微分する肉体〜宝塚・月央和沙を送る[宝塚]
 男役・月央和沙はダンスの花組を支えてきたダンサーである。5月4日に放映されたNHKスペシャル「宝塚トップ伝説〜熱狂の100年〜」で、共に退団する花組トップスター蘭寿とむと踊る場面を与えられ、稽古場で思わず涙してしまったその人が彼女である。
 花組公演のダンス・シーンでは、月央に見惚れていることが多かった。私は、舞台上で一番、興味を惹かれることを濃度たっぷりに行っている人物に目を奪われがちである。月央和沙の踊る肉体は、情報量がそれは濃密だった。例えば、腕を身体の横から真上へと上げていく動きがあったとする。普通の人ならそこを「横→真上」と1つの動作で上げてしまうとすると、月央の場合、「横→少しだけ斜め上→さらに少しだけ斜め上→さらに少しだけ斜め上→……→上」と、その動きが実に細かくなめらかなのである。振付を普通にこなしている人に比べて、彼女の動きは桁違いに細かくて、まるで別の振付のように見える。
 微分する肉体だ……と思った。観ていて飽きることがなかった。
 その肉体を観ていて、踊りに関する自分の思考が整理されていった。

 日本でも割に人気のある海外のバレエダンサーがいる。数年前にその踊りを何度か見る機会があったけれども、あまりいいとは思えなかった。確かに図抜けた身体能力の持ち主である。しかし、その身体能力、つまり、自分の肉体が動くという事実に頼りすぎて踊っている。足はすばらしく上がる。けれども、身体能力を誇示しようとしてか、いきなりがっと上げる。バッサー、バッサーと、音が聞こえてくるように思えるほど動きが雑なのである。足を上げて静止した状態は美しく見えるから、写真写りは大変いいけれども。そして、身体能力ばかりに頼って踊っているから、その踊りを内面や知性と結びつけるということをしていない。身体能力というのはいずれ衰えていくわけで、年齢を重ねてからはいったいどんな踊りをするんだろう……と思わずにはいられなかった。
 それは、シルヴィ・ギエムが、“6時のポーズ”を可能にするほどの超人的な身体能力によって、バレエ、ひいては人体の美の可能性を革新していったのとはまるで次元が違う話なのだった。そして、ウリヤーナ・ロパートキナの「白鳥の湖」の第二幕のそれは美しいグラン・アダージョを思い出す。あのゆったりとした音楽に乗せて、彼女の肉体はねっちりねっちりと、一瞬たりとも美しくないということがなかった。肉体がよく動くということを見せるのではない。静止して美しく見えるポーズをつなぎ合わせていくのでもない。動いているその一瞬一瞬が美しい、それが真の意味での踊りなのではないだろうか。
 そのとき、肉体は微分に向かう。では、心は?
 宝塚歌劇で言うならば、自分の心がその音楽をその日そのときどう感じているか、全身を使って表現することにもっとも長けているのが、壮一帆である。だから彼女は、全国ツアー公演のように録音した音源を用いるときより、大劇場公演でオーケストラが演奏しているときの方が、踊りがいい。生身の心、肉体だから、生演奏の方にヴィヴィッドに反応する。彼女が音楽に乗り、自由に心を解き放って肉体を動かす姿を観ていると、私はたまにとんでもない美の光景を目撃する。
 ――心の中の美をふくらませていく。そのとき、心は積分に向かう。
 微分する肉体に、積分する心。それが究極かもしれない。

 月央の踊りに話を戻そう。
 「CONGA!!」で、巨大な蘭の花をバックに踊る“真実の愛”のシーンでは、大劇場の舞台に所狭しとその肉体を躍動させ、超絶高速リフトを披露。「愛と革命の詩」でのハンブルグ・バレエの大石裕香の振付も、月央が踊るとその美しさが際立った。そして、男役の象徴、黒燕尾服。どこか控えめな彼女の色気が濃厚に香る瞬間だった。
 コメディエンヌでもあった。「メランコリック・ジゴロ」全国ツアー公演の、靴擦れに悩まされる刑事。悪から善へと変身を遂げる「カナリア」のディジョン。「Streak of Light」の振付師は、ダンスの巧さを生かすと同時に、毒舌オネエ言葉を駆使して劇場中の大爆笑を誘い、宝塚に、花組に月央和沙ありと広く知らしめた。もっと長く在団して、名ダンサー、名バイプレイヤーとして活躍し、後々振付も手がけてほしいななんて、いろいろと夢見ていたのだけれども。
 2012年の全国ツアー公演、月央は、彼女の誕生日である5月21日、出身地埼玉県にある川口総合文化センターの舞台に立ち、カーテンコールで客席からの歓声にガッツポーズで応えていた。そのことといい、先のNHKスペシャルでのフィーチャーといい、彼女はやはり何か持っている人なのだと思う。そして何より、微分する肉体の持ち主である。もうその肉体を宝塚の舞台では観られないと思うととてもさみしいけれども、どうかその才能を生かしていってほしい。