彗星遭遇〜『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』の井上芳雄[ミュージカル]
 この長いタイトルの作品は、トルストイの長編小説『戦争と平和』のブロードウェイ・ミュージカル版である。そして、…陰気くさく背を丸め、眼鏡姿でやる気なくマラカスを振る男ピエール、それが、本作における井上芳雄の役どころである。
 …これまで観てきた井上芳雄の中で、一番心に来る! 陰気くさいのに、否、陰気くさいところが世にも色っぽい。
 2000年の役者デビュー作『エリザベート』のルドルフ皇太子役は、衝撃だった。その好演は彼に“ミュージカル界のプリンス”の称号をもたらした。それから20年間が経って、井上芳雄は今でもプリンスである――ミュージカル界におけるありようがプリンスなのだと思う――その内面がちょっとスパイシーでブラックなところもおもしろいのだけれども。しかし、ルドルフをおいておいて、彼に本当にぴったり来る役は、いったい何なのだろうか。その疑問が、この数年ずっと私の中にある。ただ、…これ、彼に合う役なのかな…と思っていても、いざ劇場に足を運んで客席に座れば、その強固なまでに構築された役作りの前に、感服する他ない自分がいる。2017年の『グレート・ギャツビー』タイトルロールの演技は、観劇後、F・スコット・フィッツジェラルドの研究者だった母との間で、…フィッツジェラルドはなぜこのようなキャラクターを生み出したのか…という議論を交わすきっかけとなった。そして、昨年の『黒蜥蜴』。――私はそれまで、この作品において、自分は黒蜥蜴を追いつめる名探偵明智小五郎向きであることに絶大な自信を持っていた――そのような目線で舞台を観るわけである。しかし。井上芳雄の確固たる演技の前に、私は、…こんな明智になら、黒蜥蜴としてぜひ追われてみたい! と、うっかりうきうき信念を180度曲げる結果となった――そうやって私は、自分の中に新たな自分を発見したわけである。
 ピエール。
 貴族の私生児として生まれ、財産はあるものの妻との仲は冷え切り、無為に生きる男。現実と接点をもつわけではない思索に耽る男。しかし、若き伯爵令嬢ナターシャとの出会いが彼を変えていく。ある魅力的な男と駆け落ちしたことで、婚約も解消され、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられるナターシャ。ピエールは彼女の命を救いたいと願う。自分が、彼女の愛にふさわしい人間となった日には、その愛を受け取ってほしいと――。
 そんな終幕のピエール井上の上空に、…宇宙的に美しいヴィジョンが見えたのだった。何十年に一度しかやって来ない彗星(コメット)の上から、こちらに手を伸ばしていざなう人がいる。その彗星の目指す果ては、日本ミュージカル界のさらなる美しき発展――。
 2019年、ミュージカル作品についてひときわ深く観て考えるようになったのは、この年始の舞台で、井上コメットと遭遇し、その魂と出逢ったからなのだろうと思う。
2019-12-28 18:45 この記事だけ表示