アイデンティティ・クライシス〜「Super Gift!」の剣幸[宝塚]
 この日曜まで、東京の宝塚のショー好き人間にとっては夢のような半月だった。東京宝塚劇場では雪組が、齋藤吉正のエキサイティングショー「La Esmeralda」を上演。さらに、歩いて十分ほどの東京国際フォーラムホールCでは、梅田芸術劇場誕生10周年を記念し、元トップスター5人を含めた豪華出演陣による「Super Gift!」(構成・演出:三木章雄)が上演されていたからだ。「Super Gift!」は今週末から大阪公演が始まるが、「この人から目が離せない!」というショーにおける求心力がいかなるものなのか、宝塚の現役生も大いに学んでほしい。それくらい、内容の濃い舞台だった。その中から、まずは、稽古場取材のときから心をわしづかみにされた人物について。
 稽古場で剣幸は、かつて月組トップスター時代に日本初演し、異例の一年間のロングランを記録した「ミー・アンド・マイ・ガール」より「街灯によりかかって」を披露した。稽古着姿で、扮装しているわけでもメイクしているわけでもない。それでも、…泣いてしまった。自分の前から姿を消してしまった恋人サリーを待ちながら、ビルは街灯によりかかって彼女への思いを歌う。剣はこのナンバーを、アイデンティティ・クライシスの曲として歌うのだった…。ビルは、ロンドンの下町で育ちながら、実は貴族の落胤であることがわかり、伯爵家に迎えられ、言葉遣いを含めた跡取り教育を施される。この教育こそが、ビルにとってアイデンティティ・クライシスをもたらす。自分はもはや、これまで育ち、生きてきた下町の連中と同じ階級には属さない。かといって、貴族階級にすんなり属せるかというと、そうは問屋が卸さない。自分とは一体、何者なのか――。ここに、「ミー・アンド・マイ・ガール」とは、アイデンティティの揺らぎを扱う作品となる。剣のこの歌を聞いた後、ディケンズの研究家である小池滋の著作「英国流立身出世と教育」を読み、教育によって階級差を超えようとしたイギリスの青少年が、その結果、どこにも属さない、属せないという苦しみにいかに悩むこととなったか、そしてその事実をイギリス文学がいかに扱ってきたかについて知ったのだが、この苦悩はビルともまた共通するものである。ビルにとって唯一、自分が何者であるか教えてくれるのは、“マイ・ガール”こと愛するサリーの存在である。何より自分は、彼女を愛し、彼女によって愛される存在である。ビルにとって、サリーを失うことはすなわち、自分自身をも失うことに他ならない。この後、サリーに会えなくなってしまったビルが、伯爵家を去ろうとするのもむべなるかな。
 単に、好きな子がいなくなってさみしい以上のものを、剣の歌唱は伝えるのである。その姿に、思う。自分が何者かを教えてくれる相手こそを、人は“愛する”ものではないかと。
 本番の舞台では、一幕の後半が「ミー・アンド・マイ・ガール」コーナーになっていて、「街灯によりかかって」を含めた作品のナンバーが歌われる。そして、楽しい「ランベス・ウォーク」へと続くくだり。伯爵家ではビルをお披露目するパーティが開かれ、居並ぶ人々を前にビルは一応は気取ってお辞儀をするが、しゃれたジャケットを脱ぎ捨て、「♪違うよ生き方が」と歌い出す。このとき、剣のビルは、ジャケットと共に、“貴族の御曹司”という演技をもはっきりと脱ぎ捨てる。…「それらしい“演技”さえできていれば、貴族ってことで通るのか?」…! それはすなわち、作品のラストで、貴族の落胤でも何でもない下町娘のサリーが、「マイ・フェア・レディ」よろしく言葉遣いと振る舞いを直し、貴婦人として迎えられるというハッピー・エンドに秘められた“階級”なるものへの大いなる皮肉にも通じる。今回の「Super Gift!」には剣と名コンビを組んでいたこだま愛も出演、サリー役として思いのこもった歌唱を披露しただけでなく、やはり“演じること”がキーワードである「スカーレット ピンパーネル」から「あなたを見つめると」のすばらしい歌を聴かせてくれたのだが、…この二人の「スカーレット ピンパーネル」はさぞや楽しませてくれるだろうな…と思わずにはいられなかった。宝塚OG「シカゴ」に続く第二弾として如何でしょう。
 そして、日本物の情感。剣は二幕冒頭では一転、退団公演「川霧の橋」の曲を歌ったが、これも、心に秘めて決して口には出せない、その思いを切々と綴ってゆくのである。そうして長い独白としてその曲を歌い終わって、思いを寄せる相手にやっと言えるのは「もうどこへも行くな」の一言だけである。そのせつなさ。
 芸と人間性に優れた人物がトップに立つとき、宝塚の舞台はもっとも安定する。そんな確信をさらに裏付けるような、今回の舞台だった。最上級生として座長を務める剣が、下級生の芸にもきちんと敬意を払いつつ、あくなき探究心でどこまでも芸を追求していくから、キャスト全員もどこまでも上を目指していける。だからこそ今回の「Super Gift!」は、単なるノスタルジアを超えて、実に見応えがあった。正直、「今一番気になる男役は?」と問われたら、「剣幸」と答えてしまうだろう。退団してから女優としてさまざまなキャリアを積んできた、その経験によってさらに彼女の男役芸が広がっていることは言を俟たないけれども、それでも、退団してもう四半世紀も経つ人物がさらに上を目指す姿に、男役芸の無限の可能性を見出した。現役生のさらなる発奮を期待したい。
 もちろん、男役としてだけでなく、女優としても大いに気になる存在である。濃厚な男役から一転、ドレスをまとって出てきて歌えば美しい女性である。今年の夏の「エリザベート」ゾフィー役でも、剣はすばらしい演技を見せていた。ゾフィーとルドヴィカの姉妹は、それぞれの子供、フランツ・ヨーゼフとヘレネを結婚させようと画策するが、フランツが選んだのはヘレネではなく、妹エリザベートの方だった。…どっちにしても自分の娘だから、まっ、いいかと“テヘッ”の表情を見せる未来優希のルドヴィカに対し、剣ゾフィーは「(姉妹のうち)まずい方だわ!」と突っ込む。その突っ込みようが鮮やかなほどにシャープで、そこに、姉妹ならではの気心をの知れようを感じさせた。そして、“姉妹のうちまずい方”というのは恐らく、ゾフィーとルドヴィカ姉妹にもずっと当てはまってきた言い方だったのだということに思い至る。“姉妹のうちまずい方”の産んだ“姉妹のうちまずい方”。血縁関係にあるからこそよけいにエリザベートの振る舞いが許せない。そんなことを感じさせる剣のゾフィーだった。
 今回、この作品を“宝塚”の項に分類したのは、読んでいただいたらおわかりのように、宝塚歌劇について大いに学ぶことがあったからだが、具体的には、杜けあきの歌唱に触発されたところなので、その話についてはまた詳しく。関西方面の皆々様は、3日からの梅田芸術劇場公演をお見逃しなきよう。