ピポーの単純〜宝塚星組「スカーレットピンパーネル」その9[宝塚]
 “二面性”なる言葉は通常、人間に対してはあまりいい意味合いで使用されなかったりする。「スカーレットピンパーネル」においてそれを端的に示しているのが、ピポー軍曹の存在である。
 物語冒頭の銀橋で、ピポーはみすぼらしい老人に対して、まずは強圧的な態度に出る。老人がペストで死んだ家族を焼き場に運ぶところだと答えると、ペスト感染に恐れをなして顔色を変え、さっさと立ち去れと命じる。老人が変装を解いて、観客は、彼こそが、物語のヒーロー、パーシー・ブレイクニーであることを知る。
 直後、パーシーとピポーはパリ市内で再び出会う。ピポーは、自分より力をもった公安委員のショーヴランに対してこびへつらうが、先の老人が実はスカーレットピンパーネルであり、死体と偽って貴族を逃亡させたのを見逃したことを叱責され、悔しさにまみれる。その刹那、ピポーとパーシーは再会を果たすが、変装を解いたパーシーを、ピポーは先の老人と認めることはできない。
 己より力ある者に対してはペコペコし、己に力劣る者に対しては威圧的に出る。ピポーの二面性は、実に単純でわかりやすい二面性である。しかし、この二面性は、実はそれ以上の意味合いを示唆してもいる。接した相手の力のあるやなしやで態度を変えるということを超えて、己がそうして態度を変える人間であることを周囲の者に悟られても構わないと思っている、もしくは、悟られまいとたかをくくっている、その程度の人間性の持ち主であるということをも示唆しているのである。
 このピポーの二面性は、パーシー・ブレイクニーの二面性、多面性の対極に位置している。パーシーが多くの顔を持つ、あるいは持たざるを得ないのは、世界中を敵に回したとしても果たさなくてはならないと思っている崇高な使命を成し遂げるため、愛する者を守るため、自分の心の奥深くに秘めた想いを守るためである。パーシーの“演技”はすべて、その目的のために必要なものである。
 単純と言ってしまったが、ピポーのようなわかりやすい二面性を表現する上では、その二面性を明確に演じ分ける力が必要である。9月18日の項(http://daisy.stablo.jp/article/448444391.html))でも少し触れたが、ピポー軍曹を演じる美稀千種は、優れた身体性を演技に効かせることのできる、つまりは、メリハリの効いた演技のできる男役である。接する相手によってあからさまに表情や身体のありようを豹変させる、その演技なくして、パーシー・ブレイクニーとのコントラストは成り立たない。
 パリの街、対照的な二人の男が二度、交錯する。二面性を露呈してやまない男と、心に二面性を抱えた男と。“演技”をめぐる物語の、実にあざやかな幕開けである。