京都→神戸、諦念と愛について〜『家族のはなしPART1』の草g剛
 人間存在の根源に対する、深い諦念。…なぜ、草g剛の演技は、こんなにもその諦念を私に突きつけてやまないのだろう…。それが、『家族のはなしPART1』(5月28日19時の部、京都劇場)の第1話「わからない言葉」を観ていて、まずは浮かんだ感慨だった。
 淀川フーヨーハイ作・演出のこの作品で、草gはとある夫婦(池田成志&小西真奈美)に飼われている犬を演じている…ということが、舞台が進むにつれてわかってくる。夫婦は普通の言葉で話しているのだが(「世界A」)、とある音が鳴ると、それをきっかけに、二人は観客にとっても意味不明の言語を話すようになり、草g扮する犬は二人の言葉がわからないとしきりにこぼす(「世界B」)――つまり、「世界A」において、犬が人の話す言葉を理解していないことが示されているわけである。犬は、人を、その言葉をどう認知しているのか、その想像の世界に遊ぶことのできる趣向である――猫や小鳥が啼いているのを聞いて、自分に聞こえたのと同じ音を繰り返してみると、それを聞いて猫や小鳥が混乱しているなと感じるときがあり、この趣向をおもしろく観た。
 「世界B」にはときおりモノローグ、犬としての述懐も挟み込まれている。そのセリフをポエティックに発し、犬のしぐさ、目線を再現、体現し、人でありながら犬と同化していこうとする営為を見せる草gの姿を、私は途中からあっけにとられて観ていた――彼は、役作りにあたって愛犬クルミちゃんを観察したとプログラムで述べている。犬を見る。そして、犬を通じて、人間を見る。自分自身を見る。草gの演技に感じる、その、目線の鋭さ、厳しさ、冷ややかなまでの怜悧さ――人が、自分自身に、その精神に投げかけるものとして到底耐えられかねないのではと思うまでの――に、身震いする。その隠忍を支えるものはほとんど狂気である。ゴッホの描いた『ひまわり』を観て、…こういう風にひまわりが見えていたとしたら、それは狂いかねないよな…と感じ、重ねて、否、狂っていたからこそこう見えたのかもしれないな…とも感じたことを思い出す。
 諦念。あまりに深い。――しかしながらそれは、完全なる絶望ともまた異なるものである…と、一夜明けて、京都の街を、近代建築をめぐりながら考えていた――古都ならではの落ち着いた色彩の街並みは、そんな彼の演技を考えながらの散策に、いかにもふさわしいように思われた。そして夜、京都の人混みから逃れて宿を求めた神戸で、メリケンパークから望む夜景――まばゆくライトアップされた神戸ポートタワーや、影絵のヨットやイルカのアニメーション踊るハーバーランドの観覧車――に、ふと感じたのだった。
 諦念の後、来たるものとは。続く接続詞は、順接か、逆接か。――例えば、「だから」ならば。「人間なんて」とつながっていって、そこに発露するのは怒りかもしれない。けれども。それが、「でも」ならば。そこに発露するのは。
 休憩を挟んで、第2話「笑って忘れて」(作・演出あべの金欠)で、草gは今度は小西と夫婦を演じている。しかし、二人の会話はどこかちぐはぐで、草g扮する夫は妻相手に何度も何度も同じ話を繰り返す。そして次第にわかっていくこととは。一週間前に転んで頭を打ったことが原因で、妻は、記憶障害になっている。笑うと、忘れてしまう。そして、夫も、妻のその記憶障害について認識している。浮かぶ疑問。――では、それなのになぜ、彼はわざわざ妻を笑わせるような話をしているのか。
 愛する者の笑う顔を見たいから。
 ただそれがために、彼は、同じ話を何度も何度も何度も繰り返すことを厭わない。この一週間! 再び、その隠忍を支えるものはほとんど狂気である。愛がための、狂気。
 それが、諦念の後、逆接の接続詞のつながるところなのだった。愛。

 建築を観ることは、人を観ることにもまた似ている。てくてく歩いて行って、目指す姿が、思いもかけず、街並み、建物の合間から現れ見えたときの喜び。扉を開けたときに広がる、外観からは想像のつかないような内面。
 舞台に立つことでしか癒されない魂の渇きと。舞台を観ることでしか癒されない魂の渇きと。劇場とは、そのような渇きがぶつかり合ってうるおし合うことのできる、不思議な場所である。舞台役者草g剛の演技を観に、また劇場に足を運べる日を心待ちにしている。
2019-05-29 23:32 この記事だけ表示