フィギュアスケートGPシリーズロシア大会エキシビションの羽生結弦の演技[フィギュアスケート]
 大きな愛に包まれ舞う、一羽の白鳥。生まれた願い。美を司る大いなる存在よ、この気高き魂を守りたまえ――。胸に広がる感謝。私の希求する美を体現する可能性をこれほどまでに秘めた芸術家に、この人生においてまたもや出逢えたことへの。
 ふと浮かぶ。例えば公園で白鳥を見る。美しい、そう思う。そのとき、その白鳥の雌雄は問題だろうか――。ライオンやクジャクのように雌雄の差が如実である種族を別として、動物を美しいと感じるとき、その雌雄は特段問題とはなっていないだろう。ただ、美しい。翻って、人間は?―― 男性美、女性美、それはもちろん存在するだろう。けれども、性別を超え、ただ人間として美しい存在。そんな存在に、私は子供の頃から心魅かれ、その美を書き表し書き留める人生を選び取った、あるいは、与えられたのではなかったか。
 「白鳥の湖」。湖のほとりに、人間とも白鳥ともつかぬ存在がいて、その姿がただ、美しかった――。原作とされる物語も読んだことがあるけれども、私にはどうも、チャイコフスキーの創作の原点にはそのような美への根源的な感動がまずはあったような気がしてならない。そのとき、その白鳥の雌雄は問題だろうか――。
 美は性別を超越する。そして明らかとなるのは、性というこの不自由な軛である。もちろん人は生物学的に、男として、女として生まれてくる。だが、その心は? 男か女か、そのどちらかですぱっと割り切れるほど単純なものではないだろう。現に私自身がそうである。パンツルックは似合わないし好きではないので、ワードローブにはワンピースとスカートしかない。ファッション的には私は非常に“女性的”であるということになる。かつて私が「宝塚の男役のような存在になりたかった」というひそやかなる願望をあらわにしたとき、(http://daisy.stablo.jp/article/448444964.html)、…やるならむしろ娘役では?…という盛大なツッコミがあったものである。では、今私がこうして書いている文章は? 学生時代から“男性的”と評されてきた文章は。――男か女か、そのどちらかでは決して割り切れない、この私の心。
 人とは本来両性具有的な存在であるのだろうと思う。まずはそれが楽だから、というか、楽ということになっているから、生物学的な分類に従って生きる。けれども、その軛がどうしようもなく不自由に思えるときがある。そして、美にふれる。厳然と性を超越して飛翔する、美に。そのとき、内なる男性性と女性性の双方が解き放たれて、私は限りなく自由である。そこにめくるめく陶酔を感じる。そこでは私は女ではない。男でもない。ただ、ありのままの私である。その至福。幽体となり、雲の上をふわふわとただようような。

 今回の大会は、男女ショートプログラムと男子フリーは地上波でオンエアされた分はだいたい観た。さまざまなプログラムを目の当たりにして、振付や編曲や音楽の表現などについて、思うことはいろいろあり。
 その上で羽生結弦の演技を観ていて、…ああ、この人は、私が最初に受け止めた以上のことを成し遂げようとしているんだな…と、その覚悟の程に改めて背筋を正される思いがあったのである。かくなる上は、自分もさらなる覚悟が必要である――と、フリーの「SEIMEI」の凛々しくも男らしい演技に気を引き締めていたら、翌日はかくもふにゃあと愛らしく。その振り幅。
 現代生活の忙しさの中、人生において、たった二分半、四分半だけでも、ただ目の前のその人のその演技に集中する、このうえなく贅沢な時間。――それにしても。集中して観るとなんであんなに疲れるんだろう! 自分が滑ったわけでもないのに、フリーの翌日、昼過ぎまで惰眠を貪るあひるであった。次のNHK杯は海外出張と重なっていて、リアルタイムで観られるかわからないのが残念だけれども。

 ↓白鳥モチーフ好きのあひるが最近よく着ているコートの刺繍。

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2017-10-24 00:01 この記事だけ表示