クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル
 1月20日19時、サントリーホール。

 まずは前回、彼の演奏に接したときの話から始めたい。2012年12月4日19時、サントリーホール。このような繊細な魂の持ち主がどうして、人前に出て芸を披露するという職業に耐え得るのだろうかと思わずにはいられないときがあるけれども、彼もそんな人物の一人だった。そのデリケートな心を逆撫でするような出来事が起こったらしかった。しかも冬、客席には咳が蔓延していた。ピアニスト自身も若干、咳をしていた。それを逆手にとって、彼は、…今、私も咳をしますから、皆さんもどうぞ…と、身振りで示すのだった。そうしなければ、きわめて小さな音で始まるドビュッシーの楽曲の、その入りが妨げられるだろうから。そうして神経を張りつめ奏でる音に、私は、ドビュッシーとは雨音に一体感、エクスタシーを感じた人なのだなと知り(ピアノ曲集「版画」の「雨の庭」)、寺が海から浮かび上がり、再び沈む様(前奏曲集第1集「沈める寺」)を聴いていた。彼は考えているようだった。…音楽と向かい合うだけなら、自分一人で弾いている方がよほど集中できる。では、それなら何故、自分は聴衆の前で弾いているのだろう――と。私も思った。演奏をし、その対価を受け取ることを越えて、観衆の前で芸を披露する意味とは?

 1月20日の公演では、ベートーヴェン後期3大ソナタ、ピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番が取り上げられた。第31番を聴いていて、…あまりに不安にかられ、悪夢の如き幻想が次々と展開されるので、気分が悪くなってしまって、休憩時間で帰ってしまおうか…と思うほどだった(後で友達にその不安の話をしたら、「そんなことあるわけないでしょ!」と一笑に付された)。客席であんなにも精神的に追いつめられたのは、昨年、狂気を音で聴いてしまったとき以来である。何とか精神的に踏みとどまって、休憩後、第32番を聴いた。
 そうしたら、その第2楽章は、打って変わってきらきらとしているのである! というか、きらきらとしかしていない。…ベートーヴェンは天国を聴いたのだ…としか思えなかった。人々の心が妙なる調和を見せる彼岸。シェイクスピアの全37戯曲を推定執筆年代順に読むことで、劇作家の変化と、それぞれの戯曲のつながり方を知ろうと思い、最近、最後から5番目の「ペリクリーズ」までやっと到達したのだけれども、この作品を読んでいて、…劇作家は天国を見たのだ…と思わずにはいられなかった。そのときと同じ思い。
 さきほどまでの不安は消えて、輝かしい光に包まれて、そして、思ったのである。ピアニストは、3つのソナタを弾きながら、ベートーヴェンの人生、彼のくぐり抜けた苦悩と愉悦を、自らもまた生きていたのだと。そうして生きた不安があまりにも凄まじかったからこそ、客席にいる私の心の内の不安、幻想もまた呼び起こされてしまっていたのだと。ときどき、観劇鑑賞も命がけであると思う。
 ピアノ・ソナタ第32番から「第九交響曲」誕生までは、あと2年である。

 何故、自分は聴衆の前で弾いているのだろう――。その問いに、ピアニスト自身がどのような答えを出したのか、それはわからない。この夜、彼は咳をものともせず弾いた。弾いて、生きた。
 私自身は思うのである。演奏者が、音楽を通じて作曲家と向き合う。その営為を見守る証人、立会人が、誰かしら必要なのではないだろうか――と。