執事に色気は必要か〜宝塚月組「ME AND MY GIRL」“心のキャラ”に見る重要問題[宝塚]
 月組日生公演も始まった今、一体いつの話だ…という感じですが、よろしければおつきあいいただければ。

 7月6日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444366.html)で発表したように、月組公演「ME AND MY GIRL」の“心のキャラ”に輝いたのは、主人公ビルを跡継ぎとして迎えるヘアフォード家の執事、越乃リュウ演じるヘザーセット。授賞? 理由はもちろん、ビルを主人として迎える際も、その当主らしからぬ行状を嘆いて歌う際も、どんなに真面目な立ち居振る舞いをしていようともにじみ出てやまないその色気。イギリスを代表する名門ヘアフォード家、なかなかに艶やかな執事を雇っている。
 下町育ちのビルを主人と呼ぶことに不満を抱く使用人たちには突き上げられ、自分の結婚式に出席したことすら忘れてしまうような雇い主一家の面々には振り回され、セクシー執事の悩みは尽きることがない。日々ストレスも多いだろうに、一体どうやって解消しているのだろうか。意外と言っては失礼かもしれないが、愛妻家らしいのもポイント高し。「ヘアフォード家の真実」なる記事や暴露本(タブロイド文化のイギリスっぽいでしょ?)の執筆を目論むジャーナリストがいたとしたら、ヘザーセットは絶対にネタ元として押さえておきたい最重要人物。しかしながら、ヘザーセットは忠誠心と執事としてのプライドゆえ、一言も秘密を漏らさないと思いたい(パーチェスター弁護士あたり、金であっさりなびきそうではあるが)。

 と、ついつい想像を逞しくしてしまった越乃ヘザーセットなのだが、その色気に見入るうち、とある重要な問題に気づかされたのであった。
 はたして、執事に色気は必要か。
 考えてみるに、私は本物の執事というものを実際に見たことがない。執事とは、文学や映画、舞台作品などでのみ知る存在である。だから、イメージとしての認識しかない。主人のそばに控え、あまり感情をあらわにせず、黙々と己の仕事をこなす、いうなればかなり地味な存在、そんなイメージ。だから、執事にはまず、色気は必要ないように思えてしまう。
 宝塚以外の舞台において上演される場合も、基本的には、そのようなイメージに基づいてキャスティングされる場合が多いのではないかと思う。しかし、はたして、執事とは本当に、私のイメージするような人間として演じることがベストなのか。そしてまた、イメージにそのまま合っているとされる役者が演じることがベストなのだろうか。それは、演じるという行為にあらかじめ限界を設け、人間ではなく、イメージを演じるに過ぎない状態に陥らせているのではないか。さらに、究極的には、現実社会において執事を務める者が、旧来のイメージを“演じて”しまうこともあり得るのではないか。執事に色気は必要か。事は、“演じる”という行為の本質にかかわる大問題なのである。
そんなことを考えたのも、ちょうど「ME AND MY GIRL」上演中に出張がてらブロードウェイに足を運び、いくつか作品を観劇するだに、「若い役は若い人が、男の役は男が、ある人種の役はその人種の人が演じるというのは、“演じる”という行為にあまり広がりがなくて、つまらなかったりもするんだな」と感じたからである。自分は若いから、そのままの自分で若い役柄を表現できる、それは当然ある程度までは可能だろうが、若さがそのまま投げ出されても、それ以上の奥行きが感じられない場合が多いのである。先月アップした大空祐飛の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444372.html)でも論じたあたりだが、つまりは、単に若さがそのまま投げ出されているのと、若さについての役者の思考がその肉体を通じて表現されているのとでは、深みが違ってくる。ときに後者の方が、より重層的に“若さ”を表現し得るのである。
 いわゆる執事のイメージに合う役者がいて、執事役を演じる。自分は執事のイメージに合っているのだからと思ってしまえば、そこで思考停止であって、それ以上の創意工夫は見られないだろう。敷衍して考えてみれば、男役以外の存在が海外ミュージカル作品の男性キャラクターを演じてときに見せる悲惨な様相も、この手の絶望的な思考停止に起因するように思えてならない。女より男の方が男をより魅力的に演じられるとは限らないのである。
 歌舞伎と宝塚の国に生まれた私は、男が女を演じ、女が男を演じ、日本人が世界のありとあらゆる国の人間を演じる可能性のあることを、おもしろいと思う。それだけ多くの思考のベクトルが、“演じる”という行為によって観られることに、わくわくする。私は、「色気がある執事がいても、おもしろいよな」と考えてしまう人間なので、月組新組長・越乃リュウが色気ムンムンの執事を演じる姿が観られたことは、実に意義深かったと思うのである。