雪組公演「ベルサイユのばら」でアンドレ役を演じている未涼亜希は、2月に「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」でタイトルロールを演じていた。原作は手塚治虫の傑作漫画、作・演出は正塚晴彦。宝塚でこの作品が最初に扱われたのは1994年の「ブラック・ジャック 危険な賭け」で、このときから引き続き歌われた主題歌「かわらぬ思い」は宝塚の名曲である。
 私は子供のときにこの漫画を読んで、以来、もぐりの凄腕医師ブラック・ジャックと、双子の姉の奇形腫から取り出され、ブラック・ジャックによって人間として組み立てられた少女ピノコとの関係、すなわち、大人の男と、彼の掌の上で慈しまれ転がされ、けれどもときに相手に向かって大人びた口を利いて一本取る少女との関係が、一つの大きな憧れとして刷り込まれてしまった部分がある。未涼のブラック・ジャックは、この架空のキャラクターが実際に生きて動いていたとしたら、こういう話し方をするだろうな……と非常に納得できるものがあった。精神的な理由でメスを握る手に支障を来すという設定は、やはり精神的な理由でピアノが弾けなくなってしまう正塚作品「ラスト プレイ」の主人公アリステアの変奏曲である。その一方で、今回、非常に興味深く思ったのが、ピノコがテレパシーを使えるという設定である。ブラック・ジャックはそんなピノコに対し、言葉を使って話すということをスパルタで教え込む。厳しい一方で、普通の子ではないと悩むピノコを励まし、誕生日を祝うブラック・ジャック先生の優しさに、少女はキュンと来てしまうわけだが、そのとき、……まあ、ピノコも言葉で話したいことは話したいんだろうけれども、言葉を使わずとも話せるというのは便利は便利には違いないしな……と思ったのであった。“ピノコ”が二人いれば、言葉を発するという行為は原理的には不要であるわけだし。
 それはさておき。この舞台でピノコを演じた桃花ひなには、ちょっと度肝を抜かれるものがあった。「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授にも似た、ブラック・ジャック先生の厳しいレッスンを受けて見せる、メカニカルな動きと発声。とんでもなくキュート! 宝塚には、私がまだまだ気づいていない才能をもった生徒たちがいるのだ……と思わずにはいられなかった。そして、正塚晴彦はそんな生徒たちを見抜き、生かす術に長けた演出家である。今では花組のスターダンサーとなった月央和沙にしても、正塚が前々から積極的に起用していたわけで、私は、正塚演出の「カナリア」の舞台稽古を見学させていただいたとき、月央の演技に笑うタイミングが演出家のそれとまったく同じであることに、演出家の術中に見事にはまってる! と、何だかうれしくさえなってしまったことを思い出す。
 「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」に話を戻すと、この作品では、三組のカップルに焦点があてられていた。ブラック・ジャックとピノコの他に、バイロン侯爵と彼の恋人カテリーナ、そして、南へ行きたいエリとチンピラのカイト。明示的には語られないものの、不老不死の身をもつバイロン侯爵は、「薔薇の封印」をはじめとして宝塚歌劇ではおなじみの、ドラキュラ、吸血鬼の類である。自分の身体を分け与えて、バイロン侯爵は死んだ恋人カテリーナを生き返らせようと試み、これに成功する。この二人の関係には非常に興味深いものがある。例えば。宝塚歌劇において、永遠の命を与えられたものとはいったい、何なのだろうか。スターなのだろうか。それとも、スター去りし後も宝塚を愛し続ける観客なのだろうか。それとも、宝塚歌劇そのものなのだろうか――。

「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」が日本青年館で公演されていたとき、東京宝塚劇場では「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」が上演されていた。「ベルサイユのばら」の池田理代子が手塚治虫に影響を受けており、その手塚治虫は宝塚に影響を受けていることを考えると、非常におもしろい現象ではある。そして、どちらも漫画を原作としているけれども、対極にあるような世界だな……と思った。その対比は、「ベルサイユのばら」の作・演出の植田紳爾と、「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」の作・演出の正塚晴彦の対比でもあるだろう。
 かつて正塚は、「Practical Joke(ワルフザケ)ってことにしといてくれよ」(2001)において、フランス革命を題材にした映画を撮影中の映画スターを登場させていた。コスチュームからしてこれはもう「ベルサイユのばら」のパロディである。そして、以前ちらっとふれたように、「カナリア」(2001初演)は「エリザベート」の、「はじめて愛した」(2010)は「ロミオとジュリエット」のパロディである。「エリザベート」と「ロミオとジュリエット」はいずれも大ヒットを記録した小池修一郎作品だが、死によって終わる物語である「ベルサイユのばら」と「エリザベート」、「ロミオとジュリエット」に対し、正塚のいずれの作品でも愛は死によっては成就しない。生きて、愛する。その意味で、正塚晴彦はあくまで現世を重んじ、そのように律儀に物語を紡ぐ。死によって成就する愛の物語に酔いしれる一方、現実においてはとことん現実主義者で、愛し合う者はこの世で絶対的に結ばれるべきだと信じる私は、その世界観にも深く共鳴する。そして、「宝塚は決して『ベルサイユのばら』だけではない」と書くとき、彼のように、「ベルサイユのばら」だけではない宝塚歌劇を追求してきた演出家たちに、深く首を垂れるものなのである。

 さて、未涼亜希は、対極にある世界のうち、どちらかを選ぶとするならば、「ブラック・ジャック」的世界にはまるイメージ、ニヒルでクールな様が似合う男役である。その未涼が、「ベルサイユのばら」ではアンドレ役に挑んだ。池田理代子としては最初のうち、オスカルとアンドレを恋人として結び合わせようという意図がなかった……と知って、個人的にはショックを受けてしまったくらい、オスカルといえばアンドレ、アンドレといえばオスカル、オスカルがりりしく闘えるのも、理想に向かって無謀にも突っ走っていけるのも、アンドレが陰ながら見守って、深い愛でオスカルのすべてを肯定してくれていればこそ。闘う女の理想の男性像である。宝塚の舞台においては、“今宵一夜”のラブシーンで、漫画版よりの名セリフ、「ああ、見果てぬ夢よ。永遠に凍りつき、セピア色の化石ともなれ…俺は…俺は今日まで生きていて良かった…」を歌わねばならない。この上なくロマンティックな愛を演じるという意味で、宝塚の男役としての真価が問われる役である。
そして、未涼は見事「ベルサイユのばら」の世界へと飛翔を遂げた。心を包み込むような声がアンドレの役柄ともよく合い、「心の人オスカル」の歌唱をしっとりと聴かせた。“今宵一夜”では、長谷川一夫考案のかの有名なポーズにおいて、早霧せいな演じるオスカルの上半身をぐっと片手で抱き寄せる様が、これまでにないほど官能的。原作においては、少女漫画史上初めてセックスシーンが描かれた、つまりは、少女漫画という文化がセックス表現を獲得し、その地平を広げていく過程においてメルクマールともいえる場面に基づいていることを改めて思い起こさせた。
 しかしながら、ここで未涼の飛翔がひときわあざやかに見えるのも、直前に対極ともいえる世界を経験していればこそだろう。高らかに愛を叫びもすれば、ニヒルに愛を隠しもする。演出家諸氏がそれぞれに観客に問う、どのような宝塚歌劇の世界をも体現できる、それが宝塚のスターの真骨頂である。
 宝塚生活最後の舞台である雪組公演「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」で、専科の磯野千尋は、フランス革命によって断頭台の露と消えるルイ16世を演じている。弟のプロバンス伯爵に危機的状況につき報告を受けてもなお趣味である錠前作りの方に興味を示し、「暴動ではございません! 革命でございます!」と告げられるに及んでやっと狼狽し、持っていた宝石箱を取り落す。どこまでもおっとりと世情に疎い一面を示す、その浮世離れ感。次の登場では、庭園の夜の散歩の際、侍童たちに向かって、国王たる者、自由などなく、しきたりに縛られていること、妃マリー・アントワネットとは心通わず、苦手であることを、長ゼリフで語る。一人の人間として見たとき、この上なくせつない感情の吐露であるはずだが、ここでも磯野ルイ16世はどこまでも浮世離れしている。一幕ラストでは、王妃との愛ゆえに故郷スウェーデンへと帰国することを決意、挨拶に訪れたフェルゼンに対し、満場の人々の前であまつさえ(帰国されては)「困る…」と語りかける。王妃はそなた一人を頼りにしていたからと。自分の妻が心から愛する男に向かって! この「困る…」が、磯野ルイ16世はとことん浮世離れしてチャーミングなのである。現実的な野心家プロバンス伯爵が今度は狼狽してしまうくらいに。なるほど、「すべてを包み込むような大きな愛…」と、愛の人フェルゼンに形容されるにふさわしく、磯野扮するルイ16世は妻マリー・アントワネットを愛して、その上で、自分とは相容れぬところはそれはそれで仕方ないと納得しているのである。「ベルサイユのばら」に対しては初演時、宝塚の舞台で不倫の恋を扱うなんて…と批判もあったと聞く。そしてその批判は、夫がありながらトート=死に愛し愛されるヒロインが登場する「エリザベート」にも相通ずるものである。その批判をかわすには、ヒロインと夫との間にも心の通い合い、愛はあったときちんと表現されていなければならない。磯野千尋のルイ16世の好演あったればこそ、壮一帆のフェルゼンも、歴史に残る運命の愛を舞台上にあざやかに描き出すことができたといえよう。
 浮世離れ。それこそ、宝塚の舞台、とりわけ「ベルサイユのばら」のような”宝塚歌舞伎”、王と女王と貴族たちがさんざめく麗しの世界で欠くべからざる要素なのだと、私は今回、磯野の退団の花道となった舞台を観ていて思ったのだった。例えばマリー・アントワネットを扱った外国映画などを観ていても、登場する王族、貴族たちにこの浮世離れ感が足りぬがゆえに物足りなさを感じることが多い。まるでおとぎ話に出てくるような国王と女王と貴公子がいて、彼らも人間であるがゆえにさまざまな愛のドラマや葛藤が起きて、けれども、宝塚歌劇の舞台で描かれる以上、そこには現実を超越した圧倒的な浮世離れ感がどうしても必要なのである。そして、宝塚歌劇という夢の世界に長い間身を置いてきた専科の人々には、その浮世離れ感が、芸と雰囲気、その双方において備わっているものなのである。昨年の月組公演「エドワード8世」でも、磯野はエドワード8世の父、イギリス国王ジョージ5世を演じて、やはり浮世離れ感を発揮していた。
 その前年の「記者と皇帝」では、磯野は、19世紀後半のサンフランスシコに実在した、自称”初代合衆国皇帝にしてメキシコの守護者、皇帝ノートン1世”を演じていた。「エドワード8世」と同じ大野拓史作・演出によるこの意欲作において、終幕、人々が改革への希望に満ちる新天地サンフランシスコとはいかなる場所のアナロジーであるか考えたとき、磯野が扮した、自らを勝手に”皇帝”と称し、かの地を救う”騎士”を自分勝手に任命している人物とは、実に興味極まりない設定ではある。このときの磯野も、市民の喧騒をよそに一種超然とした立ち振る舞いが、やはり浮世離れしてチャーミングだったのである。
 その一方で、例えば、「エドワード8世」と併演されたショー「Misty Station」の一場面では、ソフト帽姿もダンディなマフィアのボスに扮し、粋に魅せた。そんな磯野の両面が一度に堪能できたのは、名画の世界初のミュージカル化である「カサブランカ」で演じたフェラーリ役だったと思い出す。魑魅魍魎がうごめく第二次世界大戦時のカサブランカで、通行証まで手広く扱う輸入商フェラーリのうさんくささ、それでいて、どこか感じさせる人の好さを体現して、魅力的だった。このとき磯野フェラーリは淡い色のスーツを着こなしていて、その似合い方に、磯野千尋は白の男役なのだと思ったものである。そして、「ベルサイユのばら」では、とことんノーブルな白のかつらに、白のフリルや毛皮の縁取りがあでやかな王様ルック。これがまた、浮世離れして似合うのである。磯野千尋が退団した後も、後輩たちに、その浮世離れ感とダンディズムが絶えることなく引き継がれていきますように。
 7月14日はパリ祭、バスティーユ牢獄が襲撃されたフランス革命勃発の日、となれば、「ベルサイユのばら」のオスカル様の命日……と考えてしまうあひる。昨年秋、「ベルサイユのばら展」を見に行ったときは、原画でストーリーを追っていたら身体がしゅんしゅん怒りで燃えてきて、自分でも何にいったい熱くなっているのだろう……と思いきや、オスカルの恋心に応えようとしないフェルゼンに対し「おのれフェルゼン〜」と猛烈に腹を立てていたのだった。宝塚の舞台で主人公として描かれるフェルゼンに対してはまったくそんなことはないのだけれども、漫画版では絶対的にオスカル贔屓になってしまうというか。
 今回、宝塚での一連の「ベルサイユのばら」上演の前に、「ベルサイユのばら」のもとともなったシュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」上下巻を読んでみた。ツヴァイクといえばリヒャルト・シュトラウスの“コラボレーション”の相方(その関係を、ロナルド・ハーウッドが「コラボレーション」なる戯曲に仕立て上げたわけですが)、ということは、シュトラウス先生も昔、この本を読まれたのかしら……と思いながら。その後に「ベルサイユのばら」を読むと、主人公オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが、これまで以上におもしろい存在に思えてきたのである。例えば、オスカルがジャルジェ家の領地の視察のため、アルトワ州アラスに赴くと、かの地出身のロベスピエールにそこで出会う。ツヴァイクの著書では一章ごとに別立てで語られる人物やエピソードが、「ベルサイユのばら」においては、オスカルなる架空の存在によってつなぎ合わされ、紡がれてゆく。オスカルがまるで、やがては革命へと向かうフランス全土の気運を一身に背負い、これを成功へと導く“天使”のような存在に思えてくる。その意味では、やはり宝塚の男役が演じたとき一種独特の魅力を発揮する「エリザベート」のトート=“死”にもまた似た存在である。ちなみに、宝塚歌劇におけるヒット作品のキャラクターの関連性についてふれるとすると、マリー・アントワネットの生家ハプスブルグ家に嫁ぎ、マリー・アントワネットさながら夫以外の存在を愛してしまうエリザベートとは、マリー・アントワネットの“妹”の如き存在であり、変装を得意とし、フランス貴族たちを革命のパリから救い出す「スカーレット ピンパーネル」の主人公パーシー・ブレイクニーとは、御者をはじめさまざまな扮装をして愛する王妃マリー・アントワネットを救い出そうと試みるスウェーデン貴族フェルゼンの“弟”の如き存在に他ならない。
 漫画版においては、日本の少女たちを中心とする読者と二百年も前の遠き異国の物語とを、宝塚版においては、観客とこの物語とをつなぐ媒介的存在、それがオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが担う役割である。宝塚歌劇においてはその媒介性が一層親密なものになり、危険なものにもなり得るというのは、ここでオスカルを演じるのはオスカル同様、男装の麗人、すなわち、女性が務める男役であるからである。
 現在上演中の雪組「ベルサイユのばら」においてオスカル役を演じている早霧せいなにとって、今回の舞台は男役としてのベストアクトである。男性性と女性性の間で揺れるオスカル、その男らしさと女らしさの出し方、切り替え方がきわめて自然で好感がもてる。男役としてのタイプは異なるが、2006年の雪組全国ツアー「オスカル編」での水夏希のオスカルにも似た、自然な揺らぎがある。その姿に、思う。オスカルという存在に多くの女性たちが憧れ続けるのは、それぞれの心の中にそれぞれ“オスカル”がいるからだと。社会に出て、男に伍して働くうち、悩むこともある。女らしさとはいったい何なのだろう。ときに、これをほとんど殺さなくては仕事を成立させられないときがある。けれども、自分の中にはやはり“女”としか思えない部分もある。それは必ずしも、男の目から見て“女らしい”とされる部分ではないかもしれないけれども。やはり、自分の中にある男性性/女性性と、その間における揺らぎをも含めて素直に向き合うオスカルは、私にとって永遠の憧れの存在である。
 「ベルサイユのばら」の舞台には、オスカル、マリー・アントワネット、フェルゼン、アンドレと四人のメイン・キャラクターが出てくるが、なかでもフェルゼンは難役とされる。オスカルとアンドレはフランス革命時の戦闘によって、マリー・アントワネットはギロチンによる処刑によって命を落とすが、フェルゼン一人、その後長らく生き続ける。死とは一つの明白な終わりであり、その死をもって終わる物語は語りやすいのに比べ、生き続けた者を描くことは難しい。オスカルとアンドレをメインに据えた場合はバスティーユの戦闘をクライマックスとすることができるし、マリー・アントワネットにはギロチン台に見立てた大階段を登っていく壮絶なラストが用意される。しかしながら、そんなマリー・アントワネットの最期に対し、ただ一人生き続けるフェルゼンは「王妃さま!」のセリフと共に奈落へとせり下がっていく。この場面をどう見せるか一つとっても、フェルゼン役はきわめて難しい。
 しかしながら、ここで発想を転換してみると、フェルゼンのその後の生なかりせば、マリー・アントワネットとの運命的な愛の物語もまた、後世に伝えられることはなかった。物語を伝えるのは常に、生き残った者、生き続けた者の役割である。
 今回この難役フェルゼンに挑戦している壮一帆がとある雑誌の記事で役作りの参考にしたと挙げていた「マリー・アントワネットとフェルセン、真実の恋」(川島ルミ子)は、その意味でもきわめて興味深い一冊である。マリー・アントワネットの死後、フェルゼンはその命を救えなかったことを悔やみ続け、文章に書き記し続ける。その文章こそが後世の人々の興味をかきたてるところとなり、シュテファン・ツヴァイクの伝記「マリー・アントワネット」も書かれ、そして池田理代子の漫画「ベルサイユのばら」もまた生まれることとなる。愛する者をなぜ死なせてしまうこととなったのか、フェルゼンのその悔恨こそが逆に、マリー・アントワネットの魂を永遠に生き延びさせる。
 今回の雪組版では、これがトップお披露目となる壮のフェルゼンのために、新曲「愛に帰れ」と、国境警備隊との切り結びの場面が新しく書かれている。この国境での場面においては、従来のバージョンには描かれることのなかった、動のフェルゼン、闘うフェルゼンが表現される。マリー・アントワネットを愛するがため、フランスから故郷スウェーデンへと帰国したフェルゼンは、捕えられた国王一家を救出すべく、我が身の危険も顧みず再びフランスに潜入しようとする。愛する女性に迷惑をかけることを恐れて、最初のうち彼は国境警備隊を相手にしようとしないが、その愛する女性への侮辱の言葉は決して許すことができないと、剣を抜く。鮮やかに国境の丸太を蹴り上げ、花道を駆け抜けるフェルゼン。そして、フェルゼンが愛する女性の元へと鞭を鳴らして一人馬車を急がせる「駆けろペガサスの如く」の名場面。
 登場人物が死へと疾走していくような、死に色濃く支配された「ベルサイユのばら」において、壮一帆のフェルゼンは一人、強烈な力で物語を生の世界へと引き戻す。
 そんな壮フェルゼンを支えるのが、雪組及び専科の出演者の芝居である。市民一人一人、軍隊一人一人の顔まではっきり見えるような、それでいてまとまっては見事な一体感を見せる群衆芝居。たとえどんなに短いセリフであっても、それを疎かに発するような者はただ一人としていない。貴族も市民も農民も、それぞれが、ああ、こういう人っているよなあ……という確かな存在を感じさせる。全員がそれぞれの生を生きてこそ、主人公フェルゼンもまた確かに息づくことができる。
 人の命には終わりがある。そしてその限られた生の中で、人は何かしら自分の生の痕跡を残そうとする。芸術とはその生の痕跡のうち、もっとも純度の高い美の結晶である。そんなことを、壮一帆のフェルゼンに感じずにはいられない。
 例年、初舞台生公演の際には、宝塚歌劇の創始者の魂が一段と近く感じられる。彼による「清く正しく美しく」の揮毫のある扇を大きく引き伸ばした舞台装置のもと、袴姿も初々しい初舞台生たちが、口上を述べ、「宝塚歌劇団団歌」を合唱するからかもしれない。
 先だって、今年の初舞台生公演、雪組「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」を観に行ったとき、いつものように花のみちにある創始者の彫像にの中で一礼した。
「…始めたときは、九十九年も続くなんて思わなかったよ!」
 それまで私にはついぞない発想だったけれども、高揚した声を聞いて、そうだったのだろうなとすとんと腑に落ちた。何も宝塚に限らない。今日という一日をただ大切に、明日へ、またその明日へと、一歩一歩、確かな歩みを重ねていった先に、歴史は形作られてゆくのである。
 第一幕最後の場面、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンを演じる雪組トップスター壮一帆は、フランスを去るにあたり、居並ぶ宮廷人を前に長台詞を披露する。フランスには革命の気運が押し寄せており、王妃マリー・アントワネットと愛し合う彼は、彼女に捧げる真の愛ゆえにスウェーデンへと帰国することを決意する。フェルゼンは言う。私はフランスで真実の愛を知ったのだと。妻である王妃のその他に寄せる心を知りながらも、彼女を愛し続けるルイ16世。フェルゼンにひそかに心を寄せるオスカル。そんなオスカルを陰ながら愛し続けるアンドレ。オーストリアから嫁いだマリー・アントワネットを見守り続けるメルシー伯。そして、宿命的に愛し合うこととなった王妃マリー・アントワネットその人。愛を心に秘めたすべての人々の存在が、フェルゼンに愛の真実を教える。愛を知る者は幸せであり、これを知らない者は不幸である。そして、たとえ引き裂かれようとも、真実の愛は永遠である。
 “宝塚歌舞伎”ともいわれる大芝居の所作を自然に見せ、人物の感情を伝える。滔々と愛を語る壮フェルゼンの言葉に、天上のばらの楽園を見たのだった。美に仕えし人々集い、微笑む、ピンクのばら咲き誇る永遠の楽園――。
 先に上演された月組の「オスカルとアンドレ編」が、フランス革命の市民側の物語、そのエネルギーを主に扱い、ラストではオスカルとアンドレとが天翔ける馬車に乗って登場するスペクタクルであったのに対し、貴族側の物語が描かれる雪組「フェルゼン編」はセリフ劇の側面が重視されている。壮フェルゼンと、汝鳥伶扮するメルシー伯とが、マリー・アントワネットをめぐって激論を交わす場面は、現在の宝塚歌劇の最高峰と言ってよい。マリー・アントワネットを演じる愛加あゆも芝居に優れた人である。断頭台に送られようというそのとき、彼女が牢獄を訪ねてきた人々と言葉を交わす第二幕最後の一連の場面が素晴らしい。愛加は出番こそ少ないながらも、その演技には、物語全体の軸を決してぶれさせない力がある。壮フェルゼンに名前を呼ばれ、一瞬、それが夢の中で聞こえた幻の声であるかのような陶然の表情を浮かべ、そして、振り返る。その一瞬の表情に、思う。――はたしてここで演じられているのは、現実で起きている出来事なのだろうか。あるいはそれは、死にゆく王妃が今際の際に心に浮かべた、甘美なる愛の幻想なのだろうか。それとも、世界でただ一人心から愛した人を救うことができなかったフェルゼンが、彼女死して後、生ける屍となって長の月日を送りながら心に浮かべ続けた、悪夢の如き悔恨なのだろうか。芝居で魅せる雪組新トップコンビの「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」は、これまでとは異なる印象を与える。どこか夢幻能の趣さえ湛え、そして、観る者に思わせずにはおかない。――我々が今日享受するところの自由は、フランス革命の達成によりその礎が築かれている。しかしながら、その自由が獲得される上では、多くの愛と命の犠牲があり、その魂は未だ決して弔われ尽くされてはいない。だからこそ、200年もの時代を隔てた遠き異国、宝塚歌劇の舞台で、フランス革命に散った人々の愛の物語は、くりかえし上演され続けなくてはならないのだと――。
(5月12日11時の部、宝塚大劇場)
 1987年の初演以来、「ME AND MY GIRL」は宝塚歌劇にとって大切な作品である。花組で上演された一度を除いてはすべて月組で上演され、剣幸、天海祐希、瀬奈じゅんがトップスターとして主人公ビルを演じてきた。その意味では、海外ミュージカル作品を多く上演してきた月組のトップスターの系譜をもどこかたどるところのある作品ともいえる。下町育ちの青年ビルは、無事名家の跡継ぎたる紳士へと変貌できるのか――。そんな物語に、宝塚のトップスターとその存在を支える人々双方のノブレス・オブリージュを読み重ねて、ビルの後見人マリア公爵夫人を演じた憧花ゆりのは当然、覚醒である。重ねて、祝・副組長就任。月組の伝統が末永く引き継がれんことを。組長の越乃リュウも「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」でのブイエ将軍の好演でほぼ覚醒したように思うが、「ロミオとジュリエット」のキャピュレット卿を観るだにまだまだポテンシャルが相当ありそうなのと、今回は30年間マリア公爵夫人に愛を打ち明けられないジョン卿役で気弱な魅力全開ということもあって、今後に大いに期待。
 月組は2008年に大劇場公演でこの作品を上演しているが、演出的にもスピードアップが図られた感があり、また、組全体の底力が向上したこともあって、作品の古めかしさを感じさせることなく、大いに楽しめる舞台に仕上がっている。役替わり公演となっており、観劇した日のキャストはBパターン。お屋敷の弁護士パーチェスターを演じる沙央くらまがメインでお屋敷の人々と共に繰り広げる抱腹絶倒のナンバー「家付きの弁護士」は“心の名場面”である。どこか食えない、けれども、気づいたときにはもう忍び足で心の隙間に入り込んできてしまっているような憎めぬキュートさを、ちょいと後ろに跳ね上げた足先からもたっぷりふりまいて、女性が演じる男役ならではの魅力がある。そして、とても月組らしい! 組替え早々絶好調である。
 主人公ビルを演じる龍真咲は男役として復調傾向にあり、一安心(ただし、序盤のあまりに落ち着きのない役作りは、観ている側もあまりに落ち着かないが)。そして、「ベルサイユのばら」のロザリー役でけなげなかわいさを見せた愛希れいかが、下町娘のヒロイン・サリーに扮して魅力全開。一途で本能的な賢さがあり、龍のビルを相手に見せるからっとした包容力に、月組トップ娘役の系譜を感じさせる。昨年のトップ就任以来、主役の役替わりがあって、観ている方もどこか心落ち着かない時期が続いたが、トップコンビとして改めて発進した印象である。
凝りに凝ったアレンジでおなじみの劇中ナンバーを聴かせるフィナーレも見どころたっぷり。個人的には、「ベルサイユのばら」の“心のキャラ”の二人、光月るうと花陽みらが組んでフィナーレ最初のナンバーを歌っていたことに心が高揚(「ベルサイユのばら」については改めて記す所存)。それにしても心弾む名曲揃い! 劇場一体となっての「ランベス・ウォーク」を逃すなかれ。
(5月12日16時半の部、梅田芸術劇場メインホール)
 初日前の舞台稽古を見学。凰稀かなめはセリフ回しも歌も格段に聞きやすくなり、芯が一本ぴしっと通って舞台姿が一段大きくなった感あり。さまざまなキャラクターに変装して出てくる「モンテ・クリスト伯」タイトルロールは、美形ながらちょっとくせっ気のある芝居心をもつ彼女にとって当たり役。月組、花組と、一本もの公演が続いた後に登場の待望のレビュー「Amour de 99!!−99年の愛−」は、宝塚99年の歴史において蓄積されてきた懐かしの名場面を今の感覚で送る作品。
 今週働きづめにて電池切れ。今宵はこれにて〜。
 8日13時の部観劇(日本青年館大ホール)。「魅惑の宵」「バリ・ハイ」等々、リチャード・ロジャースのロマンティックな名曲の数々にふさわしいロマンティックな世界を、主演の専科・轟悠と、進境著しい真風涼帆が体現。近年のニューヨークのリンカーン・センターでのリバイバル公演を観たとき、「Colored?」(「あなたが前に結婚していた相手は有色人種だったの?」)と驚いて主人公に尋ねるヒロインのセリフに、有色人種の一人としては、「So?」と驚いて言い返したくなるものがあったのですが、今回の原田諒の演出は、その手のセリフも、敵兵日本軍に対する侮蔑的な「Jap」も巧妙に省いて、ファンタジック&ロマンティックな世界を現出。松井るみのおとぎ話風セットもそんな作品世界に大きく貢献。二幕の轟と真風の、それぞれが出会った素晴らしい恋、そして、そんな恋を生んだ“South Pacific”への思いを歌い上げるデュエットに、宝塚歌劇こそすなわちそんなロマンティック世界に他ならないのだと感じた次第。ヒロインの主人公への葛藤も、人種差別というよりもむしろ、恋した相手の過去を知っての激しい嫉妬に思え。過去があって今があって、今この瞬間目の前にいる相手を自分は愛しているのだと気づいたとき、世界は変わるわけですが。
 今回の“心の名場面”は、舞台をご覧になった方ならもうおわかりですね。そう、抱腹絶倒、ほとんど反則、芸に裏打ちされた素晴らしすぎる、アレです。公演は明後日10日まで。お見逃しなく〜。
 藤井大介の手によるグランド・レビュー「Etoile de TAKARAZUKA」を最初に観て思ったのは、「…こんな舞台観たら、台湾のお客さんが宝塚ファンになっちゃって日本に観劇しに来なくちゃいけなくなって、遠いから大変〜」ということだった(作品は、一部キャストを変えて、明日4月6日からの宝塚初の台湾公演で、「宝塚ジャポニズム 〜序破急〜」、「怪盗楚留香外伝−花盗人−」と三本立てで上演される)。いえ、あひるが心配する前から、台湾からもすでに大勢の宝塚ファンが日本の劇場にいらしているようですが。
 満天星のプロローグから始まって、満天星のグランド・フィナーレに終わるきらめき。青木朝子作曲の主題歌「Etoile de TAKARAZUKA」の、歌詞が終わった後の旋律が、世界か心か、何処か遥か彼方、永遠に瞬き続けるように響く様、その何とはなしにせつない感じが、私にとっての宝塚歌劇のイメージにそのまま重なるところがある。手を伸ばしたら届きそうな、でも、ふれたらはかなく遠ざかって消えてしまいそうな、そんな永久のきらめき。
 柚希礼音率いる男役陣が黒燕尾服姿で大階段に颯爽と居並ぶオープニング。そして、つばの内まで瀟洒に花のあしらわれた帽子をかぶった娘役たちが大階段を埋め尽くす。かぶりもの好きにとっては帽子天国! である。そして作品は空に輝く十二星座にちなんで展開される。ふわふわキュートな毛皮をまとった夢咲ねねが登場する“おひつじ座”。真風涼帆がアウトローな男の魅力に挑む“おうし座”。身体の右半分は黒燕尾服、左半分はドレスという姿で、男と女を歌い分ける“ふたご座”の紅ゆずるは、作品の“心のキャラ”としか言いようのない不可思議なオーラに満ち満ちている。男役像をきっちり構築した後でなければ可能とはならない芸である。誘惑の妖しいムードの“かに座”。“しし座”は、宝塚の座付き作家として、男役の魅力を今後も最大限開花させんとの藤井の宣言たる場面である。“星”にちなんだ宝塚の名ナンバーでつづられる“おとめ座”の中詰。鳳蘭の持ち歌「セ・マニフィーク」に挑んで、夢咲が、迫力の娘役芸を見せる。そこに絡む十輝いりすが、男役として包容力のドンと大きなところを披露するのがいい。“てんびん座”では、英真なおきがリードを務め、ゴスペル調の「見上げてごらん夜の星を」が英語で合唱される。柚希が独りエネルギッシュに舞う“さそり座”。そして、宝塚らしい大群舞へと続く“いて座”。「星に願いを」が流れる“やぎ座”のラインダンスで、演出家は、ディズニーの世界と宝塚の魅力との共通項に思いを馳せる。再び大階段で華々しく繰り広げられる“みずがめ座”。そして、赤の衣裳が印象的なトップコンビによる“うお座”のデュエット・ダンス。十二星座の最後だから当然の流れとも言えるが、何となくうれしいうお座のあひる。――そして、永久のきらめき。

 1999年、北京で行われた宝塚の第一回中国公演を観に行った。劇場に入って左右のロビーで公演プログラムの値段が倍違ったり、大きな劇場なのにお化粧室がほとんどなくてしかも壊れていたり、とりあえず空席があったら前の方に座っておいて後から人が来たらそそくさと移動する人が多かったり、客席にいながらにしていろいろとカルチャーショックを受けた。
 もちろん、時代も違えば場所の違いもあるけれども、そのときの客席の熱狂を思い出すに、星組トップスター柚希礼音は、そのダイナミックな舞台姿で、台湾の観客を沸かせるに違いない。
 明日からの台湾公演の成功を、心から祈念、確信しています。