『常陸坊海尊』
 劇作家秋元松代が前回の東京オリンピックの年である1964年に発表した『常陸坊海尊』は、彼女の最高傑作の一つとされる。だが、上演機会は少なく、私はこれまで1997年の蜷川幸雄演出版(共同演出・釜紹人)を観たのみである。常陸坊海尊は源義経の家来であり、武蔵坊弁慶らと共に都落ちした彼は、義経が命を落とした衣川の戦い(1189年)を生き延びた。そこから海尊の伝説が始まった。不老不死となり、その後、何百年もの間、源平合戦について人々に語り聞かせたという。そんな、実際に東北地方にあった伝説をモチーフとした作品で、今回演出を務めたのは長塚圭史(KAAT神奈川芸術劇場芸術参与)。白石加代子が、22年前の舞台でも演じたおばば役に扮している。
 ――第二次世界大戦末期の東北の山林地帯。東京からの疎開児童である啓太と豊は、常陸坊海尊の妻と称するいたこのおばばと、その孫娘である美しい雪乃に出会う――人々から頼まれて占いもするおばばが、「占いというもんはのう、頼むほうも頼まれるほうも、心のまことが一つにならねば、神様はお下りなさらんのじゃ」と語る言葉は核心をついている――。おばばの家には、かつて彼女が若い娘であった時分に契った常陸坊海尊のミイラがある。我が身惜しさに主君義経を見捨てて生き延びた海尊は、己の罪深い心に比べれば世の人々は清い心を持っているとして、この世の罪科を一身に引き受けた存在である。ここに、海尊は一つの宗教的な帰依の対象である――「悲すいことや苦すいことがあったら、海尊さまを心に念ずるんじゃ。すたら必ずお助けをくださるでや」。そのミイラを守りながら、ときに金銭や物品と引き換えに自分の身体を男に与えることもあるおばばのありようは、古代の神殿娼婦の存在をも連想させる――彼女のその肌には忘れ難きものがあると、作中何度か言及される。
 空襲によって啓太と豊は親兄弟を失う。年若い啓太に、おばばは愛しさを抱く――母が子に抱く愛しさと、女が男に抱く愛しさと。そこには、海尊の血筋を絶やしてはならないという彼女の信仰上の「企み」もある――おばばは、雪乃と啓太を結び付けようという腹なのだ。母恋しと泣く啓太のため、おばばはいたことして我が身に啓太の母を降ろす――“母”として啓太をかき抱く白石おばばの姿に、彼女の代表作の一つである『身毒丸』(蜷川幸雄演出、寺山修司・岸田理生作)の継母役の記憶が重なる。中世の説話をモチーフに、継母と義理の息子との禁断の愛を描く『身毒丸』。“母”と“息子”として出逢うしかなかった男と女。二人は、「お母さん! もういちどぼくをにんしんしてください」「もういちど、もうにど、もうさんど、できることなら、おまえを産みたい。おまえをにんしんしてやりたい」と想いを交わす――それは、狂おしい恋情がときに人にもたらす不可能の願望である。孤独に生まれた人間が他者と一体となれるのは、母の胎内にいるときと、身体で契るとき。そして、美の力によって一つに結び合わされるときである――。
 終戦。地元の人々は、身寄りのない疎開児童たちを引き取る相談をしている。――だが、啓太の姿はない。涙にくれる児童たちの前に「第二の海尊」が姿を現す。彼は、源平合戦に重ねて、第二次世界大戦の敗北をも語る――主君を見捨てて命拾いした海尊と、仲間が死んでいく中、生き残った兵士とが、ここに重ねられる――だが、そうして生き残る者がいなければ、日本という国は滅んでいただろう。
 ――それから十六年。
 親戚に引き取られて東京で暮らしていた豊が、久方ぶりに東北の地にやって来る。――とある神社。そこには、巫女となった雪乃、下男となった啓太がいる。豊は啓太との再会を喜ぶが、啓太は雪乃に憑かれて異様の態である。雪乃は豊に、ミイラを見ていくよう勧める。――今は、ミイラは二つあると。男体と、女体と。海尊と、おばばの。おばばのミイラを作った罪で、啓太は服役を余儀なくされた。そして、宮司補の秀光もまた、雪乃の魔性に狂わされた男である。男体と女体、二体のミイラの前で美しく舞う雪乃のその魔性について、秀光は「色(しき)、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょぐ)、五欲五毒の頭首(かしら)」と描写する。彼は、その魔性から離れんがため、試みた者の多くが死ぬというソ連への密航を実行しようとしている。おばばと雪乃に惑わされた啓太を激しく罵倒する豊だが、雪乃を前にするとその姿に魅入られて我を忘れる。そんな豊の両の手を、雪乃は冷ややかに踏みつける。思わず、「かいそんさまあ!」と叫んだ啓太の前に、――「第三の海尊」が姿を現す。そして、助けを求める啓太に、「あんた、もすかすたら、わしとおなじく、海尊法師でねえだべか――?」「あんたの胸さ、琵琶があるす!(中略)――さ、弾いてみなされ。あんだの音色をば聞こう」と言う。啓太は、胸にある内なる琵琶を鳴らす――鳴る! こうして啓太は「第四の海尊」となり、自らの罪科を懺悔する旅に出る。
 この終幕は、――凄まじい芸術論である。男体と女体、二体のミイラの前で舞う巫女。その冷ややかさ、驕慢さは、美に仕える者がときに感じさせるであろう冷ややかさ、驕慢さをも連想させる。――そして、ミイラは二体要る。男体と、女体と。人間には、男と女がいる。人間存在すべてを包み込んで描こうとするならば、そのどちらも愛し、理解しなくてはならない――ウィリアム・シェイクスピアは『ソネット集』で、男性に捧げる愛と女性に捧げる愛、その両方をはっきりと歌っており、その精神が『ロミオとジュリエット』をはじめとする彼の作品群にも流れていることは言を俟たない――。そして、その愛し方にも、男のそれと女のそれ、両方が必要なのである。私には、その二体のミイラは、作者自身の魂が吸い取り、芸術家としての自らの養分とした存在の象徴に思えた――。
 神の愛とは違い、人間の愛は色欲と切り離せないところがある。その魔力に狂わされた者が、内なる琵琶を鳴らして海尊となる。それは、自分の中にあるときに御し難い欲望を芸術、美へと昇華した者が鳴らす音色である。――芸術家宣言である。『常陸坊海尊』の終幕において、劇作家は、自らの胸の内にある琵琶を鳴らす――そして、演出家もまた、この舞台において、自らの胸の内にある琵琶を鳴らす――その様に、自らの胸の内にある琵琶をまた鳴らす者もいる。
 ――進むべき道が示される。
 生活に根付いた東北の方言を語って、自らの声を自由自在に操る白石加代子。彼女こそ、日本における巫女の系譜にある者である。――齢78にして妖艶。自らを強固に律して舞台に在りながら、その日その時の劇場の空気を感じ取り、即興演奏のように演技に加えていく当意即妙さ。そのあまりのノリのよさに、深い敬意と愛をこめて「加代ちゃん!」と呼ばせてほしい。その加代ちゃんの、そして彼女のいる世界に生きる数多の人々の舞台への深い想いのためにも、さらにさらに奥へと踏み入って行かなくてはならない。私は、歌舞伎と宝塚歌劇という伝統をもつ日本に、女として生を享けた評論家なのだから。

参考文献)ハヤカワ演劇文庫『秋元松代T 常陸坊海尊/近松心中物語/元禄港歌』
     岸田理生戯曲集『身毒丸・草迷宮』
2019-12-30 22:13 この記事だけ表示