その男だけが、人間〜飯沼慧を送る
 2011年の文学座の公演のうち、もっとも見応えのあった上演が、別役実の書き下ろし作「にもかかわらずドン・キホーテ」だった(6月13日19時の部、文学座アトリエ)。もはや狂気にはない、にもかかわらず、ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、否、ドン・キホーテとサンチョ・パンサであったらしき者は、終幕、回転して止まらぬ風車に突っ込んでいく。別役は「文学座通信」2011年6月号において、かつてある心理学者と犯罪についての話をしていた際、人間とは放っておくとどんどん正常になっていくものであることを教えられ、「あなたはもう狂うことはありません」と言われて、「物書きとしての能力の、限界について言われたような気がして、少なからずガックリした」と記している。狂気。物書きとしての能力。今年、いま一人その意味を痛感させた劇作家が清水邦夫である。同じ6月末に上演された「血の婚礼」とはまさにその狂気についての物語に他ならない。
 「にもかかわらずドン・キホーテ」においては、ドン・キホーテとサンチョ・パンサであったらしき者以外は皆、とある陰謀に加わり、そしらぬ顔でそこから利益を得ているかのようである。その一人が、飯沼慧演じる「男3・司祭」だった。ところどころセリフはたどたどしいかもしれない。けれども、生臭坊主のあまりに飄々とした生臭度合いは際立って人間的だった。
 それが、飯沼慧を観た最後の舞台になってしまうとは。
 2006年の「エスペラント〜教師たちの修学旅行の夜〜」。2007年の「ぬけがら」。飯沼慧はいつもあまりに自然体だった。あまりに一人自然体なので、“演じてしまう”者が周りにいる場合、その作為をあぶり出してしまうような。実に危険な存在ではある。飯沼慧にはもはや演じることなど必要なかった。生きてきた長き日々、その濃くも充実して内に満ちる時間を、外に表すだけでよかった。表そうとする必要すらなかった。舞台に立てば自ずと現れ出るのだから。
 2009年、飯沼慧はアトリエで上演されたウジェーヌ・イヨネスコの「犀」に出演した。人々が次第に犀になっていく、全体主義への痛烈な批判ともいうべき不条理劇である。論理学者に扮した飯沼慧の自然体はここでも際立っていて、そのような役どころではないにもかかわらず、飯沼慧の演じる人物一人が人間として、犀となっていく周囲の人々と対峙しているような感覚を覚えたものである。あのような境地に至るまで、いかなる役者人生があったのか、あまりに世代の違う私には知る由もない。けれども、その最晩年を見届けられたことを、幸せに思う。