「私、ときどき、鬼になるわ」宣言〜NODA・MAP『贋作 桜の森の満開の下』
 舞台ラスト、主人公・耳男(妻夫木聡)と夜長姫(深津絵里)は壮絶な闘いを繰り広げる。耳男は、夜長姫の鬼の仮面の角を取り、彼女の身体に突き立てる。…これは! クリエイターと評論家のあるべき姿ではないかと! スリリングで、セクシーで…。これ、やりたい〜! 高揚するあひる。
 耳男は仏像を彫る人。夜長姫を呪いながら彫った仏像は評価を得たけれども、その名声を受けて、「夜長姫、好き好き」とばかりに彫った仏像は…。舞台では、その顔は、「へのへのもへじ」が描かれた巨大な風船として登場する。わかる! 好き好き言っているだけだと、関係性に何の緊張感もないんだわ。自戒をこめて言うのだけれども、「好き」って思うに中毒性のある感情で、ものすごく気持ちがよくて…。もちろん、人には、そのときどきで「好き」をたくさん言われなくてはいけない状況というのもある。長らく、ものすごく自尊心が傷つけられてきた人とか。でも、ただ漫然と「好き」に酔っているだけだと、それが単なる自己愛へと変化することだってある。
 だから。私、ときどき、鬼になるわ。
 ここで整理。「鬼になる」のは、「魔物になる」のとは違う。例えば、あひるが、誰かの魔物になる、とする。この場合、その誰かの心の中のネガティブなものが、あひるの形になってしまっているということ。類似の表現に、「黒鳥になる」というのもある――『白鳥の湖』の、あの黒鳥。人に、裏切られた! と思う――それは、その相手に裏切られたのではなくて、自分が相手に勝手に抱いていた期待に裏切られたということも多い。
 魔物も、黒鳥も、人から投影されるもの。それに対して、「鬼になる」は違う。こちらが自発的になる。自ら志願して、なる。「魔物だよ!」とか「黒鳥だよ!」とか、ひるむことなく指摘する。そのことで、ときには角を突き刺されることもあるだろう。当然、痛いだろう。うーん、自分でも、どこかマゾヒスティックだなと…。でも、それでこの世に一つでも多くの美が生まれるんだったら、評論家冥利に尽きるというものであろう。別に、自分にヒロイックに酔いたいわけではないのですが、何だかそれが、今の自分が果たすべき役割なのかなと。
 だから。私、ときどき、鬼になる――もう何度か、なった――わ。

 昨年夏の歌舞伎版と、まったく印象が変わった。一番変わったのは、マナコ役の存在――役者の違い、その演じ方の違いということだけではないと思う。マナコ役には、「俺は銀座のライオンで……」に始まる、シャガールの絵の美しさよりその値段に目を奪われたと語る“俗物性スピーチ”がある。今回の舞台でのマナコ(演じるは古田新太)は、自らの俗物性を認めながらも、それでも、耳男が彫った「へのへのもへじ」の、作品としてのひどさを看破する鋭さを強く感じさせて。“俗物性スピーチ”を朗々と語る姿は、ほとんど神々しくすらあった…。
 天海祐希が久方ぶりの男役で演じたオオアマ。――私はちょうど、フィギュアスケートをきっかけに、『蝶々夫人』についてきちんと考えなくてはならないと決意し、その過程で、野田秀樹の『パンドラの鐘』を思い出した。あのとき、野田版で、天海が演じたヒメ女と、今回のオオアマとが重なって。蜷川幸雄がシェイクスピア作品の王を考えていたとき、私は、宝塚のトップスターについて考えることで対峙していた。だから、野田秀樹が天皇制について考えるならば。
 鬼の一人、ハンニャ役の秋山菜津子が、お尻をふりふりしているかわいさが、忘れられなくて…。「鬼になる」上で参考にする。
2018-12-30 19:04 この記事だけ表示