The Masterplanその1〜『アダムス・ファミリー』[ミュージカル]
――We’re all part of the masterplan. (Oasis “The Masterplan”)

 白井晃が演出するミュージカル『アダムス・ファミリー』がKAAT神奈川芸術劇場ホールで上演されると知って、自分にとってきっと何か大きな意味のある公演になるだろうと思った。そして、自分の予感した通りになった。――“舞台”と“役者”が揃っていた。かつて、「私は確かにこの世界の一部だった。そのことを感じて、私はこのうえもなく幸せだった、と――」と感じ、記したことがある。2011年、東日本大震災のあったあの年。そう感じたのが他でもない、KAAT神奈川芸術劇場近くの駐車場だった。その日は『国民の映画』の初演を観にKAATに足を運んでいた。そして、作品で“芸術の庇護者”ゲーリングを演じていた白井晃さんと駅で偶然一緒になり、いろいろとお話しさせていただきながら帰った。人生にはさまざまな日があるもので、その思い出の濃淡はそれぞれだけれども、決して忘れられない一日というものもまた、ある。

 アメリカン・コミックをベースとしたブロードウェイ・ミュージカル『アダムス・ファミリー』は、2014年の日本初演版から大好きな作品である。映画版も2本作られ、日本でもCMでそのテーマソングが流れていたから、聴けば「あれね」とおわかりの方も多いだろうと思う。だが、ミュージカル版は映画版とはまた異なる話となっている。お化けのアダムス・ファミリーはニューヨークのセントラルパークに宏大な屋敷を構えている。家長のゴメス。その妻モーティシア。娘のウェンズデーに息子のパグズリー。グランマ。そしてゴメスの兄のフェスターおじさん。執事を務めるのはゾンビのラーチ。キャラクターがそれぞれ実に濃い。ラテン系のゴメスとクールなモーティシアはお互いにメロメロで、「一日最低二回!」がモットー。ウェンズデーはボウガンを振り回す不気味な無表情のおさげ少女。姉に拷問されるのが大好きなパグズリーは、爆発物もお手の物。100歳を超えて生きるグランマは隠れて大麻を吸ったりする不良老人。月のような禿げ頭のフェスターは、性的指向が不明ながらも今は月に恋している。
 ウェンズデーがボウガンを振り回しているときに出会って恋に落ちた人間の青年ルーカス・バイネッケと、彼の両親マルとアリスが、そんなアダムス家のディナーに招かれてやって来る。ウェンズデーの望みはただ一つ。どうかこのディナーがうまく行くよう、そしてルーカスとの結婚が認められるよう、ごく普通の一夜を過ごすこと。彼女は結婚の意思を父ゴメスにだけ打ち明ける。母モーティシアにぶち壊されては困るからと。そこで、父と娘は母に対して秘密を持つ。ディナーは進む。アダムス家恒例の大暴露ゲームが行なわれる。聖杯に口をつけ、それぞれが心に隠していた秘密を明かすというゲーム。パグズリーは、姉が結婚して自分をもう拷問してくれなくなることを恐れている。そこで、グランマからこっそりくすねた秘薬を聖杯に入れる。飲んだ人の心の闇があらわになってしまう秘薬を。その聖杯をウェンズデーが飲んで、結婚話がうまく行かなくなることを願って。ところが、その秘薬をルーカスの母アリスが飲んでしまい、マルとの結婚生活に対する不満をぶちまけたから大騒ぎ。ウェンズデーの結婚話も明かされ、聞いていなかったモーティシアは大激怒。はたしてウェンズデーは無事ルーカスと結婚できるのか。そして、夫婦間に何の秘密がないこともモットーとしていたゴメスとモーティシア、不満が大爆発したマルとアリス、二組の夫婦の行方は――?
 改めて、不思議な物語である。お化け一家と普通の人々との融合を描くばかりではない。アダムス家は年に一度、死者を呼び起こしては共に踊り狂う。終われば祖先たちはあの世に戻る。だがこの年は、ウェンズデーの恋がうまく行くよう、フェスターおじさんがあの世とこの世との間の扉に鍵をかけてしまっているから、祖先たちはあの世に戻れない。彼らはこの世にあって、恋や夫婦関係のてんやわんやを見守る――そして、舞台上では、木をはじめとする舞台装置をも動かして空間を形作る。生者と死者とが入り乱れている。
 大暴露ゲームの果ての大騒動を受けて、フェスターおじさんは、バイネッケ一家を帰らせないよう、嵐を起こす。まるでシェイクスピアの『テンペスト』のプロスペローである。プロスペロー。演出家の化身。劇作家の化身。そう、フェスターおじさんはさながら、この一夜の“演出家”である。そして狂言回し的存在でもある。フェスターおじさんは愛についても歌う。シーザーとクレオパトラは、ロミオとジュリエットは、本当にお互いにふさわしい相手だったのかどうか等々、盛大に茶々を入れながら。そして結局は、彼が祖先共々優しく見守る通り、ウェンズデーとルーカスの愛は成就し、二組の夫婦はより強い愛によって互いと結ばれる。結婚する娘を新たな生活へと送り出しアダムス家の家長ゴメスが到達するのは、「愛はすべてに勝る」という境地である。不思議な一家と、一見普通な人々との融合。
 私がこの作品は“劇場論”でもあると記したのはこの点においてである。人は劇場に行く。舞台上に立つのは、ある意味“普通”ではない人々である。人は普通、人前で大声を出したり歌ったり踊ったりしない。それが許されているのが劇場という場所である。その様を見守るうち、自分はあくまで“普通”の人間だと思っている観客にも、決して普通ではない状態が現れる。盛大に泣いたり笑ったり手を叩いたりする。普通人前ではそういうことはしない。それが許されているのが劇場という場所である。一見“普通”の人々が一見“普通”ではない人々に出会いに行き、自分の中にもまた“普通”ではないものを認めること、そうして互いの中にある“普通”ではないことを認め合うこと、ひいてはときに、普段“普通”と考えている状態が実は決して“普通”ではなく、普段“普通”ではないと考えている状態の方がむしろ“普通”であるかもしれないとの認識にさえ至ること、それが、劇場という空間の持つある種の魔法、魔力であり、この魅惑の作品に凝縮されて表現されている。その魔力を操るのが、ここではフェスターおじさんなのである。
 そして、フェスターおじさんは月に恋している。チャイコフスキーが白鳥に恋したように。彼が月への思いを歌う「月と僕」は、実に不思議な美しさをたたえたシーンである。かつて白井晃は『アンデルセン・プロジェクト』でロベール・ルパージュ演出作品に出演したが、フェスターおじさんと月との恋を描く場面では、そのルパージュの影響をも思わせる秀逸な演出が施されている。フェスターおじさんはロケットに乗って月へと飛び、月と一つとなり、カーテンコールでは月との間に生まれた子供を抱いて登場する。『白鳥の湖』の音楽が、一体となったチャイコフスキーと白鳥との間に生まれた“子供”だとしたら、フェスターおじさんと月との間に生まれた子供もまた“芸術作品”に他ならない。フェスターおじさんが月への愛を吐露するシーンで流れるドビュッシーの『月の光』もまた、一体となったドビュッシーと月との間に生まれた子供かもしれない。――それにしても。人はつくづく、さまざまなものと一つになりたいと願うものである。
 そして私はそんなフェスターおじさんに恋する。そういう人間なのである。美に生き、美を体現する人々に恋をする。そしてその“恋”を言葉で書き留める。恋をしたからその相手が美しく見えるわけでは、決して、ない。

 私は『アダムス・ファミリー』のすべてのセリフを、すべての歌詞を、今の自分に向けられたものとして聞いた。娘の成長。それに戸惑う父と母。子離れの時――。妻の不満。それと向き合い、長年のうちに自分自身を塗り込めてしまった固い殻から出てくる夫。喜び。――そして、愛。「愛こそすべてに勝る」。それは、救いでもある。どんな絶望にあったとしても。
 ――そして私は、かつて、「私は確かにこの世界の一部だった。そのことを感じて、私はこのうえもなく幸せだった」、そう感じたのと同じ、あの場所に立っていた。心に痛切な思いがあった。人に心などなければいいと願いたくなるような痛みが。他ならぬその痛みが私に告げていた。お前は生きている! 生きている、と――。「生きているうちにこの世の感情すべてを味わい尽くしなさい」――そう言った人の魂はなおも、生きていた。
 リヒャルト・シュトラウス先生による、オクタヴィアンとの使命は終わっていた。いつ?
 ――わからない。私にそのときわかったのは、もうはっきりと終わっていた、ただ、そのことだった。
2017-12-29 22:26 この記事だけ表示