『タージマハルの衛兵』
 12月10日14時の部、新国立劇場小劇場。インド系アメリカ人である劇作家ラジヴ・ジョゼフ作。演出は小川絵梨子(新国立劇場演劇部門芸術監督)。
 舞台は1648年、インドのアグラ。
 第一場。明日の早朝完成しようという「タージマハル」を、フマーユーン(成河)とバーブル(亀田佳明)、二人の衛兵が見張っている――タージマハルは、皇帝シャー・ジャハーンが、愛する亡き妃ムムターズ・マハルを弔うため、16年間の歳月をかけて建てさせている霊廟であり、建築に関わる者たち以外は完成までその姿を見てはならないというのが皇帝のお達しである。
 二人の衛兵は昔からの友達である。任務中は私語厳禁、しかし、二人はついつい会話を交わす――ハーレムについて。扇動罪について。鳥について。星について。神について。片方がボケれば片方がツッコむ。軽妙で笑い誘うそのテンポのよいやりとりは、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のヴラディミールとエストラゴンの会話を思わせる。フマーユーンは言うならば常識派であり、バーブルは夢想派である。彼は、何千年後に、星まで飛んで行けるようなのりものができることを夢想する。そして彼は、二人の背後にそびえるもの、完成までは誰も見てはならないもの、世界で一番美しいものになるはずのそれを見たいと願い始める。彼はタージマハルの建築家ウスタッド・イサへの敬意を語る。フマーユーンは語る。建築家は、皇帝に個人的な願いを申し出た。タージマハルを造り上げて来た二万人の職人全員と、タージマハルの完成を共に見、その美を分かち合いたいと。皇帝に個人的な願いをすることなど禁忌である。怒った皇帝は命令を下した。今後、タージマハルに並ぶ美しいものを造り出してはならない。そのために、建築家を含め、関わった全員の手を切り落とすと。そして二人は気づいてしまう。その残虐な仕事を行なうことになるのは恐らく自分たちになるだろうと。バーブルは夢想する。空飛ぶのりものに乗って、果てまで飛んで行って、自分たちの姿を俯瞰することを。そして、ついに振り返る。フマーユーンは止める。しかし、彼も、最後にはバーブルと共に見てしまう。朝日に照らされた、その美を――。
 ――舞台上、装置や何かが登場するわけではない。けれども、そこには、演出家が最近目撃したところの美の衝撃、その戦慄が確かに現出されていた。

 第二場。二人は血だまりの中にいる。二万人の職人の四万本もの手を切り落とした――バーブルが切り、フマーユーンがその傷跡を鉄で焼いた。どちらが嫌な仕事かをめぐって、二人は議論になる。二人は空飛ぶのりものに類するような新たな発明を語り合いながら、その血だらけの場所を掃除する――発明についての二人のやりとりは、私に、…人類が「何か」を発明するのではなく、「何か」はもうすでに存在していて、人類がそこに到達した瞬間、この世に現出される…という、シルク・ドゥ・ソレイユ『キュリオス』の脚本家・演出家ミシェル・ラプリーズの独特な発明観を思い起こさせた――。フマーユーンは、四万本もの手の切断によって、もはや美しいものが造られることはなく、タージマハルこそが今後永久に世界で一番美しいものであり続けると語る。バーブルはこの言葉にショックを受ける。彼は言う。「美は殺された、殺したのは俺だ」「俺が美を殺した!」――
 舞台芸術の分野を離れて語る。昨年、――これは、私の命の長きを超えて、未来永劫人類に受け継がれていく美の遺産なのだと確信できる二つの芸術作品に出逢った。一つは、「ヌード NUDE――英国テート・コレクションより」展に出展されていた、ロダンの彫刻『接吻』――約3.5トンのギリシア大理石に彫り出された、抱き合う男女の裸の像――何故だかわからない。けれども、私は、この像を目にした瞬間、あまりの美しさに打たれて涙を落とした――。そしていま一つが、東京・日比谷の地から、愛知県犬山市の「博物館明治村」へと移築され、玄関部分だけが保存された、フランク・ロイド・ライト設計の「旧帝国ホテル」――伯父(母の兄)が建築家だった関係で、母は結婚前、この建物の保存運動に少し関わっていた。その話を聞いていたから、子供のころから憧れがあった。大学生のときにも一度、クラスの女友達全員で、明治村まで観に行ったことがある。そして昨年、久方ぶりに一人で訪れたのだけれども、――いつまでもその中にいたかった。永遠にとどまっていたかった――まるで、母の胎内から決して出たがろうとしない赤子のように――。その館内では、建物にまつわる短い映像が流されている。保存運動実ることなく、日比谷の地において、巨大な鉄球によってライト館が壊されていく光景を目の当たりにして、私は泣いた――1968年時、実際に壊されているとき、何人もの人々が泣く思いだったことだろう――泣いたことだろう――バーブルの如く、「美は殺された」と感じただろう――。
 二人の衛兵は、タージマハル以外で美しいと思えるものについて語る。しかし、バーブルは、女や鳥に美を感じるフマーユーンを否定する。タージマハルの美しさについて、「月が川にぶつかったんだと思った」と語るフマーユーンに、「あれは月なんかよりきれいだよ」と返す。バーブルは、フマーユーンのようには、自然界には美を見出さないようである。そこが哀しい。――月。青空。夕焼け。桜。富士山――人類が共に分かち合える、その美を認められないとは。

 第三場。二人は第一場と同じ場所で警備の任に就いている。四万本もの手を切り落とし、その場を綺麗に掃除した二人は、その褒美として、皇帝陛下付き帝国ハーレム護衛兵に出世することとなった。バーブルは、皇帝と三人だけになった瞬間、皇帝を殺すことを夢想する――そうすれば美が生き残る。そうして殺して二人で逃げて、かつてジャングルの中を二人彷徨った際に造った秘密基地で生きていくことを夢想する――皇帝や規則、さまざまなものから逃れて。フマーユーンはその思いつきを激しく否定する。皇帝という中心の近くにいる自分たちは食べて行けるが、そこから外れた人々は食べては行けない。そんな人間たちが、二万人の普通の人々の手によって造られた美しいタージマハルを見、そのことによって自分たちの人生を変えることができるかもしれないなどと考え始めたら、中心も自分も弾き出されてしまうと。タージマハルを最後の美にしたくないバーブルはこれに抗う。「皇帝は死ね! 美は絶対生き残る!」と叫び始めたバーブルを、フマーユーンはその言葉に相当する反逆罪――となれば、死刑――ではなく、三日間の禁錮で済む冒瀆罪と偽って捕える。

 第四場。バーブルは牢屋にいる。そこへフマーユーンがやって来る。バーブルが実は反逆罪に値することが見抜かれてしまい、必死に命乞いをした結果、フマーユーンはバーブルの両手を切り落とさなくてはならなくなった。逃げたいと叫ぶバーブルの手を、フマーユーンは剣で切り落とし、その場を去る。――第三場と第四場の二人のやりとりは、一人の人間の中で起きている対立、葛藤を描き出しているかのようにも思える。

 第五場。十年後。
 ――フマーユーンは独りで警備をしている。彼は、かつてバーブルと共に過ごしたジャングルでの日々を思い出す。二人は樹の上に秘密基地を造った。――遠くに、ピンクの湖が見える――ピンクと紫と緑の鳥に埋め尽くされた湖を。その美しさを二人は愛でる。そして、無数の鳥たちが、二人の上を羽ばたいてゆく。その様に心打たれる二人――。
 しかし、それはフマーユーンの思い出に過ぎない。彼は今、独りである。

 ――その終幕に、私は、評論家として――人間として――二つの決意を固めたのだった。
 一つ。私は、凄絶な美しさを湛えたこの舞台が生まれる契機の一つとなった美を体現した人と、作品を分かち合えないことを、一瞬、心から残念に思った――その人が隣にいないことをさみしく思った。――違う。分かち合える。私がその美を書き表せばいい。そうして、その人の目となり、耳となればいい。その人が、未知なる世界を私に見せてくれたように――そうして自分の世界を私と分かち合ってくれたように。――否、その人一人に限らない。映像に残せるものと違い、舞台は一回性である――観劇日はたまたま記録映像収録日だったけれども――。その日その一回限りの公演に臨席していなかった人々の、目となり、耳となること。その場にいない人とも美を分かち合えるような言葉を記すこと。
 そして、いま一つ。――かつて、美しい光景を共に見た人を、分かち合えたからこそ美しかった光景を共に見た人を、この手に取り返すこと。――諦めていた。絶望していた。相手の幸せを願う権利すらないと思った。そうして忘れ去ろうとした。――でも、それでも、あの美の記憶は、私の中に確かに残っている。記憶は、強い。何度でも、何度でも、不死鳥の如く甦ってくる。その記憶が、相手の中にもまだ残っているのだとすれば――。

参考文献)戯曲『タージマハルの衛兵』(ラジヴ・ジョセフ作 小田島創志訳・「悲劇喜劇」2020年1月号掲載)
2019-12-29 17:50 この記事だけ表示