“鏡”の彼方へ〜宝塚月組「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」の壮一帆[宝塚]
 ここ数年、つかこうへい作品を観ると思うのだった。ヒロイン、壮一帆に似合うだろうな…と。必ずしも、演じてほしい、観てみたいということではない。ただ、似合うだろうなと思うのである。彼女には「ベルサイユのばら」のオスカルが似合うだろうなと思うのと同じ意味合いかもしれない。すでに似合っている役どころで観るより、例えば現在宝塚大劇場で公演中の「Shall we ダンス?」の主人公、平凡なサラリーマンのように、即座に接点がわからない役どころで観た方が、新たな、意外な一面を発見できる楽しみがあるということかもしれない。
 それにしてもなぜ、つかこうへい作品を観ると、壮にヒロインが似合うだろうなと思うのだろうか。その疑問は、今年1月、壮が月組公演「ベルサイユのばら」に特別出演して演じたアンドレの舞台を観て、解けたのである。

 「ベルサイユのばら」のヒロイン、男装の麗人オスカルは貴族であり、アンドレは彼女の幼なじみにして従卒である。フランス革命へと揺れる時代のうねりの中、身分の差を超えてオスカルを愛するアンドレの想いは彼女に通じることとなる。
 と、オスカルとアンドレとの関係を説明する場合、通常このような書き方になると思う。けれども、壮の演じるアンドレの場合は異なるのだった。
 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。けれども、二人の間には身分の差というものがある。では、この愛が晴れて成就するには――?
 身分の差を超えて愛してしまった、ではない。愛しているのに身分の差という理不尽がそこにある、そういうことである。つまり、壮アンドレの場合、“身分の差”ではなく“愛”が先に来るのである。そして、“愛”が先にくる以上、二人が対等な人間であることが前提条件なのだった。愛の前に人は等しくならねばならない。そうでなければ、そこに愛という関係は成立しない。ここに、アンドレと、オスカルとが闘わねばならない革命のテーゼの一つ、“平等”がはっきりと示される。フランス革命を成就させなければ、二人の愛は晴れて成就しないのである。そして、革命と共に成就され得るアンドレとオスカルとの愛をポジとして、物語のもう一つの愛、フランス女王マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンとの愛がネガとして見えてくる。女王と一介の外国人貴族の愛もまた、革命によって身分差が消滅し、人がみな平等とされなければ、晴れて成就しない。アントワネットとフェルゼンの哀しさは、その革命が自分たちの愛を晴れて成就させ得るものであるという真理を悟れなかったところにある。
 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。物語序盤、その壮アンドレに立ちはだかる大きな問題を突きつけるのが、花陽みら演じるルルーである。オスカルの姉オルタンスの一人娘であるルルーは、平気で大人を食った物言いをする、こましゃくれた子供である。オスカルへの愛を心に秘めたアンドレに、ルルーは平然と言ってのける。「可哀想にあなたは平民。お姉チャマは貴族。とうてい結ばれることは不可能よ…」と。アンドレの心を激しく貫き、彼に「子供は純粋なだけ残酷なもんだ」と述懐させるこの言葉こそが、この愛の物語のきっかけである。
 宝塚歌劇の舞台において、上級生−下級生の関係がきっちりしていることは、よい場合もあり、悪い場合もある。きっちりしているからこそ整然とした舞台が展開されるということもあるだろうし、一方で、演技上、学年差を感じさせてしまうことが弊害となる場合もある。例えば、トップスターと若手とが親友役を演じても、若手の方にどこか気後れがあるせいか、まったくそうは見えない場合など。このときの花陽ルルーの演技、真理を突くその言葉の鋭さは、客席で観ていても思わず胸が射すくめられそうなほどだった。そうでなければ、アンドレの心もまた激しく動かず、よって、物語が大きく展開していくこともないだろう。上級生、しかも、他の組から特別出演しているトップスターに対して、舞台人としてそれこそ対等な勝負を挑むその様は、あっぱれだった。引っ込み際、これまたかわいらしくこましゃくれて「ごめんあさあせ(あそばせ)」とポーズを決め、毎回笑いが起きる芸達者ぶり。“心のキャラ”たるゆえんである。
 もう一人の“心のキャラ”は、ダグー大佐を演じた光月るうである。月組によるこの「オスカルとアンドレ編」は、出演者たちによる原画再現率が極めて高く、顔を見ていると池田理代子の漫画の絵がそのまま浮かんでくるところがあったが、なかでも光月のダグー大佐にシンクロ率の高さを感じた。二次元の原作では、絵の描き方の違いによってシリアスからコミカルへと即座に移行できるわけだが、衛兵隊士が、新しく隊長となったオスカル相手に“クーデター”を起こすくだりでの、大いに動揺しての反応など、光月ダグーは原画にあったそのギャグ性を、身体を張って三次元で体現していた。原作でのダグー大佐は、自分は貴族である以上、市民と共に戦うことを決意したオスカル及び衛兵隊と道を同じくはできないと言う。これはこれで彼の真摯な人間性を示すセリフとして好きなのだが、宝塚版の場合、ダグー大佐は市民の側について戦う決意をする。ダグー大佐がついてくれたら百人力! とも思えるその決意の様だった。

 壮アンドレが特出したバージョンにおいては、“心の名場面”は、視力を失いながらもオスカルと衛兵隊についてパリに出動しようとするアンドレを、アラン及び衛兵隊士たちが必死で止めようとし、けれども逆にその決意の固さに打たれて、戦場ではアンドレをサポートすると誓うシーンである。壮アンドレの目の見えない演技は迫真だった。本当に焦点が合っていない。その様に、アランに扮した星条海斗をはじめ、衛兵隊士たちが引きずりこまれていって、緊迫、白熱した場面が展開された。
 個人的な感慨になるが、私はこの場面を観ていて、本当にうれしかった。というのは、宝塚歌劇において、先輩が後輩に芸を伝えていくということの重みを、まざまざと見て取る思いがしたからである。話は2008年に遡る。真飛聖が「愛と死のアラビア」「Red Hot Sea」の大劇場公演で花組トップスターとしてお披露目を行なった際、月組より組替えとなった大空祐飛が、この公演から二番手を務めた。壮はその花組に三番手として在籍していたわけだが、率直に言って、彼女の演技は、この頃まで、どこかうまくかみあっていないというか、空回りしているような印象があった。それが、大空が二番手として来て、三番手以下をがっちり受け止めてピラミッドを作り、その上にトップの真飛を載せることで、体制が安定した。そして、その頃から、空回りの印象は消えていった。持て余すようなエネルギーをしっかりと受け止めてもらうことで、人は変わるものなのだと感じた。
 そして、正直なところ、星条海斗の最近の舞台についていえば、いったいどのように書き記せば彼女の演技が周囲とかみあったものとなるのか、わからなかった。それが、このとき、荒くれ者アラン役を演じて、その過剰ともいえるエネルギーを壮アンドレにがっちり受け止めてもらったことで、星条は舞台人として再生のきっかけをつかんだのである。アラン役がかつての壮の当たり役であったこと、そして、壮を受け止めた大空がかつて在籍していた月組で、壮がその恩返しともいえる演技を見せたことに、“因縁”というものの不思議さを感じずにはいられなかった。

 舞台は何も一人の演者によって成り立つものではなく、私が今こうして壮一帆のアンドレの演技について記しているのも、月組全体の頑張りあってこその話である。なかでも、演技力、想像力、物語構築力に富む月組トップスター龍真咲がオスカルを演じていなければ、大きな発見をすることはできなかったように思う。自分自身のとある“癖”について。
 これは比喩でしか語れないけれども、私にはどうも、“鏡”に映った自分自身を見て、「あ、ここに私と同じ魂をもった人がいる!」と喜んでしまう“癖”があったのである。そこにあるのは“鏡”なのだと思いもせずに。それが、壮アンドレの演技を観ているうち、「そこにあるのは“鏡”だ〜! “鏡”に魂はない!」と言われるような、ほとんど稲妻に打たれるような衝撃があったのである。“鏡”を見て、「あ、私と同じ魂だ!」と喜ぼうとすると、壮の至芸がその“鏡”に鋭い回し蹴りを入れて、次々と粉々にしていくのを見て茫然として、目を拓かれるというか。それは、こういうことかもしれない。心の中にある“鏡”の迷宮に閉じ込められていたのを、壮の舞台に導かれて、ようやく抜け出せたということなのかもしれない。私は物語の中にはいない。物語は、観ている私の中にある。そう、やっと気づくことができたのである。

 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。そして、オスカルもアンドレを愛している。当人同士の間では愛は成就している。その愛が、晴れて、すなわち、世間的に公然と認められる上では、フランス革命後の世を待たねばならない。アンドレはバスティーユ襲撃の前に橋の上で撃たれて死んでしまうから、この物語においては、愛が晴れて成就するのは、二人が魂のみの存在となっての死後の世界である。
 アンドレの死の場面については、何だかずっと、アンドレに与えられた使命はオスカルを守ることであり、そのアンドレが死んでしまった以上、オスカルもやはり近々死すべき運命にあるのだと考えていた。けれども、誰かを守るためだけに与えられた人生などというものはないのだと思うようになってきた。実際、アンドレが死した後、オスカルは炎となって燃えて、衛兵隊と市民たちと一つになって戦い、バスティーユ牢獄を陥落させるのである。オスカルの傍らには魂、愛となったアンドレがいて、彼女を守っていたことは言を俟たないだろうけれども。
 壮一帆のアンドレは、青白い炎のような人物だった。深い心で人を愛し、不平等を許さぬ人だった。自由な魂の持ち主だった。自由・平等・友愛の精神が、そこにあった。
それだからこそ、私は、つかこうへい作品のヒロインは壮一帆に似合うだろうなと感じていたのだと思う。

 翻って。
 劇場という場において、はたして、舞台の創り手と、評論家とは対等な存在だろうか。
 創り手から寄せられる不満としては、「自分では何も創造しないくせに文句ばかり言う」「お前が演出してみろ」「あなたが舞台に立ってみなさいよ」等が考えられる。しかし、私には、演出したい、演じたいという欲はない。舞台上に立ち現われた美について書きたい、その欲だけをもった人間なのである。無論、書くにあたって、太鼓持ちをしたいわけでもない。
 傲慢になるでもない。卑屈になるでもない。どこかに道があるはずなのである。創り手と対等に結ばれる道が――。
 正直、すぐには結論の出ない問いである。重い問いである。その問いをクリアにしてゆくためにも、ひるむ気持ちに鞭を打って、書いていかなくてはならないのかもしれない。
 けれども、壮一帆のアンドレを観た私は、知っている。人間同士は対等な存在であり、対等でなければ、向かい合う二人の人間の間に愛が成立しようもないことを。私は舞台芸術を愛している。舞台を創る人々が舞台芸術を愛するように。そして、創り手と評論家とが、愛によって結び合わされる関係は、必ずやこの世界に存在するはずなのだ。