代を生きる皆様に本当にお世話になりました。心から感謝!
 第1部。『瓜子姫とあまんじゃく』(作=木下順二、作曲=二代野澤喜左衛門)が非常におもしろかった。「瓜子姫は、きょうも楽しく機を織っていた。瓜子姫は機織りが何よりも好きであった」といった風に口語体がそのまま義太夫に移されていて、竹本千歳太夫の語りもかわいらしく、昔話を楽しみに聞いていた子供の時分を思い出す。あまんじゃくとは、何でも口真似をして人間をからかう妖怪――その正体は、こちらの考えていることを何でも言い当てる「山父」だと言う者もいて、「もう何も思うまい」「もう何も思うまいと思ってるだな」あたりのやりとりもおかしい――。あまんじゃくは瓜子姫をさらって木に吊るし、瓜子姫の着物を着て機を織る。その音を聞いて、吊るされながら瓜子姫が思うのが、……あんな織り方では布がだめになってしまう……ということ。吊るされながら思うことがそれ?! 、しかも、音でわかるってすごい、と。瓜子姫の窮地を知り、その心を悟ったにわとりととんびとからすが、瓜子姫と入れ替わって彼女のじっさとばっさを騙そうというあまんじゃくの企みを、鳴き声をあげてそれをあまんじゃくに真似させることで阻止し、瓜子姫は無事助け出される。そんな物語が、機織りの音をも取り入れた楽しい曲と共に語られる。――木下順二の代表作『夕鶴』においても重要な役割を果たす機織り。何でも真似をするあまんじゃくとは? 「山父」の話はそもそもなぜ挿入されているの? 沸き起こる疑問と共に、木下順二作品への興味を非常にかきたてられる作品だった。

 第2部。『熊谷陣屋の段』“前” 太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。その三味線の優しい音色が、語りも、聴く者も、その存在を丸ごとふんわり包み込んで、――そうか、そっちに行きたいのか――と、それぞれの方角へと後押ししてくれるのだった――。

(12月4日<初日>、江東区文化センター)
 第1部と第2部で『仮名手本忠臣蔵』の大序から七段目までを通しで上演(第2部冒頭に『靭猿』の上演あり)。
 第1部『仮名手本忠臣蔵』三段目<殿中刃傷の段>。太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。……どう考えても高師直(人形:吉田玉志)の言いがかりは人としておかしく、哀しい。そして、それを聞く塩谷判官(人形:吉田和生)が、その哀しさを受け流す心の余裕がなく、師直に斬りかかってしまうことも哀しい。塩谷判官が斬りつけた刀を放ったとき、――心の中で何かの堰がどっとあふれた。
 第2部『仮名手本忠臣蔵』七段目<祇園一力茶屋の段>。私にとっては、二代目中村吉右衛門の名演が心に深く残る段である(http://daisy.stablo.jp/article/485028157.html?1735559123)。ここまで通しで観てきて、おかるという女性が生に向かう姿勢に心打たれるところがあった。そして、かつて“透明な経巻”が出現したあたりに差し掛かったとき、……悔しかったのだ、ただただ悔しかったのだ……と思った。終演後、新大阪駅発の最終の新幹線に乗るべく夜の街を歩く私の目に飛び込んできたのは、「播磨屋」(中村吉右衛門の屋号でもある)の看板だった。

(11月11日、国立文楽劇場)
 太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。斬りかかる刀のシュッ、シュッという音を、腰元お筆(人形:吉田和生)やお筆の父鎌田隼人(人形:吉田玉佳)自身が聞くものとして聞いた。命の音――命なくして、音を立てることも音を感知することもできない。
 この段において、お筆の仕える山吹御前も、その若君と取り違えられた子も、父隼人も命を落とす。一人生き残ったお筆が、笹を切り、その上に主人の亡骸――父の亡骸ではない――を乗せて引いていく終幕、多くの命の喪失の中で、それでも何かを生き永らえさせんとした人々の命の強さを見た。

(5月13日16時の部、シアター1010)
 <酒屋の段>“中”の竹本三輪太夫には、そのとき語られているところの人形と対峙しているかのような思いに、“切”の竹本錣太夫には、そのとき語られているところの人形そのものになったような思いに。“奥”太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。語りと三味線の音色によって表現される半七嫁お園(人形:桐竹勘十郎)の艶っぽいこと。その艶っぽさと、夫半七が結婚前からの愛人三勝との間に成した子供への愛情のバランスが絶妙。――自分自身が人形となり、三味線の音色に遣われているような思いにとらわれた瞬間があった。
 余談。今年「三勝ゆかた博物館」を訪ねたところ、宝塚歌劇団の『モン・パリ〜吾が巴里よ!〜』にちなんだと思しき“モン・パリ”ロゴ柄ゆかたがあったりしておもしろかったのですが、「三勝」の社長の方は『艶容女舞衣』にちなんで代々「半七」を襲名するそうな。
 第2部『伽羅先代萩』<政岡忠義の段>。太夫:豊竹呂勢太夫/三味線:鶴澤清治。「いざというとき、立派に私の言いつけを守った(注:結果、毒見をして死んだ)息子千松、えらい。そのようにしつけた私も」。あんなに業の深い乳人政岡(人形:吉田和生)を初めて観た。

 第3部『伊達娘恋緋鹿子』<火の見櫓の段>。恋する吉三郎の命を救わんがため、偽りの鐘を鳴らすとき、娘は、男の命を生み出す“母”となる――吉田勘彌の遣う娘お七に目を拓かれた。

 久方ぶりの大阪・国立文楽劇場、関西弁飛び交う街から劇場に飛び込んでの観劇が楽しく。
 原作はきむらゆういちのロングセラー絵本『あらしのよるに』、脚本=今井豊茂、演出・振付=藤間勘十郎。
 他者との共存、憎しみの連鎖を断ち切るといった作品のテーマの普遍性を伝える上で、恐怖心を超えて狼がぶ(中村獅童)と友情を結ぶ山羊のめい役の尾上菊之助の演技がとてもよかった。優しさの中にきりりとした意志を秘め、跳ねる仕草もかわいらしく、中性的に造形したのも◎。がぶ役の獅童は実にサービス精神旺盛だったけれども、もう少し淡々と演じてもその大らかな魅力は伝わるように思う。狼ぎろ役の尾上松緑はひびのこづえの衣裳もよく似合い、これまでも舞踊作品等で感じてきたことだが、動物役に強いところを見せた。狼がい役で河原崎権十郎が渋さを発揮。

(12月21日11時の部、歌舞伎座)
 昼の部。『一本刀土俵入』(作=長谷川伸、演出=村上元三)――それでもなお人の世を信じたくなる、しみじみ心に染み入る舞台。<序幕 第一場>ではお蔦(中村七之助)が舞台にいて、お蔦がなぜ自分にそんなにも優しくしてくれるのかわからない駒形茂兵衛(中村勘九郎)が花道を去っていく。<大詰 第三場>では、その前場まで久しぶりに会った茂兵衛が誰かわからず、なぜ茂兵衛が自分にそんなにも優しくしてくれるのかわからないお蔦が家族と共に花道を去っていって、茂兵衛が舞台にいる。巧みな対称性を感じた。
 中村米吉が踊る『藤娘』を観ていて、藤の精が登場する作品があるということは、藤を見てそこに精がいると感じた人がいるということなのだろうと思った。観劇後、とあるところで、本当にたまたま、藤と密接に関わる仕事をしている方と出逢う機会があったので、「藤の精、いますか」と尋ねたところ、――いるようである。

 夜の部。『鎌倉三代記 絹川村閑居の場』。安達藤三郎実は佐々木四郎左衛門高綱役の中村勘九郎が見せる、役者としての愛嬌。
 『お染の七役』で、性別も身分も超えた七役を早替りで演じる中村七之助を観ていて(自分と自分で婚約していたりする)、キャリル・チャーチル作、ジョナサン・マンビィ演出『A Number−数』のことを思い浮かべていた。『A Number−数』では、堤真一演じる父親ソルターに対し、瀬戸康史扮する息子のクローン3人が登場する。クローンの話か、難しい……みたいに思ってしまっていたけれども(実際難しくはあるのだけれども)、七之助がまた違った役で出てきたわよ! みたいなワクワク感をもって観劇してもよかったかもしれない、と思った。
 鳶頭=片岡仁左衛門、芸者=坂東玉三郎。二人は2021年の「二月大歌舞伎」(歌舞伎座)でもこの演目を踊った。そのとき、劇場空間全体に巨大なハートが出現したかのように感じた――よく観ると、その巨大なハートは出入りが自由自在にできるようになっていて、バレンタインデーのある月にぴったりの舞台だな、と。そして今年4月の『神田祭』。今度は、二人がハートを合わせ、観客一人一人のハートを狙ってズキュンと撃ち込んでくるかのようだった!
 「四月大歌舞伎」昼の部『夏祭浪花鑑』で、釣船三婦役の中村歌六が、見えない蚊をピシャリとやった。――それでわかった。大坂の夏の暑さ、その不快さが、演目を貫く大きな柱なのだと。
 人のセリフを受けているときも、にじみ出てくるものが実に多い。でも、その情報量に圧倒されるということはない。整理整頓された引き出しのようなのである。接する人によって、必要なものが瞬時に「はい」と出てくるような。