二人のオベリスク〜宝塚星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」「ネオ・ダンディズム!V」[宝塚]
 これは、本当に「ベルサイユのばら」なのだろうか。いくら「外伝」と銘打ってはいても、あの、様式美で見せていく度合いのきわめて高い作品群と本当に地続きの世界なのだろうか――。星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」を観劇しての偽らざる感想である。
 2006年の星組東京公演「ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−」の一場面、安蘭けい扮するオスカルが、武器を取り、市民と共にバスティーユで戦おうと呼びかけるシーンを思い出す。様式美の世界で敢然と人間を生きようとするその姿から立ち昇る生体エネルギーの美しさに、はっと胸を衝かれた覚えがある。それから約三年。「ベルサイユのばら」は、登場人物全員がリアルにヴィヴィッドに人間を生きる舞台となって我々の前に姿を現した。
 宝塚歌劇とは決して、美しく着飾った人形のような役者たちが、夢の世界でしかありえないような恋物語を演じる場所ではない。男役、娘役という、宝塚歌劇にしか存在しない手法を用いて、舞台上に人間の真実の姿を具現化しようとする場所である。それが、主演男役に就任して以来、安蘭けいが舞台を務める中で心を砕いてきたテーゼに他ならない。
 そのテーゼは、「ベルサイユのばら」という様式美の世界においてさえ全うされることとなった。リアルによる、様式美の超克。それはほとんど、革命である。「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」は、安蘭けいが主演男役となって宝塚に残した軌跡の一つのメルクマール、作中の言葉を借りるならば“オベリスク(記念碑)”なのである。

 新聞記者でありながら、義賊“黒い騎士”となってベルサイユ宮殿にまで忍び込み、革命後のフランスの有様を嘆いてナポレオン暗殺に向かおうとする血気盛んな主人公ベルナール。書く人間として彼が抱える苦悩には多分に共感するところがあり、別項を設けて論じることとしたいが、今回、安蘭演じるベルナールの人間像が集約されているのが、後に妻となるロザリーに向かって言う、「好きになっても、いいか」とのセリフである。
 貴族である父と、その囲われ者である貧しい商家出身の母との間に生まれたベルナールは、五歳の時、父に新しい愛人ができたため、住んでいた家を追われ、母のセーヌ川への入水自殺の道連れとなり、自分だけ生き残ったというトラウマを抱えている。新聞記者となってから後、ベルナールは貴族の馬車に母を引き殺された幼き日のロザリーの面倒をいっとき見るのだが、そんな二人はオスカルの邸で再会を果たし、惹かれ合ってゆく。
 「好きになっても、いいか」。そう口に出して言わねばならない必然が心に生まれた時点で、もはや想いはいかばかりかと思わずにはいられないのだが、この上なくナイーブなこのセリフを、安蘭ベルナールは、もし断られたとしたら消え入る他ない――とでもいうように、決死の覚悟を振り絞って、発する。その様相が、彼が心に抱えたトラウマの深さ、それだけのトラウマを抱えざるを得ない心の優しさを物語る。義賊として大胆にもベルサイユ宮殿にまで忍び込み、ときに荒々しい物言いと振る舞いで相手を圧倒しようとする彼は、実のところ、オスカルに見破られてしまうように、どこまでも優しい心の持ち主である。自分の胸の中で母の死に震えて涙する少女の痛みを我が事として感じてしまうほどに。
 そのベルナールが、武器を取らねばならないと市民に呼びかけ、バスティーユに向かい、戦う。優しさとどこまでも比例する想いの激しさに、嘆息する。優しい人間が戦う、それは、相手を倒すためではなく、自分の愛する者、大切なものを守るときだけでしかない。
同じ痛みを抱えた人間だからこそ、人生を共有できる。そう感じたからこそ、ロザリーに「好きになっても、いいか」と愛を打ち明けたベルナールは、後に彼女の“裏切り”に遭うこととなる。彼に生きて書き続けてほしい妻、そして友人の愛から出た“嘘”ではあるのだが、裏切られたと思った際のその怒りの激しさも、この人ならばと信じた妻への想いの深さに比例している。
 思えば、主演男役となって以来、安蘭がその舞台で一貫して現出させてきたのは、傷ついた魂の愛による再生に他ならない。その意味でベルナールは集大成ともなる役柄だったと言えよう。

 「エル・アルコン−鷹−」の女海賊、「スカーレットピンパーネル」のフランス人女優、宝塚の娘役らしからぬ役柄が続いてきた遠野あすかだが、今回のロザリー役で、娘役の正統も十分行けるところをアピールしてみせた。とはいえ、そこは娘役の領域を拓いてきた彼女のこと、いかにも娘役らしいたたずまいの中に、恋人となる前のベルナールにちゃっかり嫌味を言ってのける毒や、終幕、生きて書き続けるよう夫に諭す場面の真剣度合いに見え隠れするような人間味をきちんと用意している。
 安蘭と遠野のコンビは、その実力からか、宝塚を逸脱しているかのように言われることもあったように思うが、芝居においても、ショー「ネオ・ダンディズム!V」のデュエット・ダンスの場面等においても、二人が寄り添う姿は、宝塚のトップコンビの一つのあり方として立派に成立していた。逸脱とは、全うの果てにしか現れない境地であることを改めて思う。

 雪組ジェローデル編、花組アラン編、そして来年二月の中日劇場での宙組アンドレ編と、連作となっている外伝シリーズのつなぎ役を担ったのが、他二作品の主人公であるアンドレとアランを二役で演じた立樹遥である。好演で、前二作からのバトンを受け、宙組編へと渡す重責を見事に果たした。
 眼帯をしていて表情が見せにくい上、ほとんど受ける芝居ばかりと、アンドレ役としては決して見せ場は多くない。しかしながら、「私の愛に墓標はない」とオスカルへの愛を高らかに誓う「愛の墓標」の歌唱は実に心に染みるものだった。ここでオスカルへの愛の深さを存分に表明するからこそ、後にアラン役として登場した際、いきなりオスカルへの愛を語っても、観る側として自然に想いを重ね合わせられるところがある。アラン役としても、ナポレオン暗殺を言い出すベルナールと対峙する一場面しか登場しないのだが、ベルナールの本気につい自らの暗殺計画を明かしてしまうあたり、そして、暗殺に同行すると言って聞かないベルナールを止めきれない苦悩の心理が自然に流れ、生きて自分たちの想いを語り継いてほしい…とベルナールに諭す手紙、声だけの場面に説得力がいや増す。
 涼紫央が演じたオスカルは出色の出来だった。りりしさとかわいさ、潔さと優しさのバランスが絶妙で、彼女を取り巻く人々への愛にあふれていて、今回の外伝では流れなかったものの、名曲「愛あればこそ」を主題歌とする「ベルサイユのばら」が何より愛の物語であることを思い起こさせてくれた。アンドレと愛を確かめ合う名場面“今宵一夜”こそないものの、立樹アンドレに向かって、お前の存在あってこその自分…と語るセリフが、どんなに鈍いアンドレでも愛されているだろうと気づかなければおかしいというほどに、愛が深い。
 そして、粋で洒脱。ベルナールを盗賊扱いせず、盗んだ品物の代金を払えと言ってトランプを投げるシーンの小気味よさと言ったら。一歩間違えればキザなだけにしか見えない場面の、ギリギリでの造形。盗賊として自分の前に姿を現したベルナールの言葉に本気で耳を傾け、彼を終始一貫して対等に扱う人間性の大きさも光る。女でありながら男装して生きざるを得ないオスカルという役どころは、言うまでもなく、宝塚の男役という存在と多分に重なり、男役としての一つの決意表明として作用するところがある。涼オスカル、ここに堂々の決意表明である。

 今回の心のキャラは、万里柚美扮するコンティ大公妃に。
 黒い騎士に宝石を奪われたと言って騒ぐ貴婦人達の間に割って入る大公妃。「危険な関係」の如き華やかな宮廷恋愛遊戯にふさわしき麗しい貴婦人ぶりなのに、宝石の一つや二つでがたがた騒ぐなんて貴族らしくないと片付け、あまつさえ、オスカルに責任が降りかかるのが申し訳ないから盗難などなかったことにしてしまえと言ってのける始末。その論理の展開に、思わず目がテン! しかしながら、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」ばりのこの無邪気さ、そして貴族としてのどこか悲しいまでの矜持の持ちようが実は、マリー・アントワネット不在の今回の作品において、フランス革命へと至る市民及びオスカルの心理の動きの大きな後押しとなっている。
 そして、実は危険なキャラでもある。オスカルと彼女を取り巻く貴婦人達の関係は、これまでの作品においても、男役とその信奉者との関係がどこか投影されているところがあるが、美しく着飾って夢だけ見せてくれればいい…とオスカルに言い放つコンティ大公妃の姿に、演出家のひそませた毒を感じずにはいられない。

 「スカーレットピンパーネル」でロベスピエールを悪役の縛りから解き放つ名演を見せたにしき愛は、若かりし日のロベスピエール役で登場した。
 バスティーユの戦闘、群衆を率いての中心となる場面、誰よりも高く、誰よりも大きく、颯爽と踊る様を観ていても、やはりこの人は白の魅力にあふれた正統派男役なのだとつくづく思う。だからこそ、その前の場面、安蘭ベルナールと並んで、「諸君! 我々もバスティーユに行こう」と民衆を鼓舞する姿に、感慨を覚えずにはいられない。巧い人間が悪役や難役ばかりをあてがわれる傾向がときに目立つ。芝居巧者が実にあっけなく辞めてしまうことがあるのも、そのことに原因があるような気がしてならない。その一方で、巧いとされた人間が、十年一日の如き芸を見せ続ける悪しき風潮もある。そんな中、一作一作、初々しくも思える造形で、このところ快進撃とも言える舞台を見せ続けてくれる存在のあることを喜びたい。

 朝峰ひかり扮するカロンヌ夫人と、百花沙里扮するランバール夫人が、失われた宝石について無益な見栄の張り合いをする、芸達者同士だからこそ見応えのあるものとできた場面(「赤と黒」の心の名場面、レナール氏とヴァルノ氏の馬談議を思い出した)、「ネオ・ダンディズム!V」で、ヒゲ姿の紳士たち(にしき愛、美稀千種、彩海早矢、天緒圭花、壱城あずさ)がダンディに歌い踊る場面、居並ぶ強敵? を押しのけて“心の名場面”に輝いたのは、…ジャーン、オスカルとアンドレとマロングラッセ(美稀千種)の三人の場面である。
 オスカルが「ばあや」とかわいらしく微笑んで帰宅を告げ、マロングラッセが泣いて取りすがり、アンドレが温かく見守る――。「ベルサイユのばら」のページから登場人物がそのまま飛び出してきたような、完璧なまでの漫画の3D化に、興奮さえしてしまった。美稀千種扮するマロングラッセは、それほどまでに私の漫画のイメージ通りなのである。ウェットな面を強調して演じられることも多いこの役だが、今回の美稀の造形は、オスカルに対する愛は温かいものを持ちながらも、人生の年輪を重ねた人物だけに許される、生きることへの諦念というか、いい意味での淡々と乾いた人間性が感じられて、…何だか自分の亡くなった祖母の姿を思い出して、ちょっと涙してしまった。

 その美稀マロングラッセとのやりとりにおいてコミカルな味で魅せたのが、オスカルの父ジャルジェ将軍を演じた専科の箙かおるである。娘オスカルの溺愛ぶりが微笑ましいキュートさと、軍人としての威厳とを自由自在に行きつ戻りつする演技で客席を沸かせた。

 「ネオ・ダンディズム!」が再演を重ね、同じ場面が再び観られるということもあって、若手男役の成長ぶりが如実にうかがえるのも頼もしい。近衛士官と衛兵隊という難しい二役を、立ち振る舞いからセリフの言い方まできっちり演じ分けた彩海早矢と麻尋しゅん。すっとした立ち姿にも彼女らしい個性をにじませるようになってきた彩海は、熱い部分との意識的な使い分けでさらなる新展開が望めるように思う。麻尋はショーでのソロに甘い魅力あり。ベルナールの同僚ルシアンを演じた夢乃聖夏は、立ち姿やセリフ回しの力の入り方、抜き方が実にいい塩梅で、その落ち着き具合がより大きな包容力につながる可能性を感じさせる。「スカーレットピンパーネル」の踊る? 執事役が印象的だった天緒圭花は、今度はショーでのソロの歌唱で大いにアピール。ピンパーネル団の最年少として確かな存在を示した壱城あずさは、バスティーユの戦闘の場面、市民のダンス・ソロがインパクト大。決してこの段階で固まってほしくはないが、男役としての意識の高さ、仕上がりの早さが大きな期待を抱かせる。全体的に娘役の役どころが少ないのは残念だが、ロケットの芯を務めた琴まりえの優美さは特筆に値する。

 「ネオ・ダンディズム!」がそもそも、前主演男役・湖月わたるの退団公演用の作品だったということもあるけれども、それにしても、一足先に安蘭・遠野の退団の惜別ムード漂う公演ではあった。その空気が集約されていたのが、涼オスカルのこんなセリフである。
「行ってしまった。光に満ちた、新しい幸せの中に。――私の分まで幸せになってくれ」
 今、このときしかない一瞬一瞬を愛おしむ。出演者たちがそうして登場人物を生きていたからこそ、それぞれの人生がより胸に迫るということがあったのかもしれないと、今は思う。