「舞台は最高のエクスタシー」〜宝塚花組「Le Paradis!!」&「ファントム」の壮一帆[宝塚]
 「舞台は最高のエクスタシー」とは、「ファントム」の公演の前に出た取材記事での壮一帆の発言である。YahooやGoogleでそのまま検索をかけると、「難役ほど正面切って」という日刊スポーツの記事が出てくるが、その中に記されている。
 エクスタシー、忘我、恍惚。その境地こそ、今年私が知り得た芸術の真髄の一つであるのだが、「ファントム」でのその発見を記す前に、このような発言が生まれる前提となった「Le Paradis!!」の舞台を振り返っておきたい。

 「Le Paradis!!」で、壮一帆は、映画「ラストタンゴ・イン・パリ」の曲に乗り、ドレス姿で真飛聖とデュエットダンスを踊った。宝塚大劇場公演時はまだ硬かった。男役でも、ショー作品などでたびたび女役が回ってくるタイプと、あまり回ってこないタイプとがいて、彼女はどちらかというと後者である。何だか照れて恥じらっているのがありありだった。それにしても妖艶な演出のシーンではあった。ドレス姿で壮がせり上がってくると、その白い薄いスカート越しに網タイツを履いた美脚が透けて見える照明が施されている。対する真飛聖は、黒のベルベットに光り物があしらわれた、彼女の男役としての香気がもっとも際立つ衣装をまとい、花組が誇るセクシー男役陣とバトルを展開した果て、遂には壮と頂上決戦を行う。この公演で退団だった真飛聖が、男役の集大成ともいうべき色気を放って、ドレス姿の壮に向かうのである。もはや恥じらってばかりはいられない。太腿の上までスリットの入ったスカートをちらり、ちらりとさばいてみせる姿に、「美しいものは積極的に見せていこうぜ!」と内心思うあひる。“憧れの先輩”相手に(http://daisy.stablo.jp/article/448444565.html)、ノリはすっかり体育会である。そして、「いったいお前は舞台評論家としてどういう舞台の見方をしているのか」と問い質されそうだが、女性が女性の美しさ、セクシーさを楽しむこともまた、宝塚歌劇観劇の醍醐味の一つである。
 そうして女性としての色気を解き放ってゆくにつれ、男役・壮一帆を成り立たせている存在の心もまたほどけ、解き放たれてゆくようだった。今年の壮一帆の快進撃の原因の一つに、このシーンでの経験があったことは言を俟たない。男役とは、まずは自身の女性性を否定し、男性らしさを演じてみせるところから始まる芸なのだと思う。それが、年月を経て、男役芸をしっかりと培い、自然体のうちに表現できるようになった果て、女性性をも含めて自身を丸ごと肯定し、これを男役芸の中に取り込んで一体化したとき、その者が男役として最高に輝く瞬間がやってくる。ここに、世界の他には存在しない、宝塚の男役の極意がある。真飛聖をはじめ、宝塚の舞台を去っていった数々の男役トップスターの舞台にも、そんな輝きを見せた瞬間をはっきりと思い出すことができる。女役を演じた男役がその後ぐんと伸びることがあるのも、この原理においてであろう。
 その美しい脚をもっと見たいと思っていた私は、実のところ、その美しい心をもっと見たい、そう思っていたのである。
 ある日、このシーンで、ショートの黒髪のかつらをつけて出てきた壮を見ていたら、どうにも、「白鳥の湖」の黒鳥、オディールにしか見えないのである。その次の観劇のときは金髪のかつらで出てきて、神々しさに、今度は、インスピレーションそのものにしか見えないのだった。追う者をじらし、誘いかけ、翻弄して、ふわふわとただよう美の化身。オディールにインスピレーション、いずれにせよ、ファム・ファタルには違いない。
 思うに、あの場面で、壮一帆は舞台人としてのエクスタシーを知ったのではないだろうか。我を忘れて没頭し、陶酔できる、恍惚の境地を。

 来たる「ファントム」で、私は、「舞台は最高のエクスタシー」なる発言が生まれるメカニズムを探ろうと、その舞台に目を凝らしていた。不思議な話である。忘我、陶酔の境地にあって芸を披露する者を前にして、――観ているこちら側まで忘我の境地に至ってしまうのだった。忘我、陶酔と言っても、決して舞台上で独りよがりに暴走しているわけではない。客席にその姿を見守る存在を認めたうえで、心を解き放って、ゆだねる。そんな境地にある姿を観ていると、客席に座る私もまた心を解き放たずにはいられない。そうして、もはや心に彼我の境はなくなり、意識が遥か彼方、天の果てまで飛び、いまだ理性では知り得なかった世界に易々と到達してしまう。
 それこそが芸術表現の真髄なのだと、私はそのとき体感したのだった。
 舞台評論家である私は、舞台を観て、書くことが大切な使命の一つであると考える人間である。そんな人間にとってもまた、「舞台は最高のエクスタシー」ともなり得るのだった。
 私はいまだかつてあんなに幸せな劇場にいたことはない。心も身体も解き放って意識を飛ばし、自分のちっぽけな理性、思考の限界を超えたとき、――そこに、知り得ぬ世界が広がっていた。そんな忘我の境地と、キャリエールの物語とが相俟って、私は遂に、今までの人生で抱えてきたトラウマやコンプレックスまでをも手放すことができたのである。今まで虐げられてきた、あるいは、虐げられてきたと考えることによって自分自身で虐げてきた、自分の女性性が丸ごと肯定されて癒され、――私はもはや、男性性に接することが怖くなくなった。それは、自身の女性性を丸ごと肯定し、忘我の境地で舞台上に立つ人物の姿を観て、そしてその姿に忘我の境地で耽溺することで、私は遂に自分の女性性を、男性性の欲望の客体としてのみではなく、己の主体として認識し直せたのからなのだと思う。
 そこに、私が長年、宝塚歌劇にひかれ続けてやまない理由もあったのだ。私をおびやかす男性性のいない、夢の世界。そんな夢の世界で、自分の内なる女性性と男性性を自由に解き放って過ごす、夢の時間。けれども、トラウマを手放した私には、もう夢を夢として追う必要がない。そのように美しい夢をいかに現実のものとするか、現実世界をいかに夢と地続きの美しい場所に変えていくか、それが自分に与えられた使命なのだと今は思う。だから、宝塚歌劇との接し方も当然変わらざるを得ない。私はもう、タカラジェンヌを、自分とは遠くかけ離れた存在、自分とは違って何でも実現できる力を持った、無敵で万能な存在と思い込んで憧れたりはしない。憧れに値しなくなってしまったというわけではない。一人の人間として向き合った上で、その人間が成し得ている舞台の凄さ、素晴らしさをきっちり認識し、書き記していきたい。
 そう思わせてくれた、2011年の壮一帆の数々の舞台に、心から感謝するものである。