宝塚星組公演「ベルサイユのばら」再び(霧矢オスカル版)[宝塚]

 というわけで、またもや行って来ました宝塚大劇場。星組「ベルサイユのばら」を昼、夜と観劇。役替わり中心に感想を記すと、この日のオスカルは霧矢大夢。お目目ぱっちり、まるでフランス人形のようにかわいらしいオスカルで、原作で特に女らしさをこめて描かれている場面の表情を思い出させる。声のトーンは上げつつも、男役を演じるときと同様の涼やかでりりしいセリフ回しで、男装の麗人ならではの相反する魅力を表現。朝海ひかるが、己の運命を敢然と受け入れてしまった者の孤高を描き出して観る者に畏れと憧憬の念を抱かせるのに対し、霧矢の場合、運命を受け入れるまでの過程における苦悩の表現が実に人間的で共感を誘う。自らを支え続けてきてくれたアンドレの気持ちを受け入れることが、戦う運命を受け入れる決心を下す上でも大きく作用しているように見えるだけに、愛する者を失ってなおも奮い立ち、戦いへと身を投じて死んでゆく、その最後に「アンドレ、お前はもういないのか」とつぶやく、その喪失感はあまりに深い(オスカルとアンドレの一心同体感がより宿命的なものとして描かれていた朝海オスカルバージョンの場合、このセリフは、「お前が死んでしまった以上、私がここで死ぬこともまた運命なのだろう」と聞こえ、その静かな諦念が心に響く)。
 そして、オスカルが変わったことで、安蘭けいのアンドレも、朝海オスカルバージョンとは別人?と思えるほど演技が変化していて、慄かされるものがあった。相手が変われば当然のことかもしれないが、これだけのハードスケジュールの中で、そこまで緻密に演技を組み立てていっているとは…(先日までの貴城けいオスカルバージョンを見逃したのがつくづく残念でならない)。シャープで硬質な持ち味の朝海オスカルに対しては、眼光あくまで鋭く、切れ者感をみなぎらせていたが、ほんわかとした雰囲気の霧矢オスカルに対しては、見守る様も笑い声も春の木漏れ日のように温かい。私のように甘えのある人間を愛してくれるのか…とのセリフに対する反応も、霧矢オスカル相手だと、「何を今さら。そういうところが好きなんじゃないか!」と、笑いこそ取っていないもののまるでボケに対するつっこみのよう。水夏希と大空祐飛、残る二人のオスカルに対しては、いったいどんな演技を見せてくれるのだろう。
 オスカルの愛の告白を受けての、「俺は今日まで生きてきてよかった」というセリフの表現も、ちょっと呆然としてしまったほど奥が深い。普通に演れば、「想いが叶う日まで生きてきてよかった」になるところ、安蘭アンドレの場合、昨日までの自分の不幸を発見してしまったセリフになっているのがすごい。昨日までの自分は、相手を一途に想い、その想いを胸に秘めているだけで幸せだった。幸せだと思っていた。しかしながら、心が通い合った今、胸いっぱいに広がる幸せと来たらどうだ。昨日までの“幸せ”など及びもつかないほどの、この至福。そして、昨日までの自分は、人生にこんな幸せがあることを知らないほどに、不幸だった――。だから、「今日まで生きてきてよかった」のである。愛を知った人間の心のうちをここまで微細に描き出してしまう演技に、ただただ感服。

 宝塚の「ベルサイユのばら」という作品にはやはり魔力があると思う。作品の本質について、そしてその真髄を舞台上に描き出そうと心を尽くす出演者の演技について考えていると、止まらなくなってくるところがある。宝塚、そして「ベルサイユのばら」の魅力はセットで考えるべきものだろうし、そのように考えることによって、宝塚が多くの観客をひきつけてやまない本当の理由が少しずつ見えてきたように思う。舞台をご覧になっていない人、宝塚というものに興味がない人にとっては「何のこっちゃ」という感じかもしれませんが、せっかくの機会なので、「ベルサイユのばら」、そして宝塚歌劇の魅力について、いま一度とことん向き合ってみようと思います。その過程で、今までまったく興味のなかった方にも、「ん? 何だかすごいんだな」と思って頂けたら幸いです。