朝海ひかるの奇妙なさよなら〜宝塚歌劇雪組公演「堕天使の涙」「タランテラ!」[宝塚]

 先の星組主演男役・湖月わたるの「愛するには短すぎる」「ネオ・ダンディズム」が宝塚の王道中の王道を行くさよなら公演だとするならば、雪組主演男役・朝海ひかるの退団公演には新機軸の二作品が並んだ。
 「堕天使の涙」、「タランテラ!」共、朝海に求めているイメージが人間ではないもの、人間という存在を超えたものであるということは共通している。「堕天使の涙」で朝海が演じるのは天国を追われた堕天使ルシファーだが、主演男役としてのキャリア、演者としての格からして役不足である感は否めない。天使と悪魔が共存するキャラクター自体は朝海のイメージに合うが、宝塚での集大成となる舞台ならば、生死や善悪を司るようなより大きな存在――例えば、「エリザベート」のトートのような――を与えてほしかったところだ。作品的には、登場人物たちが皆多分に他力本願で、絶対的な存在による救済を待ち望んでいるあたりがひっかからないでもないが、少なくとも、作・演出の植田景子が、そのような救いの手がかりになり得る夢を宝塚歌劇というメディアに見、その舞台に現出させたいと考えていることは確認できた。
 さて、問題は「タランテラ!」である。ここで朝海は、スペイン〜アルゼンチン〜アムステルダム〜大西洋〜アマゾンと彷徨うタイトルロール――毒蜘蛛――に扮し、“舞踏曲”“舞踏”をも表すその言葉にふさわしく、フィナーレにおいて八分間にも及ぶダンスマラソンを繰り広げる。“問題作”という言葉がこれほどまでにぴったり来る作品もなかろうと思われるこのレビューは、作・演出の荻田浩一が一人のクリエイターとして、朝海ひかるという表現者に突きつけた過酷な挑戦状である。
 二つの作品において与えられた役柄からも明白なように、朝海ひかるは“非人間性”の表現に長けた男役である。その種の役柄を多く与えられて輝いてきた彼女の、主演男役となってからの当たり役は文句なしに、今年、「ベルサイユのばら」で演じたオスカルに他ならない。オスカルに扮した朝海は、男とも女とも、人間とも天使ともつかない存在として立ち現れ、ペガサスに乗って空まで飛んでみせた。朝海のように、己の中から人間性の痕跡を留め得ぬほどに消し去り、“非人間性”を体現した者は、観る者が抱いた自由気儘なイメージの投影体、プリズムとなることができる。だからこそ、朝海オスカルは、性別も、人間性も超えた、それゆえにこの上なく蠱惑的な存在として、「ベルサイユのばら」という宝塚の象徴的な作品で光り輝き、世界広しといえども宝塚でしか味わえないであろう醍醐味で観る者を魅了した。
 そんな朝海の持ち味を確信犯的に生かした実験作が、「タランテラ!」と同じ荻田浩一の作・演出による、朝海ひかるバウ・スペシャル「アルバトロス、南へ」であった。退団イベントの一つとして上演されたこの作品で、荻田は、朝海がこれまで宝塚において演じてきたさまざまな役柄をコラージュし、とあるイメージを体現したかと思いきや瞬く間にそれを裏切って次のイメージへと移り変わる、そのプリズムとしての魅力を大いに引き出してみせた。
 「タランテラ!」で荻田はさらに進んで、朝海のプリズムとしての強度を極限まで試す。だから、この作品では、大まかな場所の設定はあれど、舞台美術等においてほとんど具象が省かれている。具体性に頼ることなく、自らの身一つをもって、どれだけその場を舞台上に現出せしめることができるか。それがまずは朝海に課せられた責務である。さまざまなイメージを生き、それを瞬時にすり抜けて次のイメージへと身を委ねる、その目まぐるしい連続を体現してゆく朝海を観ていると、己の意識がいったいどこに連れてゆかれるのかわからない――行き着く果ては、この世には到底存在し得ない場所なのかもしれない――という、途方もない不安感と浮遊感、高揚感に襲われずにはいられない。
 そして、問題のフィナーレにおいて、荻田は朝海の体力の限界を試すかのような壮絶なダンスマラソンを課す。後ろで踊る人々がいれかわりたちかわり現れては去る中で、朝海一人は舞台に残り、ひたすらに踊り続ける。ここが無論、“非人間性”を志向する表現者としての朝海に、荻田がクリエイターとして突きつけた最大の挑戦であることは言を俟たない。
 要するに荻田は、「タランテラ!」という作品において、朝海が是とする“非人間性”の追求を、己の限界を超えた次元まで押し進めよ、ただし、骨は拾ってやるから――すなわち、限界を超えて追求された“非人間性”が体現すべき美については、自分がクリエイターとしてのすべてをかけて責任をもつから――と、朝海に挑んでいるのである。そして、このような舞台を務めている以上、朝海は一人の表現者として、勝負を受けて立ったのである。その壮絶な勝負の根底に流れるものは無論、互いへの限りない信頼と、だからこそあまりに厳しい愛に他ならない。
 朝海としても、まさに宝塚でのラストステージにふさわしい作品を与えられて、嬉しかったはずなのである。「ベルサイユのばら」の公演の前、彼女にインタビューする機会を与えられたとき、「群舞でもいいからバスティーユの場面に出たかった」と興奮を隠さない様子を目の当たりにして、いつものクールな態度とのギャップに正直驚かずにはいられなかったが、「タランテラ!」を観た今では、その熱狂の意味がわかるような気がする。朝海はあのとき、己の志向する“非人間性”とその生き方の方向性とが合致するオスカルという役を演じられるのが、心底嬉しかったのだろうと思う。はたして彼女は「ベルサイユのばら」において、“天使”オスカルを見事体現してみせた。ましてや、一人の役者のためというよりは、宝塚全体のために上演される部分も少なくない「ベルサイユのばら」とは異なり、「タランテラ!」は、朝海ひかるのために特別に創られた、カスタムメイドの作品なのである。嬉々として身を削って完全燃焼しようというものである。
 朝海ひかるは踊り続ける。その熱狂こそ、まさに“タランテラ〜舞踏病〜”の名にふさわしい。そして、その熱狂に、“朝海ひかる”という男役をこの世に存在せしめている人間が、逆説的に透けて見える。細身の身体をさらに細らせてまで踊らずにはいられない、そのようにしてまで“非人間性”を追求せずにはいられない一人の人間が。ここに、宝塚における朝海ひかるの“非人間性”の追求、イメージの完璧なプリズムであらんとする挑戦は完成を見る。八分間を踊り終え、静かに大階段を昇ってゆく朝海ひかるを観ていると、このような作品世界を成立せしめる男役は二度と現れることはないかもしれない…という惜別の思い、そして、荻田浩一というクリエイターが、朝海ひかるという表現者をそれほどまでに愛していたという事実が同時に胸に突き刺さる。二人の真っ向勝負は、二人の勝利で締めくくられる。
 こうして朝海ひかるは奇妙な形で宝塚に別れを告げる。しかし、クリエイターと表現者がここまでの真っ向勝負を繰り広げてしまったそのさよなら公演は、宝塚の舞台における表現の可能性を、二度とは戻れない境地にまで大きく押し広げてしまったのである。