刹那、狂気は反転する〜宝塚雪組「心中・恋の大和路」の壮一帆[宝塚]
 壮一帆が「冥途の飛脚」を原作とする舞台に主演することがなかったら、私は近松門左衛門作品を読むことはなかっただろう。まんまと嵌って、今や浄瑠璃本の虜である。
 実際にその文章にふれて、女性の肌や脚などの何気ない描写に漂うそこはかとないエロスに、谷崎潤一郎作品に通じるものを感じた。上方のエロティシズム。そして、亀屋忠兵衛役として舞台に現れた関西出身の壮は、まるで錦絵から飛び出してきたかのような、水も滴る色男なのだった。正直、昔の日本男性の髪型は美やエロスからほど遠いものとしてしか感じられなかったのが、目から鱗が落ちた。愛する遊女梅川と接しているのではないときでも、何気ない仕草や佇まいに、この世にただひとつの愛を貫く人間のもつ色気が濃厚に香る。愛し合う二人の運命の行く末を暗示するかのような幻想の場面、追っ手たちから投げかけられた幾重もの紐に絡め取られ縛られたときの、顔と全身のしどけない表情たるや。二人だけの至福の世界へと白の雪山を登っていく際の、白尽くめの清冽、壮絶。
 そして、声。艶めいた声。その低く抑えられた声がもっとも色気を含んで響くのは、姉さん女郎の色町からの華やかな出立を羨むかのような梅川に対し、お前もそれをしたかったんか――と問い掛けるときである。そうしてやりたかった相手へのとめどない愛、そうはしてやれない己への忸怩たる思いが、抑えられた声の内に交錯して流れ出す。
 封印切の場面は美の凄絶である。この場面を観ていて、以前の壮の優れた舞台、「長い春の果てに」(2012年花組全国ツアー公演)を思い出した。この作品で壮が演じたのは、貧しい生まれ故、母親の命を救うことができず、守銭奴となった医師クロード。彼は、自分は誰も、何も信じないから、裏切られることもない、そう絶唱する。この歌を歌って、壮は、そう生きざるを得ない人間の心情をくっきりと描き出す一方で、こう生きざるを得ない人間はとてつもなく哀しく憐れな存在なのだと、自身の心情をも客席に差し出す。そのメカニズムは、今日に至るまでの私の理解では、こうである。舞台上、実際にその役柄として生きる。と同時に、そうして生きる自身をしかと捉える、舞台外からの冷徹な眼差しが存在する――。
 封印切の場面において、このメカニズムはさらなる精緻をもって進化を遂げた。手を付けてはならない金、自らのものではない金、しかし愛する女の命と魂を救う金に、遂には手を付ける忠兵衛。周囲の誰もが狂気の沙汰だと思う。そのとき、壮の忠兵衛は歌う。親不孝も、友の情けも、女郎の微笑も、出世も、この世のすべても、地獄の沙汰も金次第、と。
 ――刹那、狂気は反転する。壮忠兵衛の存在の表皮を軸点として。狂っているのは忠兵衛ではない。世界である。愛だの心だの口先では言いながら、いざとなるとすべてが金次第の、世界の方が。忠兵衛が内なる狂気を突きつけた刹那、その狂気が拡大鏡となって、我々が生きるこの世を照らし出す。
 決して現状維持に飽き足らない、凄まじいまでの反逆のエネルギー。美しい場所としてのこの世を取り戻さんとする、芸術家の。私はこの場面を観て、壮がいつの日か、そんなエネルギーを感じさせるもう一人の役者と共演するのを、さらに心待ちにするようになったのである。四代目市川猿之助。
 「心中・恋の大和路」の公演に先駆けての二月、雪組トップスター壮一帆は宝塚からの卒業を発表した。トップとなった日から退団までのカウントダウンは始まるものであって、私は特に早いと思ったわけではなかったが、この封印切の場面を観たとき、今なのだということを深く納得したのである。芸術家・壮一帆の自由な魂が大きな空と海とに向かって羽ばたいていくのを、何人たりとも止めることはできない。