頭脳派ダンサー、快演〜宝塚月組「スカーレット ピンパーネル」その7[宝塚]
 月組版「スカーレット ピンパーネル」は、ミュージカル作品として、宝塚歌劇作品として、そして、人はなぜ仮面をつけるのか、すなわち、人はなぜ“演じる”のかという、演劇の本質を問いかける作品として、完成度が高い。その際、必要不可欠であったのが、プリンス・オブ・ウェールズ殿下役の桐生園加のパフォーマンスである。秘密結社の首領として妻にも言えぬ顔を持ち、得意の変装でさまざまな人物を演じ分ける演劇的人間、イギリス貴族パーシバル・ブレイクニーと、桐生演じるプリンスとの関係は、2007年に星組が日生劇場で上演したミュージカル「キーン」(2007年)における、主人公の名優エドモンド・キーンとプリンス・オブ・ウェールズとの関係を彷彿させるところがある(両者の関係については、<役者とは何者か〜宝塚星組日生劇場公演「キーン」>http://daisy.stablo.jp/article/448444290.htmlに記したところである)。パーシー役の霧矢大夢がその演技を通して体現し得た演劇の本質を、桐生の演技が好アシストで支えている。
 桐生扮するプリンス・オブ・ウェールズは、パーシーがスカーレットピンパーネルとして革命の混乱続くフランスから貴族たちを救い出していることをほぼ間違いなく知っている。その上で、何知らぬ顔をしてパーシーたちの活動を黙認している。イギリス皇太子としては、己の支配者としての立場を危うくしかねるような事態、例えば、民衆が王室および貴族たちに反旗を翻したような革命の嵐が自国まで波及してくるような状況は防ぎたい。他方で、革命が頓挫し、貴族が復権するようなことのあった場合に備えて、フランス貴族たちに恩を売っておくに越したことはない。だが、フランス革命政府に対する臣下の敵対行為を容認していると受け取られることは、フランスとの関係を考えたとき、非常にまずい。王宮での仮面舞踏会のようなパブリックな場面で、彼がパーシーに「今話題のスカーレットピンパーネルとは、君ではないのか?」と問い質すのは、スカーレットピンパーネルの活動に対し憂慮していると見せる、世間へのアピール、“演技”であって、パーシーが否と答えることも当然、計算済みである。パーシーがスカーレットピンパーネルであったなら仲間に入れてほしいなどとおちゃらけたことを言うのも、はたしてこの皇太子は切れ者なのか道化者なのかと、世間の目を煙に巻くため。すべて計算づくなのである。フランスとの関係悪化の懸念が生じた際には、プリンスはパーシーの正体を革命政府に売りかねない。その目は、真顔でありつつ笑い、戯言を言いつつ笑わず、ときおり鋭くキラリと光る。道化者の仮面の下には、切れ者の権力者であるプリンスの真実の姿が見え隠れする、と見せて、再び戯言で決定的印象をかわす。暗く重厚な雰囲気を漂わせるのではなく、明るくキレている風なのが、よけいに凄みを感じさせる。
 もちろん、パーシーの方でも、プリンスが己の正体を見破った上で演技していることをわかっていて、平気で冗談で話を合わせ、スカーレットピンパーネルごっこをしようなどというプリンスの提案にあまつさえ笑顔で賛同する。仲間に入れてほしいなどというプリンスの頼みを真正直に受けたら、いつ裏切られるかわかったものではない。どちらが王で、どちらが道化か。お互い、本心を、真実の顔を知りつつ、本気と冗談のあわいをゆくスリリングな会話を交わし、“ごっこ遊び”に興じようとするパーシーとプリンスの関係は、多分に演劇的である。
 二場面にしか登場しないプリンス・オブ・ウェールズだが、桐生の風貌はインパクト大、その役作りは冴え渡っている。「プリンス・オブ・ウェールズ殿下」と呼ぶ声の音とリズムに合わせて華麗にステップを踏んで登場し、日替わりのアドリブポーズを披露して観客の度肝を抜く。碧いアイメイクが映える金髪貴公子姿ながら、お腹はメタボ。麗しくもおもしろいそのいでたちからして、どこまで本気でどこまで冗談かつかぬプリンスのキャラクター設定を際立たせている。名ダンサー桐生園加による、月組助演陣らしく個性豊かな、最優秀助演賞ものの演技である。
 前回大劇場公演時、私は桐生を、“白”の男役であると評した(http://daisy.stablo.jp/article/448444499.html)。その後、中日公演「紫子」を観て、この人には、もう一つ、“頭脳派”という言葉がふさわしいと思い至ったのだった。「紫子」で桐生は忍びの丹波役を演じたが、忍びとしての職務を全うせんとしながらも、仲間に対する想いの深さをにじませて、さわやかながらも深みのある二枚目ぶりを発揮していた。“白”といっても、桐生の“白”は、白しかないのでも、白でない部分を切り捨てて成立させているのでもない、白でない部分をきちんと認識した上で成立させている白なのである。だから、その“白”は、奥行きが深く、陰影に富んでいる。そうした“白”の成立に不可欠なのは、知性であることは言うまでもない。
 登場の瞬間の華麗なステップ、そして、二幕冒頭のナンバー「ここでも、そこでも」のラストで、パーシー役の霧矢の歌声に合わせて階段を降り、舞台中央に進んでくる足取りの確かなリズム感を観ても、桐生は、音に敏感に反応でき、基本に忠実に、端正に踊ることのできるダンサーである。世の中には、身体能力だけで踊るダンサーも少なくない。その身体能力が衰えた瞬間、いったいどんな踊りを表現として展開できるのだろうかと思わずにはいられないが、頭脳派・桐生の場合、その心配は無用であろう。そして、花組育ちゆえ、黒燕尾服姿が颯爽と決まる。例えば、前回までの雪組公演での水夏希と彩吹真央のように、黒燕尾服のダンス場面で花組育ちが二人フロントラインにいると、そのシーンの印象が際立つ。霧矢、桐生の二人がフロントラインに並ぶ、月組の黒燕尾服場面も今後、大いに楽しみである。