『いだてん』三十四回目、ううむ…[ドラマ]
 第三十四回『226』。
 1936年2月26日。雪の朝。軍靴の音。――それぞれの朝。先週、書きながら背筋がぞくぞくしてきて、それでタイトル、「〜」一つ多くしたのですが。
それは、ここまで描くからには、「二・二六事件」について正面切って取り組む覚悟を固めたんだな、と思ったから。もちろん、『いだてん』は東京オリンピック、主にスポーツをめぐる物語である。しかしながら当然、時代、社会との関わりをまったく切り離して描くことはできない。その意味で、『いだてん』はこれからますます難しい時代を扱うこととなる。日本が、世界を相手にした戦争へと突き進んでいく、その時代をどう描いていくのか。それは大いに覚悟の要ることだろうと、観て書く側としても大いに覚悟を決めたのですが。そして、このような節目節目の大事件こそ、当時の人々がおかれていた社会的状況をくっきりと描き出す上で、またとない機会だと思うのですが。
 最大の問題点は、今回、「二・二六事件」を語っていた志ん生(ビートたけし)が、黙りこくった後、噺の途中で、サゲずに高座から下りてしまったこと。そして、「この時代の話は笑いにならない」と言う。そうかもしれない。けれども、それをやってしまったら、これからますます笑いにならない話オンパレードの時代であって、いったいどうするのか。戦後の時代、噺として歴史を語っているという作品の構造自体に齟齬が生じてしまうのでは?
 「こんなときにオリンピック?」「こんなときだからオリンピックだ!」の、まーちゃん(阿部サダヲ)と嘉納治五郎(役所広司)の対決も、その肝心の「こんなとき」の描き方が弱いからして…。二人の芝居には凄まじい熱があっただけに、もったいない。高橋是清邸に押し入って彼を殺害し、朝日新聞社に押し入ってまーちゃんにケガを負わせた「二・二六事件」の陸軍青年将校たちも、「オリンピックは若い者のためにやるんです」とまーちゃんが言うときの「若い者」に当然含まれるわけで。しかしながら、当時の日本は大変な不況で、若い娘が身を売らざるを得ないような状況もあったわけで、そんなときに、陸上だ水泳だとスポーツに邁進している、邁進できている若い者の姿は、貧困にあえぐ他の若い者たちにどう映っていたのか。もちろん、彼らの活躍にせめてもの明るい希望を見出していた人々もいただろう。けれども、その一方で、何がオリンピックだ、スポーツだ、そんなの一部の恵まれた奴らの贅沢だ、それどころじゃない…と思っていた人々も当然いるわけで、そちら側の思いをも掬い取って描く上で、「二・二六事件」はまたとないチャンスだったと思うのですが。
 そしてそれは、いつの時代も、芸術なりスポーツなりが問われている問題でもある。現代の日本でも、例えば貧困にあえぐ層がいて、その一方で、芸術やスポーツにもっと公的支援をということも言われていて。そして、貧困をはじめとするさまざまな問題に苦しむ人々から、「美は、スポーツは、人生においていったい何の役に立つんですか」と尋ねられたとき、その分野に関わる一人一人はどのように説得力のある答えを提示できるのか、常に問われている。それがなければ、ただの芸術バカ、スポーツバカになってしまう。『いだてん』は、両ジャンルにまたがって、その答えを提示すべく爆走してきたドラマだと思ってきたのですが。
 今後に強く期待。
 嘉納治五郎(役所広司)とIOC会長アンリ・ド・バイエ=ラトゥール(ヤッペ・クラース)の篤き友情のくだりは非常によかった。ラトゥールに謝りの弁を述べる際、…役所広司に、嘉納治五郎が憑依しているかのようだった。
2019-09-08 23:15 この記事だけ表示