愛の場所〜「平昌オリンピック」フィギュアスケート・エキシビションの羽生結弦の演技[フィギュアスケート]
 平昌オリンピックの羽生結弦のフリースケーティングの演技を観終わった段階では、…もう、エキシビションには出なくていい、出てほしくない、それくらいの気持ちだった。
 …全然見抜けなかった、という思いがあった。平昌入りした彼の表情があまりに柔和で、滑ることの幸せに満たされていたから。完治とはいかなくても相当程度怪我が治ったのだと思い込んでいた。フリーの演技を観ているうちに、次第に、…治ってなかった! …との思いがふくらんでいった。だから即座に、「完治第一! 無理禁物!」と記したのだ。
 …心に甦ってきたのは、かつて劇場で見かけた熊川哲也芸術監督の姿だった。芸術監督がやはり怪我から復帰しようとしていたとき。客席で見かけた彼は、若干とはいえ足を気にして歩いているようだった。けれども。その日の舞台の演出家/振付家としてカーテンコールに登場したときは、「怪我? 何それ?」とでも言わんばかりの、普段とまったく変わらぬ様子で歩いていた。
 彼らにとっては、そういう場所なのである。自分の事情、内情を見せる場所ではない。芸を見せる場所である。スケーターはリンクに立てば滑り、バレエダンサーは舞台に立てば踊る。たとえその身体にどんな苦痛を抱えていようとも。そのことを、改めて思い知った。痛いほどに。

 出なくてもいいと思った。けれどもやはり、栄光に輝いたその心を表明する上で、エキシビションほどふさわしい場所もないだろう。
 サン=サーンスの『瀕死の白鳥』を原曲とした、『星降る夜』。ラブソング。――その曲にのって、白鳥が、愛の中をただよい、飛び、舞っていた。時を止めたかのように美しいディレイド・アクセル。まるで、彼がいるスケートリンクの空間全体が、愛で満たされた水槽か何かのように見えた。――その後、母の母校である東京女子大学のチャペルで、教会オルガニストが奏でるバッハの『主よ人の望みの喜びよ』を聴いたとき、悟ったのだった。その刹那、チャペルの空間全体が神の愛で満たされるようだった。たとえ現世でどのような困難があったとしても、その愛は、そのときその場に集いし者を優しく包容する。そして、各自がその愛をもってまた現世の困難へと立ち向かい、世界を愛の場所へと変えていくことを希求している。あのエキシビションの場もまたそのような空間だった。その愛の場所が、スケートリンクを超えて、さらに大きく広がっていくことを私は願った。彼がいつの日も大きな愛に包まれているように――。幸せだけを願った。長い人生、いろいろなことがある。それが人生である。それでも、そのすべてを幸せへと変えていける力を、彼が自分の内から生み出していけますように。
 何も聖人君子になる必要はないと思います! 人間なんだから。若くして立派になりすぎるのも何だか心配で。と、これは余計なお節介かもしれず。

 自分が無用な心配をしすぎることにかけては自信がある。それゆえ、平昌オリンピックの前は、羽生結弦がオリンピックに出られるかどうか、心配しないようにしていた。一切考えないようにして、天に任せた。だから、オリンピックが終わってから、そのころ数多出版された分も含めて、フィギュアスケートにまつわる書物を貪るように読んだ。――改めて、先駆者たちの苦労に思いを馳せた。日本人であるというだけで点数が出なかった時代があって、がむしゃらに突き進んできた多くの人たちがいて、今がある。
 それと同時に気づいたこととは。かつて、少女の時代にフィギュアスケートを観ていたころには、採点競技であるがゆえのもやもやというのはやはりあった。そして、舞台評論家になってからは、自分は評論はするけれども、採点ということはしなくていい、そんな思いもあった。けれども、舞台評論を自分なりに続けてきた今、採点するジャッジの苦労が非常に身近に感じられるようになってきたのである。私は言葉で、芸について、演技について記す。それぞれに違うその演技について、それぞれのその違いを微細に書き分けて表現していかなくてはいけない。結局のところ、それを言葉に落とし込むか、点数に落とし込むか、その違いでしかないことがわかってきた。自分が向き合っているその対象分野の可能性をいかに拓いていくか、そのために自分はどのように評論するのか、どのように採点するのか、通底するのはそんな究極目標である。そのことに気づけたとき、再びこの競技に向き合うことができたことを、幸せに思った。

 そして浮かんださまざまな興味、論点。
 …バレエって、どうして転ばないんだろう…と思った。もちろん、まったく転ばないわけではない。一度、とある来日公演で、主役に抜擢されたばかりの若手ダンサーがそれは見事にスッテーンと転んでしまい、逆に客席が、…大丈夫? 頑張れ頑張れ! と温かく応援する気持ちで盛り上がって、結果としていい舞台になったという経験はある。しかし、基本的にバレエでは転ばない。もちろん、バレエとフィギュアスケートでは靴も違えば床も異なる。練習での成功率が低い技を、バレエは本番では披露しないけれども、フィギュアスケートでは勝負のため敢えて挑戦するということもあるだろう。けれども、そういうことを超えて、メンタルの問題が原因だとしたら。練習ではほぼ転ばないのに、本番では転んでしまう、そのとき、舞台人が舞台で演技を見せるような感覚で取り組むことによって、状況を打破できる可能性はないだろうか――。
 フィギュアスケートと舞台芸術との関わりについて。とある書物で、伊藤みどりの恩師として名高い山田満知子コーチが、少女時代、宝塚の人にフィギュアスケートを教えてもらっていた…という記述にぶつかった。宝塚歌劇団では戦後の一時期、アイス・ショーの公演も行っており、白井鐵造が戦前発表した名作レビュー『花詩集』をスケートリンクで『花詩集オン・アイス』として上演していたこともある。その時代は宝塚音楽学校でもスケートの授業があったこと、そんな中からアメリカに渡ってスケーターとして活躍した姉妹もいたこと、そしてそのショーの上演風景など、かつて出演されていた方にお話をうかがうこともできた。また、かつてのアイス・ショーは東宝の演劇部や日劇関係者などが関わっていたという。
 明治から戦前までの近代建築を好む関係で、劇場史、興行史をも含んだ盛り場の歴史にも興味があるのだが、戦前のモダン・シティには、集客施設としてスケートリンクを作ることが流行していた時代があったようである。私がたびたび買い物に行く新宿伊勢丹本店にも、かつてスケートリンクがあった。銀盤きらめくモダンなビルが立ち並ぶモダン・シティを、私は夢想する。
 もっとも大切な論点としては、フィギュアスケートと音楽との関わりがある。宝塚月組公演『カンパニー』を論じた際にも少し記したが、突き詰めていけば、日本人が西洋音楽をどう受け止めていったか、その受容史とも関わる問題である。フィギュアスケートのみならず、舞台芸術全般に関わる問題として、これからますます考察を深めていきたいと思っている。

 そして、彼は、多くの人々に私を出逢わせてくれた。
 平昌オリンピックの男子フリースケーティングの次の日、女子のスピードスケート500メートルで、小平奈緒選手が滑っているのを観ていた。羽生結弦選手が勝つと言って勝ったことに、感銘を受けているのだな…と思った。そして彼女は勝利した。そのインタビューで、羽生結弦選手にふれていた。…考えてみれば、スピードスケートで何かが伝わってきたという経験は、それが初めてだった。必ずしも何かを表現する競技ではない。けれども、自分が思う美しい滑りというものを表現すれば、それがスピードにもつながっていくということもあるのかなと、そのとき思った。
 インタビュアー中居正広にも同業者として大いに興味が湧いた。スポーツ報道を楽しく盛り上げている松岡修造にも。そしてもちろん、解説やコメントといった形で関わる、多くのフィギュアスケーターたちにも!

 平昌オリンピックの羽生結弦のフリースケーティングを観て、「闘いましょう!」と私は記した。この世界を、愛の場所に変えていくために。愛の空間を、さらに大きく広げていくために。愛の力をもって、自らの立つ場所を変えていっている人を私は知っている。だから、羽生結弦選手とその愛すべき仲間たちにも、それは可能である。
 そしてすでに、世界は変わっていっていると思う――。
 これからも、その闘いに、少しでも役に立つことができたなら。それが私の今の願いである。

 最近あひるのもとにやってきたワンピースの白鳥。

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2018-07-02 23:09 この記事だけ表示