コクーン歌舞伎「佐倉義民伝」
 串田和美による、明日への夢が見られない現代日本に対する警鐘作(7日13時、シアターコクーン)。
 領主の圧政に苦しむ領民のため、生命を賭して立ち上がる名主・木内宗吾。領民、領主に家老、人の中に清く正しく美しくある善きものをどこまでも信じ続けようとする宗吾の、端的に言えばお人よしとしか形容できない心根を、中村勘三郎はあくどい人情味を決してただよせわることなく、それでいてときに崇高にさえ描き出す。
 人をあくまで信じようとして、それでもその想いが通じなかったからこそ、彼は結果的に、己の命を賭けて立ち上がらざるを得ない。その決意に打たれ、渡し守の甚兵衛は禁を破って舟を出す。人から本気を引き出すものは、人の本気でしかない。そんな真理を伝えてやまないこの場面での、甚兵衛役の笹野高史を、いったい、いかに形容すればいいのだろう――。今までに見たことのないとんでもないものを見た、と心を衝かれ、そして、……こんなものを見られるなんて、今まで生きてきたことに意味があった、笹野高史という役者と同じ時代に生きていてよかった……と、舞台上の彼にほとんど、ありがたやと手を合わせたくなるほどだった。ドラマティックに演じて人の心を動かそうとするのでもない、己の技巧を示して名優ぶりを誇ろうというのでもない。役者として、人間として、生のすべてに真摯であろうと尽くしてきた者が、いっさいを取り払ってそこに立ち、己の生をさらす姿に、私は打たれたのだと思う――。
 情に訴えかける要素と、理性に訴えかける要素と。ユーモアとペーソスと。誰を絶対的悪に描くのでもない、全方位にわたるそのバランスのよさ。伏線のほとんどがわずかのあざとさもなく、だが確実に回収され、三時間超ながらすべてがテンポよく展開される官能。己の命を賭したばかりに妻のみならず幼きわが子二人まで眼前で惨殺される宗吾の絶望を緊迫感たっぷりに描き、すべては劇中劇であったと明かされその構造の巧みさに舌を巻くうちに、歴史上の出来事を織り込んだラップが歌われる。いつの世も、生きる者はただ、明るい明日への希望を抱いていただけではなかったのか。人類史上、その希望が報われる日は、はたして来るのか。1949年から1989年までの世界史の重大事件を歯切れよく織り込んだビリー・ジョエルの全米チャート1位獲得曲「We Didn’t Start The Fire」(邦題は「ハートにファイア」となっているが、正確を期するならば、「戦争の砲火を始めたのは我々ではない」、「激情や激怒を抱いたのは何も我々が初めてではない」と解釈すべきであろう)にも通じる精神を体感しつつ、民衆の魂の叫びであるそのラップを聴きながら、演劇人・串田和美は、宗吾の絶望にも似た思いで、演劇の力をなおも信じているのだと思った――。

 昨年、コクーン歌舞伎15周年・第十弾を記念して、「桜姫」が、串田演出の現代劇と歌舞伎とで二カ月にわたって上演された。その「桜姫」現代版について、作品にかかわった演劇人たちの意図や思いをまったく解していないとしか思えない劇評がとある新聞に掲載され、次の月に上演された歌舞伎版の公演プログラム冒頭で、串田はその反論を敢然と述べた。それを読んで私は、己の不甲斐なさを恥じたのである。その反論は本来、舞台評論家の立場にある者に課せられた責務ではなかったかと――。
 反論は一言で済んだのである。舞台をメキシコに設定した「桜姫」現代版には、「自分の料簡でしか人を斬らない」と評されるゴンザレスという男が登場する。反論は一言、「貴方はゴンザレスですね」と言えばそれで済んだのである。「桜姫」現代版を観劇した後、楽屋にとある俳優の方を訪ねた私は実際そう言ったのであるが、その方に、「あ、じゃあ今度、劇評書いた方にお会いしたら、藤本さんがそう言ってたって伝えときますよ」と言われて、物を書くことについての覚悟を問われたような気がして、私ははっとしたのである。そして、何も書かないうちに串田の反論を読んで、己の不甲斐なさを恥じたのである。
 優れた舞台を優れていると言わずして、何の舞台評論家か。そんな覚悟で、私は今年のコクーン歌舞伎“佐倉義民伝”について言い切るものである。今年度観た中で一、二を争う珠玉の一本であると。