…エーテルの如くただよう、珠城りょうの“トート=死”。その姿に、改めて思った。
 『エリザベート』の結末。“死”と、人が、一つになるとは――?
 単なる死ではない。“死”という不可視の、でも絶対的な存在と、人とが一つにならなくてはいけない。さて、どうやって?
 トートは肉体を持たない。だから、彼が何か事を起こすには、彼の意図を理解し、それを実行してくれる人間を探さねばならない。エリザベートと、一つになる。エリザベートを、殺す。この場合、イタリア人テロリスト、ルイジ・ルキーニが彼の“実行犯”となったわけである。凶器はナイフ。ここで、ナイフを“ファルス(男性器)”のメタファーととらえたならば、突き刺す行為は“挿入”である。ここに、肉体を持たないトートと、エリザベートの結合は完成する。
 死はそもそもエクスタシーのメタファーでもある。エクスタシー。――それは、芸術の場において、しばしば経験され得るものではないか。演技や音楽の名演に、観衆、聴衆は、平気で心を一つにしてしまう。演技者、演奏者も然り。…自分のタクトのもと流れる音楽と一つになっていたんだろうな…と思いたくなるような昂揚した表情で、終演後、舞台に現れるマエストロもいる。
 となると、トート=死は、美の表象とも考え得るのだった。いつかたどり着くところ。死の、――美の、彼岸。
 無論、東宝公演でも、井上芳雄のように、男性性/女性性を超えた、優れたトートの演技を見せる役者もいる。けれども、宝塚歌劇の場合、そもそもが女性である男役がトートを演じる時点で、作品に仕込まれたその仕掛けがデフォルトで発動している。そのことに、今回の月組公演で改めて気づかされたのだった。
2018-11-18 01:37 この記事だけ表示
 …今、とても不思議な気持ちでこの文章を書いている。
 愛希れいかが2012年に月組トップ娘役になったとき、私は彼女のことを全然認めていなかった。その3月、前トップ娘役蒼乃夕妃の退団記念のミュージックサロン(ディナーショー)『THE VERY BEST OF ME』を、宝塚ホテルまで観に行った。そこに愛希も出ていたけれども、…全然娘役の動きができていない…と思って、視界に入れないようにしていた。ミュージカル『ロミオとジュリエット』でトップお披露目(しかもロミオが役替わりという重圧)。…全然ジュリエットじゃない…と思った――彼女の名誉のために言えば、今年お亡くなりになった評論家の小藤田千栄子さんは、彼女は自分のイメージするジュリエットにとても合うとおっしゃっていた。
思えば、そのころ、「どうしてそんなに愛希れいかをかばうの!」と、何度夫婦喧嘩したことだろう(変な夫婦ですよね…)。あれもできない、これもできない。『エリザベート』でいえば、「皇后の務め」ならぬ「トップ娘役の務め」である。憤っているあひるはゾフィーさながらの怖さだったであろう…。そんなあひるに、夫はいつも、「でも、彼女には可能性を感じるから」と言うのだった。夫の方が正解である。愛希れいかは、宝塚史に残る名娘役として退団していく。
 …今でも不思議なのである。2013年の宝塚大劇場のお正月公演『ベルサイユのばら』。前年の『ロミオとジュリエット』とは打って変わって、愛希は可憐なロザリーとして現れた! ロザリーは、宝塚の娘役ならば絶対必要なスキルを身につけていなければ演じられない役である。けなげな気持ちを銀橋で歌う姿が今でも心に焼きついている。…あの間に、いったい何があったのだろう。娘役超速習スペシャル猛特訓? やり遂げた本人もすごいけれども、施した方もすごい。
 そして彼女は、才能を開花させていった。
 まずはショースターとして。そして、芝居作品で。2015年の『1789−バスティーユの恋人たち−』で演じたマリー・アントワネット。第二幕、王妃として、母としての立場を悟っていって後の演技が非常によかった。年若い人だけれども、もし近くにいたら、大人の女同士、友達としてつきあっていける、そう感じさせる深みがあった。実際、彼女は初日前囲み会見でも機転が利いていて、フォローして答弁をまとめるのが上手かったので、困ると、「では、愛希さんは?」「愛希さんはいかがですか」と振りがちだったかつての日々。2017年の『グランドホテル』ではエリザヴェッタ・グルーシンスカヤ。特別監修を務めたブロードウェイの大スター、トミー・チューンが、「彼女をブロードウェイに連れて帰りたい」と発言した公演である。このとき、自分の実年齢よりかなり上の役を演じるにあたって、「グルーシンスカヤが人生において嗅いできた香りを考えて役作りした」と言っていて、…この人、変かも…と思った。無論、「変」はほめ言葉である。そういう役作りをする人を初めて知った。そして、小池修一郎のスマッシュヒット、『All for One〜ダルタニアンと太陽王〜』では、女を男と偽り、フランス王を務めるルイ14世役。女性の姿に戻っているとき、…“若い娘”ってこういう感じよね…と考えながら演じているのを観て、それはびっくりした。もちろん、女性がすべての役を演じる宝塚だから、生のままの若い娘では舞台に乗れない。娘役としての技量が必要である。でも、貴女そもそも若い娘だから!!! なぜそこを考えるの〜〜〜。…ますますもって、変。
 思えば。彼女は6年の長きにわたってトップ娘役の重責を担ってきた。そして、その務めを立派に果たしてきた。だから、…人として立派になりすぎて、若い娘感を失ってしまったのかな…と、ちょっと心配に。
「♪オリンピックの顔と顔〜」、『カンパニー』で歌った「東京五輪音頭」は、それにしてもみなぎる昭和感が素晴らしかったな…。平成生まれなのに、なにゆえ。やっぱり、変である。それ以来、平成風に、今っぽく歌われているのを聴くと、何とも物足りないあひる。…トップ娘役が歌った名唱として「東京五輪音頭」をあげるあひるも、負けず劣らず変なのであるが。

 そして彼女は、娘役としては17年ぶりに、宝塚バウホールで主演を務めた。
『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』。タイトルの「♡」からしてすでに、齋藤吉正感たっぷりだ! 聖処女ジャンヌ・ダルクが現代にタイムスリップして起こる大騒動を描くこのコメディ。ジャンヌは、「スタバ」ではなく「スマダ」、あひるマークが気になる「スマイル・ダック・カンパニー」でバイトして、自ら狩ったウサギなどを調理して提供する始末。しかし、ジャンヌは、自分の代わりに過去へと行ってしまっている女性ドクターを救うため、火あぶりになる己の運命を全うせんと、帰ってゆく。その覚悟。ショー作品でも、「ここで娘役を使ってくれるのがうれしい!」という起用をよくよく見せる齋藤が、娘役がヒロインという異例の作品において、ジャンヌの生き方に憧れる現代っ娘等、娘役を多分に活かした作品作りを見せた。このとき、飲んだくれの女性ドクター役で、娘役としてかなりはっちゃけた演技を見せたのが、白雪さち花。冒頭であげた『THE VERY BEST OF ME』でも、蒼乃と共にかっこよく踊っていた。
 …私は、あのとき視界に入れようとはしなかった彼女の退団記念公演を観に、3年ぶりに宝塚までやって来たんだな…。
感慨深かった。宝塚月組娘役・愛希れいかの歩みは、私に本当に大切なことを教えてくれた。なぜ、私は、あのとき、あんなにも意固地だったのだろう。人には限りない可能性がある。どうしてそのことをまずは見出せなかったのだろう。
 …私は、娘役が主役を務める公演をずっと観たいと願ってきた。その夢を、愛希れいかが叶えてくれた。“ゾフィー”と“エリザベート”のような出逢い方をした人が。

 最後の公演、『エリザベート』。
 …私は、何だか安心したのである。ちゃんと若い! と。
 無論、技術的には申し分ない。高水準である。例えば、「♪あなたには 頼らない〜」を、最後まで地声で力強く歌いきる歌唱力。エリザベートが真のタイトルロールである東宝公演でも、男性相手にどんな舞台を務めるか、それは観てみたいものがある。
 でも。これまで驚異的な想像力で埋めてきたけれども、表現者にはやはり、人生経験も必要なのである。それに、今全部できてしまったら、後の人生の楽しみが何にもなくなってしまうではないですか。
 これからの人生、多くの人と出会ってください。いろいろな経験をして、いろいろな物を見て、その都度、心を動かして…。それは、貴女が今後、表現者として生きようと、生きまいと、貴女の人生を豊かなものにしてくれます。それが、貴女だけの心の財産です。その心の財産が、表現に生きてくる。技術を裏打ちするものとなる。いろいろな経験を積んで…、初日前囲み会見で顔を合わせていた評論家のことは、忘れるくらいでいい。でも、貴女がまた舞台に立って、「…あの人だったら、どう言うかな?…」と思う日が来るかもしれない。そのとき、私たちはまた逢いましょう!
2018-11-18 01:15 この記事だけ表示
 思えば、娘役・憧花ゆりのは昔から颯爽としていた。若手娘役時代、同期の城咲あい(Kバレエカンパニー伊坂文月夫人!)と共に、溌溂と踊っていた姿を今も思い出す。颯爽とか、溌溂とか、かっこいいとか、男前とか、月組娘役にはそういう言葉がしっくりくるのである。男役陣が多少不甲斐なければ、娘役だけでも前線に攻め上がってくる。そんな娘役の攻めの姿勢は雪組にも大いに感じられるものだけれども、“武器”が、拠り所が何だか違う。組文化の違い、そのおもしろさ。月組は、トップ男役が多少危ういとき、トップ娘役が代わりにエースアタッカーを務めている、務めざるを得ないケースが多いような。もちろん、それも、宝塚における男役と娘役との関係性の中で、「エースアタッカーはこの人です」と隣をあくまで立てながら、代わりに強打を相手コートにビシバシ打ち込んでゆく感じ。
 そんな月組で、憧花は2013年から副組長を、2016年からは組長を務めてきた。五組一、学年の若い組長である。
 最後の作品『エリザベート』で演じるは、姑ゾフィー。「皇后の務め」は、ゾフィーがエリザベートをイビる怖い怖いシーンとして知られ、これまで多くの役者が名演を見せてきた。だが。憧花の演技は破天荒だった。田舎者だの寝坊だの歯が黄ばんでいるだの古いしきたりを守らなくてはいけないだの、さんざんエリザベートに小言を言う、そのすべてが、周りの女官共々「ごもっとも」と思わず唱和してしまいたくなるほど、ごもっともすぎる! あまりにごもっともすぎて、エリザベートがその直後に名曲「私だけに」を歌いにくそうになるほど。――やりすぎとは私は決して思わない。ここまで“ごもっとも”なゾフィーが出たからには、今後のエリザベート役者には、その“ごもっとも”を超えてなお「私だけに」を成立させるだけの、人間としての並外れた偏屈パワーが求められる。
 …そんな憧花ゾフィーを観ていて、私は、彼女の前に副組長を務めていた花瀬みずかのことを思い出さずにはいられなかった。男役から転向後、娘役としてのキャリアがまだ浅い時代に、愛希れいかはトップ娘役の座に就いた。そのとき、月組娘役陣を率いていた人のことを。花瀬が、今回の『エリザベート』を観て、愛希エリザベートと憧花ゾフィーの件のやりとりに深く納得したのならば、三人の娘役たちのそれぞれの奮闘はすべて報われるものとなったのだと私は思う。そんな、美の結晶のようなシーンだった。
 前トップ娘役、蒼乃夕妃が退団するとき、憧花が贈った言葉が、今でも心に残っている。まりも(蒼乃)と芝居をすると、スカッとするのよ、と――。そのスカッと感は、憧花の演技にも感じられるものだった。蒼乃と親友役を演じた『THE SCARLET PIMPERNEL』。ぼそっとつぶやく一言が強烈な、『カンパニー』のシングルマザーのバレエ教師。『THE LAST PARTY〜S. Fitzgerald’s last day〜フィッツジェラルド最後の一日』のシーラ・グレアム。フィッツジェラルドの晩年の愛人であるシーラを演じて、実にいい女だった! きりっとスーツを着こなして、不遇の作家を愛で包む、粋な女。得難い人。
 いつぞやの新年互例会で、彼女と話をする機会があって、彼女は、「一人くらい毛色の変わった娘役がいてもいいかと思って」と、自分について語っていた。もちろん、毛色を変えるには、まず本道を知らねばならないわけであるが。そして彼女はなぜかしきりと、「前にもお話ししましたっけ」と言うのだった。実際に話すのはそれが初めてだったけれども、思っていた。――−「心の中では、何度もお話ししていた気がします」と。そして、思い出していた。その数年前、宝塚大劇場付近の道を歩いていて、反対側の道の向こうから彼女がやって来て――。よほど手を振ろうかと思った! でも、取材で顔を合わせたこともなく…。
 ――なぜ、今、退団?
 退団が読める人と読めない人がいて、彼女については読めなかったなと…。次のトップもその次のトップも、まだまだ盛り立てていきそうな、パワフルなオーラがあったから。でも、きっとそこには“ごもっとも”な理由があるのだろうと思うから、幸せだけを祈っている。今度街で出逢ったら、絶対手を振る! 話しに行く。そのときまた、いろんな苦労話を、あなたらしくぼそっと強烈に、粋に話してください。忘れ難い、いい女!
2018-11-18 01:12 この記事だけ表示
 …実はあひるは、『雨に唄えば』に、あるときから非常に引っかかるものがあり…。大女優リナ・ラモントのことが、心にずっと引っかかっていて。
 サイレントからトーキーへと移り変わる時代のハリウッド。しゃべらなければ素敵だけれども、しゃべると魅力ぶち壊しのリナ。このままではまずい。リナとコンビを組んできた主人公の映画スター、ドン・ロックウッドは、親友コズモの助けも借り、リナに黙って、恋人となった新進女優キャシーの美しい声で、リナの悪声を吹き替えてしまうことにする。それがリナの知るところとなり、彼女は大激怒。自分にはパブリシティの全権限があると、契約を盾に、キャシーの存在を秘密にし、これからも自分の吹き替えを黙って務めるよう命じる。そんなリナの悪だくみは、映画試写会の場で、ドンとコズモの機転で天下の知るところとなり、ドンとキャシーは晴れて結ばれる――、わけですが。いや、確かにリナはしょうのない人ですよ。自分を客観視できていない。ゴシップ誌の記事を鵜呑みにして、自分とドンとは熱い仲だと(そんな事実はどこにもないのに)信じ込んでいるし、自分の悪声や変な発声とも向き合ってはいない感じだし。でも…、最後、あそこまで公の場でコケにされなくてもいいような…。あの後リナはどうやって生きていったんだろう…。実際、声に魅力がなくて、トーキーへと移り変わる際、映画界を去った人もいたんだろうし…と思うと複雑。歴史的事実を曲げてリナを悪役に描いているのも気になる。ハリウッド映画産業の興隆と法整備との関連を論じた内藤篤の著書『ハリウッド・パワーゲーム―アメリカ映画産業の「法と経済」』によれば、『雨に唄えば』の時代、一女優がパブリシティの全権限をもつといった契約を映画会社と結ぶことは不可能だったとのこと。
 それと、重大な点がもう一つ。リナ役を演じるにあたっては、悪声でセリフを言って歌を歌って、本当に芸達者でなければ務まらないのに、この役を演じていて、役者として、それに報われるだけの喜びははたして味わえるんだろうか――。映画版でリナ役を演じたジーン・ヘイゲンは、キャシーがリナを吹き替えたという設定のセリフも、実際には自分自身でしゃべっていたそうな。何だか、とっても複雑! そんなこんなを考えていると、あんまり楽しめず…。
 そんな思いを抱えて、今回の月組版を観た。
 楽しかった!!!
 まずは、私の心のもやもやなど吹っ飛ばすくらい、輝月ゆうまがリナ役を快演! 嬉々としてこの役を演じていた。世にも楽しそうに、悪声をものともせずに生きていた。ゴシップ記事の妄想をすっかり信じ込むお花畑加減もアホかわいらしい。自分を客観視できていないところが逆に痛快なまでに見えるキャラ作り。これなら、吹き替えがバレた後も、世を忍ぶでもなく、変な声がチャームポイントのおもしろさ抜群の女優として、立派に世間を渡っていけそうなたくましさ。今でも、輝月があのふにゃふにゃした声で晴れやかに歌い上げるラブ・ソングが耳の底に残る。その記憶だけで楽しくなってくる。そして、フィナーレのショーがつくのも、宝塚で『雨に唄えば』を上演する際のいいところだな…と。さっきふにゃふにゃ歌っていた歌を、輝月がきりっと歌って歌唱力を示す。「リナ役は芸達者でないと演じられない」というところを、舞台上できちんと示せる機会があるわけである。ちなみに、輝月ゆうまは男役、公表身長177センチ。ゴージャスなドレスを着て立つ姿に、デカッ! と思う。そんな大きな身体に秘めた、あのふにゃっとしたかわいらしさ。現在公演中の月組『エリザベート』では、エリザベートの父マックス役としていぶし銀の魅力を放っている。…宝塚って本当におもしろいところですね。
 こうして、あひるの心の懸案が見事クリアされたことで、クラシックさが魅力のラブ・コメディの世界に没入できるように。そして、主人公ドン・ロックウッドを演じる珠城りょうが、実にロマンティックで素敵だった! 男役として、初めてドキドキした。彼女の持ち味は真面目一途なところ…と思いきや、これまで数々のラブ・アフェアを楽しんできたプレイボーイに見える。そんなドンが、キャシーに出逢って初めて「僕にはもう君だけだ」となるところに、胸がきゅんとするわけである。
 ドンの相棒コズモを演じる美弥るりかの芸達者ぶりにも目を見張るものがあった。彼女が歌う「メイク・エム・ラフ」は、さまざまな大道具や小道具を使っての身体を張ってのアクションが寸分の隙もなく詰め込まれたコミカルなナンバーである。周囲のキャストとの密な協力関係が成立していないと、タイミングが狂ってしまう。この、実にトリッキーなナンバーを、美弥コズモは、汗一つかいていないような涼しげな顔で、「何にも大変なことはないんですよ」とばかりに楽しげに歌いきって見せた。コズモはドン同様、もともとは芸人。その芸人魂を体現できるだけの美弥の役者魂に、感服した。彼女は小柄な男役である。けれども、フィナーレで、身長177センチの輝月はじめ月組男役陣を率いて踊る姿に、――この身体で組を率いるところを観てみたい、そう感じた。そのとき、宝塚歌劇の新たな地平がまた、拓かれるような。
 ヒロイン・キャシーに抜擢されたのは美園さくら。彼女がヒロインを演じているところを観るのはこれが初めて。最初のうち、緊張が隠せないようだったけれども、ドンとコズモと三人で楽しく歌い踊る「グッドモーニング」のシーンで、何かがほどけたのか、…ぱああっと、ドンをもコズモをも凌駕するようなオーラを放つ一瞬があった。前月組トップ娘役、蒼乃夕妃を彷彿とさせる、思い切りのよさを感じたからかもしれない。『エリザベート』二幕冒頭の「キッチュ」のシーンでは、クレオパトラのような扮装で“エジプトの美女”として歌い踊っている。娘役としての可動域を超えかねないその動きに、元宙組トップ娘役、陽月華をも思い出したことだった。そして、エトワール。あんなに正面きって自分の率直な思いを歌で堂々伝えてくる娘役は、雪組スター晴華みどり以来かもしれないなと…(雰囲気も少し似ている)。月組の次のトップ娘役として、期待大である。
2018-11-18 01:11 この記事だけ表示
 今日の東京は大雨でした。
 ということで、夏の大雨の日の思い出。

 七月上旬、関西へ観劇に出かけた。大阪松竹座で四代目市川猿之助出演の「七月大歌舞伎」を観て、宝塚で夫と落ち合い、宝塚大劇場の雪組公演と宝塚バウホールの月組公演を観るという計画である。台風が来るのはわかっていた。そして、とても厄介な仕事のおまけつき。
 松竹座夜の部最後の演目は『女殺油地獄』。大阪の地で見る近松門左衛門作品にはまた格別の味わいがある――豊嶋屋七左衛門を演じた中村鴈治郎のセリフ回しに惚れ惚れとする。そして、河内屋与兵衛(松本幸四郎)と七左衛門女房お吉(市川猿之助)、二人の、それぞれにまったく別の想いから来る「…生きたい!」との強い願いが火花のように激しく交錯する様に、自分自身もまた貫かれるような思いがした。
 一夜明けて。雨が激しい。厄介な仕事の電話を長々としていたら、ホテルを出るのが昼過ぎになってしまった。阪急梅田駅に行ってみると、宝塚線はじめ全線すでに止まった後。いいや、じゃあ予定通り、中之島近代建築散歩しちゃえ! と、止まっていない地下鉄に乗り込むあひる。大阪市中央公会堂をのぞき、隣の中之島図書館の中にある北欧オープンサンド専門店で昼食を取り、正面玄関入ったところの巨大なドーム型中央ホール、ソクラテスやシェイクスピアといった知の巨人たちの名前が飾られた空間にしばしたたずみ。
 よし、近代建築堪能! と、梅田に帰って荷物を引き取り、さて、どうやって宝塚まで行ったものかと思案顔。あひるが考えついたのは、リムジンバスで伊丹空港まで行き、そこから路線バスで宝塚まで行くというプランだった。早速、新阪急ホテル下のバス乗り場に行くと、すでに長蛇の列。大阪マルビルの乗り場の方がバスの本数が多いと聞き、雨の中、キャリーケースを引きずって行く。比較的すぐ、二本目のバスに乗れて、渡る今川、水量は岸辺に迫らんとする勢い。けれども、道路は順調に流れていて、思っていたより早く空港到着。
 そこからが長かった。宝塚行きバスはすでに運休した後だったので、池田行きバスの列に並ぶことにする。このとき、隣の伊丹行きとどちらに並ぶか非常に迷ったのだけれども、いまいち土地勘がない(そちらの方が本数が出ていて、結果的に、電車も早く復旧していた)。とりあえず、並ぶ。どうして一つのバス停に二つ列があるんだろう、行き先別に並んでいるんだろうか…といぶかしく思いながら。
 自分が来る前にすでに一悶着あったのを知ったのは、並び始めてだいぶ経ち、近くの人たちといろいろと会話を交わすようになってからだった。こちらの列の方が正しい場所に早くできていたのを、長い行列の後ろに並ぶのはいやとばかり、新たに列を作った不届き者がいたと。「こちらの方が前から並んでいた正しい列ですよ」と親切に教えに行った人も、無視。そして、後から来て事情がよくわからず、列があまりに長くなっているからとりあえず人が少ない方に並ぼうかなと思う人もいて、二つの列とも人がじりじり増えていく。そして、時間通りにバスは来ない。…いや増す緊張感。そして、一時間ほど経って、やっとバスが到着。しかし。案の定、どっちの列が正しいかで揉め出す。乗客を降ろした後、そそくさとドアを閉める運転手。揉め事が決着するまで、客を乗せないつもりらしい。
 そこへ怒号。
「お前には良心がないんかい!!!」
 あひるの少し前に並んでいたおじさん――舞台人にたとえるならば、岩松了に似ていた――が、不届き者に向け、お腹にまで響き渡るバスバリトンの声で発したものだった。その迫力。自分に向けられたものでなくても震え上がってしまうような。今でも鼓膜にあざやかに残る。その怒号一発で、向こうの列の後ろの方の人たちが、…この列、違うんだ…と悟り、こちらの列にバラバラと並び直す。自分たちに分がなくなってきたことを知り、向こうの列に並んでいた高齢男性が腹立ちまぎれに閉まっているドアに拳一発。と、そこで警察出動。
 …いつの間にか、自分が何かの劇に出演しているように思えてきた。はたしてこのバスに乗れるのかどうか、というか、そもそも今日中に宝塚にたどり着けるのか、そもそもたどり着けたところで明日公演は行なわれるのか、押し寄せてくる不安と緊迫感とで胸が締め付けられるようになりながら、これがもし舞台だとしたら、どんな作品だろう…とつい考えてしまう職業上の性。…オペラだ。ヴェリズモ・オペラ。マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』みたいな。…と、あひるの考えがまとまっても、まだ揉め事は続いている。不届き者は、二つの列で交互に乗車することを提案。そこでまた岩松了似氏他、こちらの列の猛者が関西弁で怒鳴る。ついに向こうの列は不届き者一人に。そして! ようやくこちらの列の乗車が始まったと思ったら、不届き者もさっさとバスに乗り込んでしまったのである。乗るんだ! これだけ怒鳴られても。その姿は、映画『タイタニック』で、「I have a child!」と嘘をついて救命ボートに乗り込む、ヒロインの婚約者を思い出させた。
 しかし。さらに驚いたのはその後だった。岩松了似氏他数名は、バスに乗り込んだ不届き者を、「降りんか!」「降りろ!」と怒声のみで追い詰め、いたたまれなくなった不届き者は遂に下車。降りるんだ! あそこまでして乗ったのに。至近距離で見た彼の目は定まらず、うつろに揺れ動いていた。嘘をつく人間、自分に分がないことを知る人間の目は、このように泳ぐのだ…と、しみじみ思った。
「何回も関西に来ているけれども、今、とても関西らしいものを観た気がしました」
 近くに立っていた岩松了似氏に思わずつぶやく。
「それは、ええもん見たね」
と、ちょっと照れて破顔一笑。実にチャーミングな笑顔で、さっきド迫力の怒声を発した人とは思えない。ごくごく普通のサラリーマンである。その姿を見ていて、思った。関西弁で音楽劇を作ったら、音楽的にも実におもしろいものができそうだなと。
 さて、満員のバスは池田に向かって進む。しかし、土地勘がないので、停留所の名前を聞いても、並んでいてあれこれおしゃべりするようになった、これから夜勤に向かうという看護師の女性が「えらく遠回りやね」とこぼすのを聞いても、いったいどこを走っているのかわからない。それが、途中ではっとした。…阪急創始者、小林一三翁が眠る大広寺の近くを走っているのだと。心の中で、手を合わせ、今の宝塚歌劇団について語りかけ、自分の仕事をどのように全うしていけばよいか尋ねた。彼の魂は、私が久しぶりに――3年ぶりに――宝塚を訪れることを、喜んでくれていた。別に私だけではない。彼の魂は、宝塚大劇場にやって来るすべての観客を歓迎している。そのことを雄弁に伝えているのが、大劇場前にある朝倉文夫の手による名作「小林一三先生像」である。そして、語りかけているうちに、明日の公演は上演されるだろうという確信が生まれた。
 バスは池田駅に着いた。阪急宝塚線はまだ、雲雀丘花屋敷止まり。タクシー乗り場に並ぶも、なかなかやって来ない。一時間ほどして宝塚線再開。電車がやって来るのを見ただけで、涙が出そうになるほど感動するとは。当たり前は決して当たり前ではないと身に沁みる一日。梅田から宝塚、普段なら阪急電車で30分ほどで着くところを、4時間半かかって到着。ようやっとたどり着いた宝塚ホテルのフロントで尋ねる。
「…あの、今日の歌劇は?」
「普段通りやっておりますよ」
 流石なり。
 さて、チェックインして、またまた厄介な仕事の電話を一時間ほどして、22時半ごろ、夫から来たメールに驚愕。
「今、岐阜羽島のあたりだよ」
 …最初は思った。この状況で何をふざけているのかと。18時半過ぎに東京駅を出たっていうのに、いくら何でもおかしくない? しかし。決して冗談ではなかった。雨の中、次々と東京駅を出て行った新幹線が、新大阪から名古屋にかけてぎゅう詰め。最終的に新大阪に到着することはできたものの、そこで2時間ほどタクシーに並んだ夫が宝塚ホテルにたどり着いたのは、午前3時過ぎだったそうな(翌日の観劇に備え、先に寝てしまっていたあひる)。
 翌朝。宝塚バウホールに行く。当然ながら、満員。そりゃそうだ。月組トップ娘役愛希れいかが、娘役としては17年ぶりに異例の主演を務める『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』の、今日は最終日なのだから。でも。宝塚ホテルから歩いてきた私たちはともかく、阪急もJRも朝から止まっている中で、みんないったいどうやって劇場に来ているの? というか、観客もさることながら、キャストとスタッフは? …いまだかつて見たことのない水量の濁流となって流れる武庫川を窓越しに眺めながら、不思議に思った。あなたたちこそどうやって東京からたどり着いたんですか?! と不思議に思われていたのを知ったのは、その後の話。そうして観たバウホール公演も、雪組大劇場公演も、しみじみ心に残るものだった。演じる人がいて、観る人がいて、毎日当たり前のように舞台は上演されていて、けれども、それは決して当たり前ではないこと。そして、思ったのだった。宝塚歌劇は関西発祥の舞台芸術である。宝塚の地で生まれ、育ち、創られ、全国に公演に行く。決して忘れてはいけない。そのことを改めて深く心に刻むために、今回のこの大雨紀行はあったのだと。
2018-11-06 22:53 この記事だけ表示
 天草四郎は、倭寇だった!――そんな大胆な仮説のもと展開されるのが、原田諒の力作『MESSIAH −異聞・天草四郎−』である。仲間と共に海を舞台に大暴れしていた倭寇の頭目・夜叉王丸(明日海りお)は、嵐に遭い、天草の大矢野島の浜辺に打ち寄せられる。そこに住まう隠れキリシタンの人々は、貧しい暮らしの中にも彼を心優しく受け入れ、“四郎”という名を授けるのだった。その天草近くの無人島の岩窟の中で、洗礼名リノこと山田右衛門作(柚香光)は、美しい娘、流雨(るう)(仙名彩世)をモデルに聖母マリア像をはじめとする聖人画を描いていた。島原の藩主松倉勝家は、幕府に対しては石高を実際より高く申告し、圧政をますます強めて人々にさらに過酷な年貢を課す。四郎は人々に呼びかける。自らの手で“はらいそ―天国―”をこの世に実現しようと。島原の乱の勃発である。それから二十年後、四代将軍徳川家綱が、実際にこの乱で一人生き残った絵師の山田右衛門作(山田祐庵)に対し、真実を教えて欲しいと問い、その問いに対して祐庵が答えるというのが、作品全体の仕掛けとなっている。
 惜しむらくは、四郎が踏み絵をも厭わず、人々に自らの手ではらいそを築こうと呼びかけるシーンで、これまで自らが信じてきたところと違う彼の呼びかけを、人々が一瞬にして受け入れてしまっているように見える点である――四郎の父親代わりとなる益田甚兵衛役の一樹千尋はここを、素晴らしい力技の演技で通していた――。もう一段階、もう一シーンの積み重ねがあれば、説得力がさらに増したことと思う。しかしながら、流雨に心を寄せる四郎とリノ、その三人の関係がドラマティックに描き出されていく様、四郎の呼びかけに対し天草の人々が「♪メサイア、メサイア(救世主)」と歌で答え、声が響き合ううち大合唱となっていく様など、重厚なオペラ作品を思わせる骨太な作りである――岩窟の中でのリノと流雨の場面も、二人の関係こそ違え、どこか『トスカ』の第一幕を連想させる。宝塚“歌劇”の面目躍如である。そして、物語のクライマックス、戦いに敗れた人々が大階段の上、重なり合って次々と倒れ込み、巨大な十字架が描き出されてゆくシーンでは、宝塚の芝居作品において大階段の表象するところについて、新たな視座を拓かれる思いだった。一人生き残って歴史の真実を描き続けていくこととなる絵師祐庵の姿に、演出家の、作り手としての矜持がにじむ。力作である。天草四郎というカリスマ的美少年の役どころも、骨太な中にいつもどこか少年の魅力をたたえたトップスター明日海りおにいかにも適役である。
 私の父は山口県宇部市出身だが、彼の実母はクリスチャンで、少女時代、カナダへと旅立つ私に、聖母マリアが彫られたネックレスをお守りとして渡してくれたことを懐かしく思い出す。晩年、祖父もやはりクリスチャンとなった。見晴らしのいい場所に建てられた二人の墓には、それぞれの洗礼名が刻まれていたが、墓仕舞いということで、今は、東京のとあるお寺にある墓地に眠っているのが、ちょっと隠れキリシタンみたいだなと思わないでもない。

 『BEAUTIFUL GARDEN –百花繚乱−』は、新鋭野口幸作の作・演出。野口は今年初めの雪組『SUPER VOYAGER!−希望の海へ−』でもアイディアてんこ盛りの快作を発表していたが、今作でも、その創作エネルギーがとどまるところを知らない様を見せた。とりわけ目を瞠らされたのは、娘役芸の高さを誇る花組娘役陣を活かし、スカートさばきの妙を随所にちりばめたところである。まずはオープニング、ダークな色合いの地に花模様をちりばめたプリントのフリルスカートで、娘役たちが並んでひざまずき、幾重にも重なったそのフリルの中から片方の脚だけを見せるシーンの美しさ(振付・羽山紀代美)。そして中詰め、これまたたっぷりとふくらんだスカートの裾を両手で持って前後にひらひら揺すりながら銀橋を渡り、その途中で腰を下ろして脚をバタバタさせてスカートに動きを見せる場面は、副組長花野じゅりあをはじめ、娘役陣のコケティッシュさ全開(振付・三井聡)。ひらひらバタバタに自分も参加したい! と思うほど、娘役の魅力を際立たせていた。加藤真美の衣装も新風にあふれていていい。
 仙名彩世は、そんな強力娘役陣を擁する花組において、まさにトップ娘役の名にふさわしい活躍である。『MESSIAH』では神へ捧げる祈りの歌を歌って聖なる響きを聞かせる。『BEAUTIFUL GARDEN』の第4章「SPANISH GARDEN」では、明日海りおの闘牛士相手に彼が愛した女優を務めるが、黒い衣装に身を包んだ姿が、スペインの画家ゴヤの描いた女性像を思わせる。そして、舞台上にただ横たわっているだけでエロティック。中詰めでは、白いロマンティックなたっぷりとしたロングスカートで、ポップスに乗って軽快に激しく踊る、だが、その裾は決して乱れない! 高く蹴り上げる際にも、ほとんど計算し尽くされているとしか思えないその裾の軌道の美しさに息を呑む。スパンコールのジャケットにショートパンツ、網タイツといういでたちで、男役陣を率い、ガーシュインの「ス・ワンダフル」を歌い踊る姿は粋で颯爽とかっこいい。それが、決して男前風ではなく、可憐な娘役としての真骨頂のかっこよさなのである。
 明日海と仙名がすみれ色の美しい衣装に身を包んで展開するデュエットダンスは、宝塚への愛に満ち満ちた名シーンである。素晴らしいトップコンビである。バレーボールに例えるならば、仙名彩世は名セッターである。回ってきたボールに対し、自分でアタックもすればフェイントもする。そして、ここぞという場面では、円熟期にあるトップスター、エース明日海に集中してトスを上げる。その圧巻のトスが見られるのが、このデュエットダンスの場面である。なるほど、今の花組が強いわけである。チームとして見事に機能している。
 柚香光は、ショーの中詰め、夏はやっぱりTUBEだぜ! の「シーズン・イン・ザ・サン」で「♪Stop the season in the sun 心潤してくれ〜」と歌うシーン、舞台稽古では…まずは自分が心潤してくれ〜!…と大いに心配になるほどだったが、その後無事復調。東京は見事にシーズンがストップされ、十月なのに30度を超す陽気の日もあったのはそのおかげだろうか。柚香はモノトーンの舞台装置と衣装の中、雨傘だけが印象的な「雨に濡れても」のシーンも印象深かった。芝居で、圧政を敷く島原藩主松倉勝家に扮した鳳月杏は、冷酷なまでに悪に徹した演技で芝居巧者ぶりを見せた。水美舞斗は、芝居では将軍徳川家光の重臣松平信綱役で力演を見せる一方、ショーのラインダンスの場面では、花の中を浮気に飛び回る蜂のロケットボーイを担当。はつらつとした踊りでアピール、大売り出し公演といった感があった。

 本日の千秋楽をもって、天真みちるが宝塚を去る。その芸人魂で花組の舞台を大いに沸かせ、テレビ出演時には“宝塚のタンバリン芸人”として視聴者の度肝を抜いた男役である。
 ずっと宝塚にいるように思っていた。澤瀉屋、否、歌舞伎界にとっての二代目市川猿弥のような存在に、宝塚においてなっていくものと思っていた。
 けれども、いつのころからだっただろう――観客をただ楽しませたい、幸せにしたい、そんな気持ちがいつも大いに伝わってきていた彼女の舞台から、無邪気さが何だか失われて、迷いが見えるようになったのは。そんなことを思っていたら、退団の報せ。
 貴女に楽しませてもらった、笑わせてもらった、かけがえのない時間が、私の心の中から決して失われることはない。だから、いつか、舞台に立つ幸せを追い求めたいと無邪気に思える日が来たら、戻って来てください。私はいつでも、劇場の客席にいる人間なのだから!
2018-10-14 00:17 この記事だけ表示
『凱旋門−エリッヒ・マリア・レマルクの小説による−』は、今から18年前、今回と同じ雪組で、同じ轟悠主演で初演された。「♪パララパララパララー」のリフレインが印象的な主題歌。恋人たちが杯を交わす林檎酒カルヴァドス。――心に残った。だからこそ、レマルクの原作小説の中古本を買い求めたのだと思う。――だが、買っただけで満足してしまったらしく、本は18年間、本棚の片隅に置かれたままになっていた。
 再演の舞台はひときわ心に沁みるものだった。私はようやく、18年前に買い求めた原作を手に取り、読んだ。不思議だ。すべてがよくできためぐり合わせのようだった。原作に、舞台に描かれているような、男女の、人の心の機微について、18年前の私はまったくわかっていなかった、と思った。きっと読んでも全然わからなかっただろう。18年後の私は、わかる。沁みる。何があったわけでもない。ただ、劇場の客席に座り、多くの時間を過ごしてきて、わかるようになってしまった――不思議だ、劇場は。
 主人公ラヴィックは、ドイツの有名な病院の外科部長だったが、友人をかくまったかどでゲシュタポの拷問に遭い、恋人も失い、強制収容所に入れられたところを脱出し、フランスに不法入国した身だ。パリでは無免許で手術を行なうもぐりの医者として生計を立てている。雨の降るある夜、彼はよるべない若い女、ジョアンに出逢い、恋に落ちる。だが、ジョアンは、ひらひらと舞う蝶のように魂に一切の落ち着きのない女である。ラヴィックだけでは我慢できず、自分に豪奢な生活を与えてくれる男、自分に愛というものを与えてくれる、あるいはその幻想だけでも与えてくれる男の間を飛び回る。その一方でラヴィックの心をもとらえていようとする。ラヴィックの状況を理解しようとはせずに。
 女とは、結婚できない。子供をもうけられない。家庭という名の温かな社会的保証、安定を与えてやることはできない。その法的資格がない。ラヴィックは、自分という存在を証明する書類を持たぬ亡命者だから。
 心から愛した者に、その者が望んでいるものを与えてやれないのはひどく苦しいことだ。他の誰かがその者にその望んでいるものを与えてやるのを、指をくわえて見ているしかない。――まあ。愛において、愛以外のものを望むな、とも思うけれども。愛以外のものが入り込んできた瞬間、それは愛ではなくなってしまう。
 自分を愛しているのかどうか、執拗に尋ね続ける女に対して、ラヴィックは決して自分の心の内を明かさない。けれども、原作では、彼は、他の男のもとへと去った女の家の前のベンチに座り、苦しい、引き裂かれたような思いを味わい、――そして大雨の中で、知る。「おれは生きている!」と――劇中では、轟悠演じるラヴィックが、自分が愛しているのはジョアン一人だと銀橋を一人激唱して渡るくだりに仮託されている。
 ――昨年の秋、自分がまったく同じ思いを味わったことを思い出さずにはいられなかった。人に心などなければいいと願いたくなるような痛み。その痛みが、告げていた。「お前は生きている!」、その夜のことを(http://daisy.stablo.jp/article/455867317.html)。あまつさえ、その夜、雨が降っていたような気さえし始めた。否、それは、心の中に降る雨だったに違いない。
 それでも。ラヴィックとジョアンは、幸せなのだ。他の男――ラヴィックが「おれは生きている!」と悟ったときと同じ男であるかどうかさえわからない。舞台では一人の男に集約して描かれているけれども、原作小説では、彼女は名前さえ言及されない数多の男たちの間を飛び回って生きる――に撃たれたジョアンの死の刹那、少なくとも二人は互いに確認できるのだから。それは、愛だったと。――ここで、原作では、女は女の母国語で話し、ラヴィックは自分の母国語で語る。それまでは互いに借りものの、フランス語という共通言語で語っていたのだった。「どちらも自分自身の言葉を話した。言葉の障壁はくずれ落ちて、ふたりはたがいに、いままでよりももっとよくわかりあった」(山西英一訳)。
 世界には名づけられぬ関係が多く転がっている。互いに愛と確認できただけ、幸せである。確かめ合えねば、どうしようもない。その名づけ得ぬものをいつまでも心に抱えて生きていくしかない。あれは一体、何だったのだろう? ――と、蜃気楼のように消えた何かに思いを馳せて。未練ではない。不可解なのである。
 ラヴィックは作中、“ロマンティスト”と言及される。そのラヴィックに、自分は負けず劣らずロマンティストなのだろうと思う。だから、この心にある、名づけ得ぬ数多のものを、今ここに断じる。それは、愛だったと。たとえ、他者に――ひどいときには、その相手にさえ――踏みにじられ、唾を吐きかけられ、泥にまみれようとも、愛は、愛だったと。
 数多の愛の記憶が、今もこの心にある。

 轟悠がいてよかった、と思った。――轟悠と共にこの作品に、今、こうして向き合えたことが。
 数多の入団と退団を繰り返し、宝塚歌劇団は新陳代謝していく、とされる。それは無論、組織活性化の大きな要素ではある。けれども、残り続ける人々もいる。演出家を始めとするスタッフがそうだ。轟も所属するところの専科のメンバー、組をまとめる組長副組長らベテランがそうだ。――そして、宝塚を見守り続ける観客も。繰り返される入退団の強大なエネルギーのそばで、残り続けることにもまたエネルギーが要る。かつて轟がコンサートでシャンソン『人の気も知らないで』を歌っていたことを思い出す。それ以来、思うようになった。退団後、宝塚に変な未練を見せるくらいだったら、轟悠のように残ればいい。“人の気も知らないで”。
 18年の時を経て再びラヴィック役に挑んだ轟に対して、ヒロイン・ジョアンを演じる真彩希帆は学年にして27期離れている。この学年差が、原作上も15歳違うラヴィックとジョアンのすれ違いをまずは雄弁に物語る。それだけ年齢が違えば、人生における経験値も異なる。しかも、ラヴィックは外科医だ。戦地を知り、死を知り、諦念を、絶望を知っている。それは、物語冒頭、ジョアンが襲われているところの絶望とはまた違う。そして、二人の性格が絶望的に違う。絶望にあって、だからこそ、生と性のエネルギーを燃やし尽くさんばかりに生きる者と、己の心を殺し、半ば死んだように生きる者と。だからこそ、ラヴィックはジョアンにひかれるのである。愛するのである。「きみは僕の生命だったよ――」「きみはぼくを生かしてくれたのだ――」
 それにしても。絶望の果てに愛を見つけ、その愛をも喪い、命のビザを人に譲って収容所へと死に向かう男性像は、宝塚歌劇の男役に何と似合うことだろう。脚本を手がけた柴田侑宏は、なんとロマンティストであることだろう。この作品の成功なくして、後の『カサブランカ』の成功もなかったと、今改めて思う。
 長年観続けてきた。そして、今、ラヴィックを演じる轟悠が、今までで一番好きである。――その姿に、思う。舞台と、客席と。劇場で多くの時間を共に過ごしてきた、舞台人たち。それもまた、名づけられぬ、言葉にして確かめ合わぬ、関係ではある。けれども。今ここに、もう、認めてしまおうと思うのである。友であると。――もちろん、さまざまな“友”がいる。宝塚で言えば、退団してしまって終わる友情もある。続く友情もある。個人的には一度も会わないかもしれない、けれども、確かに、人生の大切な時間を共に過ごした、数多の友たち。
2018-09-01 21:26 この記事だけ表示
 『ANOTHER WORLD』の作・演出は谷正純。ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』シリーズにインスピレーションを得た昨年の『CAPTAIN NEMO …ネモ船長と神秘の島…』では、宝塚歌劇団の座付き作家として生きてきた、そしてそのように生き続ける壮絶な覚悟を見事示した。さて、“RAKUGO MUSICAL”と銘打たれた『ANOTHER WORLD』の舞台は、あの世。これまでにも落語に題材を採った作品群を発表してきた谷が、『地獄八景亡者戯』『朝友』『死ぬなら今』といった噺をちりばめて作り上げたあの世ミュージカルである。ちなみに、『CAPTAIN NEMO』もそうだったが、谷は、舞台終盤に登場人物の多くが死んでしまう作品をも多く手がけてきており、“皆殺しの谷”の異名をもつ。だが、今回の作品では人は死なない。最初から死んでいる。登場人物のほとんど全員あの世の住人。
 何とも楽しそうな、そして、世知辛い“あの世”である。三途の川では大インフレか、六文銭では渡れない。真田幸村も真っ青である。冥途歓楽街には、小林一三が作った冥途歌劇団がある。トップスターの頭についている天冠(三角の白い布)はスパンコールでキラキラ! マルーン・カラーの阪急電車、否、冥途電気軌道を模したセットから、マルーン・カラーの衣装に身を包んだロケット・ガールズが次々と登場、ラインダンスを繰り広げる華やかなシーンは、日本初のレビュー『モン・パリ』(1927)に登場した、衣装を汽車の動輪に見立てたラインダンスをも思わせる。ちなみに冥途歌劇団では、植田紳爾が近日来演、『ベルサイユのばら』ならぬ『ベルサイユの蓮』を上演するとか。
 さて、あの世には冥途歌劇団以外にもさまざまな劇場がある。美人座はその一つ。しかし、ここには貧乏神が棲みついている。困ったものである。貧乏神を演じるは専科の華形ひかる。1999年入団だから、研20。大ベテラン。のはずなれど、貧乏神メイクもあってか、異様に若い。若々しい。あひるの夫など、配役を何も知らずに観に行って、「いい若手男役が出てきた! と思ったら華形みつるだった!」と鈍い衝撃を受けていた。さて、貧乏神には願いがある。極楽に行って、福の神になりたい。地獄に行って死神(トート?!)になるのは嫌!
 さて、作品の主人公である康次郎はといえば、恋煩いゆえあの世に来てしまった。そして恋のお相手お澄も、康次郎への恋ゆえにあの世に来ていたのだった。二人が演じる美しい恋物語『崇徳院心中』は、美人座で大ヒットする――ちなみに、谷正純は、近松門左衛門の『冥途の飛脚』を基にした『心中・恋の大和路』の潤色・演出を手がけている――。そして、閻魔庁でのお裁きの場、“びんちゃん”こと貧乏神の切なる願いを叶えるためなら、自分は極楽に行かずともいいと、康次郎は即答するのである――天晴れなまでに。己の命を賭して人々を救う『CAPTAIN NEMO』のヒーロー像が、ここにも通底している。
 最終的には、閻魔大王の怒りを買った康次郎とお澄は、“ぶち殺す”の反対で、ぶち生かされてしまう。つまりは、あの世からこの世に戻ってくる。そして、生者も亡者も入り乱れての総踊り、観客もすぐに覚えて口ずさめるナンバー「ありがたや、なんまいだ」にのっての、華やかなフィナーレ。「♪あの世とこの世 心で結ぶ 身は離れても 絆は消えぬ」――。
 1979年入団だから、谷正純は大も大のベテラン演出家である。ずっと宝塚と共に歩んできた。そして、これからも歩み続ける。悲劇と喜劇の違いあれど、このラストに込められた思いもまた、『CAPTAIN NEMO』と通底するものである。宝塚歌劇団は、谷正純の命をも、無論、私自身の命をも超えて、生き永らえ続けていくだろう――願わくば。この世に、宝塚歌劇団があり続けて欲しいという人と、なくてもいいという人と、両方がいて、前者が一定の割合より減ってしまうようなことがあった場合は別である。そうはならないように、これまでも多くの先達がこの花園を守り続けてきて、そして、これからも多くの人々がこの花園を守り続けていくことだろう。ただ、漫然と続いていくと思ってはならない、と私は思う。
 私自身はしばしば、宝塚歌劇における退団を“死”にもなぞらえて考えてきた。…となると、“あの世”とは…? 一つ言えることは。この世にいる間も、宝塚歌劇団に在籍している間も、日々を本当に大事に生きた方がいいということである。微細なことも、心に留めて大切にして。そうすることできっと、“あの世”でも道が拓ける。
 物語終盤、三途の川近くで、閻魔大王&鬼たちと、桃太郎を始めとする豪傑たちが、天下分け目の大いくさを繰り広げる。思えば、1914年4月1日、宝塚少女歌劇は『ドンブラコ』『浮れ達摩』『胡蝶』の三演目でスタートしたのだった。『ドンブラコ』の主人公は言わずと知れた桃太郎――『ANOTHER WORLD』は、宝塚歌劇団の座付き作家谷正純による宝塚歌劇論でもあるのだった。それにしても。「東京五輪音頭」と「白鳥の湖」が聴ける『カンパニー』(石田昌也作・演出)といい、善と悪とが対決するショー『BADDY』(上田久美子作・演出)といい、最近、座付き作家たちが皆々はじけてぶっ飛ばしていてすばらしいことである。
華形みつるがチャーミングに演じているので、ついついとても愛おしく、貧乏神びんちゃんを“心のキャラ”にも選んでしまうけれども。一般論として、貧乏神が居座ってしまった劇場はいけませんな。劇場には貧乏神ではなく、福の神や座敷童が居ますように。
 主人公康次郎を演じる星組トップスター紅ゆずるは、ネイティブである関西弁も滑らかに、お人好しで愛と人情に篤い好人物をノリよくファンキーに好演。文句なしに彼女の代表作である。

 タカラヅカ・ワンダーステージ『Killer Rouge』の作・演出は、待ってました! の齋藤吉正。齋藤吉正のショーがラインアップにない年は何だか物足りないんだぜ! …さて、先項に述べた”SAKURA ROUGE”のラインダンスといい、素敵な場面がたくさんあるショーである。中詰はばらにちなんだ楽曲メドレーということで、『ベルサイユのばら』アニメ版の名オープニングテーマ「薔薇は美しく散る」も聴ける。ちなみに、家で「♪バラはバラは 気高く咲いて バラはバラは 美しく散る〜」と昭和感たっぷりにこの曲を熱唱していると、「♪愛が苦しみなら いくらでも苦しもう〜」とエンディングテーマ「愛の光と影」で応えてくる夫もあひるも齋藤吉正も同世代。それはおいておいて。そして、心躍る場面に加え、「♪キラ! キララ! キラ! Killer Rouge」(「Rouge Comet-Killer Rouge」より)、「♪眠る世界へ投げキッス SEXY YOU! SEXY ROUGE!」(「Wonder Rouge」より)といったキラーチューンも備えた作品である。ショー後半に向けてのグルーヴ感も半端ない。なのだが。…何だか、若干、齋藤吉正感が足りない? 手堅すぎ? 成熟なのか、それとも、台湾公演をも見据えていつもよりちょっとお澄ましな感じなのか。らしさをぶちかまして台湾で賛否両論が起きたっていいじゃん! 物議を醸しても、きっとその何倍も魅了される観客がいるんだから! と、齋藤吉正ワールドをそれはこよなく愛するあひるは思っていたのだが。7月の愛希れいか主演の宝塚バウホール公演、キューティーステージ『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』を観て、全開の吉正ワールドを堪能、大いに安心したあひるであった。座付き作家が皆はじけてぶっ飛ばして来ている昨今、ぶっ飛ばしの旗手に今度も大いに期待。ちなみに、自分が書いている文章の中でもっとも汎用性が高い、つまり、多くの人々が読んで参考にしているんだな…と実感できるのは、齋藤吉正作品について書いた文章であるという意味でも、彼の存在にはいつも大いに感謝するものである。

 と、こんな振り幅の広い二作品で、星組の大切な仲間が宝塚を去る。十碧れいや。『ガイズ&ドールズ』の“心のキャラ”、ジョーイ・ビルトモア。『THE SCARLET PIMPERNEL』のピンパーネル団のオジー。大人の魅力が体現できる貴重な男役である。『ANOTHER WORLD』では貧乏神棲みつく美人座の木戸番・小五郎役。座頭・阿漕のもと、苦労が絶えなさそうな役どころを、ほっこり温かみのあるユーモアで見せた。『Killer Rouge』の銀橋での絶唱も心に残る――その姿に、東京国際フォーラムホール公演『LOVE & DREAM』での情景を思い出した。私は客席降りの際のハイタッチがいまいち苦手で、舞台評論家として手を出すべきか出さざるべきか、鈍くさく悩んでいるうちに終了〜ということが多々あるのだが、客席降りしていた彼女がほっこり微笑んで手を出して、――その姿に、心ほどけてすっと手を出した。頑なではなく、心のままでいいのだと思えた。あの手の温かみ、その手の持ち主の心の温かみを、忘れない。
2018-07-22 01:35 この記事だけ表示
 宝塚星組公演のショー『Killer Rouge』(作・演出=齋藤吉正)には、”SAKURA ROUGE”なるラインダンスのシーンがある。4月末から6月初めまでの宝塚大劇場公演が第104期初舞台生のお披露目公演だったこと、そして、10・11月の台湾公演でも上演される演目であることもあって、桜というモチーフが選ばれたのだろうと思う。紅桜をイメージした衣装も超絶キューティー、初舞台生への演出家の深い愛を感じる。「さくら」をはじめ、桜をテーマとするさまざまな楽曲にのって、華やかなロケットが繰り広げられる。
 …そんなシーンを観ていて、季節外れの花見話を書いてみようかな、と思った次第。

 …死にたい…と思ったとき、貴女は自分のところへ来ればいい、とアンチ・トートは云った。
「願わくば花の下にて春死なん その望月の如月のころ」
 その前日、桜の木の下で西行法師の歌を思い出していたのがバレてた〜?! と、思わずあせったあひるであった。それが、昨年の花見の思い出。
 以前も書いたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるとは思うのだけれども、アンチ・トートとは、あひるが、…死にたい…と思っているときも、もしくは、死にたいとは特に思っていないときも、「死にたいなんて言っちゃいけません〜」とそれは熱心に言ってくれる存在である。「死ねばいい」の『エリザベート』の“トート=死”と反対のことを言うから、アンチ・トート。ちなみにアンチ・トートは『エリザベート』を観ていて出てくることはない。というのは、『エリザベート』にはアンチ・トートのための音楽はないからである。アンチ・トートだったらこういう音楽で登場してくるだろうな…というイメージはあるけれども、それは今はさておき。
 アンチ・トートと過ごす時間は、人生の大切なひとときである。
 …十年後も、二十年後も、一緒にこうしていたい! こうしていられるかしら…と云った。
 …自分は未来のことはあまり考えない、とアンチ・トートは云った。とても、らしいと思った。

 さて、西行法師の歌を思い出しながら花見をしていたそのとき、あひるは、隅田川沿い、浅草の待乳山聖天を歩いていたのだった。待乳山聖天といえば、オー・ヘンリーの短編小説を基にした歌舞伎作品『上州土産百両首』の舞台となった場所である。2014年の「新春浅草歌舞伎」(浅草公会堂)で、四代目市川猿之助が主人公正太郎を演じるこの作品を観て、正太郎と一緒に泣いて…(http://daisy.stablo.jp/article/448444920.html)、その時以来、何だか、浅草は、街全体に四代目の形をした薄い巨大な入道雲がいつもかかっている場所のように思える。そしてそれ以来、四代目のことを、思っている。…他人じゃない、と。じゃあ何なんだと言われたらそれはわからないけれども、とにかく、“他人じゃない”。もしかしたら、多くの舞台人に対して同じことが言えるのかもしれない。舞台評論家という生業をしていて、多くの舞台人と多くの時間を劇場で共に過ごして、例えば久しぶりに舞台で元気な姿を観れば、…よかった、と思う。他人じゃない。ただ、“他人じゃない”というその感覚を初めて教えてくれたのが、四代目市川猿之助だったのである。
 ここで唐突に話は飛びますが、ポケモンGOをやっている人はぜひ、ワンリキーの画像を見てみてください。くりくりお目目に顔かたち、いたずらっ子ぽい仕草、…四代目にそっくりだとは思いませんか。ワンリキーが出ると、我が家では、「あ、猿之助出た」で通じる。街でも普通に言っているので、通りがかりでびっくりしている人もいるかもしれず。そして、2017年の花見のころ、隅田川沿いはまさにワンリキーの“巣”であった――ポケモンGOにおける“巣”とは、その時期そのポケモンがいっぱい出る場所であるという意――。つまり、隅田川沿いを歩いていると、後から後から、四代目ならぬワンリキーが! ときに西行法師の歌を思い出しながら、あひるは、「あ、猿之助出た」「また猿之助出た」「猿之助が湧いてる!」と思いながら、隅田川沿い、桜の木の下を歩いていたのだった。

 そして、今年。
 西行法師の歌はいつも心にある。けれど、今年はもう、生きる気満々だった。生きる気しかなかった。活力をみなぎらせて、またもや隅田川沿い、待乳山聖天の近くを歩いていた。――今度会ったら、アンチ・トートに云おう。私はもう、死にたいとは思わない。思いそうになっても、一歩手前で踏み止まって、思わない。そして、死にたいと思ったときではなく、生きたいと思ったときに会いに行く…と。
 …死んじゃえ!…という思いをぶつけてきた人がいたのだった。去年の秋に。――いや、そんな思いをぶつけてくるのは、人ではなくて、鬼、だろうか――。それも、…(半分)死んじゃえ、と。私がしばしば…死にたい…と思う人間であることを知っていて、そして、そのような思いをとりわけぶつけられたくない事情があることもよく知っていて、本当に死なれでもしたら自分が困るから、“半分”。
 その“半分”を、とても卑怯だと思った。
 そしたら何だか、むしろ逆に、…生きる〜! という思いに満ち満ちてきたのだった。邪心を誠にしてはならない。ただ、だからといって、邪心の持ち主と共にこの生を歩んでいくことはもはやないけれども。
 それで、アンチ・トートに云わなくては、と思ったのだった。生きる、と。死にたいとは特に思っていないときも、「死にたいなんて言っちゃいけません〜」と言ってくれ続ける人に。
 そして、今の私は、…死ぬかもしれない…と思った刹那、アンチ・トートが私を思い出したことを知っている。いつもいつもの恩返しができて、よかった。

 ちなみに西行法師は、願い通りに桜の季節にその命を終えたという。…うらやましいような。でも、固執しない。人の心の優しさ、愛の花が私の心の中に咲いているときならば、いつの季節でもかまわない。
 な〜んて言っているけれども、もちろん、まだまだ生きますよ〜! アンチ・トートもいることだし。
 願わくば、十年後も、二十年後も、三十年後も、共に過ごしていられますように。

 …そんな思いで観る”SAKURA ROUGE”の場面は、とても綺麗だった。初舞台生たちはどんな桜を思い浮かべただろう。台湾の観客はどんな桜を思い浮かべるのだろう。
 願わくば、すべての人の心に浮かぶ桜の花が、美しいものでありますように。
2018-07-22 01:34 この記事だけ表示
 宝塚歌劇の醍醐味は芝居&ショーの二本立てにある。そう痛感した今回の月組公演だった。『カンパニー』あっての『BADDY』、『BADDY』あっての『カンパニー』である。相関性に、唸る。

<主役は、あの人!>〜『カンパニー』

 『カンパニー』は伊吹有喜の小説が原作である。妻と娘に出て行かれてしまった主人公の47歳サラリーマン、青柳誠一は、宝塚版では妻を病で亡くした青柳誠二となり、年齢設定も若め。ヒロイン高崎美波はコンビニでアルバイトをしながら敷島バレエ団に所属するダンサー。青柳に扮する月組トップスター珠城りょうがスーツにビジネスバッグならぬリュックサック姿で銀橋を渡れば、美波を演じるトップ娘役愛希れいかはメガネ姿もキュートなコンビニ店員ルックで、賞味期限切れのお弁当を入れたケースを抱えて銀橋で歌う――どうやら、見つからないときは、そのお弁当をこっそり持って帰っているような。まもなく合併する製薬会社に勤める青柳はリストラ候補となり、会社が支援する敷島バレエ団にプロデューサーとして出向となる。出向先で青柳は、バレエ団も会社と同じく“カンパニー”と呼ばれることを知る。そのバレエ団の看板には「敷島バレエ研究所」、団員は研究生――となれば、これはもう、ベテラン演出家・石田昌也による、ストレートすぎるくらいの宝塚歌劇論である。宝塚歌劇団の英語の正式名称は「Takarazuka Revue Company」、阪急と阪神が経営統合したニュースの衝撃は記憶に新しく、宝塚歌劇団にはその阪急電鉄から社員がプロデューサーとして出向、時期が来れば本社に戻って行ったりする。宝塚の団員は研究生であって、入団11年目の珠城なら研11と呼ばれる。というわけで、今回の舞台の主人公は、単なるサラリーマンではなく、サラリーマン・プロデューサーなのだった。『プロデューサーズ』というブロードウェイ・ミュージカルがあるけれども、プロデューサーも実にさまざまである。
 バレエに疎い青柳は、美波やバレエ団の人々の助けをもって知識を増やし、プロデューサー業に邁進していく。私は地方公共団体から公共劇場に出向してきた方々ともたびたび仕事をご一緒してきたが、元の行政組織に戻っていくとき、劇場での楽しい日々、経験を名残惜しそうに語る姿が忘れられない。私は客席から舞台を見守る立場の人間だが、裏方として舞台を見守る人々の汗と涙、苦労と喜びを思う。あのプロデューサーによる舞台、まだまだ観ていたかったななんて、そんなことを思ったりもする。
 敷島バレエ団は世界的ダンサー、高野悠(美弥るりか)を迎えて『白鳥の湖』を上演することとなる。原作を読んだときから、私は、世間的なパブリック・イメージとはまったく異なるものの、この高野にKバレエの熊川哲也芸術監督を重ねてムヒムヒせずにはいられなかった――というか、私がバレエについて何かしら考えるとき、そこから熊川芸術監督のことを排除して考えることが非常に難しいのである。無理である。昨年、ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』を観たときも、主人公のビリー少年が試験のため田舎の炭鉱町からロンドンのロイヤル・バレエ・スクールに行ってとまどいを見せるシーンで、「でも、そっちは言ったってイギリス国内だけど、熊川哲也少年なんて東京すっ飛ばして北海道からロイヤル・バレエ・スクールに行ったんだからね!」と、なぜかムキになる自分がいた――そして、ビリー少年が「僕の踊り、どうでした?」と客席に向かってドヤ顔を見せたとき、「熊川哲也と羽生結弦を倒してから来てくれる?」と、大人げない、いや、子供をまったくもって子供扱いしない自分がいた。それはまあさておき。熊川芸術監督と高野とで共通点があるとすれば、それは、バレエという芸術に自分を捧げる真摯なその姿勢であろう。3月末のKバレエ公演『白鳥の湖』で芸術監督の愛弟子、浅川紫織が最後のオデット/オディールを踊ったとき、私は、私の人生にとってさまざまな意味で非常に大切な人物である熊川芸術監督が人生をかけてこよなく愛し続けるバレエ芸術、生身の人間が創り出すその芸術形式の儚さを、今さらながらに胸に深く突き付けられていた――。
 さて、今回敷島バレエ団が上演する『白鳥の湖』はかなり毛色が変わっている。引退も近い高野が演じるのは、元は貴族ながらも悪魔に魂を売り渡し、自分も悪魔となったロットバルト。王子の家庭教師として宮廷に入り込み、悪女に変装して中性的な魅力で王子を誘惑する――何だか、マシュー・ボーン版『白鳥の湖』と、トートがルドルフ皇太子の前にマリー・ヴェッツェラ姿で現れるバージョンのミュージカル『エリザベート』を足したような感じではある。
 『白鳥の湖』の音楽が全編を通して流れる。実際の舞台シーンで。そしてアレンジされて、実にさまざまなシーンで。ラウンジ・ミュージック風。アップテンポ。タンゴ。手島恭子によるこの編曲が実に見事である。『白鳥の湖』の音楽を深く愛する者として、こんなにもさまざまな聞き方を楽しむことができて、幸せな限りである。手島作曲のオリジナル楽曲も、『白鳥の湖』を引用しつつも新たな展開を聴かせるところが心憎い。『カンパニー』の実況CDもぜひ作ってほしいと願う。
 さて、この斬新な『白鳥の湖』の宣伝のため、青柳は人々が盆踊りを楽しむ夏祭りでフラッシュ・モブを敢行することを思いつく。この夏祭りで浴衣姿の愛希が歌うのは『東京五輪音頭』、歌詞に「リオデジャネイロ」も盛り込んだ2020年版。なのだが! 愛希の歌に思い出すのは、どうしたって三波春夫が歌った1964年の東京オリンピック用の原曲である。それくらい濃厚に昭和感に満ちている。いったい何故〜! 昭和を知らないはずなのに。愛希れいか、またもや謎の老成、発揮。その姿に、何だかんだ言っても昭和っていい時代でしたよねと、誰彼となくつぶやきたくなる。……いや、あひるも前の東京オリンピックのとき、生まれていませんが。それはさておき。
 思ったのである。この世に、『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』が一緒に流れてしまう舞台が他にあるだろうか、と。――私は平昌オリンピックのフィギュアスケートでの羽生結弦選手の演技に衝撃を受け、思考回路がそれは激しく“活性化”し――“活性化”はショー作品『BADDY』のキーワードである。後に触れる――、フィギュアスケートにおける音楽の重要性についてさらに深く考えるようになった。そして、今一度、日本人が西洋音楽を受容した頃、オペラだのバレエだのミュージカルだのといった細分化がなされぬまま、いろいろなものが混然一体となって受容されていた頃に改めて興味を抱き、横浜居留地内にあった劇場ゲーテ座や、浅草オペラの歴史等を扱う書物を読みふけっていた。浅草オペラはインチキ・レビューだの何だの言われて、いわゆる正史からは外して考えられがちである。けれども、その時代の方が、好き勝手な日本語歌詞をつけて歌って、オペラ・アリアが今よりもっと親しまれていたかもしれない。その後、オペラならオペラ、ミュージカルならミュージカルと、それぞれのジャンルが“正統”に発達していくこととなるわけだが、私は、西洋文化が混沌と受容されていた時代の、何でもありな野放図なパワーに魅力を感じる。そして、宝塚歌劇とは、そのような混沌の中から生み出された、実にオリジナルな文化である。もちろん、パリのレビュー等、影響を受けた文化はあるけれども、今となってはこんな舞台は他にはない。世界でここにしかない。なんせ『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』である。でも。日本人の心の中では、その二つの曲が違和感なく共存しているのではないだろうか。
 そして、作品は最近の宝塚としては珍しく、現代の日本を舞台にしているのだった。もちろん、「宝塚には夢を観に行っているのに、リストラだのコンビニだの、夢がないわ」という意見もあろう。その意味でもおそらく大いにコントロバーシャルな作品である。けれども。
 ジャパニーズ・サラリーマンが主人公の宝塚歌劇作品があったっていい! と私は思う。宝塚歌劇団に属するという意味ではサラリーマンであった座付き作家の石田昌也が、同じくサラリーマンであるプロデューサーたちと、ああでもない、こうでもないと宝塚歌劇作品を創り上げてきた、その汗と涙、苦労と喜びが、この作品にはつまっている。原作にはないセリフがある。青柳はある日、美波と月を見ていて、夏目漱石が「I love you」を「今夜は月がきれいですね」と訳したという、半ば伝説化されている逸話を語る。そして、この月組作品のラストで、妻を亡くしてずっと傷心状態にあったものの、“カンパニー=仲間”と共に公演を成功に導いた青柳は、美波に「今夜は月がきれいですね」と告げるのである。日本の男はそれでいい! と思う――もちろん、「愛してる」をストレートに言える方は、どんどん言ってかまわないのですが。私はこのセリフに、演出家の照れを感じて、……かわいいな……と思ったのだった。そして、宝塚歌劇とは、女性たちの夢だけではなく、男性たちの夢をもまたこのように描けるのだと、そのことがとてもうれしく、幸せだった。

<――斬新作(ヤツ)は月からやって来る――>〜『BADDY』

 ↑を見て、『BADDY』の副題と表記、間違ってますと思う方もいるかもしれないけれども、さにあらず。
 『BADDY――悪党(ヤツ)は月からやって来る――』は、宝塚歌劇団で初めて女性演出家が手がけたショー作品。『星逢一夜』や『金色の砂漠』といった傑作を次々と生み出している上田久美子、ショー初挑戦である。設定がおもしろい。TAKARAZUKA-CITYを首都とする惑星国家ピースフルプラネットは、悪いことが何一つ起こらず、飲酒も喫煙も禁止。女捜査官グッディ(愛希れいか)が秩序を守るそんな地球に、宇宙一の大悪党、バッディ(珠城りょう)が月からやって来る。彼と共にやって来たスイートハート(美弥るりか)は、中性的な魅力の男。バッディとスイートハートの禁断のキスに、悲鳴をあげるグッディとその相棒のポッキー巡査(月城かなと)。悪いことやりたい放題のバッディと、悪を許さないグッディの、火花を散らす対決の行方やいかに――!
 悪といってもチョイ悪な感じではある。しかも、だんだんバッディの悪のスケールが小さくなり、スイートハートに盛大に突っ込まれたりするのがおかしい。ヘビースモーカーだった父を食道がんで亡くした身としては、……喫煙……善と対峙するところの悪っていうよりむしろ、身体とお肌に悪い方の悪では……などと考えてしまうけれども。
 それでも、善と悪との対決というテーマ自体は実におもしろい。グッディは、地球一安全な銀行ビッグシアターバンクに預けられたすべての惑星予算と共に、王子たちをも誘拐する。女捜査官グッディは怒りに震える。平穏の中で生きてきた彼女は、初めて激しい感情を知る。怒り。憎しみ。哀しみ。嘆き。痛み。そして彼女はこの上なく生を実感する。怒りで身を震わせながら歌い、銀橋を渡り、ラインダンスを率いて魂の踊りを見せる。「活性化 活性化 活性化」と皆が絶唱する。
 ラインダンスによって、怒りや憎しみといった感情が表現される様を、初めて観た。
 個人的には。銀行強盗のような悪によってそうした感情が“活性化”されることはないな、と思う。銀行からお金が盗まれたことによって助かるはずの命が助からなくなったとか、そういう事態でもなければ。しかし。ビッグシアターバンク――“大劇場”銀行――に預けられ、盗まれたのが、惑星予算ではなく、“遺産”であれば話は別である。大劇場をはじめ、これまで宝塚歌劇で上演されてきた作品群、美の確かな記憶、そういったものを、独り占めしようと身勝手にも盗み出そうとする不逞な輩がいるとすれば、話は別である。私はグッディと共に、美を穢そうとする者と闘うだろう。彼女が率いるラインダンスの面々のように、激しい蹴りを入れるだろう。宝塚に生きる“カンパニー=仲間”と共に。――怒りで顔をゆがめて歌うグッディ愛希が壮絶に美しく、彼女と共に絶唱する月組娘役たちのパワーは凄まじく、ラインダンスはエネルギーに満ち満ちていた。そして、バッディたちが悪の限りを尽くす男役ダンスに続き、グッディとバッディ、善と悪とが最後の対決を果たす、これまた斬新かつ壮絶なデュエット・ダンス。
 善と悪の対決。まるで、『白鳥の湖』のような。――それで、思い出す。かつてボリショイ・バレエ団で上演していたワシリーエフ版『白鳥の湖』の悪魔は、王子の父王で、オデットに邪恋を抱いて白鳥の姿に変えてしまうという設定だった。この父を演じたニコライ・ツィスカリーゼの演技のすばらしさもあって、私は、「“悪”はいったい悪なのか」という疑問を抱いたものである。相対としての、善と悪。その疑問が、後に、例えばあるときの星組で、にしき愛ばかりなぜいつも悪役を演じさせられているのだろう……という疑問にもつながっていった。ちなみに、フランスの革命家マクシミリアン・ロベスピエールは宝塚歌劇の舞台でたびたび取り上げられ、『ひかりふる路』で遂には主人公として描かれることとなったが、にしき愛こそ、『スカーレット ピンパーネル』日本初演及びそれに続く『ベルサイユのばら』でもこの役を演じた、ロベスピエール・ブーム? のはしりともいえる男役である。
 ときに、「こんな描写のある小説を宝塚で上演するなんて〜」と、本にラインを引いて歌劇団に送りつけるカゲキなファンもいるらしいけれども(『カンパニー』にあらず)。そんな“取り締まり”が有効な世界が“天国”なのだとしたら、確かに、バッディたちが歌うように、「天国なんてダサすぎる」「ばぁさんたちの行く場所さ」「じぃさんたちのたまり場だろ」と毒づきたくもなるけれども。個人的にイメージするところの天国は、違う。もっと美しい場所である。
 しかし。全員があの世、天国へ行っているという設定のパレードといい、斬新な意欲作ではある。この作品で演出家は、宝塚歌劇の既存イメージに自ら盛大なツッコミを入れている。それがいい、と思う。何も宝塚歌劇は、変に無菌化された場所でなくていい。「清く正しく美しく」と言った創始者自らが、この世界はまったくもって「清く正しく美しく」ないことをよく知っていたと思う。それでもなお、「清く正しく美しく」を目指す、それが美の道ではないかと、私は思うものである。
 思えば、正塚晴彦の『バロンの末裔』も、齋藤吉正の『BLUE・MOON・BLUE』も月組作品だった――そういえば齋藤吉正はやはり月組の『Misty Station』でも、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の主題歌「魂のルフラン」をトップスター霧矢大夢に歌わせ、その後ろで幻のように夢想的なラインダンスが展開されるというシーンを作って物議を醸していた。斬新作(ヤツ)は月からやって来る?

 ということで。昨年の小池修一郎の『ALL FOR ONE 〜ダルタニアンと太陽王〜』に続き、座付き作家渾身の宝塚歌劇論が、それも二本も、月組にやって来たのだった。今勢いのある組ならではの巡り合わせを感じる。
 誠実なサラリーマンと、宇宙一の悪党を演じて、珠城りょうが男役として大きなステップアップを見せているのが頼もしい。美弥るりかも、中性的な魅力を生かせる役柄に芝居、ショーとも恵まれ、独自路線を確固たるものとしつつある。月城かなとは雪組時代とまったく異なる魅力を開花させつつある――ルックスはかつての月組トップスター天海祐希にますます似てきた。そして、月組男役陣も、男役ぶりが着実に上がってきているのがうれしい限りである。昨年、『カルーセル輪舞』の男役たちによるとあるダンス・シーンを舞台稽古で観ていて、……男役ができていない、男か女かよくわからん状態でキザられても困る!……と、怒りのあまり前の座席(人は座っていませんでした)の背をグーでパンチしたことを思うと、格段の進歩である。
 今回の心のキャラは、『BADDY』で、オマールの被り物を頭だけかぶってスーツ姿で現れる瞬間のポッキー巡査(月城かなと)と、顔は銀色、宇宙人の触覚? をつけたままムーディーなナンバーを熱唱する出向銀行員の輝月ゆうま、95期の同期二人に。月城オマールには素直に笑ってしまうが、輝月のあの姿での真剣な熱唱には、……これ、素敵って思っていいのか笑っちゃっていいところなのか、わからない〜とアンビバレントな気持ちに。また、『カンパニー』で多くの場面をジャージ姿で通したスポーツトレーナー役の海乃美月は――そういえば一度、Kバレエの客席で見かけて何だかうれしかった――、さばさばとした物言いが魅力の女性を演じてきちんと情感を漂わせる様に、娘役としての進歩を感じさせた。

 退団者について。
 副組長・綾月せりは、『カンパニー』では芸術に理解を示す製薬会社の社長役、『BADDY』ではピースフルプラネットの女王である妻に尻に敷かれている婿養子の公爵役。両役とも、男役としてのほっこりとした魅力が生きていた。
 歌、ダンス共に秀でた実力派男役として活躍してきた宇月颯が『カンパニー』で演じたのは、敷島バレエ団にメンバーを王子役で送り込むヴォーカル&ダンス・ユニット、バーバリアンのリーダー役。タレントがいきなりバレエを? と思うのだが、宇月がリーダーを演じており、メンバーの実力や舞台の出来にうるさそうなユニットだから、大丈夫かもと何だか大いに説得力。そんなバーバリアンのメンバーの一人として、貴澄隼人がいぶし銀の存在感を発揮していた。貴澄は『BADDY』でも、ビッグシアターバンクのマッシュルーム白髪の頭取役があまりのインパクト大である。
 星組時代からヒロインも数多く務めてきた早乙女わかばは、『カンパニー』では、製薬会社社長令嬢にして敷島バレエ団のプリマ・バレリーナ役。確かに彼女の父親である社長はバレエ団を金銭的に援助している。けれども彼女が主役を務めるのは決してそればかりではないと感じさせる誇りの高さ、舞台への情熱の激しさを、早乙女らしい明るさ、華やかさで表現。きっぱりとした物言いをしても決して嫌味にならない魅力的な女性像で、原作ありの作品なのに宛て書きしたようにぴったりの役どころだった。『BADDY』では、宇月扮するバッドボーイ、クールと恋に落ちてしまう王女役。グッディとバッディ、善と悪とがデュエット・ダンスで壮絶な対決を繰り広げ、奈落へと沈んでいった後、宇月と早乙女が水色の衣裳で踊る。――浄化の舞。二人が、宝塚の世界へと別れを告げる、その清々しい思いが、清めの念を一層引き立てていた。
 とびっきり楽しい二作品だから、今日一日、はちゃめちゃに楽しい千秋楽を!
2018-05-06 02:48 この記事だけ表示