追う者と、追われる者と〜宝塚星組公演「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」[宝塚]
 2002年に公開された映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を観た瞬間、思った。
「これ、宝塚でやってほしい!」
 当時考えていたキャストは、トム・ハンクスが演じたFBI捜査官カール・ハンラティに紫吹淳、レオナルド・ディカプリオが扮した天才詐欺師フランク・W・アバグネイル・Jrに大和悠河。時代を遡ってよければフランク=天海祐希、ハンラティ=久世星佳もいいな…等夢想。
 やがて作品はブロードウェイ・ミュージカル化され、そして遂に、長年の夢叶って宝塚で上演されることとなった。日本語版脚本・歌詞&演出は小柳奈穂子。小柳は、ブロードウェイでこの作品を観たとき、宝塚でやりたい! と思ったという。そしてキャストは、フランクに紅ゆずる、ハンラティに七海ひろき、今の宝塚が誇る二大ワンダー激突。宙組から組替えの七海は、これが星組での最初の舞台である。
 そして、実際に舞台を観て、何故自分がこの作品を宝塚で観たいと思ったか、その理由を深く理解したのだった。

 物語は実話を基にしている。フランク・W・アバグネイル・Jrは実在の詐欺師で、1960年代、パイロットや医師、弁護士に成りすまし、世界中で小切手偽造事件を起こした人物。そんなフランクを、ハンラティ捜査官は追う。次第に両者の間に通い合う心情。最終的にフランクはつかまり、その頭脳を生かしてFBIに協力することとなる。舞台版にはなかったけれども、私が映画版で一番好きなのは、ラストである――舞台版ならではの秀逸なラストについては後ほどふれる――。FBIで働くことになったフランクだが、…その朝、姿を現さない。「騙されたか?」と内心あせるハンラティ。そこへ、フランクがひょいと顔を見せる。ほっと胸をなでおろすハンラティ。大きく表情を変えることなくこの一連の心の動きを表現するトム・ハンクスの演技がすばらしかった。
 追う者と、追われる者と。相手を深く理解することなしに、追うことはできない。そして、追われる者も、自分の天才的犯罪を唯一理解する者に、次第に心を寄せるようになる。映画版にも舞台版にもある、やはり好きなシーンは、一人ぼっちのフランクが、クリスマスの日、FBIで一人仕事をしているハンラティに電話をするくだりである。
 三島由紀夫の「黒蜥蜴」にも似た物語であると思う。しかし、アメリカのこちらは実話で、最後には追われる者が追う者と友情を築き、FBIに協力し、人生で成功を収め、自伝は映画化され、ブロードウェイ・ミュージカル化される。このアメリカンなあっけらかんさ。「黒蜥蜴」の方は実話ではないが、本当の自分をわかられてしまったら死を選ぶ妖しくも美しき犯罪者は、実際の人生で死を選んだ作者自身をどこか思わせるところがある。この違い。国民性故か、メンタリティ故か――。
 私はといえば、こうした物語の場合、それはもう自動的に“追う者”に自分を投影しがちである。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」だったらハンラティ捜査官、「黒蜥蜴」なら明智小五郎。これは、舞台評論という仕事について考えたとき、ご理解いただけると思う。ほとんど仕事は捜査官と同じである。相手の舞台を観、書いた文章やインタビュー記事があれば目を通し、その相手について深く理解したいと願って日々を生きる。相手は華やかな舞台上にいて、こちらは暗い客席にいる。
 その意味で、この物語すべてを“ショー”として描く、テレンス・マクナリーの舞台版の脚本は優れていて、だから舞台版のラストは舞台版ならではなのである。舞台版では、さまざまな人物に扮する天才詐欺師と、さまざまな人物に扮する舞台の上の役者との間にアナロジーが成立している。医師になりすまそうとしたフランクが、医師の活躍を描くテレビ・ドラマ「ベン・ケーシー」を観て勉強するエピソードなど、さらに効いてくる。演じられるもの。その“虚像”の向こうにひそむ実像。それを追う、捜査官、否、舞台評論家――。
 しかし今回、この舞台を観ていて、捜査官サイドの方にも自分をわかられたいという気持ちがあるなとしみじみと思ったのだった。自分の推理が正しいのかどうか、知りたい思い。だからこそ、どちらかというと人生、捜査官サイドの方にいると思う自分は、この物語をこんなにも愛しているのではなかったか。
 フランクとハンラティの間に通う心情は、友情である。男と男の友情。それはほとんど恋にも似ている。人と心が通い、その相手についてより深く知りたいと願う気持ちはすべて、私にとって恋なのである。そして恋は何も、男と女の間だけに成立するものではないと思う。友情が、男と男、女と女の間だけに成立するものではないのと同じに。
 たまに、嫌になるのである。男と男の間に通う友情はすばらしく、それは女には理解できないものである、そんな態度を目の当たりにしてしまうと。そのような疎外感を覚えたとき、内心むきになる。いや、女と女の友情も、男と女の友情もすばらしいですよ、と。せっかくこの世に生まれてきた者同士、男女の関係なく、友情も恋も大いに育んでいきたいものだと思うけれども。
 映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、そのように女性を疎外する作品ではなかった。人と人との間の心の通い合いを描いていた。女性が男役を演じる宝塚歌劇で上演される場合も、そこに描かれる男と男の友情は、女と女の友情をも当然内包するものとなる。
 では、男と男とがこのような物語を演じる場合、いかにして女と女の友情、男と女の友情をも内包するものとなりうるか。それについては、次項にて。
私は、小柳奈穂子がブロードウェイでこのミュージカルを観て、宝塚でやりたい! と思ったという話を知って、心からうれしかったのである。宝塚を愛する者の気持ちをわかっているなあ…と思って。勝手に深い友情を感じる。「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」では、芸に秀でた男役トップスターよろしく、男前に、お茶目にウィンクを決めてみせた小柳だったが、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」では、ヒロインのソロのシーンあたりの演出に、少女のような照れが感じられて、それがとてもかわいらしかった。男役性と娘役性とを兼ね備えた宝塚歌劇の座付き演出家である。

 紅ゆずる、七海ひろき、二大ワンダーの話。
 紅ゆずるの方がどちらかといえばわかりやすいワンダーかもしれない。例えば、「黒豹の如く」では、金と権力に物を言わせて人々をいたぶる男に扮していて、興が乗れば乗るほど生き生きとして見えた。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でも、パイロットに医師に弁護士、さまざまな職業のコスプレに身を包み、その都度スチュワーデスや看護婦等々女の子たちに囲まれ、デレデレやにさがる様がキュート。見られて、快感。どこか自分に酔うような。役者向きである。
 七海ひろきの方はもっと訳がわからない。くたびれたサラリーマン・コートに身を包み、捜査官たちを引き連れて歌い踊る「Don't Break the Rules」のナンバーでも、ものすごくはじけているのだけれども、その沸点が普通とはどう考えても違うところにあるだろうという…。どうしてその温度で沸騰〜?! という感じ。そんな七海が演じた「ベルサイユのばら」のジェローデルは、これまで観てきた中で一番腑に落ちるこの役の造形だった。私にとって、ジェローデルは、まずもって変な人である。いかにも貴族的でクールな美しさをもっているのかもしれないけれども、そのすべての前に“変”が来てしまう人である。一人、空回りしている。それがどこか残念ですらある。そして、七海のどこか把握し難い変さと、ジェローデルの変さとは、それは見事に波長が合っていた。今回の舞台では、追い続けるうち、追う者に対し、どこか不思議な包容力を発揮。そして、たまにはっとする巧さを見せる。
 紅と七海、二人のワンダーが、ラスト、♪不思議、不思議…と歌っていたので、おかしくてたまらなかった。共にじっくり演技する場面が多いわけではないので、ラストで出会って、かみあっているんだかいないんだか、それもまたおかしく。しかし。私は二人をワンダー二大巨頭と考えるからこその期待がある。己のワンダーを思う存分発揮できているとき、ワンダーは強いのである。それが、二人は、どうもワンダーを発揮できなくなっているように見受けられるときがある。世間や常識にとらわれてか、ちんまり小さくおさまってしまうのはつまらない! ワンダーはあくまでワンダーを貫いてほしい。「ガイズ&ドールズ」では、紅のネイサン・デトロイトは次第に調子を上げ、14年間婚約しっぱなしで、自分はギャンブルをするわけではなくあくまで賭場を提供する人物のユニークさを出せていたと思う。ギャンブラー三人組の一人、ベニー・サウスストリートに扮した七海は、「カーネーション持ってるか?」と、賭場に行く合図のカーネーションを撫でて壱城あずさのハリー・ザ・ホースに柄悪くどやされる個所など彼女らしいおかしみが出ていたが、もっともっとやれる人だと思う。それぞれに唯一無二のワンダーを生かして、北翔海莉率いる星組を盛り上げていってほしいものである。

 それにしても。私は今回、反省したのである。ある物語に接して、瞬間的にあるタイプの役柄に自分を仮託する。その自動的な仮託をやめ、思考の幅をもっと広げていきたいものだと。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の物語でいえば、自分の中に、ハンラティ捜査官だけでなく、フランク・W・アバグネイル・Jrもどこか存在するのだと認めること。そうすれば、もしかしたら、この世のどこかにいる、私をフランクの如く追うハンラティの存在にもまた気づくことができるのかもしれない。