その人の友〜宝塚宙組「Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」に考えたこと[宝塚]
 ウィリアム・シェイクスピアの人生について具体的に多くを知っているわけではないなと、シェイクスピアを主人公に据えて描く宝塚宙組公演「Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」を観て思った。作品の中から何とはなしに浮かび上がってくるように思う姿はあるけれども。――美しい青年に愛を捧げ、その美しさをそのまま言葉で描き出そうとソネットを書いたこと。「女性と結婚してあなたのその美しさを子孫へと残しなさい」と最初は言っていたのが、次第に、「では私が言葉であなたのその美しさを残します」となっていく。芸術家の恋から生まれ出づる詩なる“子供”。――どうも、舞台作品を通じて何らかの“復讐”を試みていたのではないかと思われること。“復讐”と言っても人を殺めたりとかいったことではなくて、白井晃がオペレッタ「こうもり」演出の際に鮮やかに解釈してみせたような、あくまで舞台作品を通じてのそれだけれども。――そして、そういった“復讐”の際に、天というか神というかが何らかの力を貸したのではないかと思われること。グローブ座は天井が開いていて、しかも舞台装置や音響で雨だの嵐だのを見せられるわけではない。でも、例えばリア王を演じる役者が「風よ、吹け」「雨よ、降れ」とセリフを口にしたとき、実際に風が吹き、雨が降るということがあったのではないか。最後の作品とされる「テンペスト」を読んでいると、何だかそのように思える。
 率直に言って、今回の作品で描かれる姿に違和感があったというのは、まずは「君を夏の日に譬えよう」で始まるソネットからして妻に捧げるものとする、夫婦愛の物語となっていたからだと思う。何も自分の解釈だけに固執しているわけではない。例えば、Kバレエカンパニーの熊川哲也演出・振付「ロミオとジュリエット」においては、ロミオがジュリエットの前に恋を捧げるロザラインが、ティボルトと愛し合っているという設定になっている。私には15年くらい前から考えているロザライン側の物語というのがあるのだけれども、熊川版を観て、「その解釈もすごくおもしろい!」と思ったものである。要は説得力の問題である。
 “天才と悪妻”の構図に引きずられてか、物語は途中ミュージカル「モーツァルト!」風になっていくのだが、私にはどうも、シェイクスピアが名声や成功への野心と欲望のままに芝居を書いていた人とは思えず…。「わたしたちがシェイクスピアについてダンやベン・ジョンソンやミルトンほどにも知らないのは、たぶんシェイクスピアの悪意や怨恨や反感がどこにも見当たらないからです。作者のことを想起させるような『発見』で、妨げられることがありません。抗議をしたい、何かを説きたい、損傷を被ったと申し立てたい、恨みを晴らしたい、自分の苦労や怒りについて世間に知ってもらいたい、などの願望のすべてが、焼き尽くされ使い尽くされています。だからこそ詩情が淀みなく、妨げられることもなく、彼から流れ出ています」という、ヴァージニア・ウルフの言葉は示唆に富む(片山亜紀訳「自分ひとりの部屋」平凡社ライブラリー版より)。野心や欲望があるのだとしたら、それは、よりよい戯曲を書きたいというものでしかないように思えるのだけれども。
 シェイクスピアが自分の父親の職業に対してやたらと傲慢な物言いをするのも気にかかる。傲慢といえば、宮内大臣一座の役者リチャード・バーベッジに対して「お前は、僕の書いた台詞だけ喋ってればいいんだ」と言い放つのだが、はたしてこういうことを言う人だろうか…。
 息子が死に、妻に去られ、書けなくなってしまったシェイクスピアを、そのリチャードが、有名な「世界は劇場、人は誰もがみな役者」のフレーズをもって、励まし、説得する。お前は劇作家という役を演じて、書くんだ、と。リチャードを演じるのは沙央くらま。“沙央”が“沙翁=シェイクスピア”にちなんでいることは言うまでもない。その沙央の渾身の演技あって、ここが物語の最大のクライマックスとなる。沙央が、…書けなくなっている人を何とか励まして書かせたい! という強い一心をもって演じているからこそ、心を動かされる場面となっている。ただ、その一方で、…じゃあ例えば自分が書けなくなってしまって、「お前は舞台評論家の役を演じろ!」と言われたとして、書けるようになるだろうかというと、多分書けないと思う。じゃあ自分はどう励まされたら、どのような状況になったら書けるようになるんだろうかとずっと考えていて、昨日の朝になるまでわからなかったので、27日の公演の千秋楽までにこの文章をまとめることができなかったのだけれども。
 書きとめたい。そう思える舞台に、演技に出逢えたとき、書けるのである。というか、書くのである。書いているのである。「人は誰もがみな役者」論で言うならば、役者なり演出家なり劇作家なり、その人の役割を見事に“演じて”いる舞台人に相対したとき、すっと“舞台評論家”の役が降りてくるというか。

 というわけで、作品になじめなかった私は、舞台を観ながらまったく違うことを考えていた。シェイクスピアの豊饒な恵みを私にもたらしてくれた人物について。
 演出家・蜷川幸雄。
 蜷川幸雄だけがシェイクスピアを演出しているわけではない。蜷川幸雄だけがシェイクスピアを観客に紹介しているわけではない。けれども、私がシェイクスピアについて考えるとき、やはり真っ先に関連づけて考えてしまうのは蜷川幸雄なのである。現代に生きる人間で、そのように考える人は少なくないと思う。宙組公演では何作ものシェイクスピア作品への言及があるが、その都度、「蜷川さんの舞台では…」と思い出す。
 …時も、国も、遠くに住まう人がいる。その人が書いた手紙がある。それを、蜷川幸雄が、「この人はこういうことを言いたいんだと思うよ」とか、「この人のこういうところはちょっといい加減だよなあ」とか、適切な助言を差し挟みながら、丁寧に丁寧に、その人の素敵なところ、素晴らしいところをわからせてくれる。何だかそうやって、シェイクスピア作品の魅力、ひいてはシェイクスピア自身の人間としての魅力というものを教えられてきたと思ったのである。蜷川さんは、誰かと友達だとか誇らしげに言う人ではないから、「シェイクスピアと友達〜?」とか言いそうだけれども、何だかそうやって、大切な友人を紹介されてきたような、そんな思いがしたのである。最初にこの宙組の舞台を観たとき、私は、シェイクスピアを演じる朝夏まなとの隣に、蜷川幸雄の姿がはっきり見えて、…そして、“世界”という劇場で、そうやって自分の魅力を多くの人に伝えている演出家の姿を、他ならぬ劇作家自身が天から見ている、そう思った…。
 それで思い出した。あるところに、「我こそはインテリなり」という態の人物がいて、私が舞台好きというので、「僕は、シェイクスピアは、好きでね」と言ったのである(本当にこのように語句を区切って)。この人が好きなシェイクスピアと私が好きなシェイクスピアは何だか違いそうだな…と思って、まあ好きは人それぞれでいっこうに構わないのだけれども…と思っていた。それで、あるとき新聞広告記事のために蜷川さんにシェイクスピアについて取材する機会があって、最後の質問でこう聞いたのである。日本ではまだまだシェイクスピアは教養みたいな風潮があって、この新聞を読んでいる人たちには特にそういうところがありそうだけれども、そういう人たちに、シェイクスピアの魅力はこうなんだ! というところを語って下さいと。よしきた! という感じで演出家は語ってくれて、私はそれを原稿にした。すると、書き直しに次ぐ書き直し。恐らくこの多分に挑発的なところがどこかで引っかかったのかもしれないけれども、私は、蜷川さんから言葉を手渡された以上、絶対変えない! との思いで、決して大筋を変えることなく五回くらい書き直して事なきを得た。そして、舞台の初日が来て、劇場のロビーに蜷川さんがいる〜! と思って挨拶しに行ったら、演出家は一言、「…ありがとう」と…。そんなうれしいことを言ってくれた人はあと、熊川哲也芸術監督(英語で「Thank you!」だった)と齋藤吉正さんくらいなものである。そう言われたからその人たちの創る舞台に対して甘くなるということでは決してない。むしろ、これまで以上に真摯に真剣に臨まなくてはと思う。
 私にとって、ウィリアム・シェイクスピア作品とは、蜷川幸雄と共に存在しているということ。これは、名作とされるものがどのようなメカニズムで後世に残され伝えられていくかについて、非常に大きな手掛かりである。名作とは何も、そのものだけで名作として存在しているわけではない。多くの人がその作品を愛し、さまざまなことを考え、思いを吐露し、解釈を与える。そういったすべての事柄を吸いこみふくらんで、名作の存在はますます大きくなり、末長く語り継がれてゆくのである。
 私は、白水社から出ている小田島雄志訳のシェイクスピア全集を読むのが大好きなのだけれども、それは、作品の巻末の解説に、上演史や批評史がまとめられているからである。例えば、「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者」のフレーズで有名な18世紀の文学者サミュエル・ジョンソンは「リア王」の結末があんまり好きじゃなかったんだな…とか、さまざまな時代の人々が作品をどう受け止めたかがわかって、読んでいて非常におもしろい。「そうか、蜷川幸雄が演出したシェイクスピア作品を、同じ時代の人はこんな風に受け止めていたんだな」と、後世の人々が私の文章を楽しく読んでくれるようなことがあったら、うれしいだろうな…と思う。まあ、過去より未来より、大切なのはまず現世であって、シェイクスピアの魅力を広めんとする演出家のみならず、多くの舞台人の役に少しでも立てたなら、文章を書いていてこんなにうれしいことはない、そう思う。