『カリギュラ』
 11月13日13時半の部、新国立劇場中劇場。
 アルベール・カミュによる『カリギュラ』の上演を、私はこれまで蜷川幸雄の演出で二度観ている――2007年版と、さいたまネクスト・シアターによる『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』。2007年版については、今となっては、その作品をも起因として生まれた“演出論”たる『じゃじゃ馬馴らし』(2010)の印象の方が強い。そして、2014年版の舞台については、演出家が作品の中でこだわっていたセリフをこのたびはどう解釈して演出するのか、そのことばかりに私自身の意識が行きすぎていたように思う。
 その『カリギュラ』を、このたびは栗山民也が演出した。
 …最初のセリフから、最後のセリフまで、「同意!」「不同意!」「即答保留!」と、一言一言すべてについて思考の決断を鋭く迫られる、そして、その一言一言を発する演技の強度についての判断をも迫られる、緊迫の舞台が展開していった。政治について。美について。さまざまな論点が油断も隙もない網目のように張りめぐらされた言葉の世界に、全身の毛を逆立てたようにして見入るしかなかった。――終演後、立ち上がると、足がよろよろした。脳が高カロリーの食べ物を欲した。
 ――カミュってこんなにおもしろかったんだ――と、茫然としていた。
 私の青春時代に、不条理文学はもはや遠いものだった。カミュに初めて接したのは、大学のフランス語の授業で読んだ『異邦人』――ほとんど馴染みがない。でも。こうして再びカミュと向き合っていけることの幸せを感じた。そして思った。――栗山民也の魂とさらに深く出逢いたい――と。
 セゾニア役の秋山菜津子は、今年2月の『出口なし』(白井晃上演台本・演出)ではジャン=ポール・サルトル原作作品に挑戦している。煉獄にいる男と女と女がやりとりを交わす作品で、…こんな女性が同じ煉獄にいたら、心のすべてを吐露してしまうしかないな…と思わせる凄絶美だった。『カリギュラ』では、追い込まれていく姿の壮絶な美しさが印象に残る。キャストは男性ばかり、女性が彼女の他は一人しか登場しない舞台にあって、媚びるでもなく、女性としての特殊性を強調するのでもなく、それでいて馴染むのでもなく、そこに在って己としての存在感を確かに発揮していく、役者としてのその強度さに心惹かれる。そこに、「女優」という呼び名をほしいままにする者の秘密があるのだと思えてならない――「女優」についての私の考察は、まだ始まったばかりである。
2019-12-28 17:31 この記事だけ表示