仙台藩から世界に飛び出しスペインの地で奮闘する『El Japón』の主人公、仙台藩士蒲田治道に敬意を捧げるべく、仙台からアメリカに渡って世界的に活躍するファッション・デザイナー、タダシショージのワンピースを着用して観劇に臨んだあひるであった。身体のラインを美しく見せるカッティングが特徴で、宝塚の娘役もフィギュアスケート選手も着用しているところを見かけますが、考えてみれば、レースや刺繍やスパンコール等の装飾はちょっと“衣装”っぽくもあり。
 物語は仙台藩の月の浦の港から始まる。女たちによる小袖舞。鬼剣舞。主人公蒲田治道(真風涼帆)は、ひょんなことから、支倉常長率いる慶長遣欧使節団に加わることとなる。使節団の日本人たちが歌い、さっと入れ替わって、イスパニアの人々が歌う。日本物的なスタートから、洋物への即座の転換――このあたりの和とスペインの調和的混在に、平岳大がサパテアードを踏み、市川猿弥もそれに呼応して踊った、2017年の博多座二月花形歌舞伎『艶姿澤瀉祭』(再演希望)を思い出し。
 使節団が滞在するコリア・デル・リオの街とその一帯は、農場主ドン・フェルディナンド(英真なおき)の一味に制圧されている。邪なドン・フェルディナンドは、女主人カタリナ(星風まどか)が営む宿屋と彼女自身を狙っている。カタリナは治道に剣術を教えてほしいと頼む。――愛した女、藤乃を虚しく失う過去をもつ治道。結婚式を挙げる日に夫を亡き者にされたカタリナ。死に場所を求めてきた治道は、カタリナの中に同じ思いを見て取る。彼の知る「夢想願流」は、「人を生かすための、そして、生き延び何かを守り続ける者のための剣術」である。海を越えて出会った二人は、生きて大切なものを守るために、戦いの決意を固める。――そんな治道とカタリナの周りを彩るのが、謎めいた男アレハンドロ(芹香斗亜)と、ドン・フェルディナンドの息子エリアス(桜木みなと)である。
 国王と重臣の企みにより、使節団は、貿易の交渉をする暇もなく、日本への出発を急かされることとなる。――出航が迫る。だが、治道は、カタリナが単身、ドン・フェルディナンドの農場へ向かったことを知り、自らもまた農場へと向かう。治道とカタリナは「夢想願流」の真価を発揮し、邪な相手を打ち負かす。
 だが、使節団の船が出航してしまった以上、治道は不法滞在者となってしまう。そこで、実はカタリナの亡き夫の良き友であったアレハンドロが名案を提示する。治道が、書類上まだ生きていることになっているカタリナの夫としてこの先生きていくこと。こうして、出会うはずのなかった二人は、共に生きていくことを選ぶ――これが、コリア・デル・リオの地に実際に存在する「ハポン(日本)」姓の人々、その祖先とは使節団の人々ではないか…という歴史的“ミステリー”に対し、作・演出の大野拓史が想像力の糸で紡ぎあげた冒険活劇である。
 宝塚ミュージカル・ロマン『El Japón』。その角書にふさわしい、宝塚の伝統の流れを汲む、ロマンティックにしてストイックな魅力をもつ作品である。――治道は耐える。多くを語らない。愛する女の命を救えなかった苦しみを、静かなたたずまいのうちに見せる。宙組トップスター真風涼帆の真骨頂である。カタリナも耐える。喪服姿に心を秘めて、多くを語らない。邪な思いを寄せられても、女の身で宿屋を気丈に切り回す。これまた宙組トップ娘役星風まどかに実に似合う役である。――そして、非常に興味深いのが、芹香斗亜演じるアレハンドロの存在である。彼はどこか飄々とした傍観者である。貴族の息子に生まれながら、剣術学校で剣士として修業することに価値を見出し、そこで、切磋琢磨する友も見つけた――その友こそが、カタリナの亡き夫である。女に惚れて宿屋の主人に収まるという友の生き方を、アレハンドロは「馬鹿げた話」と一蹴する。だが、旅から久々故郷に戻ってみると、友はすでにこの世に亡い。亡き友の妻カタリナを、「いい女」「いっそ俺が、とも考えた」とは言うものの、「俺よりも女の助けになりそうな奴が現れた」と、あっさり治道に譲るアレハンドロ。――アレハンドロ。ドン・フェルディナンドの農場で違法に働かされていた女奴隷たちの解放の戦いを支え、治道とカタリナを結び合わせ、そして、おそらくは独りで、またどこかへと旅に出て行ってしまうような、自由に浮遊する魂。その、愛の置き所は――? 彼のその後を夢想せずにはいられない。
 世界に在って、己の剣を、芸を、ただ恃みに、闘うこと。鋭い刃をもって、その人生を美しく、あざやかに切り拓いていくこと――これは、そのような生き方を選んだ人々への、熱きエールの物語である――ハッピーエンドであるところも好きである。この舞台を観たとき、――ここ最近、心の中に生まれたひそかな夢、成就を見届けたいとの夢は、きっと叶う、そんな身震いが我が身に走った。――そして、こうして書きながら、微苦笑をも浮かべつつまた身震いせざるを得ないのは、私の文章を通じて、この物語が、舞台を観ることが叶わなかった人へも伝わっていく、伝えられていくことへの熱望、希求を感じてやまないからである――我が身はここに、美の創り手と、美の創り手とをつなぐ、シナプスのようなものである。そのシナプスとしての役割をあくまで自発的に果たすべく仕向けられていることに、役割を果たしながら驚嘆せざるを得ない。プリズムの如き、インスピレーションの乱反射。
 ――そして、この作品を観ながら、かつて、同じ大野拓史の演出作品、日本物作品の舞台上で、本物の殺気を感じたことを思い出さずにはいられなかった。――あの殺気はいったい、何だったのだろう。あのとき、確かに言語化できていたら、何かが変わっていただろうか。…わからない。歴史に”if”がないように。けれども、今、私にとって確かなことは、その殺気を感じ、記憶として宿している人が、私の他にもこの世に存在しているということである。

 ガウン風の襟が特徴的な衣装をまとった真風涼帆がグラスをくゆらせ、舞台後方のバーカウンターをひらりと飛び越えて、宙組生たちが次々と舞台前方へと押し寄せてくる。ウィスキーをテーマにした『アクアヴィーテ(aquavitae)!!〜生命の水〜』は、そんな躍動感あるオープニングが実に印象的である。『Cocktail―カクテル―』『Apasionado!!』『EXCITER!!』といったヒット作を連発してきた藤井大介の作風は、やんちゃで元気いっぱい、それでいて、どこかねっとりとしたかわいさがアクセントとしてしっかり効いていることを、今回の作品で改めて感じた。それが如実に現れているのが、男役が“女装”で魅了する場面である。ポワントで踊りまくる実羚淳。中詰の和希そら。真風とタンゴに乗ってデュエットを繰り広げる秋音光――どの場面もこってり、クセになる。“女装”といえば、芝居作品では農場主ドン・フェルディナンドを悪の色気たっぷりに演じ、ショーでも錬金術師としてあちこちの場面に姿を現す英真なおきが、中詰めではドレス姿で登場するのも楽しい趣向。その様を観る者もまた、性の軛を自由に逸脱することができる。宝塚のその愉悦。
 CMソングとして名高い「ウィスキーが、お好きでしょ」を、真風涼帆、芹香斗亜、桜木みなとの三人が、客席降りし、客席への語りかけを交えながら歌うシーン。――遠くから聞いているだに照れまくってしまうほどに甘々な言葉を客席間近で真向から決められるのは、この世に宝塚の男役くらいしかいないのでは〜? と思ってしまう。そして、「♪105年熟成された水 飲み干してやる」と、主題歌「アクアヴィーテ!!」の歌詞は大変元気がよろしい。105年熟成された水――105周年を迎えた宝塚。一握りのモルトがアクアヴィーテ――命の水――へと熟成されていく様を描く大ダンス・ナンバーでは、この公演で退団する星吹彩翔、桜音れい、愛咲まりあ、実羚淳への餞のくだりもある。これまで入団し、宝塚に日々を捧げてきたタカラジェンヌ全員が、105年熟成された命の水の源である。
 宝塚では、女性がすべての役を演じる。その上で、男性スタッフの存在、その眼差しの意味について、改めて深く感じ入った今回の二本立て公演だった。「♪男と女が溶け合い 愛が踊るよ」と、ショーの主題歌でも歌われている。――女と男が深く分かち合うことのできる夢の世界、宝塚歌劇。
2020-02-16 02:22 この記事だけ表示
 イギリス王室から事実上離脱することになったヘンリー王子が、スピーチの場で、無念の心境を吐露…のニュース映像を観ていて、思い出す。宝塚月組元トップスター霧矢大夢の退団公演『エドワード8世−王冠を賭けた恋−』(2012年。作・演出は、現在、東京宝塚劇場にて上演中の宙組公演『El Japón(エル ハポン)−イスパニアのサムライ−』担当の大野拓史)のクライマックスで歌われるナンバー「退位の歌」を。――イギリス国王エドワード8世は、離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの恋を選んで、王位を退く。最後の瞬間になってやっと率直な気持ちを表明することが許され、ラジオを通じて国民に語りかける、その心境を歌うドラマティックなナンバーである(作曲は太田健)。この舞台の公演プログラムにも寄稿している政治学者水谷三公が執筆した『イギリス王室とメディア エドワード大衆王とその時代』は、『エドワード8世』の作品世界を楽しむ上でも非常に興味深い著書であったが、エドワード8世の退位を受けてその弟ジョージ6世が国王の座に就き、そのジョージ6世の娘であるエリザベス2世が孫のヘンリー王子に対して決断を下した今、歴史書を超えてアクチュアルな一冊として立ち現れる。ちなみに、『エドワード8世』においては「退団」と「退位」とが重ね合わされて語られている部分があり、「退位の歌」の歌詞にも、これから新たな世界で生きていこうとする者の未来に対する愛とエールとが存分に込められていて、今なお、聴く者の心を揺さぶらずにはおかない。
2020-01-20 23:12 この記事だけ表示
 花組新トップスター柚香光、プレお披露目公演にして堂々のフルスロットル発進である。見どころいっぱいのダンス・コンサートで、その魅力がはじける。培ってきた芸がある。その芸をもって、宝塚歌劇において届けたい舞台がある。そんな男役がトップスターの座に就き、個性を開花させる瞬間を見届ける喜び――柚香光が組配属されたときのトップスター、真飛聖時代の、熱さ、男くささ満開の花組の男役芸を思い出す。柚香は、先輩を相手にしてさえ芸で堂々と挑みかかっていくような勝ち気な舞台を早くから見せていて、そのころから頼もしさを感じさせたものである。今、センターに立って――何年も前からトップを張っていたのでは? と思いたくなるような安定感と、これからも男役の道を真摯に究めていきたい! というみずみずしい一途さとが共存するのがうれしい。そんな柚香の旅立ちを、作・演出の稲葉太地が大いに盛り上げる。
 2020オリンピック・イヤーにちなみ、第一幕は、柚香扮するギリシャ神話のアキレウスが現代にタイムスリップしての騒動をコミカルに描く。超小顔、驚異の等身バランスで、『はいからさんが通る』『花より男子』といった漫画作品の宝塚版に主演し、ヒットを飛ばしてきた柚香。その身体からシャープな切れ味のダンスを繰り出すのだが、肘から先の動きが、長い腕がさらに長く伸びていくのでは…と思わせるものがあり、後味が実にエレガント。跳躍もふわっと浮遊感がある。そんな動きで見せるストリート・ダンスの妙。あらかじめ自分で吹き込んだ“心の声”と、それに対して見せる表情とで、現代に迷い込んでしまったギリシャの英雄の困惑を表現していくのだが、その絶妙のおとぼけ具合が、コメディも行けるところを証明している。作中「彫刻のよう」と描写されるルックスながら、いい意味での俗っぽさも持ち合わせているからこそ、現代日本を舞台にした漫画作品のキャラクターといったあたりも演じられるのが、男役としての強みである。第二幕では和太鼓にも挑戦、和のテイストの衣装姿も粋な限り。スパニッシュの場面では、宝塚の男役ならではのストイシズムとフラメンコのストイシズムとがマッチする高揚感。そして、今年誕生百周年を祝う花組が上演してきた作品の歌でつづる場面。――大正3年に生まれた宝塚歌劇は、大正モダニズムの中で揺籃期を過ごし、昭和の時代に入ってレヴューを始めとするさまざまな劇場文化を取り入れ、今日まで栄えてきた。その意味で、過去の名曲群を歌い継いでいく際、昭和のニュアンスがどうしても必要になってくるところがあるのだが、柚香は、2020年という今を生きながらも、見事なまでにその昭和のニュアンスが似合うのだった――そうして、柚香光という、誕生したばかりのトップスターが、宝塚歌劇の歴史の大きな流れに見事接続されていく様を、激しい飛沫上がるナイアガラの滝、その自然の驚異に心奪われるような思いで眺めていた――。

(1月8日14時の部、東京国際フォーラムホールC)
2020-01-08 23:59 この記事だけ表示
 初日前の舞台稽古(10時、東京宝塚劇場)を見学。『El Japón』は、2018年秋、陰陽師と妖狐とが千年に渡って転生を繰り返して続ける対決、そして桜咲く白鷺の城(姫路城)でのその最終決着を描いた日本物レヴュー『白鷺の城』でスマッシュ・ヒットを飛ばした大野拓史の手による作品。スペインの町コリア・デル・リオに今も住む「ハポン(=日本)」という姓の人々は、仙台藩主伊達政宗が支倉常長を団長に据えて送り出した17世紀初頭の「慶長遣欧使節団」の末裔ではないか…という説に基づき、実在の人物蒲田治道を主人公に、仙台藩から世界へと飛び出した武将のスペインでの闘いを描くオリジナル歴史物作品。――耐える男。耐える女。見守る男――。宝塚の男役と娘役に実によく似合う、抑制された美学の展開。男役について、そして往年の名作映画や宝塚の名作について、この作品から与えられた視座をもって接することで、新たな地平が見えてくる予感。――侍の刀と鞘の関係が、スケート靴のブレードとエッジカバーのそれと重なって立ち現れる刹那――。
 『アクアヴィーテ』は、カクテルをテーマにした『Cocktail―カクテル―』、ワインをテーマにした『Santé!!』と、お酒がテーマの作品で大ヒットを放ってきた藤井大介が、ウィスキーをお題に送るショー作品。客席に対しぐいぐい来る彼の作風と、宙組の勢いが見事にマッチ、宙組トップスター真風涼帆のガウン風の姿も粋な限り。お酒は飲めない&酔えない(アルコール消毒もNG)あひるですが、この作品にはさらに酔いたい!
2020-01-03 23:46 この記事だけ表示
 というわけで、今年の宝塚歌劇ベストは、ラインハルト・フェンドリッヒ作詞・作曲、ティトゥス・ホフマン&クリスティアン・シュトゥルペック脚本、齋藤 吉正潤色・演出の月組『I AM FROM AUSTRIA−故郷は甘き調べ−』に。
 そして新人賞は、上記作品でもヒロインを体当たりで演じ、ディーヴァ風歌唱も聴かせた月組トップ娘役美園さくらに。…ロンドン・ウエストエンドで観劇していても、フィギュアスケートを観ていても、…あ、美園さくらならここで闘えるな…と、彼女を思い浮かべることがあった。ドリー・パートン主演映画のブロードウェイ・ミュージカル版『9時から5時まで』がウエストエンドで上演されていたのだけれども、…ヴァイオレットという役は、彼女が演じたらおもしろそうだな…と。
 しかし。貴女と私は宝塚歌劇で出逢いました。まずは小林寺の娘役の奥義――ドレスさばき、膝折、男役に対する居方、芝居の呼吸の合わせ方等々――を極めよう。そして、次回大劇場公演の日本物レビュー作品は監修・坂東玉三郎! 歌舞伎の女形の技術も吸い尽くすべし。月組トップスター珠城りょうが安心して隣を任せられる相手役を目指して頑張れ!
 ちなみに。月組青年館公演『チェ・ゲバラ』(件の“千駄ヶ谷ヒゲ祭り”)で、29期上級生の専科轟悠扮するチェ・ゲバラに対し、年上のフィデロ・カストロ役を貫録たっぷりに演じ切った風間柚乃は、もはや新人賞対象からはみ出したと判断いたしました。
 そして、2019年最後の祈り。
 2020年は彩風咲奈と礼真琴の素敵な男役姿が観られますように!
2019-12-28 14:49 この記事だけ表示
 11月末、札幌・真駒内にフィギュアスケートの「NHK杯」を観に行ったとき、…会場の雰囲気がとてもあたたかいな…と感じた。出場する選手全員の国旗を持参して、登場のたび持ち替えて振る人。全員のジャンプの失敗に、…ああ…と見ていて気の毒になるくらい落ち込む人。テレビの前で観ているだけでは決してわからない空気を感じた。
 そして、フリーの翌日、帰京して、東京宝塚劇場に、宝塚花組トップスター(当時)明日海りおのサヨナラショーと退団会見の取材に行った。――二階席の一番上の取材用立見席から、明日海りおが宝塚生活に別れを告げる歌を歌い、劇場を埋め尽くす人々がペンライトを振る姿を観ていて、…ああ、この場所もやはり、とてもあたたかいな…と感じた。
 もちろん、男性ファンの姿もある。けれども、どちらの会場も、圧倒的に多いのは女性の姿である。――日本の女性が観客、観衆として支える文化というところに、大きな共通点を感じた。
 月組公演『I AM FROM AUSTRIA』は、そんな宝塚のあたたかさをそのまま「故郷(ふるさと)」として提示する作品である。オーストリアの国民的シンガーソングライター、ラインハルト・フェンドリッヒの楽曲を用いたジュークボックス・ミュージカルだが、<故郷=ウィーン>というもともとの作品のテーマを見事、<故郷=宝塚>へと着地させている。
 ――物語の舞台はウィーンの老舗エードラー・ホテル。主人公はホテルの御曹司ジョージ(珠城りょう)。ホテル自体はジョージの母である社長のロミー(海乃美月)が牛耳っていて、ジョージの父ヴォルフガング(鳳月杏)も妻の尻に敷かれっぱなし。ホテルを刷新していきたいジョージ。伝統を守りたいロミー。二人の対立は、『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフとその母ゾフィーのそれになぞらえられる――このあたりのネタは、宝塚でも愛される『エリザベート』にちなんで、潤色・演出の齋藤吉正が入れたものである。さて、そんなホテルに、ハリウッドの大女優エマ・カーター(美園さくら)が、やり手マネージャーのリチャード(月城かなと)と共にお忍びでやって来る――のだが。到着前に、ホテルのコンシェルジェであるエルフィー・シュラット(光月るう)がフロント係のフェリックス(風間柚乃)にバラしてしまい、フェリックスがそれをツイートしてしまったから大騒ぎ。ホテルには、エマと何とかしてお近づきになりたいと思うセレブの皆々様が押し寄せてくる――というオープニング。思い思いに個性的な衣装に身を包んだ人々が、歌い踊りながら、ホテルのドアをくぐり、あれよあれよと登場してくる――その、宝塚ならではの人海戦術が、冒頭から見事に炸裂。舞台上に、光と色彩あふれるスペクタクルが現出する――「♪イン・ウィーン」と歌いながらの「ここは宝塚です!」宣言である。その後も、ショーアップできるナンバーはすかさず大勢口でショーアップ。ジョージと共に姿を消したエマを警官隊が追うシーンでも、二人を逃がそうとするホームレスの人々と入り乱れての大ダンス・ナンバーが展開。ラテンのリズムでは羽根飾りの踊り子たちが登場、冷凍庫の場面ではケーキの下から人々がぬっと顔を出して歌い、エアロビ・ダンシングの場面では客席降りが行なわれ、踊れる観客は一緒に踊る! ――事前に「タカラヅカ・スカイ・ステージ」の「タカラヅカニュース」で振付講座が放映されていたのである。ショーの手法を盛大に取り入れつつのストーリー展開――物語自体は、自分を見失っていたエマが、故郷の街ウィーンで、愛する人とめぐり逢い、自分を取り戻すというシンプルなもので、そこに、ホテルの伝統と刷新をめぐるジョージ親子の対立と、個性豊かなキャラクターたちのエピソードが絡んでくる。ジョージとエマのつかの間の逃避行には、クレーンを使っての「ヘリコプター」も登場、客席上空をトップコンビが飛んでいく。
 ――故郷とは? と、物語を追いながら考える。私は日本出身である。東京出身である。杉並区出身である。出身地から離れていないから、…故郷だな…とわざわざ考える時間は少ない。そう考えると、故郷とは、その地から離れたときに懐かしく思う場所なのかもしれない。
 私の故郷。
 舞台評論家としてならわかる。私の故郷は、宝塚である。宝塚歌劇団の人間であったことは一度もない。けれども、私は多くを宝塚の舞台から学んできた。――そして、最近、宝塚の客席に座っているのと同じようにして、他のジャンルの舞台の客席に座っていると、宝塚において、タカラジェンヌたちと共に美の闘いを繰り広げてきた経験は、どこに行っても活かされることに、改めて感じ入るようになった。ロンドン・ウエストエンドのミュージカルの舞台の客席でも。日本のさまざまな舞台芸術の劇場の客席でも。フィギュアスケート観戦の客席でも。――ただ、座って、楽しんで、観ているだけなのである。でも、宝塚の客席での経験が、私の中に確かに息づいていて、それは、対面する相手によって、いかようにも活用され得るものであることに気づく。
 それと同時に、――私は、舞台上で闘う日本の女たちの姿を観ることを、こよなく愛し続けてきているんだな…とも気づいた。――男社会でボロボロになった若き日、宝塚の舞台を観て、…この人たちはなぜこんなに輝いているんだろう、自分もこの人たちのように生き生きと日々を送りたい…と思ったあの日から、気持ちは変わらないのだと思う。
 宝塚には、男だから、女だからという故に発生する、役割分担というものがない――その自由! もちろん、身長による区分はある程度あろうけれども、基本的には、男役をやりたい者が男役を担当し、娘役をやりたい者が娘役を担当する――では、その男役/娘役の役割分担が、そのまま外の社会における役割分担と重なってくるのではないかという議論については、個々の作品論とも関わる重要な論点であるから、ここでは立ち入らないけれども。
 ただ。最近に至って、…評論家として、どうも、今まで通りの自分ではいけない、そんな境地に達したのである。すべてを女性で演じているという特徴を、広い世界の中に置いたとき、その舞台はいったいどのように見えてくるのか。それは、日本のいかなる文化的特徴として、世界の人々に受け止められ得るのか。――俯瞰する目が必要である。
 それと同時に。自分はやはり、男性を観る経験が、女性を観る経験に比べて圧倒的に少ない…とも感じた。その意味で、男子選手しか出ていない男子フィギュアスケート競技は大きな手助けとなっている。そこでは、とにかく男子を観るしかない! ――そうやって自分の目を鍛えるしかない。そして、今さらながら、深く気づく。男性と、男役は、違う。それぞれに異なる美がある。両方の美を知ってこそ、男役についても、これまで以上に深く書けるはずである。
 故郷があるから、飛び出していける――。
 私にとって故郷とは、大切な人の愛がたくさんつまった、あたたかな場所だな…と思うのである。宝塚の舞台で、たくさんの大切な人々に出逢った。だから、永遠に続いていってほしい。私を含めた多くの人々にとって、故郷だと思えるあたたかな場所であり続けてほしい。主人公ジョージが愛をこめてエマに言う、「僕は君の故郷になりたい」を、私はそのような言葉として聞いた――「俺」じゃなくて「僕」でした。聞き間違え。「俺」は、あひるの中の男の一人称なんだな…。「よく働くなあ俺」とか独り言を言っている――。「僕は君の故郷になりたい」と言われたら、私は、「ありがとう!」と言って、飛び出しても行きたい人なのである。貪欲(笑)。でも、いつも心の中には故郷がある――そして、その故郷のようにあたたかな場所を、この地上に少しでも増やしていきたい。舞台芸術の力を、美の力を信じることで。「僕は君の故郷になりたい」と、自分自身も、多くの人に愛をもって言いたい。
 私はいつも、故郷の愛を胸に、闘いに行っているのです。

 「僕は君の故郷になりたい」のセリフの前。自分はこれからも有名人エマ・カーターを演じるしかない…と苦悩するエマに、ジョージは、その重荷を共に分かち合いたい、と言う。このセリフを、コンビを組む美園さくらへの、舞台を共に務める仲間としての深い思いもを込めて言い切った月組トップスター珠城りょう――その姿は、今まで以上に大きく、頼もしく見えた。いいコンビになったな…と思った――当然、ここは、美園さくらのさらなる成長も待ち遠しいところ。深く信頼し合っているコンビの姿は、観る人々に絶対的な安心感を与える。
 やり手マネージャー、実はワルのリチャードに扮した月城かなとは、ひねたやさぐれ系ではなく、育ちのいい頭脳派だからこその凄みを感じさせる演技。じっくり考えた上で構築された役作りで、男役としても一段大きなステップを上がった感がある。月城と悪巧みを企てるパパラッチのライナー役の輝月ゆうまは今回、ピンクに染めたロン毛という思い切った髪型――自分の男役芸に絶対的な自信がなければできない! ――で登場、切れ味のいい痛快な芝居で話を盛り上げる。二人の悪巧みというのが、エマとサッカー界の大スター、パブロ・ガルシア(暁千星)を、互いの間に愛もないのに結婚させ、そのスクープを独占して儲けを折半しようというものなのだけれども――昔、とあるダンサーが、とあるスーパーモデルと付き合って、彼女を自殺未遂に追い込んだという話があって、そのダンサーが来日した際、「自殺未遂に追い込んだってホント?」と取材で聞かなくてはいけない羽目に陥った、会社員時代の自分を何だか思い出した(聞かないと上司にどやされるのです)。「ノー・コメント」という回答を引き出したけれども、人の生き死にに関わることについて聞くなんてな…と、落ち込んだ覚えが。それが、十年くらい経って知った真実というのが、それは、そのダンサーを売り出すために、プロモーションの一環として流された嘘だったという…。何かね、闇ですよね…――。
 さて、そのパブロだけれども、そそっかしくて問題ばかり起こしているフロント係のフェリックスくんに一目惚れ! ラストでは素敵なカップル誕生! ――ウィーン版では、パブロは故郷アルゼンチンに同性の恋人がいるという設定なのだけれども、宝塚化にあたって設定を変え、もともとのクリエイターの快諾も得たとのこと。そして今回の“心のキャラ”は、暁千星演じるパブロ・ガルシアに決定〜。カタコトで必死にみんなの会話に加わろうとするキュートさ、ジョージとエマの恋をばっちり助ける男気。齋藤吉正が己の男のすべてを注ぎ込んで指導したと思われる、スリムでマッチョで、それでいてエレガントな身のこなし。男役芸がしっかり磨かれてきたからこそ、暁千星の身体能力の高さ、ダンス力の高さが生きてくる。サッカーのシュートを決めるようなシュパッとした足の振りに、心にゴールを決められた思い。崇高な美の体現目指して頑張っていこう!
 ジョージの父ヴォルフガング役の鳳月杏は、ヒゲ姿もダンディの極み。息子にも妻にも話を合わせる二枚舌ぶりはちょっと問題、というか笑える限りだけれども、双方にちゃんと愛があって、しっかりしていないようでいて実は家族の確かな芯となっているんだな…と。そして、受けの芝居が巧い! 鳳月が絡むと、芝居のテンポがたちまち弾んで、さすが「芝居の月組」と感服。そんな月組ならではの軽妙な舞台を盛り上げるいま一人が、男役でありながら今回女役エルフィー・シュラットを演じている組長光月るう――このエルフィー、フランツ・ヨーゼフの愛人カタリーナ・シュラットの娘で、ヨハン・シュトラウス父とも息子とも踊った経験があり、何回結婚しているかわからず、ノーベル平和賞をほとんど受賞するところだったという、正体不明、年齢不詳の生き字引として、作品をかき回していく役どころである。そして、私の心の中で、月組好調バロメーターを務めているのは紫門ゆりやなのだが、今回は警官デニス役で大捕物の芯を務めて楽しくはじけていた。
 この舞台で宝塚を去る叶羽時は、――子供のころ持っていた海外のファッション・ドールを思わせるような、おすまし顔がキュートな娘役。今回演じているのは、フェリックスの憧れの同僚アンナ役。社交界デビューには欠かせない左周りのワルツを優雅に軽快に踊り、高らかに笑いを発して、踊れないフェリックスの心を大いにかき乱していく。快演!
2019-12-28 00:54 この記事だけ表示
 あの熱狂、あの一体感を忘れなきよう!
 あひるがかっこよく決めたいセリフは、「俺は君の故郷(ふるさと)になりたい」!
2019-12-06 22:00 この記事だけ表示
 『I AM FROM AUSTRIA』は、オーストリアの国民的シンガーソングライターであるラインハルト・フェンドリッヒの楽曲を用いたジュークボックス・ミュージカルである。しかし、残念ながら、もともとの曲を知っている日本人は少ない。そんな作品の、オーストリア以外の国での初めての上演に、宝塚月組が堂々挑んでいる。
 ウィーンを舞台にした“おらが町”ミュージカルでもある。ウィーンという街の楽しさを存分に伝えながら、――作品には、宝塚歌劇の魅力がはちゃめちゃに詰まっている。ウィーンの話なのに、みんなで華やかににぎやかにラテンのリズムで踊り狂うこととなるシーン、その疾風怒涛のカオス的な魅力に、――ああ、宝塚のこのアナーキーな楽しさを世界中の人々と分かち合いたい! と、エンジョイしすぎてあひる涙。潤色・演出を手がけた座付き作家・齋藤吉正の、音楽を扱うあざやかな手腕と、宝塚の魅力をこれでもかとてんこ盛りにしてくる愛情深さが光る。“芝居の月組”ならではの軽妙な掛け合いも大いに見どころ。いったい誰が“心のキャラ”に輝くのか、心中熾烈なデッドヒート。
 海外ミュージカル作品において、ヒロインを演じるトップ娘役には、ときに大いに負担がかかったりする。キャラクター的に、宝塚の娘役の領域を踏み越えていかなくては演じられなかったりするからである。今作のヒロイン、故郷オーストリアを捨て、ハリウッドでスター女優となったものの、自分自身を見失いつつあるエマ・カーターもそんな役柄の一つである。そして、美園さくらは、緊張感をもって役柄をしっかり演じ、トップ娘役としての責任を果たしたい! と謙虚に頑張れば頑張るほど、どんどん世界へと大きくはみ出していってしまう人なのである――雪組トップ娘役真彩希帆と二大面白エース。ウィーンの街自体が影の主役で、その故郷においてヒロインが自分を取り戻していく話なのだから、ヒロインが生き生きしていなければこの作品はそもそも生き生き成立しない。だから、それでいいのである(今日のGPでは、セリフ回しの音程が若干安定していないように感じられたので、そこは要改善)。
 珠城りょうは、世界に唯一無二の劇団であり、たった五組しかない宝塚歌劇団のトップスターを三年間きっちり務めてきた自信をもって、美園演じるエマをはじめ、周りの濃ゆいキャラクターたちを受け止めれば大丈夫! 誰がどう来ようが、とにかく受け止め続ける! そうしてどんと構えていれば、これまで以上に揺るぎない包容力が必ずやそこに宿る――雪組トップスター望海風斗も、面白すぎる真彩を受け止め続けているうちにどんどん男役芸が伸びていっている。ここは男役芸を大いに伸ばすチャンスである。珠城演じる老舗ホテルの御曹司ジョージが、終盤、銀橋でヒロインにかける言葉の中に、…これは、あひるもぜひかっこよく決めてみたい! と思う、とても素敵なセリフがあり。宝塚の男役になりたかった…という願いを露わにするたび笑われがちなあひるであるが、先日レーダーも壊れてパワーアップしたことだし、評論家としての幅をさらに広げるため、これからは内なる男役も磨いていくことにする!
2019-11-29 22:41 この記事だけ表示
 …明日海りおのいない宝塚歌劇が、今、私には、何だかうまく想像できない。
 何も、明日海りおがいなくなったら宝塚が瓦解してしまうとか、そういうことを言いたいわけではない。宝塚歌劇は明日からも続いていくだろう――そうでなくてはならない。けれども、それだけ、私の中で、宝塚歌劇というものが、明日海りおという存在と深く結びついているということなのだろうと思う。そして、それは何も、私一人の心中に限られるものでもないだろうとも。
 長年三井住友VISAカードのイメージキャラクターを務めていて、空港などで彼女の大きな写真が看板となっていたから、その、いかにも男役向きのルックスについて知っている人は、宝塚を知る人以外でも多いだろうと思う。そして、聴く者の心を天鵞絨の布でじわじわと包み込んでいくような、男役としてのあの深い歌声。
 明日海りおは、組んだ娘役の魅力を引き出し、これを見事輝かせる手腕の持ち主だった――花組トップスターとなってから、それぞれに個性の異なる4人のトップ娘役とコンビを組んだ。どのコンビが一番心に残ったか、それは、観る人それぞれによって変わってくるだろうと思う――クラシック・バレエ界で例えるならば、組んだ女性ダンサーの魅力をそれぞれ輝かせてきたダンスール・ノーブル、マニュエル・ルグリのような存在だった。
 例えば、二番目にトップコンビを組んだ花乃まりあ。彼女は今年の夏、『フローズン・ビーチ』の急な代役に抜擢され、大奮闘を見せた。退団しても、自意識すべてを吹っ飛ばしての、あのあっぱれなまでに痛快な芸風は、健在だった! もちろん、花乃自身の才能、そして、在団中、退団後の花乃自身の弛まぬ努力も大きい。しかし、宝塚歌劇という場において、花乃まりあという学年の離れた年若い舞台人に、一人の舞台人として真摯に向き合い、じっくり育てていったという意味で、明日海りおの功績は大きい。
 三番目にトップコンビを組んだ仙名彩世は、いわゆるトップ娘役候補のルートとなる新人公演主演を経験していない。けれども、芸の人だった。実力に加え、卓越した娘役芸を持っていた。その仙名は、娘役芸を極めた上で、心解き放たれたように新たな世界へと旅立っていった――来年5月には、『ミス・サイゴン』にエレン役で登場する。明日海りおという舞台人の相手役を務めたことが、舞台人・仙名彩世の転機となったことは間違いない。
 それにしても、花乃も仙名も実に個性が異なる――そして明日海は、トップコンビとして以外でも、多くの作品でさまざまな個性の娘役たちと組んだけれども、そのそれぞれと合っていたように思う。誰が隣にいても、明日海りおは揺るがず明日海りおであり、そんな明日海りおの隣にあって、娘役たちはそれぞれの個性において存在することができた。それは何より、明日海りおが全き芸の人であったからである。男役芸を極めんとするその道のりにおいて、何の躊躇もなかった。彼女は月組時代に準トップスター(トップスターではないが、主役を務めることのできる者)になった。その後、花組に移り、5年以上の長きにわたってトップスターを務めた。主役を務める立場となってから長い。けれども、彼女は常に、自身の男役芸を磨き続け、作品の質を上げ続けていくことを目指して、宝塚の舞台に立っていた――決して倦むことなく。その姿に、彼女と共に舞台に立つ者も、そしてその舞台を観る者も、心打たれ、感化されずにはいられない。深い敬意に値する。

 では、男役・明日海りおの個性はといえば、その核に迫るのはなかなかに難しい。
 個人的に抱くイメージで言えば、『源氏物語』なら夕霧なのである――生真面目で、一途なタイプ。けれども、さまざまな個性の娘役と組んで輝かせることができるという意味において、明日海が、『新源氏物語』の光源氏、『CASANOVA』のジャコモ・カサノヴァのような、いわゆるプレイボーイ・タイプの役柄をふられてきたことも合点が行く。基本的には優等生タイプながら、少々荒っぽい感じの役もできたし、ショー作品において妖(あやかし)のような存在に扮しても黒い個性を放っていた。――ひとところにイメージを留めることを嫌って、観る者を翻弄するような、そんな、気まぐれな魅力をも感じさせる。
 だからこそ、退団作品『A Fairy Tale』において、罪を犯したがために、その罪の青の色をまとい、深い霧に覆われたミスティ・ランドをただよい続けざるを得なくなった薔薇の精という役どころを明日海に宛書した座付き作家・植田景子の手腕は、大いに光るところである。罪と言っても大罪ではない――精霊たちには、人間の子供たちが成長して大人になる前に、彼らに“忘却の粉”を振りかけ、自らの存在の記憶を消さなくてはならないという掟があるのだが、その掟に背き、愛する少女に粉を振りかけなかったという罪である。繊細な美意識を全編にわたって貫き通したこの作品において、植田が展開するのは秀逸な宝塚歌劇論に他ならない。
 宝塚歌劇を退団すれば、男役は、男役ではなくなる。もちろん、OG公演のような場で男役として登場することもあるだろう。けれども、それは、宝塚における男役とはやはり違う。宝塚の男役という存在が成立するにあたっては、宝塚歌劇という場が不可欠である。宝塚を退団し、男役ではなくなった者たち、元男役たちの多くは、自身が舞台上においてずっと馴染んできた“性”と決別し、新たな世界、新たな舞台において、新たな“性”としての生を始めなくてはならない。その生がしっくり来るまでにどのくらいの時間がかかるのか、それは、人によって異なる。けれども、ある程度の時間がかかることは確かである。それまで、多分に自身の中の男性性と向き合ってきた人間が、今度は女性性と向き合っていかなくてはならないのだから。
 これは、元男役にとどまらず、観客にとっても大きな問題となってくる。それまでその人物の男性性の部分と多く向き合ってきた観客も、今度はその人物の女性性の部分と向き合わざるを得ない。もちろん、一人の人間、一人の舞台人として、好意の対象としてきた場合も多いだろうから、その場合には混乱が生じることは少ないだろう。けれども、その混乱が全くないケースというものもまた少ないだろう。精霊と“忘却の粉”というメタファーを用いて論じられているのは、宝塚歌劇におけるこの男役/元男役と観客とのこの、ときに危うい関係性なのである。“忘却の粉”を振りかけるのは果たして、舞台に立つ者、舞台を観る者、そのどちらなのか――。
 霧の中を彷徨い続ける青い薔薇の精の前に、かつて愛した、否、今も愛し続けている少女は、年老いた姿となって現れる。彼女は、自身が手がけた美しい絵本の中に、愛する薔薇の精の記憶を永遠に封印している。二人は互いを忘れることはない――決して。すべてが浄化され、明日海が、白い薔薇の精の姿に戻り、消えていくラスト・シーンには、――宝塚歌劇作品において初めて味わう、冴え冴えとした美しさがあった。儚いようでいて、強く、確かなもの――それは、宝塚歌劇による、宝塚歌劇の全き肯定である。その肯定を可能としたのは、明日海りおという男役の存在である。
 これまで男役を演じてきた自分/相手には、女性の役を演じるようになったら、こんな個性があった――互いにそこに魅力を見出すことができれば、舞台人と観客の間には好ましい関係が末永く続いていくのである。『A Fairy Tale』の劇中歌「Like a Fairy Tale」において、こう歌われるように。
「♪おとぎ話の終わりはきっと/Happy End」

 明日海りおが演じた中で、忘れられない役柄の一つに、『THE SCARLET PIMPERNEL』のショーヴランがある。かつての恋人であるヒロイン・マルグリットへの慕情を秘めた「君はどこに」をロマンティックに歌う明日海りおの中に――明日海が追い求める“永遠の少女”を見た――振り返ってみれば、明日海は、その“永遠の少女”に相対するだけの男役を、この長きにわたって創り上げてきたに違いなかった。
 今なら、わかる。明日海りおが男役として追い求めてきたその“永遠の少女”とは、彼女自身の中に在る、一人の少女なのである。
 だから。明日からは、その“永遠の少女”を、そのまま追い求めていってください――。
 新しい人生にも、貴女はきっと、これまで通り、根気よく取り組み続けていくのだろうと思う。新たな挑戦をしていく姿を観るのが、心から楽しみである。

 城妃美伶。
 6〜7月の赤坂ACTシアター公演『花より男子』でヒロインつくしを演じた彼女は、心揺さぶるような美しい瞬間を見せて――そして、初日前の囲み会見での質疑応答で、…ああ、これはもう退団を決めているのだな…と悟った。悲しいかな、その通りになってしまったけれども。
 『花より男子』についてなかなか書かずにいたのは訳がある。ドラマ化、映画化もされている人気少女漫画だが、私自身は読んだことがなく、今回の宝塚版の舞台で初めて接した――そして、作中描かれているいじめという名の“暴力”について、深く考え込んでしまい……――宝塚版ではそれでもだいぶマイルドになっているらしいのだけれども。私の世代と、下の世代とで、容認され得る/され得ない暴力表現の違いについて考えざるを得なかった……。例えば、かつては“愛のムチ”という言葉が容認されていた――『ベルサイユのばら』においても、衛兵隊長となったオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、部下である衛兵隊士たちを平手打ちにし、「心は自由だからだ!」と説く。だが、今の時代において、“愛のムチ”という名の暴力はもはや通用しないだろう――。
 いじめに決して屈することなく、己を貫き通すヒロインつくしを演じて、城妃美伶は実に溌溂とした魅力を見せていた。輝いていた――どうしてこれをもっと前からやらなかったんだ〜と……。得意の側転を見せるシーンで、城妃は、それはもうはちゃめちゃにはじけていた――リミッターがすっかり外れてしまっていた! 無防備なまでに全開になった、その野放図な生のエネルギーの美しさに、しばし茫然としていた……。
 退団公演での城妃は、自身の娘役像を確立して揺るぎない。『A Fairy Tale』での、庭園と薔薇と絵画と、美しいものを愛する、一人の貴婦人――楚々としながら芯のある女性を演じて、存在感を発揮する。レヴュー『シャルム!』の地底のキャバレーのシーンでは、快活かつセクシーな魅力を放って踊る美女に扮し、あざやかな側転も披露してくれた。

 乙羽映見は、『A Fairy Tale』『シャルム!』共、澄んだ歌声を聴かせて大活躍。『A Fairy Tale』で演じた“Mysterious Lady”は正体不明の貴婦人、その実、自然界の女神デーヴァという役どころなのだが、神秘的かつ高貴なムードをただよわせる好演である。
 白姫あかりは、ダンサーとして大いに活躍、エレガントかつシャープな動きで観客を魅了してきた長身の娘役である。『A Fairy Tale』で演じたのは空気の精クラルス。まさに空気を操るような、美しい腕の動きがいつまでも心に残る。
 
 芽吹幸奈。
 昨年、花組で上演された『ポーの一族』について記した文章<すべての穢れなき者たちへ〜宝塚花組『ポーの一族』>(http://daisy.stablo.jp/article/458293555.html)は、彼女のブラヴァツキー夫人の演技なくして、私の内からこの世に生まれ出づることはなかった。そして、ブラヴァツキー夫人は、漫画版には登場しない、座付き作家・小池修一郎による宝塚版のオリジナルのキャラクターである。『A Fairy Tale』が『ポーの一族』に見事連なる作品であることを鑑みるに、娘役・芽吹幸奈の功績には特筆すべきものがある。
 『A Fairy Tale』で演じたのは、精霊を愛するヒロインの少女を温かく見守り続ける養育係メアリー・アン。場面場面ごと、仕草と声色に確かな年齢を重ねる演技が、作品世界に奥行きを与える。『シャルム!』のエトワールの絶唱――宝塚の舞台で出逢えなくなるのが、とてもさみしい。
2019-11-24 00:11 この記事だけ表示
 最初に金メダルを獲得したソチ五輪でも滑ったショートプログラム「パリの散歩道」を披露したのだけれども、…これが、前夜の田中刑事のフリースケーティングの演技に続き、ものすごく強引な大人の男の色気満載で。ここまでぐいぐい来る感じ、久しぶりに味わったな…と。
 それで思った。
 最近、こういう感じの、「俺のものになれ!」的な芸ができる宝塚の男役、減ってやいませんか?
 例えば、先日、台風一過の日に宝塚を去った前星組トップスター紅ゆずるや、現在退団公演中の花組トップスター明日海りおのように、それとはまた異なるところで自分の個性、芸風を確立したということならば、それはそれですばらしいことである。持ち味の違いだってある。時代の変化、求められる男役像の変化も多少はあるのかもしれない。でも、何だか最近、何が自分に合っているのか、あれこれ試みることすら行なわれなくなっているような…。二人の男役が一人の女を取り合うみたいな芝居やショーの場面も、「俺のものだ!」「いや、俺のものだ!」という、男役芸の上での競い合いがないと、成立しなくなってしまうのでは?
 背中で語れる男役も少ないような。フィギュアスケートの中継を観ていると、演技のときだけではなくて、演技前の、これから闘いに挑もうとしている男子選手たちの背中に覚悟を感じて、ぐっと来たりする。これだよ、これ! と思う。宝塚の男役にもこういう背中を見せてほしい! 背中で語れる男役が少なくなってしまうと、芝居のラストで、男が一人、背中を見せて去っていく…みたいな演出も、できなくなってしまうではないですか。
 紅ゆずるなんて、…宝塚の男役たるもの、(フィギュアスケート選手含む)生身の男にかっこよさで負けるわけにはいかない! と客席の男性客に食ってかかるくらいの気迫で舞台を務めていて、それが、退団公演のあの黒燕尾服姿に結実したわけで。今、一番ぐいぐい来ることのできる男役が、羽生結弦選手のファンとして知られる雪組トップスター望海風斗だというのも、何だか腑に落ちるものが。その望海ならば、作品に必要な男の哀愁を表現できると、座付き演出家小池修一郎は、かねてから熱望していた映画『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』の宝塚化に踏み切ったわけで(宝塚大劇場2020年お正月公演)。
 何もフィギュアスケートに限らない。何でも参考にして吸収して芸を磨いてくれれば、それでかまわないのですが。宝塚の男役よ、奮起せよ! 最近ぐいぐい来るのは娘役の方が断然多いぞ!
2019-10-30 00:57 この記事だけ表示