昨年末の「フィギュアスケート全日本選手権」、男子12人のフリースケーティングの演技を観たうち、何かが伝わってくるという意味で一番おもしろかったのが友野一希。その『ウエストサイド物語』観には共感できるものがあった。「世界フィギュアスケート選手権」でどんな演技が観られるか、楽しみ。
2018-03-20 23:30 この記事だけ表示
 フリースケーティングの演技で泣いたのは、せつなくて、歯がゆかったから。
 エキシビションの演技にはそれとはまた違う涙。
 宇野昌磨は、宇野昌磨という唯一無二の人生の物語の主人公です。その主人公を日々懸命に生きていっていれば、いつか必ず神が道を示される日が来ます。
 『トゥーランドット』のカラフは愛の力で勝つ!
2018-03-20 23:29 この記事だけ表示
「一緒に、世界に行こう」
 そんな思いを伝えてくれた人が、これまでに二人いる。共に私の父親より年上の男性で、共に世界に羽ばたいていた。一人は既にこの世にいない。言語の壁をものともしない人だった。もうお一人は言語の壁が問題とはならない分野で、今も活躍されている。
 お二人のお気持ちはそのとき、自分にとって本当にうれしかった。涙が出そうにありがたかった。けれども、その一方でこう思う自分もいた。
「…私…、いったいどうやって世界に行くんだろう…」
 なぜなら私は、日本語で思考し、日本語で文章を綴る人間であるのだからして。
 お二人それぞれにとって“世界”が意味するものも違えば、“一緒に世界に行こう”の意味合いも違っただろう。君がいるせせっこましい社会にとらわれていないで、もっと大きな視野で物事を見よう、そんな意味合いもあったかもしれない。でも、そのとき私は、自分が日本語で考え、書き記す人間であることについて深く考えざるを得なかった。自分の文章を英語なり、グローバルな言語に翻訳して、それを読んでもらうこと、それが私にとって世界に行くことなのだろうか。お二人が海外で公演を行う際に同行して、それを書き表すことなのだろうか。
 こうして考えたことが、舞台評論家としての今の私の姿勢につながっていった部分もある。私は日本に生まれ、カナダでの約三年間を別として、日本で育った。日本語で考え、日本語で文章を書く。そんな私は、まずは自分を含むところの日本人、その表現について考察を深めていきたい。もちろん、日本を取り巻く世界に対して心や思考を閉ざすわけではない。まずは自分が日本人であることをしっかりとした土台として、それから世界について考えていきたい。同じ国に生きて、同じ言語を日常的に使う人々の表現に、よりフォーカスしていきたいと考えた。
 その一方で、じゃあ、“世界”っていったいどこなんだろう…という考えがあったのだとも思う。<ロール・プレイング&表は何処っ?〜『表に出ろいっ! ENGLISH VERSION One Green Bottle』http://daisy.stablo.jp/article/455847230.html>を書いた今ならわかる。
「…ここって、“世界”じゃないの?」
 私が今いるここ。普段生活するここ。この場所は――?
 それに。「世界に行こう」は、由々しき問題をも含んでいる言葉なのである。日本で活動している人がいる。その人が、「世界に行こう」と思う。そこには、「自分は日本では正当に評価されないから、正当な評価をされる場所に行きたい」という思いがないとも限らない。その思いは、評論家という立場の人間に対して多分に批判を含むものでもあるだろう。ここでは、評価を担当している役割の人間がきちんと機能していないから、自分はどこかよそに行きたいとの。そして、評価されて、日本に逆輸入されたとする。その逆輸入は、対象をきちんと評価しなかった人間への批判となり得るだろう。
 世界に行く、そのこと自体は素晴らしいことであると私は思う。その一方で、今いるここ、この場所できちんと評価がなされるならば、批判としての「世界に行こう」は防ぎ得るかもしれない。そんな考えが、私の評論活動を支えてきた部分もあるのだと思う。

 2018年2月18日。平昌オリンピック・フィギュアスケート、男子フリースケーティングの羽生結弦の演技を観て――、私は、かつて「一緒に、世界に行こう」と思ってくれた人の魂に、心で呼びかけていた。
 ――蜷川さん、私、世界に行ったよ。年若き勇者が、連れていってくれた――。
 どこか夢のように、晴れ渡る心――。翌19日の黄昏時のまだ早い時間、ふと空を見上げた。新月から数えて三日目の月が、薄墨を蒼に乗せたように澄み切った空を、細く、鋭く切り取っていた。その冴え冴えとした美しさが、心のありようにいかにもふさわしかった。その月は、人生のすべてをかけてフィギュアスケートを愛してきた金メダリストが滑ろうとするとき、あるいはスケートへの思いを語るときに顔いっぱいに浮かべる幸せそうな笑顔にも、彼がスケートリンクに立つときのその佇まいにも似ていた。
 そして私は、今いる場所で頑張ろうと思い、そう歩んできたこと、今いるこの場所も世界だ、世界にすると思って歩んできたことが、間違ってはいなかったと思った。こことそことは、地続きだった。世界だった。私は、世界にいる。世界に生きている。それは、フィギュアスケートの美を書き記そう、書き留めたいと思わなければ、味わえなかっただろう歓びだった。そして、共に日本の地で頑張ってきた多くの仲間にとってもどんなにか励みになるに違いなかった。
 平昌の地に舞う羽生結弦が教えてくれた。美の普遍を。

 それにしても。神の“演出”、“シナリオ”は、ときに豪快なまでにわかりやすいものである――人間もたまには真似してもいいのかもしれない。例えば、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を読んでいると、神のそういった“演出”をはっきりと理解し、美のために用いていたのではないかとの思いを禁じ得ない(『プロスペロー』)。また、神にはそのとき人類を滅ぼすという“シナリオ”はなかった、だから、ナチスドイツ下の科学者たちは、開発できていてもおかしくなかった核兵器の開発に至ることができなかった――との推論を戯曲化したのが、イギリスのマイケル・フレインの傑作『コペンハーゲン』である。無論、人智を超えた“演出”のもと、人智を超えた“戯曲”の“主人公”を見事“演じ切って”しまった人間の凄まじさたるや、驚異に値するものなのだけれども。
 芸術に勝ち負けはない。けれども、平昌オリンピックという世界の大舞台で、羽生結弦は問うた。これが、自分の愛し、信じるフィギュアスケートだ、と。そして天はこれ以上ない形で、「諾」と答えた。その意味で彼は大きな勝利を収めた。世界はその姿を見た。そしてあっけにとられ、熱狂した。
 そこに至るまでの試練。その道で選ばれし者に与えられがちな、試練。多くの人々の関心を集めずにはおかないドラマ。あまりに劇的な。仕事の都合で16日のショートプログラムをどうしても出先で観なくてはならない羽目に陥り、家電量販店の街頭テレビへと駆け付けた、そのとき、そこにひしめき合う人々の姿を見て、…呼ばれた…と思ったのである。自分は今回、この光景を見届けることもまた使命であったと。フィギュアスケートは人気の高いスポーツだけれども、普通、そこまで多くの人がそこまでして見届けようとはしないと思う。後ろから間断なく押されて、女性なのかなと思って振り向いたらおじさんで、私は本当にびっくりしたのである。そこまでして見たいんだ! と。
 これからも、人生いろいろあらあね――それが選ばれし者の運命というものであろう。でも、何があっても、神様があのとき力をお貸しくださったことを忘れずに、愛と美の光照らす道を歩んでいけば、大丈夫!
2018-02-23 22:28 この記事だけ表示
 自分がこの世に生まれてきた意味を、五輪の氷上に描き出す。――途中から、ずっとずっとずっと嗚咽していた。本日の羽生結弦の演技によって私の中に生まれた“かたまり”すべてを文章にするだけの気力と体力が、今宵はもはやありませぬ(昨日今日明日絶賛連続観劇中)。ので、短く。
 闘いましょう! “魑魅魍魎”も、その始まりは、愛をもった人間だったはず。“ねずみ”(『くるみ割り人形』)と闘い続ける熊川哲也芸術監督もいます!
 その上でも、完治第一! 無理禁物!

 宇野昌磨の演技には違う意味で涙。「誰も寝てはならぬ」の最後の歌詞は「私は勝つ! 勝つ!」なのに! と思って観ていたからか、…不思議と、音楽の記憶が一切なく。

 今日という日を生きて見届けられたことを幸せに思います。心と身体をゆっくり休められんことを!
2018-02-17 23:16 この記事だけ表示
 仕事の都合で、出先の街頭テレビで観ていた――私が生まれるよりも昔、テレビが家にない時代に、街頭テレビで力道山を見る人々の一人になったような気さえした。テレビに群がる老若男女。「オリンピックを見る方は通路をふさがないでください! 一歩前に進んでください!」と繰り返される店員の叫び声。これまた繰り返して流される、店のポップなテーマソング。後ろの人からは押され、前の人からは押し戻され、限りなく斜めの位置からやっと画面が目に入る。ショパンの「バラード第一番」が半分くらいしか聞き取れない。そんなカオスの中で観る、羽生結弦の演技。
 ジャンプ。沸き起こる拍手。その刹那、「きれいだねえ…」と、近くにいた人が感に耐えたように漏らした。その場にいた大勢が、心の中でそのように感じていたに違いなかった。
 ――その光景に、私は、日本でもっとも愛する季節、桜咲く季節を思い出していた。世界はそもそも美しい場所である。そのことをことさらはっきりと思い出させてくれるから、私は桜の季節が大好きなのである。桜を見に行くとは、美を享受しに行くことである。その季節、多くの人々が、桜の木の下で、その花を愛でる。美のもとに集う。無論、花見を口実に酒盛りに興じる人もいるだろう。けれども、そんな人々も、ふと上空を見上げたとき、桜の花を見る。そして、美にふれる。
 およそ美を享受しやすいとは言えないカオス的状況で、羽生結弦が見せる美に、その美が人々の心に作用する様に、私は心打たれていた。そして、日本中の、世界中の、さまざまな場所で、さまざまな環境で、同じ作用が生まれているであろうことに思いを馳せていた。試合後のコメントで、彼は、「自分は恵まれている」と言った。私は、私自身が普段身を置く劇場という空間こそが恵まれていると思った。混沌とした、雑然とした環境にあってもなお、敢然と美を指し示すことができる者こそが真の芸術家である。
 そして彼には今、仲間がいる。宇野昌磨。先輩の背中を追って、追って、追いかけ続けて、また一人、美の世界が見えてきつつある。仲間は多い方がいい。みんなで美を志した方が心強い。楽しい。世界はそもそもが美しい場所であり、本来、人間は一人一人がすべて美しい存在である。一人一人が己の中に在る美を信じて生きるならば、世界はその本来の美しさをどんなにか取り戻すことだろうか。

 真正面から画面を観られる自宅に帰ってくる。
 羽生結弦の演技。――世にも不思議なものを観ている。彼我の心の境界線が消えている。溶け合っている。自分もまた、その場所にいたのだろうか――と思うような。街頭テレビではジャンプ成功のたびに拍手が沸き起こっていたから、一つ一つの要素を意識せざるを得なかったけれども、改めて観ると、すべてが溶け合って織り成す、永遠を一瞬に凝縮し尽くすような演技だった。今まで観たことのないフィギュアスケート。
 宇野昌磨の演技。――喜びと、その喜びが故のまた新たな感情と。そのアンビバレンスが、彼の演技に深みを与えつつある。
 
 Let love and beauty reign. 明日も、その心のままに。
2018-02-16 22:30 この記事だけ表示
 忙しくて平昌オリンピック絡みのニュースも全然見られていないのですが。ヴィヴァルディの『四季・冬』で舞う宇野昌磨の演技を観ていたら、――ガンガンに暖房を入れた部屋にいたにもかかわらず、現地の凍てつくような気候が伝わってきて、一気に寒くなったことでした。
2018-02-10 14:37 この記事だけ表示
 これまで観てきた中で一番美しかったです!
2018-01-27 23:20 この記事だけ表示
 今日、初めて宇野昌磨の演技で泣きました。少しでも自分を磨いてさらなる高みを目指していくことが、「See You Again」のその日の喜びを一段と大きくするのだと思います。私も同じ思いです。
 三原舞依の舞も美しかった。映像も見返して、「フィギュアスケート全日本選手権」の印象と共に、年明けに記していきたいと思います。来年の日本フィギュアスケート界も非常に楽しみ!
2017-12-25 23:44 この記事だけ表示
 大きな愛に包まれ舞う、一羽の白鳥。生まれた願い。美を司る大いなる存在よ、この気高き魂を守りたまえ――。胸に広がる感謝。私の希求する美を体現する可能性をこれほどまでに秘めた芸術家に、この人生においてまたもや出逢えたことへの。
 ふと浮かぶ。例えば公園で白鳥を見る。美しい、そう思う。そのとき、その白鳥の雌雄は問題だろうか――。ライオンやクジャクのように雌雄の差が如実である種族を別として、動物を美しいと感じるとき、その雌雄は特段問題とはなっていないだろう。ただ、美しい。翻って、人間は?―― 男性美、女性美、それはもちろん存在するだろう。けれども、性別を超え、ただ人間として美しい存在。そんな存在に、私は子供の頃から心魅かれ、その美を書き表し書き留める人生を選び取った、あるいは、与えられたのではなかったか。
 「白鳥の湖」。湖のほとりに、人間とも白鳥ともつかぬ存在がいて、その姿がただ、美しかった――。原作とされる物語も読んだことがあるけれども、私にはどうも、チャイコフスキーの創作の原点にはそのような美への根源的な感動がまずはあったような気がしてならない。そのとき、その白鳥の雌雄は問題だろうか――。
 美は性別を超越する。そして明らかとなるのは、性というこの不自由な軛である。もちろん人は生物学的に、男として、女として生まれてくる。だが、その心は? 男か女か、そのどちらかですぱっと割り切れるほど単純なものではないだろう。現に私自身がそうである。パンツルックは似合わないし好きではないので、ワードローブにはワンピースとスカートしかない。ファッション的には私は非常に“女性的”であるということになる。かつて私が「宝塚の男役のような存在になりたかった」というひそやかなる願望をあらわにしたとき、(http://daisy.stablo.jp/article/448444964.html)、…やるならむしろ娘役では?…という盛大なツッコミがあったものである。では、今私がこうして書いている文章は? 学生時代から“男性的”と評されてきた文章は。――男か女か、そのどちらかでは決して割り切れない、この私の心。
 人とは本来両性具有的な存在であるのだろうと思う。まずはそれが楽だから、というか、楽ということになっているから、生物学的な分類に従って生きる。けれども、その軛がどうしようもなく不自由に思えるときがある。そして、美にふれる。厳然と性を超越して飛翔する、美に。そのとき、内なる男性性と女性性の双方が解き放たれて、私は限りなく自由である。そこにめくるめく陶酔を感じる。そこでは私は女ではない。男でもない。ただ、ありのままの私である。その至福。幽体となり、雲の上をふわふわとただようような。

 今回の大会は、男女ショートプログラムと男子フリーは地上波でオンエアされた分はだいたい観た。さまざまなプログラムを目の当たりにして、振付や編曲や音楽の表現などについて、思うことはいろいろあり。
 その上で羽生結弦の演技を観ていて、…ああ、この人は、私が最初に受け止めた以上のことを成し遂げようとしているんだな…と、その覚悟の程に改めて背筋を正される思いがあったのである。かくなる上は、自分もさらなる覚悟が必要である――と、フリーの「SEIMEI」の凛々しくも男らしい演技に気を引き締めていたら、翌日はかくもふにゃあと愛らしく。その振り幅。
 現代生活の忙しさの中、人生において、たった二分半、四分半だけでも、ただ目の前のその人のその演技に集中する、このうえなく贅沢な時間。――それにしても。集中して観るとなんであんなに疲れるんだろう! 自分が滑ったわけでもないのに、フリーの翌日、昼過ぎまで惰眠を貪るあひるであった。次のNHK杯は海外出張と重なっていて、リアルタイムで観られるかわからないのが残念だけれども。

 ↓白鳥モチーフ好きのあひるが最近よく着ているコートの刺繍。

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2017-10-24 00:01 この記事だけ表示
 圧巻の芸術家宣言。いざ、この世の神秘を共に解き明かさん。
 観ることに深く集中していたからか、途中で意識が無音の世界に吹っ飛んでいたようで、今宵は音楽の記憶が一切なく。これまた神秘なり。
 昔は孤独なことに絶望しがちだったけれども、そういえば、美に、この世の神秘に取り組むようになってから、そんな絶望感が消えていったことにふと思い至り。そう、実は仲間は大勢いるのだから!
2017-10-21 23:36 この記事だけ表示