「さよなら」だけが人生ならば〜宝塚歌劇星組公演「愛するには短すぎる」「ネオ・ダンディズム」[宝塚]

 「愛するには短すぎる」「ネオ・ダンディズム」は、この公演をもって宝塚を退団する星組主演男役・湖月わたるへの惜別の念がこめられた公演である。
 「愛するには短すぎる」は、豪華客船での四日間の旅で二十年ぶりに再会した幼なじみの男女が、互いの心のうちにある愛を確かめ合いながらも、それぞれの境遇ゆえに貫き通すことはできず、別々の人生を生きてゆくことを誓う…という筋のミュージカルで、セリフの端々に至るまで、湖月をはじめとする退団者十名を送り出そうという観客、星組生、劇場スタッフの想いがあざやかに取り込まれ、重ねられている。レビュー「ネオ・ダンディズム」には“惜別”と銘打たれた場面があり、ここでは湖月が一人ひとりと、出会えた幸せを分かち合い、別れを惜しむダンスを繰り広げる。
 日に日に惜別の想いがいや増すその舞台を観ていると、“入団”という名の出会いと“退団”という名の別れを九十余年の長きにわたってくりかえしてきた宝塚という劇団には、人の出会いと別れを描く一連の作品群が存在すること、そして、見目麗しい男女の恋物語と並んで、いや、おそらくはそれ以上に、この分野を得意としてきたことに改めて気づかされる。今回の「愛するには短すぎる」は、作・演出を手がけた正塚晴彦の巧みな作劇、そして、主演コンビの湖月わたる&白羽ゆり、次期主演男役の安蘭けいをはじめとする星組生が、何気ない日常のドラマを紡ぐ市井の人々を実に生き生きと演じていることもあり、出会いと別れを描くそんな作品群の中でも秀作の一つに位置づけられようことは間違いない。
 船上における出会いと別れを描いたこの物語には、宝石盗難事件の犯人捜査の顛末もからみ、親友同士として登場する湖月と安蘭の絶妙なかけあい、楽しいナンバーの数々による軽妙な展開もあって、前半は笑いのうちに進んでゆく。しかし、白羽演じるヒロインが、結ばれぬ運命に思いを馳せ、「私達、どうして会ったのかな」と吐露するあたりから、ムードは一気に感傷的なものへと変わる。その問いに対し、湖月扮する主人公は、「でも、会わなかったら」「僕はこんなにも君を思うことはなかった。(中略)君に会えたから、僕は気づかなかった沢山のことを知ったよ。自分のことも、人のことも」と答え、「でも苦しいよ」と返すヒロインに、「うん、苦しいよ。だから一緒にいよう」と告げる。
 別れの瞬間が来るまでの、少しでも長くその時間を引き延ばしていたいような、でも、あまりの痛みゆえに早く過ぎてほしいような、何ともやりきれなく胸にわきあがる想いを、その後の物語は丹念に描き出す。そして、「笑うまで行かない」「じゃあ、笑わない」のやりとりの後、ヒロインは主人公の頬をつかんで無理やり笑い顔を作り、彼の前から去ってゆく。そんな彼女の背中に主人公が投げかける「幸せになれ」はそのまま、劇場に集う人々が共有し、宝塚を去る湖月へと投げかけ返す言葉でもある。
 人と人はなぜ出会うのか。そして、なぜ別れのときはやってくるのか。物語に見入るうち、そんなせつない問いが、どうしようもなく胸のうちに押し寄せてくる。例えば、なぜ、私たち観客は湖月わたるという男役に出会ったのか。そして、なぜ今、彼女演じる男役に別れを告げることが、こんなにもせつないのか。何も湖月に限らない。宝塚の舞台を通り過ぎていったすべての生徒に、その問いは当然当てはまる。
 無論、それは何も、宝塚という場に限られた問いではない。生きとし生ける者は誰でも、出会いと別れを繰り返して日々を生きている。それは人生における必然でしかない。井伏鱒二による漢詩「勧酒」の名訳を借りるならば、「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」ということなのである。出会い、別れとはっきり認識できるかどうか、共に過ごせる時間の長短、密度、そうした違いはあれど、そのことを日々、意識して生きているかどうかに過ぎない。入団、退団という、学校制度にも似た宝塚における出会いと別れのシステムは、日々の生活の中で漫然とやり過ごしているそんな人生の真理をクローズアップし、目の前に突きつけてくる。
 人が、生まれ、死にゆく生き物である以上、どんなに身近な、親しい人間とも、いつか必ず別れのときはやって来る。究極的には、死によって。そのことを思えば、これまで経験してきたすべての出会い、これから経験するすべての出会いが愛おしく、これまで経験してきたすべての別れ、これから経験するすべての別れを思って胸がしめつけられるように苦しい。しかしながら、その愛おしさと苦しさの前に、我々には、縁あってその都度めぐりあった人々に、心の限りを尽くして向かい合うことしか残されてはいない。そして、すべての人々にそのように接することができたならば、どんなに時間の限られためぐりあいも、どんな人生も、“愛するには短すぎる”ことは決してないのだろう。湖月をはじめとする退団者と共に創りあげる最後の作品の一瞬一瞬を愛おしみながら、ありったけの想いを込めて舞台を務める出演者たちの姿を観ていると、そう感じずにはいられない。
 それにしても愛は、注がれたその瞬間に等分の愛情でもって返されることはきわめて稀である。多くの場合、多寡の違い、時間のズレが生じ、それはときに悲劇とも喜劇ともなりうる。しかし、ときたま、向かい合う両者の愛がそのままつりあう、奇跡のような瞬間が訪れる。例えば、日本ハムファイターズが日本シリーズを制した夜、札幌ドームを埋め尽くしたファンと、この日で野球界を去る新庄剛志の間には、愛が確かに交わされていた。どのような分野であれ、無数の人々から注がれる愛にたった一人で応え、愛を存分に返しきれる者こそ、真の意味でのスターなのだろう。
 「ネオ・ダンディズム」の終盤、万感の想いを込めて一人踊り、銀橋へと出てきて客席に深々と頭を下げる湖月わたると、鳴り止まない拍手でもってそれに応える観客、その間にも、愛は確かに交わされている。男女の恋物語に仮託して、人と人との間に愛が通う奇跡の瞬間を描き出してきた宝塚とは、夢の世界を去りゆく者をそうして送り出してきた場所なのである。