Kバレエカンパニー『ドン・キホーテ』←『ロミオとジュリエット』[バレエ]
 11月16日18時半の部、東京文化会館大ホール。
 第一幕。カポーテ(闘牛士のケープ)を激しくひるがえして踊るエスパーダ役の栗山廉(80年代のボーイズアイドルを思わせる美男子である)のあまりのかっこよさに、…「きゃっ」と声が本当に出そうになるのを抑えるのが大変だった。それくらい、熱の入った、堂に入ったカポーテさばき! 宝塚でも、マントさばきの美しさに男役としての成熟度が出るからして。第二幕。…ううむ。カポーテなしだと、声は出ない感じかな…。第三幕。カポーテ復活。これこれ! 再び昂揚。…なぜ、布を持っているのと持っていないのとで、こうも自分のテンションは変わるのか。布という客体があることで、何かに必死に、ひたむきになっている、その表情が現れやすいからか。今後の研究課題。
 バジル役は山本雅也。…こちらが落ち込んでいるとき、何食わぬ顔でおもしろいことをして笑わせてくれた後、「元気出せよ」と肩を叩いてくれて、…あ、気づいて心配してくれてたんだ…とうれしくなるような、そんな、明るい好青年の魅力。第三幕、黒い衣装で出てくると、ぐっと色気が増す。そして、回転しながらその脚で鋭く宙を切り裂いていったとき…、観ているこちらの胸も、一瞬、鋭く切り裂かれるような気がして。それにしても、バジルはキトリに激しくチュッチュチュッチュしていて、…数年前、銀座の四丁目交差点付近で迷っていたので道を案内した、その出会ってわずか5分後には隙ありとばかりにほっぺにキスしてきた見知らぬスペイン男のことを思い出し…。いや、たった一人の印象で決めつけてはいけませんが、でも、スペイン男…。
 キトリ役の小林美奈は大柄な人ではないので、第一幕の衣装、たっぷりとしたスカートが少し重そうに見えたのだけれども、グラン・パ・ド・ドゥでは山本バジルと丁々発止のテクニシャンぶりを見せて。『ドン・キホーテ』のバジルと言えば、熊川哲也芸術監督の当たり役としてよく挙げられる役柄(個人的に好きなのは『コッペリア』のフランツなのですが)。ということで、全体的に猛特訓が行なわれたことがうかがえる、引き締まった舞台。もちろん、夢追い人ドン・キホーテには、美の夢を追い続ける人の姿が投影されて。1999年、芸術監督がバレエカンパニーを立ち上げたとき、彼をまるでドン・キホーテでもあるかのように言う人もいなくはなかったなと。でも、来年でもう設立20周年。夢は美しい現実となり、さらなる美しい夢に向かって前進し続けていっていて――。

 バジルが死を装って、キトリとの愛を成就させようとする場面。
 …先月のあの美しい『ロミオとジュリエット』のパロディにしちゃうの、ちょっと早すぎやしなかった?(苦笑い)
 私はとりあえず、先週末が終わらなければわからないと思った。それがあっての「また後日」だった。…気持ちはわかる。でも、たとえあの“物語”がその前の時点でもう終わってしまっていたとしても、私は、あの『ロミオとジュリエット』が観られただけでも――見守る人の心の美しさにふれられただけでも――“物語”の価値はあった、そう思っていたから。…私はあくまで、作品の美しさ、その名誉のために言っているのですが。願わくば、2018年版『ロミオとジュリエット』も、2011年版『ロミオとジュリエット』と同様、永らえんことを(2011年版についてはhttp://daisy.stablo.jp/article/448444611.html及びhttp://daisy.stablo.jp/article/448444612.html>。でも、今回の『ドン・キホーテ』で、久しぶりに芸術監督のやんちゃな魂にふれられて、何だかうれしかったなと(最近めっきり円熟路線だった故)。
 それで、『ロミオとジュリエット』のときに書き残したことを一つ。
 私たちは、残された肖像画を通じて、シェイクスピアがどんな顔をしていたか、何となく知っている。けれども、シェイクスピア作品を愛するというとき、それは、あくまでその文章に対する愛であって、シェイクスピアの見た目自体ははたして、その愛の理由に含まれているんだろうか。舞台に立つ人間、生身で美を体現する人間においては、その人の見た目と美は不可分であるから、その人の体現する美を愛するというとき、そこには見た目に対する愛も当然含まれているだろうけれども、物書きと文章においては、そういった関係性は必ずしも成立するものではないような。F.スコット・フィッツジェラルドの研究をしていた私の母が、「やっぱり顔も好きだったんだと思う」と真顔で語ったときがあって(“ジャズ・エイジの寵児”と呼ばれるにふさわしい美男ですよね)、無論、そういうところから入る愛もあるとは思うものだけれども。
 舞台に立つ人間は、演技が終わって、目の前にいる観客から拍手をもらうことができる。物書きにおいてはそうはいかない。誰がいつ、どこで読んでいるかもわからないし、拍手をもらうということもない。昔はうらやむこともあったけれども、今では、それぞれ異なるつながり方をしているだけなのだと思うようになってきていて。そう考えると、会ったこともない、顔も見たこともない人間の書いた文章を、会ったことのない誰かが愛してくれるというのは、物書きにとってはある意味、究極の経験であって。
 あ、でも、何も私は、ただただ芸術のために、他のさまざまな思いを犠牲にして、会わない、話さない相手と、もっぱら文章を通じてコミュニケーションを取ろうとしているわけではないですよ。美の追求のためだけにそのような状況を作り出そうとか、そんな思惑なんて一切ない。ただ、なぜか、そういう状況が多発するというか…。私だって普通に人と会っても話したい、そう長らく思い続けているのだけれども、不器用なのがいけないのか、なかなかそうはならなくて…。ときに自分でも激しく困る。
 来週の記者懇談会、3月の会見以来の肉声を聞けるのを楽しみにうかがいます。
2018-11-24 23:37 この記事だけ表示