星組東京宝塚劇場公演『RRR × TAKA"R"AZUKA 〜√Bheem〜』『VIOLETOPIA』&退団者[宝塚]
 この二本立てについては、年明けから始まった宝塚大劇場公演の初日が開いてすぐの公演をまずは観た。そのとき最初に思ったのは、……星組トップスター礼真琴がゆっくり休めてよかった……ということだった。昨年秋の約2カ月間の休養を経て舞台に戻ってきた彼女は、心身共に充実した感があり、自分の見せたい舞台を自信をもって提示していた。
 『RRR × TAKA"R"AZUKA 〜√Bheem〜』(Based on SS Rajamouli’s ‘RRR’.)について。インドを舞台にした作品は宝塚では多くはないが、1959年に初演された菊田一夫作品『ダル・レークの恋』は4度上演を重ねており、もっとも最近の再演である2021年版の潤色・演出は谷貴矢が担当。『RRR × TAKA"R"AZUKA 〜√Bheem〜』の脚本・演出も彼が手がけている。
 映画『RRR』については、日本でも大ヒットしていること、宝塚での上演を望む声があることは知っていた。そして、宝塚版の舞台を観た後に鑑賞した。……なるほど、これは、宝塚での上演を望む声が多かったのもむべなるかな……と。男同士の篤い友情もの、そして、『ベルサイユのばら』にみられるような解放闘争ものもまた、宝塚歌劇の得意とするジャンルだからである。映画を観て、大英帝国の圧政に対するインドの人々の不屈の魂に、そして、今日の世界において、映画という芸術方式をもって闘うクリエイターたちの魂に心打たれた。
 映画で、一人の子供を救いたいと願った橋の上のラーマと川岸のビームの目が合う――共に絶望に在った二人の運命的な出逢いの場面において、インドの人々の不屈の魂に私は深く心打たれたのだったが、運命の出逢いは、宝塚版においてもよく表現されていたと思う。礼真琴扮するコムラム・ビームと暁千星扮するA・ラーマ・ラージュが共闘して子供を救い、出逢う場面は、ほとんど、『ロミオとジュリエット』や『ウエスト・サイド・ストーリー』の優れた舞台におけるあの運命の瞬間のように、……出逢ってしまった……と心震えるものがあった。そして、宝塚版においても「出逢い」は重要なテーマに思える。ビームとラーマの出逢い。ビームとイギリス人女性ジェニー(舞空瞳)の出逢い。ジェニーの役どころは映画版より大きくなっており、ビームとの出逢いによって彼女の人生にもまた変化が訪れるのであろうことが、銀橋上のソロの歌によって示される。出逢いは人を変えていく。思えば、宝塚歌劇を通して多くの人々と出逢い、さまざまな文化芸術と出逢ってきた。今回、『RRR』と出逢ったように。
 トップスター礼真琴と二番手暁千星ががっちり組み、男同士の友情、その絆の深さを舞台上に描き出す。利益相反すると見えて、最終的に、二人の思いは一つとなる。有名な「ナートゥ・ナートゥ」のダンス・シーンでも、礼と暁の踊りの個性は、映画版でビームを演じたN・T・ラーマ・ラオ・ジュニアとラーマを演じたラーム・チャランの踊りの個性が違ったように異なっていて、そこが非常に楽しい。宝塚版ではタイトルに銘打たれているように明確にビームが主人公であり、礼が正義に燃えるヒーローをまっすぐ明るく演じるなら、ラーマ役の暁は大きな使命のために“裏切り者”を演じる難しい役柄を、彼女ならではの鋭敏な人間観察力をもって見せた。舞空が演じるジェニーには、総督の姪でイギリス人女性である彼女がなぜビームに深く心を寄せるのか、その心の奥底に分け入ってみたくなる誘惑にかられる魅力があった。ゴーンド族の村長バッジュと歌唱を多く担当するSINGERRR男を兼ねた星組組長美稀千種の存在感の重み。インド総督スコットに扮した輝咲玲央は、ビームとラーマが最終的に手を下すのももっともと納得するところへと導く憎まれ役の演技が心憎い。その妻キャサリン役の小桜ほのかは、サディスティックな中にどこか色気を漂わせる演技。ラーマの叔父ヴェンカテシュワルル役のひろ香祐はキャラクターの再現度高し。
 約3時間の映画のエッセンスが1時間35分の舞台にぎゅっと凝縮されていた。映画の音楽も多く使用されていたが、エドワード・エルガー作曲の「希望と栄光の国」の旋律がときに悪夢の如く編曲されて用いられているのが印象的だった(作曲・編曲:太田健、高橋恵)。余談になるが、日本ではもっぱら「威風堂々」と呼ばれるこの旋律は、私の母校成蹊学園(出身者として、俳優・演出家の串田和美、安倍晋三元内閣総理大臣、次回星組大劇場公演作品の原作である三谷幸喜脚本・監督の映画『記憶にございません!』で主人公の内閣総理大臣役を演じた俳優の中井貴一がいる)では卒業式典の際に奏でられていた。私にとっては、成蹊学園を支援していた三菱財閥の岩崎小彌太と銀行家の今村繁三が共にケンブリッジ大学卒であることを何だか思い出させる曲でもある。今村繁三はパブリックスクールのリース校出身者でもあり、二人がイギリスで受けた教育は成蹊学園の在り方にも影響を及ぼしたのではないかと思われる。

 『VIOLETOPIA』について。宝塚歌劇を象徴する花といえば、すみれ(名曲「すみれの花咲く頃」にちなむ)。ということで、これが大劇場公演デビュー作となる指田珠子、宝塚歌劇論を掲げての登場である。これでもかと劇場の虚構性が提示された作品であることはすでに記した(http://daisy.stablo.jp/article/502516132.html?1712322104)。さらに、トップ娘役の舞空瞳の男装と男役の暁千星の“女装”を同じ場面に登場させ、フィナーレの男役群舞では敢えてサングラスをかけさせるなど、趣向爆発。主題歌「追憶の劇場 VIOLETOPIA」には宝塚5組の名前がちりばめられ、中詰の「リストマニア」には「♪走れ 走れ」の歌詞があり……と来れば、星組の前回ショー作品『JAGUAR BEAT−ジャガー・ビート−』を多分に意識したような。
 その「リストマニア」による中詰の客席降りの場面なのだが、受け止め方が激しく変化した。最初に観た際から非常に心揺さぶられ、落涙。でも、どこか客席への挑戦状のようにも感じられ、何だかアンビバレントな思いに。なんせ、「リストマニア」に演出家がつけた訳詞は、「♪目の前そびえる喝采 大歓声/呑まれてたまるか/でも吞まれそう」である。けれども、だんだん変化が生じ。次に観たときには、「……ああ、『リストマニア』始まっちゃった。半分終わっちゃったな……」と思い、次に観たときには、「リストマニア」どころか作品のオープニングの段階で「終わってほしくないから始まってほしくない!」と思うほど。舞台を観ていて終わってほしくないと感じるときはたびたびあるが、始まってすらほしくなかったのは初めてである(それでは観られない)。そして、最初は挑発的に思えていた「リストマニア」が、何だか、劇場空間において虚構を創り出しこれを分かち合う上での舞台側と客席側との甘い関係を歌う曲に思えてきたのが不思議。そこにあるのは虚構であっても、そのときそこで感じた思いは真実だから、だから、走っていける。何だか今はそう思う。
 幻想的な雰囲気の作品なので、芯を務める礼真琴のまっすぐな個性がとても映える。彼女が蛇に扮して踊り、村の女(舞空瞳)を魅了するサーカス小屋の場面では、布が取り去られてテントがぱっと消えた瞬間、……風が吹いて、振り返ったらすべてが消えてなくなっていて、でも、生まれる前からの記憶がそこに埋められているのを発見したような、そんな思いにとらわれた――。
 暁千星は……不思議な人である。雰囲気を操れる? そして今回、約十年ぶりに封印が解かれてしまったわけだが(2019年12月の覚醒以来、よくぞここまで来た)、その先に行かなければ意味がない。ということで、任せた!

 長らく星組の舞台を支えてきた大輝真琴は愛くるしい魅力をもった男役であるが、『RRR』では主人公ビームの闘いを支える親方オム役として、慈愛あふれる演技を披露、ベテランの芸の奥行を感じさせた。

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