霧矢大夢が世界を愛する〜宝塚月組「スカーレット ピンパーネル」その3[宝塚]
 あひるとて家庭にあっては主婦、スーパーにお買い物に行けば「あら、今日は鶏卵がお安いわ」なんて特売品を買い込んだりもする。この不況、生活自衛のための節約も大切である(もっとも、買い込んだ特売品を腐らせてしまったりもするけれども…)。人間、ときにはケチになることも必要であろう。
 だが、どうにも苦手なのは、愛についてケチくさいことである。人への愛を出し惜しみしたり、人からの愛を分け与えず、自分一人で独占しようとする人間。別に減るもんじゃなし、ケチケチしないで! と思ってしまう。
 もちろん、愛を実現するには、時間や体力をはじめとするさまざまな力が不可欠であって、その点において限りはあるが、それは決して、愛をケチることではないと思うのである。
 舞台作品も同じである。自分は観客、つまりは世界を愛していないくせに、自分だけは愛してほしいという、キャストなり、クリエイターなりのエゴばかりが透けて見える作品は、興醒めする。自分は愛において特権的な人間であると、どうしてそんなにも勘違いできるものなのだろうか。美と同じように、愛とは万人に開かれたものなのに。
 芸術作品において、愛とは、そのクリエイターの芸術性と人間性、それぞれの深みがかけ合わされたところに成立する。人間存在をどれだけ愛しているか。世界を、人生をどれだけ愛しているか。その愛の深みを、どれだけ高い技術力でもって示し得ることができるか。芸術家とは、そうして世界を愛する力を与えられたという意味ではある意味、特権的な人間なのかもしれないけれども、その力は決して、自分だけが富や栄誉を得ようという目的ばかりに使ってはならないと思うのである。その力は何より、この世に未だ存在し得なかった美を現出せしめることで、この世界とは生きるに、愛するにふさわしい場所であることを示すために与えられたものだと思うからである。
 舞台評論家という道を選んだ以上、私に与えられた使命とは、舞台芸術の場における新たな美の創造を一つでも多く目撃し、正しい深みでもってそれを書き表すことにあるだろう。

 五月のある日、大阪・中之島の国立国際美術館で行なわれている「ルノワール−伝統と革新」に足を運ぶ機会があった。そして、展覧会を通じて、自分と同じ日に生を享けたこの印象派の巨匠の絵画がなぜこんなにも人の心を捉えるのか、改めて深く実感したと共に、――何だか、霧矢大夢の舞台から受ける印象と似ているなあと、微笑みが口の端にのぼってくるのを抑えきれなかったのである。
 ピエール=オーギュスト・ルノワールの人物画は、特に女性画は、描かれた対象に対する愛に満ちている――もちろん、モデルによっては、「あ、この人のこと、あんまり好きじゃなかったのかもしれないな」と思うことなきにしもあらずではあるが。眺めていると、何だか、描かれた人物が今にもしゃべり出しそうに思えてきて、私は絵の前にじっと立ち止まる。そして想像する。その絵が描かれたとき、画家とモデルの女性や少女との間に交わされたであろう会話を。「私のこと、いったい、どう見えているの? いったい、どう描くの?」、そんなことを聞かれて、「どうって、こう見えているんだよ!」と画家が描いた答え、それが、陶器のような肌、薔薇色の頬、幸福を具現化したかのような、女性美の極致を捉えたあの絵に他ならないと思うのである。

 「スカーレット ピンパーネル」で霧矢大夢演じるパーシバル・ブレイクニーを観て、心打たれるのは、その愛の深さである。彼は、妻マルグリットが自分を愛しているかどうかより、むしろ、自分の愛が妻に伝わらないのはいったいなぜなのかについて思い悩む。自分の愛の力が足りないのか、自分が正すべき問題は何なのか。霧矢大夢が体現するのは、愛されることを望むより、愛することを望む人間である。なればこそ、イギリス貴族であるにもかかわらずわざわざフランスまで出向き、ときに己の命を賭してまでフランス貴族救出にあたる正義のヒーロー像に説得力が増す。粛清の嵐吹き荒れる他国に赴いて人を救いたいと願うほどに、彼は人間を、世界を愛しているのである。
 霧矢がパーシー役を通じて表現するその愛とは、霧矢自身の、舞台への愛、宝塚への愛とも大いに重なる。当たり前である。霧矢大夢は舞台人である。舞台人とは、己の舞台を通じて世界への愛を表現する人々である。その演技に、その歌声に、その踊りに、どれだけ万物への愛が満ちているか。舞台人の価値は、その愛において量られるべきものである。

 二月の中日公演「Heat on Beat!」の「EL TANGO」の場面、裸足になって一人踊る霧矢を観ていて、彼女自身の人生を踊っているのだと心を衝かれたことを思い出す――。
 ちょうどそのころ、男子フィギュアスケートの高橋大輔選手がバンクーバーオリンピックで銅メダルを獲得したけれども、そのフリーでのプログラムで表現された世界と同じである。映画「道」の楽曲にのって舞われたあのプログラムは、高橋自身が、これまで生を尽くして賭けてきたフィギュアスケーターとしての“道”を描き出していた。何度も何度も困難に出会い、くじけそうになり、それでも決してフィギュアスケートという表現手段から逃げなかったこと。彼自身の人生が氷上にそのまま描き出されたあの舞は、“芸術”だった。
 二月、中日劇場の舞台を裸足で踊る霧矢もやはり、人生を踊っていた。あきらめそうになったこと、くじけそうになったこと、それでも――と歯を食いしばり、思いとどまって、踊り続けてきたこと。そのとき私には、裸足のはずの彼女の足に、“赤い靴”が見えた。いったん履いたら死ぬまで踊り続けなくてはならない、赤い靴。子供のころに観た、アンデルセンの童話を元にしたモイラ・シアラー主演の同名バレエ映画は、私の心に、畏れにも似た深い跡を残している。そこまで何かにとりつかれるとは、いったい、どういうことなのだろう。そんなことははたして現実にあり得るのだろうか――。心のどこかにそんな思いを抱いて長らく生きてきて、はたして、裸足のはずの足に見えない“赤い靴”を履いて踊り続ける人間を目の当たりにして、――私はほとんど声を上げそうになったのである。
 この人から踊りを取り上げたら、この人の魂は、死んでしまう――。
 そして、そんな叫びを押し殺して舞台上の彼女を凝視する自分もまた、何かを“観る”、そして“書く”ことにかくもとりつかれた人間であることを自覚せずにはいられなかったのである。私が装着してしまったのは、赤い“眼鏡”、それとも、赤い“ペン”? 靴に比べるとどうも、かっこよさには多分に欠ける感じがしないでもないけれども――。

 「スカーレット ピンパーネル」での霧矢パーシーは、「祈り」の楽曲において、己の愛にまつわる疑念を吐露し、勇気の力によって愛の与えしハードルを乗り越える覚悟を決める。終幕近く、疑念晴れて歌う「目の前の君」はもう、目の前にいる存在、他ならぬ観客に向かって歌い上げる、舞台人・霧矢大夢による敢然たる愛の決意表明である。
 何度も迫り来る困難を越えて、霧矢大夢はそれでも、宝塚の舞台に立ち続けることを選んだ。今、霧矢がトップスターとして見せる舞台は、彼女が乗り越えてきた困難の分だけ、深い輝きに満ちている。彼女だって、人生を呪いたくなる日もあったはずである。舞台を、宝塚をやめようと思った日もあったはずである。それでも、彼女はそうしなかった。その都度、より深い愛を心にみなぎらせて、困難の一つ一つを乗り越えてきた。舞台に対する愛でもって、より芸術性の高い舞台を実現することで、世界がより愛に満ちた場所になるよう、心を尽くしてきた。そう、何も、困難とは、挫折とは、愛を奪うものではない。世界により深い愛を捧げることができるか、その者の生きる覚悟が問われる機会なのである。彼女が世界への愛を歌うその「目の前の君」が、聴く者の心を愛と生きる喜びとで満たさずにはおかないのは、彼女自身がこれまで生きて体現してきた深い愛ゆえである。
 世界を愛する霧矢大夢だが、その愛をひときわ享受できるのが観客であることは言を俟たない。舞台人・霧矢大夢の愛は他のどこでもない、劇場において実現されるものだからである。
 霧矢大夢が世界を愛する。その演技で、その歌で、その踊りで。その深い愛に、いつまでも包まれていたい。――その愛を、いつまでも書き記していたい。