宝塚星組『霧深きエルベのほとり』『ESTRELLAS〜星たち〜』&七海ひろき退団[宝塚]
 …蜷川幸雄の前は、菊田一夫だったのかな…と思ったりもする。『霧深きエルベのほとり』は、その菊田一夫の手により1963年に初演された作品の、36年ぶりの再演である。
 今年の一月末に亡くなった橋本治に、明治から昭和にかけての日本の歌謡集の名曲を論じた『恋の花詞集 歌謡曲が輝いていた時』という著作がある。明治三十二年の『青葉茂れる桜井の』を始めとする64曲を取り上げ、日本の歌謡曲論、ひいては日本人論が展開されてゆく。そのラストに登場するのが、昭和四十年(レコード発売年)の『霧深きエルベのほとり』の表題曲である。
 「♪鷗よ つたえてよ/我が心いまも/君を愛す」のリフレインが印象的なこの歌について、宝塚だから歌詞がちょっとばかり甘い、と言いながらも、橋本は、こういう歌を男の歌手が歌わないことが不思議である、昭和四十年代に入ると男の歌はみんな愚痴ばかりであったとし、その上で「私は、男として宝塚に恥ずかしい」と書く。別れて、遠く離れて、伝達手段がなくて、それでも愛しているのであれば、鷗に頼むくらいの根性がなぜないのかと。こういった歌を男の歌手が歌わなかったということは、すなわち、そういう常識がなかったということだと彼は言う。このあたり、作者の最高に洒脱な語り口が炸裂するところなので、ぜひお読みいただきたいのだけれども、最終的に彼が到達するのは『恋愛論』ともつながる結論であって、『恋の花詞集』はこのような言葉で締めくくられる。

「自分の胸の内は自分にしか分からない。だからこそ、それを知った以上、自分の現実は自分一人で始めるしかないという、いたって簡単なことが、どうして存在しないんでしょうか?(略)という訳で、男には意外と、自力で自分の思いを貫き通そうという発想がないんですね。別に『恋』が終わったんじゃない。まだ『恋』が始まっていないだけなんですね。(略)恋とは、自分の生き方を教えてくれる羅針盤なのに――。」

 というわけで、私は、『霧深いエルベのほとり』の以前の上演は観たことはないながらも、『恋の花詞集』を通じて表題曲については知っていた。そこへ、新鋭上田久美子が作品の再演を熱望し、潤色・演出を手がけるとのニュース。
 そして、主人公カール・シュナイダーを演じる星組トップスター紅ゆずるの退団発表から一週間ほどして、東京公演初日の幕が開いた。

 『霧深いエルベのほとり』は身分違いの恋がテーマである。ハンブルクの港町で、船乗りのカールと、家出してきた深窓の令嬢マルギット(綺咲愛里)が恋に落ち、二人は結婚を誓うが、マルギットの実家に戻ってみれば、カールはそぐわない人間である。マルギットの父からの手切れ金を受け取って、カールは出て行く――金を受け取ったのはあくまで彼女の父を納得させるためだけであって、後で返すつもりなのである。そして彼は再び海に出る。追ってきたマルギットを港に残し、彼女の幸せだけを願って、「♪鷗よ つたえてよ」と歌いながら――。
 カールには、以前にも恋に破れた経験がある。家族の生活のため、かつての恋人アンゼリカ(音波みのり)は金持ちと結婚した。だから、ハンブルクへの入港を前に、幕開きで歌われる「♪鷗よ つたえてよ」の相手は、マルギットではなくアンゼリカ。一度ならず、二度までも。嘆息。
 私は、初めてふれるこの物語に、…たまったもんじゃないだろうな…と、カールの心に深く残る傷を思い、共に絶唱したいほどだった。カールは、そしてマルギットは、この後どのような人生を送るのだろう。マルギットはおそらく、このような事件があってもなおも彼女を愛し続ける聖人君子のような婚約者フロリアン(礼真琴)と結婚するのだろうけれども、カールとのことは、どんな思い出となっていくのだろう――。万が一、「青春の日のいい思い出です」などと言うようなことがあれば、カールに代わって強烈なキックをその心にかましたい。しかしながら。ある人が、「女が非常識なのよ。こんな相手と恋に落ちて」とマルギットを評していて、それも違う、と思った。「恋ってたやすく常識を超えていくものではないですか」と、ムキになって、正面きって、言い返してしまった…。
 初演の作・演出を手がけた菊田一夫は、貧困家庭に育ち、小学校中退で半ば売り飛ばされるような形で丁稚となり、詩人を志してサトウハチロー門下に入る。そして、ラジオ、舞台、映像とさまざまな分野でヒットを飛ばす。愛する者の幸せのため、悪者を“演じて”まで自らの恋をあきらめる主人公に、作者が託した想い――。菊田一夫こそ、戦後の日本の多くの人々の心をとらえ、熱狂させた、日本舞台芸術界の雄であった。
「(主人公の思う)幸せが、今の時代と違うから」役作りには苦戦したと、紅ゆずるは初日前会見で語っていたけれども、そんな苦戦を感じさせない主人公の造形だった。――彼女が退団発表記者会見でボロボロ泣く姿を、ニュース映像で見た。紅がカールに託した想いとは、「♪鷗よ つたえてよ」の歌詞に乗せる想いとは、心から深く愛しながらも去らなくてはいけない、宝塚歌劇団への愛なのだった――鷗ではなく、あひるがつたえるけれども。
 宝塚の男役は、哀愁が似合ってこそ一人前であると、以前からなぜか強く思ってきた。それは、宝塚が、退団という形でいつか去りゆくことを宿命付けられた世界であるからなのかもしれない…と、紅演じるカールに、その歌声に、改めて身を切られるような思いだった。上田久美子の演出で、紅ゆずるの主演で、今、『霧深きエルベのほとり』を観られて、――菊田一夫の魂にふれることができて――、よかった。

 『ESTRELLAS〜星たち〜』で一番好きなのは、「Tonight Is What It Means to Be Young」に乗って、星組生たちが踊りまくる場面である。ミュージカル『ダンス・オブ・ヴァンパイア』のクライマックスでヴァンパイアが踊り狂うシーンの曲として有名なのだろうけれども、私はまずは、映画『ストリート・オブ・ファイヤー』(1984)の劇中歌として出会い、そして、「今夜はANGEL」のタイトルで主題歌として流れたドラマ『ヤヌスの鏡』(1985〜1986)も毎週欠かさず見ていた。
 『ストリート・オブ・ファイヤー』、宝塚で似合いそうだな…と、長年思っていたのである。舞台はアメリカ、人気歌手エレン・エイムが町のギャング団に拉致される。エレンのかつての恋人トムは、助けを乞う姉からの手紙で町に舞い戻り、女兵士マッコイを相棒に、エレンを助け、ギャング団と抗争を繰り広げる。トムとエレンの恋心は再び燃え上がるも、彼女の歌手としてのキャリアを思うトムは、「俺はお前の付き人にはなれない。でも、必要なときがあったら呼んでくれ。助けに来る」と、最高にかっこいい言葉を残して去る。
 今回の「Tonight Is What It Means to Be Young」の場面では、『ストリート・オブ・ファイヤー』ばりの黒を基調としたハードな衣装を粋に着こなした星組生たちが、ワイルドなダンスを繰り広げる。『霧深きエルベのほとり』の残像があるから、紅が、『ストリート・オブ・ファイヤー』のラストでやはり身を引く主人公トムの姿と自然重なって、――宝塚で上演してほしいとの夢が、半ば叶ったような思い。

 …七海ひろき退団の日が遂に来てしまった。
 彼女が昨年秋に開催したディナーショーの模様を「タカラヅカニュース」で観ていて、「まだまだ宝塚にいてくれるんだ! 安心!」と、大勘違いをしたあひるであった…。
 思えば、七海ひろきは宝塚に在って、いつも楽しそうに舞台を務めていた――不調や不具合を感じたことがない。それが彼女のプロフェッショナリズムなのだった。亜空間の人である。周りの空気に流されることのない、自身の強烈な磁場を持った人である。だから、何だか重い空気が立ち込めていても、七海のシーンでぴたりと止まる、それで舞台が盛り返す、そんなスーパーセーブを観たこともある。愛する宝塚にあって、彼女にとっては、その日そこに集った観客に幸せを届けることが何よりも大切なのだった。
 『霧深きエルベのほとり』で演じたのは、船乗り仲間のトビアス。石で水切りをしながら、カールの妹を口説きにかかるシーンがあるのだけれども、その、独特の男役くささ、キザりっぷりに、…かっこいいんだかおもしろいんだか、その両方なのかわからない〜、そんな、くすぐったい気分で、「きゃあ」と両腕で我が身を抱きしめたくなる。『ESTRELLAS〜星たち〜』では、平井堅の「POP STAR」に乗って繰り広げられるキュートな場面で芯を務める。「♪君をもっと夢中にさせてあげるからね」と歌われる前からすでに、七海ひろきの不思議な魅力に夢中である! ――そして気づく。七海ひろきは、宙組トップスター大和悠河の流れを汲む、キラキラのスターなのだった。どこで踊っていてもわかる、あの独特の動き。しぐさ。そのすべてに、「七海ひろき」と見えないスタンプが押してあるかのよう。個性を激しく打ち出し、広く愛される。あの独特の空気は七海ひろき一人にしか出せないものだけれども、個性を打ち出すその姿勢は、大いに見習うべきものがあると私は思う。
2019-03-24 03:06 この記事だけ表示