今日の東京は大雨でした。
 ということで、夏の大雨の日の思い出。

 七月上旬、関西へ観劇に出かけた。大阪松竹座で四代目市川猿之助出演の「七月大歌舞伎」を観て、宝塚で夫と落ち合い、宝塚大劇場の雪組公演と宝塚バウホールの月組公演を観るという計画である。台風が来るのはわかっていた。そして、とても厄介な仕事のおまけつき。
 松竹座夜の部最後の演目は『女殺油地獄』。大阪の地で見る近松門左衛門作品にはまた格別の味わいがある――豊嶋屋七左衛門を演じた中村鴈治郎のセリフ回しに惚れ惚れとする。そして、河内屋与兵衛(松本幸四郎)と七左衛門女房お吉(市川猿之助)、二人の、それぞれにまったく別の想いから来る「…生きたい!」との強い願いが火花のように激しく交錯する様に、自分自身もまた貫かれるような思いがした。
 一夜明けて。雨が激しい。厄介な仕事の電話を長々としていたら、ホテルを出るのが昼過ぎになってしまった。阪急梅田駅に行ってみると、宝塚線はじめ全線すでに止まった後。いいや、じゃあ予定通り、中之島近代建築散歩しちゃえ! と、止まっていない地下鉄に乗り込むあひる。大阪市中央公会堂をのぞき、隣の中之島図書館の中にある北欧オープンサンド専門店で昼食を取り、正面玄関入ったところの巨大なドーム型中央ホール、ソクラテスやシェイクスピアといった知の巨人たちの名前が飾られた空間にしばしたたずみ。
 よし、近代建築堪能! と、梅田に帰って荷物を引き取り、さて、どうやって宝塚まで行ったものかと思案顔。あひるが考えついたのは、リムジンバスで伊丹空港まで行き、そこから路線バスで宝塚まで行くというプランだった。早速、新阪急ホテル下のバス乗り場に行くと、すでに長蛇の列。大阪マルビルの乗り場の方がバスの本数が多いと聞き、雨の中、キャリーケースを引きずって行く。比較的すぐ、二本目のバスに乗れて、渡る今川、水量は岸辺に迫らんとする勢い。けれども、道路は順調に流れていて、思っていたより早く空港到着。
 そこからが長かった。宝塚行きバスはすでに運休した後だったので、池田行きバスの列に並ぶことにする。このとき、隣の伊丹行きとどちらに並ぶか非常に迷ったのだけれども、いまいち土地勘がない(そちらの方が本数が出ていて、結果的に、電車も早く復旧していた)。とりあえず、並ぶ。どうして一つのバス停に二つ列があるんだろう、行き先別に並んでいるんだろうか…といぶかしく思いながら。
 自分が来る前にすでに一悶着あったのを知ったのは、並び始めてだいぶ経ち、近くの人たちといろいろと会話を交わすようになってからだった。こちらの列の方が正しい場所に早くできていたのを、長い行列の後ろに並ぶのはいやとばかり、新たに列を作った不届き者がいたと。「こちらの方が前から並んでいた正しい列ですよ」と親切に教えに行った人も、無視。そして、後から来て事情がよくわからず、列があまりに長くなっているからとりあえず人が少ない方に並ぼうかなと思う人もいて、二つの列とも人がじりじり増えていく。そして、時間通りにバスは来ない。…いや増す緊張感。そして、一時間ほど経って、やっとバスが到着。しかし。案の定、どっちの列が正しいかで揉め出す。乗客を降ろした後、そそくさとドアを閉める運転手。揉め事が決着するまで、客を乗せないつもりらしい。
 そこへ怒号。
「お前には良心がないんかい!!!」
 あひるの少し前に並んでいたおじさん――舞台人にたとえるならば、岩松了に似ていた――が、不届き者に向け、お腹にまで響き渡るバスバリトンの声で発したものだった。その迫力。自分に向けられたものでなくても震え上がってしまうような。今でも鼓膜にあざやかに残る。その怒号一発で、向こうの列の後ろの方の人たちが、…この列、違うんだ…と悟り、こちらの列にバラバラと並び直す。自分たちに分がなくなってきたことを知り、向こうの列に並んでいた高齢男性が腹立ちまぎれに閉まっているドアに拳一発。と、そこで警察出動。
 …いつの間にか、自分が何かの劇に出演しているように思えてきた。はたしてこのバスに乗れるのかどうか、というか、そもそも今日中に宝塚にたどり着けるのか、そもそもたどり着けたところで明日公演は行なわれるのか、押し寄せてくる不安と緊迫感とで胸が締め付けられるようになりながら、これがもし舞台だとしたら、どんな作品だろう…とつい考えてしまう職業上の性。…オペラだ。ヴェリズモ・オペラ。マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』みたいな。…と、あひるの考えがまとまっても、まだ揉め事は続いている。不届き者は、二つの列で交互に乗車することを提案。そこでまた岩松了似氏他、こちらの列の猛者が関西弁で怒鳴る。ついに向こうの列は不届き者一人に。そして! ようやくこちらの列の乗車が始まったと思ったら、不届き者もさっさとバスに乗り込んでしまったのである。乗るんだ! これだけ怒鳴られても。その姿は、映画『タイタニック』で、「I have a child!」と嘘をついて救命ボートに乗り込む、ヒロインの婚約者を思い出させた。
 しかし。さらに驚いたのはその後だった。岩松了似氏他数名は、バスに乗り込んだ不届き者を、「降りんか!」「降りろ!」と怒声のみで追い詰め、いたたまれなくなった不届き者は遂に下車。降りるんだ! あそこまでして乗ったのに。至近距離で見た彼の目は定まらず、うつろに揺れ動いていた。嘘をつく人間、自分に分がないことを知る人間の目は、このように泳ぐのだ…と、しみじみ思った。
「何回も関西に来ているけれども、今、とても関西らしいものを観た気がしました」
 近くに立っていた岩松了似氏に思わずつぶやく。
「それは、ええもん見たね」
と、ちょっと照れて破顔一笑。実にチャーミングな笑顔で、さっきド迫力の怒声を発した人とは思えない。ごくごく普通のサラリーマンである。その姿を見ていて、思った。関西弁で音楽劇を作ったら、音楽的にも実におもしろいものができそうだなと。
 さて、満員のバスは池田に向かって進む。しかし、土地勘がないので、停留所の名前を聞いても、並んでいてあれこれおしゃべりするようになった、これから夜勤に向かうという看護師の女性が「えらく遠回りやね」とこぼすのを聞いても、いったいどこを走っているのかわからない。それが、途中ではっとした。…阪急創始者、小林一三翁が眠る大広寺の近くを走っているのだと。心の中で、手を合わせ、今の宝塚歌劇団について語りかけ、自分の仕事をどのように全うしていけばよいか尋ねた。彼の魂は、私が久しぶりに――3年ぶりに――宝塚を訪れることを、喜んでくれていた。別に私だけではない。彼の魂は、宝塚大劇場にやって来るすべての観客を歓迎している。そのことを雄弁に伝えているのが、大劇場前にある朝倉文夫の手による名作「小林一三先生像」である。そして、語りかけているうちに、明日の公演は上演されるだろうという確信が生まれた。
 バスは池田駅に着いた。阪急宝塚線はまだ、雲雀丘花屋敷止まり。タクシー乗り場に並ぶも、なかなかやって来ない。一時間ほどして宝塚線再開。電車がやって来るのを見ただけで、涙が出そうになるほど感動するとは。当たり前は決して当たり前ではないと身に沁みる一日。梅田から宝塚、普段なら阪急電車で30分ほどで着くところを、4時間半かかって到着。ようやっとたどり着いた宝塚ホテルのフロントで尋ねる。
「…あの、今日の歌劇は?」
「普段通りやっておりますよ」
 流石なり。
 さて、チェックインして、またまた厄介な仕事の電話を一時間ほどして、22時半ごろ、夫から来たメールに驚愕。
「今、岐阜羽島のあたりだよ」
 …最初は思った。この状況で何をふざけているのかと。18時半過ぎに東京駅を出たっていうのに、いくら何でもおかしくない? しかし。決して冗談ではなかった。雨の中、次々と東京駅を出て行った新幹線が、新大阪から名古屋にかけてぎゅう詰め。最終的に新大阪に到着することはできたものの、そこで2時間ほどタクシーに並んだ夫が宝塚ホテルにたどり着いたのは、午前3時過ぎだったそうな(翌日の観劇に備え、先に寝てしまっていたあひる)。
 翌朝。宝塚バウホールに行く。当然ながら、満員。そりゃそうだ。月組トップ娘役愛希れいかが、娘役としては17年ぶりに異例の主演を務める『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』の、今日は最終日なのだから。でも。宝塚ホテルから歩いてきた私たちはともかく、阪急もJRも朝から止まっている中で、みんないったいどうやって劇場に来ているの? というか、観客もさることながら、キャストとスタッフは? …いまだかつて見たことのない水量の濁流となって流れる武庫川を窓越しに眺めながら、不思議に思った。あなたたちこそどうやって東京からたどり着いたんですか?! と不思議に思われていたのを知ったのは、その後の話。そうして観たバウホール公演も、雪組大劇場公演も、しみじみ心に残るものだった。演じる人がいて、観る人がいて、毎日当たり前のように舞台は上演されていて、けれども、それは決して当たり前ではないこと。そして、思ったのだった。宝塚歌劇は関西発祥の舞台芸術である。宝塚の地で生まれ、育ち、創られ、全国に公演に行く。決して忘れてはいけない。そのことを改めて深く心に刻むために、今回のこの大雨紀行はあったのだと。
2018-11-06 22:53 この記事だけ表示
 天草四郎は、倭寇だった!――そんな大胆な仮説のもと展開されるのが、原田諒の力作『MESSIAH −異聞・天草四郎−』である。仲間と共に海を舞台に大暴れしていた倭寇の頭目・夜叉王丸(明日海りお)は、嵐に遭い、天草の大矢野島の浜辺に打ち寄せられる。そこに住まう隠れキリシタンの人々は、貧しい暮らしの中にも彼を心優しく受け入れ、“四郎”という名を授けるのだった。その天草近くの無人島の岩窟の中で、洗礼名リノこと山田右衛門作(柚香光)は、美しい娘、流雨(るう)(仙名彩世)をモデルに聖母マリア像をはじめとする聖人画を描いていた。島原の藩主松倉勝家は、幕府に対しては石高を実際より高く申告し、圧政をますます強めて人々にさらに過酷な年貢を課す。四郎は人々に呼びかける。自らの手で“はらいそ―天国―”をこの世に実現しようと。島原の乱の勃発である。それから二十年後、四代将軍徳川家綱が、実際にこの乱で一人生き残った絵師の山田右衛門作(山田祐庵)に対し、真実を教えて欲しいと問い、その問いに対して祐庵が答えるというのが、作品全体の仕掛けとなっている。
 惜しむらくは、四郎が踏み絵をも厭わず、人々に自らの手ではらいそを築こうと呼びかけるシーンで、これまで自らが信じてきたところと違う彼の呼びかけを、人々が一瞬にして受け入れてしまっているように見える点である――四郎の父親代わりとなる益田甚兵衛役の一樹千尋はここを、素晴らしい力技の演技で通していた――。もう一段階、もう一シーンの積み重ねがあれば、説得力がさらに増したことと思う。しかしながら、流雨に心を寄せる四郎とリノ、その三人の関係がドラマティックに描き出されていく様、四郎の呼びかけに対し天草の人々が「♪メサイア、メサイア(救世主)」と歌で答え、声が響き合ううち大合唱となっていく様など、重厚なオペラ作品を思わせる骨太な作りである――岩窟の中でのリノと流雨の場面も、二人の関係こそ違え、どこか『トスカ』の第一幕を連想させる。宝塚“歌劇”の面目躍如である。そして、物語のクライマックス、戦いに敗れた人々が大階段の上、重なり合って次々と倒れ込み、巨大な十字架が描き出されてゆくシーンでは、宝塚の芝居作品において大階段の表象するところについて、新たな視座を拓かれる思いだった。一人生き残って歴史の真実を描き続けていくこととなる絵師祐庵の姿に、演出家の、作り手としての矜持がにじむ。力作である。天草四郎というカリスマ的美少年の役どころも、骨太な中にいつもどこか少年の魅力をたたえたトップスター明日海りおにいかにも適役である。
 私の父は山口県宇部市出身だが、彼の実母はクリスチャンで、少女時代、カナダへと旅立つ私に、聖母マリアが彫られたネックレスをお守りとして渡してくれたことを懐かしく思い出す。晩年、祖父もやはりクリスチャンとなった。見晴らしのいい場所に建てられた二人の墓には、それぞれの洗礼名が刻まれていたが、墓仕舞いということで、今は、東京のとあるお寺にある墓地に眠っているのが、ちょっと隠れキリシタンみたいだなと思わないでもない。

 『BEAUTIFUL GARDEN –百花繚乱−』は、新鋭野口幸作の作・演出。野口は今年初めの雪組『SUPER VOYAGER!−希望の海へ−』でもアイディアてんこ盛りの快作を発表していたが、今作でも、その創作エネルギーがとどまるところを知らない様を見せた。とりわけ目を瞠らされたのは、娘役芸の高さを誇る花組娘役陣を活かし、スカートさばきの妙を随所にちりばめたところである。まずはオープニング、ダークな色合いの地に花模様をちりばめたプリントのフリルスカートで、娘役たちが並んでひざまずき、幾重にも重なったそのフリルの中から片方の脚だけを見せるシーンの美しさ(振付・羽山紀代美)。そして中詰め、これまたたっぷりとふくらんだスカートの裾を両手で持って前後にひらひら揺すりながら銀橋を渡り、その途中で腰を下ろして脚をバタバタさせてスカートに動きを見せる場面は、副組長花野じゅりあをはじめ、娘役陣のコケティッシュさ全開(振付・三井聡)。ひらひらバタバタに自分も参加したい! と思うほど、娘役の魅力を際立たせていた。加藤真美の衣装も新風にあふれていていい。
 仙名彩世は、そんな強力娘役陣を擁する花組において、まさにトップ娘役の名にふさわしい活躍である。『MESSIAH』では神へ捧げる祈りの歌を歌って聖なる響きを聞かせる。『BEAUTIFUL GARDEN』の第4章「SPANISH GARDEN」では、明日海りおの闘牛士相手に彼が愛した女優を務めるが、黒い衣装に身を包んだ姿が、スペインの画家ゴヤの描いた女性像を思わせる。そして、舞台上にただ横たわっているだけでエロティック。中詰めでは、白いロマンティックなたっぷりとしたロングスカートで、ポップスに乗って軽快に激しく踊る、だが、その裾は決して乱れない! 高く蹴り上げる際にも、ほとんど計算し尽くされているとしか思えないその裾の軌道の美しさに息を呑む。スパンコールのジャケットにショートパンツ、網タイツといういでたちで、男役陣を率い、ガーシュインの「ス・ワンダフル」を歌い踊る姿は粋で颯爽とかっこいい。それが、決して男前風ではなく、可憐な娘役としての真骨頂のかっこよさなのである。
 明日海と仙名がすみれ色の美しい衣装に身を包んで展開するデュエットダンスは、宝塚への愛に満ち満ちた名シーンである。素晴らしいトップコンビである。バレーボールに例えるならば、仙名彩世は名セッターである。回ってきたボールに対し、自分でアタックもすればフェイントもする。そして、ここぞという場面では、円熟期にあるトップスター、エース明日海に集中してトスを上げる。その圧巻のトスが見られるのが、このデュエットダンスの場面である。なるほど、今の花組が強いわけである。チームとして見事に機能している。
 柚香光は、ショーの中詰め、夏はやっぱりTUBEだぜ! の「シーズン・イン・ザ・サン」で「♪Stop the season in the sun 心潤してくれ〜」と歌うシーン、舞台稽古では…まずは自分が心潤してくれ〜!…と大いに心配になるほどだったが、その後無事復調。東京は見事にシーズンがストップされ、十月なのに30度を超す陽気の日もあったのはそのおかげだろうか。柚香はモノトーンの舞台装置と衣装の中、雨傘だけが印象的な「雨に濡れても」のシーンも印象深かった。芝居で、圧政を敷く島原藩主松倉勝家に扮した鳳月杏は、冷酷なまでに悪に徹した演技で芝居巧者ぶりを見せた。水美舞斗は、芝居では将軍徳川家光の重臣松平信綱役で力演を見せる一方、ショーのラインダンスの場面では、花の中を浮気に飛び回る蜂のロケットボーイを担当。はつらつとした踊りでアピール、大売り出し公演といった感があった。

 本日の千秋楽をもって、天真みちるが宝塚を去る。その芸人魂で花組の舞台を大いに沸かせ、テレビ出演時には“宝塚のタンバリン芸人”として視聴者の度肝を抜いた男役である。
 ずっと宝塚にいるように思っていた。澤瀉屋、否、歌舞伎界にとっての二代目市川猿弥のような存在に、宝塚においてなっていくものと思っていた。
 けれども、いつのころからだっただろう――観客をただ楽しませたい、幸せにしたい、そんな気持ちがいつも大いに伝わってきていた彼女の舞台から、無邪気さが何だか失われて、迷いが見えるようになったのは。そんなことを思っていたら、退団の報せ。
 貴女に楽しませてもらった、笑わせてもらった、かけがえのない時間が、私の心の中から決して失われることはない。だから、いつか、舞台に立つ幸せを追い求めたいと無邪気に思える日が来たら、戻って来てください。私はいつでも、劇場の客席にいる人間なのだから!
2018-10-14 00:17 この記事だけ表示
『凱旋門−エリッヒ・マリア・レマルクの小説による−』は、今から18年前、今回と同じ雪組で、同じ轟悠主演で初演された。「♪パララパララパララー」のリフレインが印象的な主題歌。恋人たちが杯を交わす林檎酒カルヴァドス。――心に残った。だからこそ、レマルクの原作小説の中古本を買い求めたのだと思う。――だが、買っただけで満足してしまったらしく、本は18年間、本棚の片隅に置かれたままになっていた。
 再演の舞台はひときわ心に沁みるものだった。私はようやく、18年前に買い求めた原作を手に取り、読んだ。不思議だ。すべてがよくできためぐり合わせのようだった。原作に、舞台に描かれているような、男女の、人の心の機微について、18年前の私はまったくわかっていなかった、と思った。きっと読んでも全然わからなかっただろう。18年後の私は、わかる。沁みる。何があったわけでもない。ただ、劇場の客席に座り、多くの時間を過ごしてきて、わかるようになってしまった――不思議だ、劇場は。
 主人公ラヴィックは、ドイツの有名な病院の外科部長だったが、友人をかくまったかどでゲシュタポの拷問に遭い、恋人も失い、強制収容所に入れられたところを脱出し、フランスに不法入国した身だ。パリでは無免許で手術を行なうもぐりの医者として生計を立てている。雨の降るある夜、彼はよるべない若い女、ジョアンに出逢い、恋に落ちる。だが、ジョアンは、ひらひらと舞う蝶のように魂に一切の落ち着きのない女である。ラヴィックだけでは我慢できず、自分に豪奢な生活を与えてくれる男、自分に愛というものを与えてくれる、あるいはその幻想だけでも与えてくれる男の間を飛び回る。その一方でラヴィックの心をもとらえていようとする。ラヴィックの状況を理解しようとはせずに。
 女とは、結婚できない。子供をもうけられない。家庭という名の温かな社会的保証、安定を与えてやることはできない。その法的資格がない。ラヴィックは、自分という存在を証明する書類を持たぬ亡命者だから。
 心から愛した者に、その者が望んでいるものを与えてやれないのはひどく苦しいことだ。他の誰かがその者にその望んでいるものを与えてやるのを、指をくわえて見ているしかない。――まあ。愛において、愛以外のものを望むな、とも思うけれども。愛以外のものが入り込んできた瞬間、それは愛ではなくなってしまう。
 自分を愛しているのかどうか、執拗に尋ね続ける女に対して、ラヴィックは決して自分の心の内を明かさない。けれども、原作では、彼は、他の男のもとへと去った女の家の前のベンチに座り、苦しい、引き裂かれたような思いを味わい、――そして大雨の中で、知る。「おれは生きている!」と――劇中では、轟悠演じるラヴィックが、自分が愛しているのはジョアン一人だと銀橋を一人激唱して渡るくだりに仮託されている。
 ――昨年の秋、自分がまったく同じ思いを味わったことを思い出さずにはいられなかった。人に心などなければいいと願いたくなるような痛み。その痛みが、告げていた。「お前は生きている!」、その夜のことを(http://daisy.stablo.jp/article/455867317.html)。あまつさえ、その夜、雨が降っていたような気さえし始めた。否、それは、心の中に降る雨だったに違いない。
 それでも。ラヴィックとジョアンは、幸せなのだ。他の男――ラヴィックが「おれは生きている!」と悟ったときと同じ男であるかどうかさえわからない。舞台では一人の男に集約して描かれているけれども、原作小説では、彼女は名前さえ言及されない数多の男たちの間を飛び回って生きる――に撃たれたジョアンの死の刹那、少なくとも二人は互いに確認できるのだから。それは、愛だったと。――ここで、原作では、女は女の母国語で話し、ラヴィックは自分の母国語で語る。それまでは互いに借りものの、フランス語という共通言語で語っていたのだった。「どちらも自分自身の言葉を話した。言葉の障壁はくずれ落ちて、ふたりはたがいに、いままでよりももっとよくわかりあった」(山西英一訳)。
 世界には名づけられぬ関係が多く転がっている。互いに愛と確認できただけ、幸せである。確かめ合えねば、どうしようもない。その名づけ得ぬものをいつまでも心に抱えて生きていくしかない。あれは一体、何だったのだろう? ――と、蜃気楼のように消えた何かに思いを馳せて。未練ではない。不可解なのである。
 ラヴィックは作中、“ロマンティスト”と言及される。そのラヴィックに、自分は負けず劣らずロマンティストなのだろうと思う。だから、この心にある、名づけ得ぬ数多のものを、今ここに断じる。それは、愛だったと。たとえ、他者に――ひどいときには、その相手にさえ――踏みにじられ、唾を吐きかけられ、泥にまみれようとも、愛は、愛だったと。
 数多の愛の記憶が、今もこの心にある。

 轟悠がいてよかった、と思った。――轟悠と共にこの作品に、今、こうして向き合えたことが。
 数多の入団と退団を繰り返し、宝塚歌劇団は新陳代謝していく、とされる。それは無論、組織活性化の大きな要素ではある。けれども、残り続ける人々もいる。演出家を始めとするスタッフがそうだ。轟も所属するところの専科のメンバー、組をまとめる組長副組長らベテランがそうだ。――そして、宝塚を見守り続ける観客も。繰り返される入退団の強大なエネルギーのそばで、残り続けることにもまたエネルギーが要る。かつて轟がコンサートでシャンソン『人の気も知らないで』を歌っていたことを思い出す。それ以来、思うようになった。退団後、宝塚に変な未練を見せるくらいだったら、轟悠のように残ればいい。“人の気も知らないで”。
 18年の時を経て再びラヴィック役に挑んだ轟に対して、ヒロイン・ジョアンを演じる真彩希帆は学年にして27期離れている。この学年差が、原作上も15歳違うラヴィックとジョアンのすれ違いをまずは雄弁に物語る。それだけ年齢が違えば、人生における経験値も異なる。しかも、ラヴィックは外科医だ。戦地を知り、死を知り、諦念を、絶望を知っている。それは、物語冒頭、ジョアンが襲われているところの絶望とはまた違う。そして、二人の性格が絶望的に違う。絶望にあって、だからこそ、生と性のエネルギーを燃やし尽くさんばかりに生きる者と、己の心を殺し、半ば死んだように生きる者と。だからこそ、ラヴィックはジョアンにひかれるのである。愛するのである。「きみは僕の生命だったよ――」「きみはぼくを生かしてくれたのだ――」
 それにしても。絶望の果てに愛を見つけ、その愛をも喪い、命のビザを人に譲って収容所へと死に向かう男性像は、宝塚歌劇の男役に何と似合うことだろう。脚本を手がけた柴田侑宏は、なんとロマンティストであることだろう。この作品の成功なくして、後の『カサブランカ』の成功もなかったと、今改めて思う。
 長年観続けてきた。そして、今、ラヴィックを演じる轟悠が、今までで一番好きである。――その姿に、思う。舞台と、客席と。劇場で多くの時間を共に過ごしてきた、舞台人たち。それもまた、名づけられぬ、言葉にして確かめ合わぬ、関係ではある。けれども。今ここに、もう、認めてしまおうと思うのである。友であると。――もちろん、さまざまな“友”がいる。宝塚で言えば、退団してしまって終わる友情もある。続く友情もある。個人的には一度も会わないかもしれない、けれども、確かに、人生の大切な時間を共に過ごした、数多の友たち。
2018-09-01 21:26 この記事だけ表示
 『ANOTHER WORLD』の作・演出は谷正純。ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』シリーズにインスピレーションを得た昨年の『CAPTAIN NEMO …ネモ船長と神秘の島…』では、宝塚歌劇団の座付き作家として生きてきた、そしてそのように生き続ける壮絶な覚悟を見事示した。さて、“RAKUGO MUSICAL”と銘打たれた『ANOTHER WORLD』の舞台は、あの世。これまでにも落語に題材を採った作品群を発表してきた谷が、『地獄八景亡者戯』『朝友』『死ぬなら今』といった噺をちりばめて作り上げたあの世ミュージカルである。ちなみに、『CAPTAIN NEMO』もそうだったが、谷は、舞台終盤に登場人物の多くが死んでしまう作品をも多く手がけてきており、“皆殺しの谷”の異名をもつ。だが、今回の作品では人は死なない。最初から死んでいる。登場人物のほとんど全員あの世の住人。
 何とも楽しそうな、そして、世知辛い“あの世”である。三途の川では大インフレか、六文銭では渡れない。真田幸村も真っ青である。冥途歓楽街には、小林一三が作った冥途歌劇団がある。トップスターの頭についている天冠(三角の白い布)はスパンコールでキラキラ! マルーン・カラーの阪急電車、否、冥途電気軌道を模したセットから、マルーン・カラーの衣装に身を包んだロケット・ガールズが次々と登場、ラインダンスを繰り広げる華やかなシーンは、日本初のレビュー『モン・パリ』(1927)に登場した、衣装を汽車の動輪に見立てたラインダンスをも思わせる。ちなみに冥途歌劇団では、植田紳爾が近日来演、『ベルサイユのばら』ならぬ『ベルサイユの蓮』を上演するとか。
 さて、あの世には冥途歌劇団以外にもさまざまな劇場がある。美人座はその一つ。しかし、ここには貧乏神が棲みついている。困ったものである。貧乏神を演じるは専科の華形ひかる。1999年入団だから、研20。大ベテラン。のはずなれど、貧乏神メイクもあってか、異様に若い。若々しい。あひるの夫など、配役を何も知らずに観に行って、「いい若手男役が出てきた! と思ったら華形みつるだった!」と鈍い衝撃を受けていた。さて、貧乏神には願いがある。極楽に行って、福の神になりたい。地獄に行って死神(トート?!)になるのは嫌!
 さて、作品の主人公である康次郎はといえば、恋煩いゆえあの世に来てしまった。そして恋のお相手お澄も、康次郎への恋ゆえにあの世に来ていたのだった。二人が演じる美しい恋物語『崇徳院心中』は、美人座で大ヒットする――ちなみに、谷正純は、近松門左衛門の『冥途の飛脚』を基にした『心中・恋の大和路』の潤色・演出を手がけている――。そして、閻魔庁でのお裁きの場、“びんちゃん”こと貧乏神の切なる願いを叶えるためなら、自分は極楽に行かずともいいと、康次郎は即答するのである――天晴れなまでに。己の命を賭して人々を救う『CAPTAIN NEMO』のヒーロー像が、ここにも通底している。
 最終的には、閻魔大王の怒りを買った康次郎とお澄は、“ぶち殺す”の反対で、ぶち生かされてしまう。つまりは、あの世からこの世に戻ってくる。そして、生者も亡者も入り乱れての総踊り、観客もすぐに覚えて口ずさめるナンバー「ありがたや、なんまいだ」にのっての、華やかなフィナーレ。「♪あの世とこの世 心で結ぶ 身は離れても 絆は消えぬ」――。
 1979年入団だから、谷正純は大も大のベテラン演出家である。ずっと宝塚と共に歩んできた。そして、これからも歩み続ける。悲劇と喜劇の違いあれど、このラストに込められた思いもまた、『CAPTAIN NEMO』と通底するものである。宝塚歌劇団は、谷正純の命をも、無論、私自身の命をも超えて、生き永らえ続けていくだろう――願わくば。この世に、宝塚歌劇団があり続けて欲しいという人と、なくてもいいという人と、両方がいて、前者が一定の割合より減ってしまうようなことがあった場合は別である。そうはならないように、これまでも多くの先達がこの花園を守り続けてきて、そして、これからも多くの人々がこの花園を守り続けていくことだろう。ただ、漫然と続いていくと思ってはならない、と私は思う。
 私自身はしばしば、宝塚歌劇における退団を“死”にもなぞらえて考えてきた。…となると、“あの世”とは…? 一つ言えることは。この世にいる間も、宝塚歌劇団に在籍している間も、日々を本当に大事に生きた方がいいということである。微細なことも、心に留めて大切にして。そうすることできっと、“あの世”でも道が拓ける。
 物語終盤、三途の川近くで、閻魔大王&鬼たちと、桃太郎を始めとする豪傑たちが、天下分け目の大いくさを繰り広げる。思えば、1914年4月1日、宝塚少女歌劇は『ドンブラコ』『浮れ達摩』『胡蝶』の三演目でスタートしたのだった。『ドンブラコ』の主人公は言わずと知れた桃太郎――『ANOTHER WORLD』は、宝塚歌劇団の座付き作家谷正純による宝塚歌劇論でもあるのだった。それにしても。「東京五輪音頭」と「白鳥の湖」が聴ける『カンパニー』(石田昌也作・演出)といい、善と悪とが対決するショー『BADDY』(上田久美子作・演出)といい、最近、座付き作家たちが皆々はじけてぶっ飛ばしていてすばらしいことである。
華形みつるがチャーミングに演じているので、ついついとても愛おしく、貧乏神びんちゃんを“心のキャラ”にも選んでしまうけれども。一般論として、貧乏神が居座ってしまった劇場はいけませんな。劇場には貧乏神ではなく、福の神や座敷童が居ますように。
 主人公康次郎を演じる星組トップスター紅ゆずるは、ネイティブである関西弁も滑らかに、お人好しで愛と人情に篤い好人物をノリよくファンキーに好演。文句なしに彼女の代表作である。

 タカラヅカ・ワンダーステージ『Killer Rouge』の作・演出は、待ってました! の齋藤吉正。齋藤吉正のショーがラインアップにない年は何だか物足りないんだぜ! …さて、先項に述べた”SAKURA ROUGE”のラインダンスといい、素敵な場面がたくさんあるショーである。中詰はばらにちなんだ楽曲メドレーということで、『ベルサイユのばら』アニメ版の名オープニングテーマ「薔薇は美しく散る」も聴ける。ちなみに、家で「♪バラはバラは 気高く咲いて バラはバラは 美しく散る〜」と昭和感たっぷりにこの曲を熱唱していると、「♪愛が苦しみなら いくらでも苦しもう〜」とエンディングテーマ「愛の光と影」で応えてくる夫もあひるも齋藤吉正も同世代。それはおいておいて。そして、心躍る場面に加え、「♪キラ! キララ! キラ! Killer Rouge」(「Rouge Comet-Killer Rouge」より)、「♪眠る世界へ投げキッス SEXY YOU! SEXY ROUGE!」(「Wonder Rouge」より)といったキラーチューンも備えた作品である。ショー後半に向けてのグルーヴ感も半端ない。なのだが。…何だか、若干、齋藤吉正感が足りない? 手堅すぎ? 成熟なのか、それとも、台湾公演をも見据えていつもよりちょっとお澄ましな感じなのか。らしさをぶちかまして台湾で賛否両論が起きたっていいじゃん! 物議を醸しても、きっとその何倍も魅了される観客がいるんだから! と、齋藤吉正ワールドをそれはこよなく愛するあひるは思っていたのだが。7月の愛希れいか主演の宝塚バウホール公演、キューティーステージ『愛聖女(サントダムール)−Sainte♡d’Amour−』を観て、全開の吉正ワールドを堪能、大いに安心したあひるであった。座付き作家が皆はじけてぶっ飛ばして来ている昨今、ぶっ飛ばしの旗手に今度も大いに期待。ちなみに、自分が書いている文章の中でもっとも汎用性が高い、つまり、多くの人々が読んで参考にしているんだな…と実感できるのは、齋藤吉正作品について書いた文章であるという意味でも、彼の存在にはいつも大いに感謝するものである。

 と、こんな振り幅の広い二作品で、星組の大切な仲間が宝塚を去る。十碧れいや。『ガイズ&ドールズ』の“心のキャラ”、ジョーイ・ビルトモア。『THE SCARLET PIMPERNEL』のピンパーネル団のオジー。大人の魅力が体現できる貴重な男役である。『ANOTHER WORLD』では貧乏神棲みつく美人座の木戸番・小五郎役。座頭・阿漕のもと、苦労が絶えなさそうな役どころを、ほっこり温かみのあるユーモアで見せた。『Killer Rouge』の銀橋での絶唱も心に残る――その姿に、東京国際フォーラムホール公演『LOVE & DREAM』での情景を思い出した。私は客席降りの際のハイタッチがいまいち苦手で、舞台評論家として手を出すべきか出さざるべきか、鈍くさく悩んでいるうちに終了〜ということが多々あるのだが、客席降りしていた彼女がほっこり微笑んで手を出して、――その姿に、心ほどけてすっと手を出した。頑なではなく、心のままでいいのだと思えた。あの手の温かみ、その手の持ち主の心の温かみを、忘れない。
2018-07-22 01:35 この記事だけ表示
 宝塚星組公演のショー『Killer Rouge』(作・演出=齋藤吉正)には、”SAKURA ROUGE”なるラインダンスのシーンがある。4月末から6月初めまでの宝塚大劇場公演が第104期初舞台生のお披露目公演だったこと、そして、10・11月の台湾公演でも上演される演目であることもあって、桜というモチーフが選ばれたのだろうと思う。紅桜をイメージした衣装も超絶キューティー、初舞台生への演出家の深い愛を感じる。「さくら」をはじめ、桜をテーマとするさまざまな楽曲にのって、華やかなロケットが繰り広げられる。
 …そんなシーンを観ていて、季節外れの花見話を書いてみようかな、と思った次第。

 …死にたい…と思ったとき、貴女は自分のところへ来ればいい、とアンチ・トートは云った。
「願わくば花の下にて春死なん その望月の如月のころ」
 その前日、桜の木の下で西行法師の歌を思い出していたのがバレてた〜?! と、思わずあせったあひるであった。それが、昨年の花見の思い出。
 以前も書いたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるとは思うのだけれども、アンチ・トートとは、あひるが、…死にたい…と思っているときも、もしくは、死にたいとは特に思っていないときも、「死にたいなんて言っちゃいけません〜」とそれは熱心に言ってくれる存在である。「死ねばいい」の『エリザベート』の“トート=死”と反対のことを言うから、アンチ・トート。ちなみにアンチ・トートは『エリザベート』を観ていて出てくることはない。というのは、『エリザベート』にはアンチ・トートのための音楽はないからである。アンチ・トートだったらこういう音楽で登場してくるだろうな…というイメージはあるけれども、それは今はさておき。
 アンチ・トートと過ごす時間は、人生の大切なひとときである。
 …十年後も、二十年後も、一緒にこうしていたい! こうしていられるかしら…と云った。
 …自分は未来のことはあまり考えない、とアンチ・トートは云った。とても、らしいと思った。

 さて、西行法師の歌を思い出しながら花見をしていたそのとき、あひるは、隅田川沿い、浅草の待乳山聖天を歩いていたのだった。待乳山聖天といえば、オー・ヘンリーの短編小説を基にした歌舞伎作品『上州土産百両首』の舞台となった場所である。2014年の「新春浅草歌舞伎」(浅草公会堂)で、四代目市川猿之助が主人公正太郎を演じるこの作品を観て、正太郎と一緒に泣いて…(http://daisy.stablo.jp/article/448444920.html)、その時以来、何だか、浅草は、街全体に四代目の形をした薄い巨大な入道雲がいつもかかっている場所のように思える。そしてそれ以来、四代目のことを、思っている。…他人じゃない、と。じゃあ何なんだと言われたらそれはわからないけれども、とにかく、“他人じゃない”。もしかしたら、多くの舞台人に対して同じことが言えるのかもしれない。舞台評論家という生業をしていて、多くの舞台人と多くの時間を劇場で共に過ごして、例えば久しぶりに舞台で元気な姿を観れば、…よかった、と思う。他人じゃない。ただ、“他人じゃない”というその感覚を初めて教えてくれたのが、四代目市川猿之助だったのである。
 ここで唐突に話は飛びますが、ポケモンGOをやっている人はぜひ、ワンリキーの画像を見てみてください。くりくりお目目に顔かたち、いたずらっ子ぽい仕草、…四代目にそっくりだとは思いませんか。ワンリキーが出ると、我が家では、「あ、猿之助出た」で通じる。街でも普通に言っているので、通りがかりでびっくりしている人もいるかもしれず。そして、2017年の花見のころ、隅田川沿いはまさにワンリキーの“巣”であった――ポケモンGOにおける“巣”とは、その時期そのポケモンがいっぱい出る場所であるという意――。つまり、隅田川沿いを歩いていると、後から後から、四代目ならぬワンリキーが! ときに西行法師の歌を思い出しながら、あひるは、「あ、猿之助出た」「また猿之助出た」「猿之助が湧いてる!」と思いながら、隅田川沿い、桜の木の下を歩いていたのだった。

 そして、今年。
 西行法師の歌はいつも心にある。けれど、今年はもう、生きる気満々だった。生きる気しかなかった。活力をみなぎらせて、またもや隅田川沿い、待乳山聖天の近くを歩いていた。――今度会ったら、アンチ・トートに云おう。私はもう、死にたいとは思わない。思いそうになっても、一歩手前で踏み止まって、思わない。そして、死にたいと思ったときではなく、生きたいと思ったときに会いに行く…と。
 …死んじゃえ!…という思いをぶつけてきた人がいたのだった。去年の秋に。――いや、そんな思いをぶつけてくるのは、人ではなくて、鬼、だろうか――。それも、…(半分)死んじゃえ、と。私がしばしば…死にたい…と思う人間であることを知っていて、そして、そのような思いをとりわけぶつけられたくない事情があることもよく知っていて、本当に死なれでもしたら自分が困るから、“半分”。
 その“半分”を、とても卑怯だと思った。
 そしたら何だか、むしろ逆に、…生きる〜! という思いに満ち満ちてきたのだった。邪心を誠にしてはならない。ただ、だからといって、邪心の持ち主と共にこの生を歩んでいくことはもはやないけれども。
 それで、アンチ・トートに云わなくては、と思ったのだった。生きる、と。死にたいとは特に思っていないときも、「死にたいなんて言っちゃいけません〜」と言ってくれ続ける人に。
 そして、今の私は、…死ぬかもしれない…と思った刹那、アンチ・トートが私を思い出したことを知っている。いつもいつもの恩返しができて、よかった。

 ちなみに西行法師は、願い通りに桜の季節にその命を終えたという。…うらやましいような。でも、固執しない。人の心の優しさ、愛の花が私の心の中に咲いているときならば、いつの季節でもかまわない。
 な〜んて言っているけれども、もちろん、まだまだ生きますよ〜! アンチ・トートもいることだし。
 願わくば、十年後も、二十年後も、三十年後も、共に過ごしていられますように。

 …そんな思いで観る”SAKURA ROUGE”の場面は、とても綺麗だった。初舞台生たちはどんな桜を思い浮かべただろう。台湾の観客はどんな桜を思い浮かべるのだろう。
 願わくば、すべての人の心に浮かぶ桜の花が、美しいものでありますように。
2018-07-22 01:34 この記事だけ表示
 宝塚歌劇の醍醐味は芝居&ショーの二本立てにある。そう痛感した今回の月組公演だった。『カンパニー』あっての『BADDY』、『BADDY』あっての『カンパニー』である。相関性に、唸る。

<主役は、あの人!>〜『カンパニー』

 『カンパニー』は伊吹有喜の小説が原作である。妻と娘に出て行かれてしまった主人公の47歳サラリーマン、青柳誠一は、宝塚版では妻を病で亡くした青柳誠二となり、年齢設定も若め。ヒロイン高崎美波はコンビニでアルバイトをしながら敷島バレエ団に所属するダンサー。青柳に扮する月組トップスター珠城りょうがスーツにビジネスバッグならぬリュックサック姿で銀橋を渡れば、美波を演じるトップ娘役愛希れいかはメガネ姿もキュートなコンビニ店員ルックで、賞味期限切れのお弁当を入れたケースを抱えて銀橋で歌う――どうやら、見つからないときは、そのお弁当をこっそり持って帰っているような。まもなく合併する製薬会社に勤める青柳はリストラ候補となり、会社が支援する敷島バレエ団にプロデューサーとして出向となる。出向先で青柳は、バレエ団も会社と同じく“カンパニー”と呼ばれることを知る。そのバレエ団の看板には「敷島バレエ研究所」、団員は研究生――となれば、これはもう、ベテラン演出家・石田昌也による、ストレートすぎるくらいの宝塚歌劇論である。宝塚歌劇団の英語の正式名称は「Takarazuka Revue Company」、阪急と阪神が経営統合したニュースの衝撃は記憶に新しく、宝塚歌劇団にはその阪急電鉄から社員がプロデューサーとして出向、時期が来れば本社に戻って行ったりする。宝塚の団員は研究生であって、入団11年目の珠城なら研11と呼ばれる。というわけで、今回の舞台の主人公は、単なるサラリーマンではなく、サラリーマン・プロデューサーなのだった。『プロデューサーズ』というブロードウェイ・ミュージカルがあるけれども、プロデューサーも実にさまざまである。
 バレエに疎い青柳は、美波やバレエ団の人々の助けをもって知識を増やし、プロデューサー業に邁進していく。私は地方公共団体から公共劇場に出向してきた方々ともたびたび仕事をご一緒してきたが、元の行政組織に戻っていくとき、劇場での楽しい日々、経験を名残惜しそうに語る姿が忘れられない。私は客席から舞台を見守る立場の人間だが、裏方として舞台を見守る人々の汗と涙、苦労と喜びを思う。あのプロデューサーによる舞台、まだまだ観ていたかったななんて、そんなことを思ったりもする。
 敷島バレエ団は世界的ダンサー、高野悠(美弥るりか)を迎えて『白鳥の湖』を上演することとなる。原作を読んだときから、私は、世間的なパブリック・イメージとはまったく異なるものの、この高野にKバレエの熊川哲也芸術監督を重ねてムヒムヒせずにはいられなかった――というか、私がバレエについて何かしら考えるとき、そこから熊川芸術監督のことを排除して考えることが非常に難しいのである。無理である。昨年、ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』を観たときも、主人公のビリー少年が試験のため田舎の炭鉱町からロンドンのロイヤル・バレエ・スクールに行ってとまどいを見せるシーンで、「でも、そっちは言ったってイギリス国内だけど、熊川哲也少年なんて東京すっ飛ばして北海道からロイヤル・バレエ・スクールに行ったんだからね!」と、なぜかムキになる自分がいた――そして、ビリー少年が「僕の踊り、どうでした?」と客席に向かってドヤ顔を見せたとき、「熊川哲也と羽生結弦を倒してから来てくれる?」と、大人げない、いや、子供をまったくもって子供扱いしない自分がいた。それはまあさておき。熊川芸術監督と高野とで共通点があるとすれば、それは、バレエという芸術に自分を捧げる真摯なその姿勢であろう。3月末のKバレエ公演『白鳥の湖』で芸術監督の愛弟子、浅川紫織が最後のオデット/オディールを踊ったとき、私は、私の人生にとってさまざまな意味で非常に大切な人物である熊川芸術監督が人生をかけてこよなく愛し続けるバレエ芸術、生身の人間が創り出すその芸術形式の儚さを、今さらながらに胸に深く突き付けられていた――。
 さて、今回敷島バレエ団が上演する『白鳥の湖』はかなり毛色が変わっている。引退も近い高野が演じるのは、元は貴族ながらも悪魔に魂を売り渡し、自分も悪魔となったロットバルト。王子の家庭教師として宮廷に入り込み、悪女に変装して中性的な魅力で王子を誘惑する――何だか、マシュー・ボーン版『白鳥の湖』と、トートがルドルフ皇太子の前にマリー・ヴェッツェラ姿で現れるバージョンのミュージカル『エリザベート』を足したような感じではある。
 『白鳥の湖』の音楽が全編を通して流れる。実際の舞台シーンで。そしてアレンジされて、実にさまざまなシーンで。ラウンジ・ミュージック風。アップテンポ。タンゴ。手島恭子によるこの編曲が実に見事である。『白鳥の湖』の音楽を深く愛する者として、こんなにもさまざまな聞き方を楽しむことができて、幸せな限りである。手島作曲のオリジナル楽曲も、『白鳥の湖』を引用しつつも新たな展開を聴かせるところが心憎い。『カンパニー』の実況CDもぜひ作ってほしいと願う。
 さて、この斬新な『白鳥の湖』の宣伝のため、青柳は人々が盆踊りを楽しむ夏祭りでフラッシュ・モブを敢行することを思いつく。この夏祭りで浴衣姿の愛希が歌うのは『東京五輪音頭』、歌詞に「リオデジャネイロ」も盛り込んだ2020年版。なのだが! 愛希の歌に思い出すのは、どうしたって三波春夫が歌った1964年の東京オリンピック用の原曲である。それくらい濃厚に昭和感に満ちている。いったい何故〜! 昭和を知らないはずなのに。愛希れいか、またもや謎の老成、発揮。その姿に、何だかんだ言っても昭和っていい時代でしたよねと、誰彼となくつぶやきたくなる。……いや、あひるも前の東京オリンピックのとき、生まれていませんが。それはさておき。
 思ったのである。この世に、『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』が一緒に流れてしまう舞台が他にあるだろうか、と。――私は平昌オリンピックのフィギュアスケートでの羽生結弦選手の演技に衝撃を受け、思考回路がそれは激しく“活性化”し――“活性化”はショー作品『BADDY』のキーワードである。後に触れる――、フィギュアスケートにおける音楽の重要性についてさらに深く考えるようになった。そして、今一度、日本人が西洋音楽を受容した頃、オペラだのバレエだのミュージカルだのといった細分化がなされぬまま、いろいろなものが混然一体となって受容されていた頃に改めて興味を抱き、横浜居留地内にあった劇場ゲーテ座や、浅草オペラの歴史等を扱う書物を読みふけっていた。浅草オペラはインチキ・レビューだの何だの言われて、いわゆる正史からは外して考えられがちである。けれども、その時代の方が、好き勝手な日本語歌詞をつけて歌って、オペラ・アリアが今よりもっと親しまれていたかもしれない。その後、オペラならオペラ、ミュージカルならミュージカルと、それぞれのジャンルが“正統”に発達していくこととなるわけだが、私は、西洋文化が混沌と受容されていた時代の、何でもありな野放図なパワーに魅力を感じる。そして、宝塚歌劇とは、そのような混沌の中から生み出された、実にオリジナルな文化である。もちろん、パリのレビュー等、影響を受けた文化はあるけれども、今となってはこんな舞台は他にはない。世界でここにしかない。なんせ『白鳥の湖』と『東京五輪音頭』である。でも。日本人の心の中では、その二つの曲が違和感なく共存しているのではないだろうか。
 そして、作品は最近の宝塚としては珍しく、現代の日本を舞台にしているのだった。もちろん、「宝塚には夢を観に行っているのに、リストラだのコンビニだの、夢がないわ」という意見もあろう。その意味でもおそらく大いにコントロバーシャルな作品である。けれども。
 ジャパニーズ・サラリーマンが主人公の宝塚歌劇作品があったっていい! と私は思う。宝塚歌劇団に属するという意味ではサラリーマンであった座付き作家の石田昌也が、同じくサラリーマンであるプロデューサーたちと、ああでもない、こうでもないと宝塚歌劇作品を創り上げてきた、その汗と涙、苦労と喜びが、この作品にはつまっている。原作にはないセリフがある。青柳はある日、美波と月を見ていて、夏目漱石が「I love you」を「今夜は月がきれいですね」と訳したという、半ば伝説化されている逸話を語る。そして、この月組作品のラストで、妻を亡くしてずっと傷心状態にあったものの、“カンパニー=仲間”と共に公演を成功に導いた青柳は、美波に「今夜は月がきれいですね」と告げるのである。日本の男はそれでいい! と思う――もちろん、「愛してる」をストレートに言える方は、どんどん言ってかまわないのですが。私はこのセリフに、演出家の照れを感じて、……かわいいな……と思ったのだった。そして、宝塚歌劇とは、女性たちの夢だけではなく、男性たちの夢をもまたこのように描けるのだと、そのことがとてもうれしく、幸せだった。

<――斬新作(ヤツ)は月からやって来る――>〜『BADDY』

 ↑を見て、『BADDY』の副題と表記、間違ってますと思う方もいるかもしれないけれども、さにあらず。
 『BADDY――悪党(ヤツ)は月からやって来る――』は、宝塚歌劇団で初めて女性演出家が手がけたショー作品。『星逢一夜』や『金色の砂漠』といった傑作を次々と生み出している上田久美子、ショー初挑戦である。設定がおもしろい。TAKARAZUKA-CITYを首都とする惑星国家ピースフルプラネットは、悪いことが何一つ起こらず、飲酒も喫煙も禁止。女捜査官グッディ(愛希れいか)が秩序を守るそんな地球に、宇宙一の大悪党、バッディ(珠城りょう)が月からやって来る。彼と共にやって来たスイートハート(美弥るりか)は、中性的な魅力の男。バッディとスイートハートの禁断のキスに、悲鳴をあげるグッディとその相棒のポッキー巡査(月城かなと)。悪いことやりたい放題のバッディと、悪を許さないグッディの、火花を散らす対決の行方やいかに――!
 悪といってもチョイ悪な感じではある。しかも、だんだんバッディの悪のスケールが小さくなり、スイートハートに盛大に突っ込まれたりするのがおかしい。ヘビースモーカーだった父を食道がんで亡くした身としては、……喫煙……善と対峙するところの悪っていうよりむしろ、身体とお肌に悪い方の悪では……などと考えてしまうけれども。
 それでも、善と悪との対決というテーマ自体は実におもしろい。グッディは、地球一安全な銀行ビッグシアターバンクに預けられたすべての惑星予算と共に、王子たちをも誘拐する。女捜査官グッディは怒りに震える。平穏の中で生きてきた彼女は、初めて激しい感情を知る。怒り。憎しみ。哀しみ。嘆き。痛み。そして彼女はこの上なく生を実感する。怒りで身を震わせながら歌い、銀橋を渡り、ラインダンスを率いて魂の踊りを見せる。「活性化 活性化 活性化」と皆が絶唱する。
 ラインダンスによって、怒りや憎しみといった感情が表現される様を、初めて観た。
 個人的には。銀行強盗のような悪によってそうした感情が“活性化”されることはないな、と思う。銀行からお金が盗まれたことによって助かるはずの命が助からなくなったとか、そういう事態でもなければ。しかし。ビッグシアターバンク――“大劇場”銀行――に預けられ、盗まれたのが、惑星予算ではなく、“遺産”であれば話は別である。大劇場をはじめ、これまで宝塚歌劇で上演されてきた作品群、美の確かな記憶、そういったものを、独り占めしようと身勝手にも盗み出そうとする不逞な輩がいるとすれば、話は別である。私はグッディと共に、美を穢そうとする者と闘うだろう。彼女が率いるラインダンスの面々のように、激しい蹴りを入れるだろう。宝塚に生きる“カンパニー=仲間”と共に。――怒りで顔をゆがめて歌うグッディ愛希が壮絶に美しく、彼女と共に絶唱する月組娘役たちのパワーは凄まじく、ラインダンスはエネルギーに満ち満ちていた。そして、バッディたちが悪の限りを尽くす男役ダンスに続き、グッディとバッディ、善と悪とが最後の対決を果たす、これまた斬新かつ壮絶なデュエット・ダンス。
 善と悪の対決。まるで、『白鳥の湖』のような。――それで、思い出す。かつてボリショイ・バレエ団で上演していたワシリーエフ版『白鳥の湖』の悪魔は、王子の父王で、オデットに邪恋を抱いて白鳥の姿に変えてしまうという設定だった。この父を演じたニコライ・ツィスカリーゼの演技のすばらしさもあって、私は、「“悪”はいったい悪なのか」という疑問を抱いたものである。相対としての、善と悪。その疑問が、後に、例えばあるときの星組で、にしき愛ばかりなぜいつも悪役を演じさせられているのだろう……という疑問にもつながっていった。ちなみに、フランスの革命家マクシミリアン・ロベスピエールは宝塚歌劇の舞台でたびたび取り上げられ、『ひかりふる路』で遂には主人公として描かれることとなったが、にしき愛こそ、『スカーレット ピンパーネル』日本初演及びそれに続く『ベルサイユのばら』でもこの役を演じた、ロベスピエール・ブーム? のはしりともいえる男役である。
 ときに、「こんな描写のある小説を宝塚で上演するなんて〜」と、本にラインを引いて歌劇団に送りつけるカゲキなファンもいるらしいけれども(『カンパニー』にあらず)。そんな“取り締まり”が有効な世界が“天国”なのだとしたら、確かに、バッディたちが歌うように、「天国なんてダサすぎる」「ばぁさんたちの行く場所さ」「じぃさんたちのたまり場だろ」と毒づきたくもなるけれども。個人的にイメージするところの天国は、違う。もっと美しい場所である。
 しかし。全員があの世、天国へ行っているという設定のパレードといい、斬新な意欲作ではある。この作品で演出家は、宝塚歌劇の既存イメージに自ら盛大なツッコミを入れている。それがいい、と思う。何も宝塚歌劇は、変に無菌化された場所でなくていい。「清く正しく美しく」と言った創始者自らが、この世界はまったくもって「清く正しく美しく」ないことをよく知っていたと思う。それでもなお、「清く正しく美しく」を目指す、それが美の道ではないかと、私は思うものである。
 思えば、正塚晴彦の『バロンの末裔』も、齋藤吉正の『BLUE・MOON・BLUE』も月組作品だった――そういえば齋藤吉正はやはり月組の『Misty Station』でも、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の主題歌「魂のルフラン」をトップスター霧矢大夢に歌わせ、その後ろで幻のように夢想的なラインダンスが展開されるというシーンを作って物議を醸していた。斬新作(ヤツ)は月からやって来る?

 ということで。昨年の小池修一郎の『ALL FOR ONE 〜ダルタニアンと太陽王〜』に続き、座付き作家渾身の宝塚歌劇論が、それも二本も、月組にやって来たのだった。今勢いのある組ならではの巡り合わせを感じる。
 誠実なサラリーマンと、宇宙一の悪党を演じて、珠城りょうが男役として大きなステップアップを見せているのが頼もしい。美弥るりかも、中性的な魅力を生かせる役柄に芝居、ショーとも恵まれ、独自路線を確固たるものとしつつある。月城かなとは雪組時代とまったく異なる魅力を開花させつつある――ルックスはかつての月組トップスター天海祐希にますます似てきた。そして、月組男役陣も、男役ぶりが着実に上がってきているのがうれしい限りである。昨年、『カルーセル輪舞』の男役たちによるとあるダンス・シーンを舞台稽古で観ていて、……男役ができていない、男か女かよくわからん状態でキザられても困る!……と、怒りのあまり前の座席(人は座っていませんでした)の背をグーでパンチしたことを思うと、格段の進歩である。
 今回の心のキャラは、『BADDY』で、オマールの被り物を頭だけかぶってスーツ姿で現れる瞬間のポッキー巡査(月城かなと)と、顔は銀色、宇宙人の触覚? をつけたままムーディーなナンバーを熱唱する出向銀行員の輝月ゆうま、95期の同期二人に。月城オマールには素直に笑ってしまうが、輝月のあの姿での真剣な熱唱には、……これ、素敵って思っていいのか笑っちゃっていいところなのか、わからない〜とアンビバレントな気持ちに。また、『カンパニー』で多くの場面をジャージ姿で通したスポーツトレーナー役の海乃美月は――そういえば一度、Kバレエの客席で見かけて何だかうれしかった――、さばさばとした物言いが魅力の女性を演じてきちんと情感を漂わせる様に、娘役としての進歩を感じさせた。

 退団者について。
 副組長・綾月せりは、『カンパニー』では芸術に理解を示す製薬会社の社長役、『BADDY』ではピースフルプラネットの女王である妻に尻に敷かれている婿養子の公爵役。両役とも、男役としてのほっこりとした魅力が生きていた。
 歌、ダンス共に秀でた実力派男役として活躍してきた宇月颯が『カンパニー』で演じたのは、敷島バレエ団にメンバーを王子役で送り込むヴォーカル&ダンス・ユニット、バーバリアンのリーダー役。タレントがいきなりバレエを? と思うのだが、宇月がリーダーを演じており、メンバーの実力や舞台の出来にうるさそうなユニットだから、大丈夫かもと何だか大いに説得力。そんなバーバリアンのメンバーの一人として、貴澄隼人がいぶし銀の存在感を発揮していた。貴澄は『BADDY』でも、ビッグシアターバンクのマッシュルーム白髪の頭取役があまりのインパクト大である。
 星組時代からヒロインも数多く務めてきた早乙女わかばは、『カンパニー』では、製薬会社社長令嬢にして敷島バレエ団のプリマ・バレリーナ役。確かに彼女の父親である社長はバレエ団を金銭的に援助している。けれども彼女が主役を務めるのは決してそればかりではないと感じさせる誇りの高さ、舞台への情熱の激しさを、早乙女らしい明るさ、華やかさで表現。きっぱりとした物言いをしても決して嫌味にならない魅力的な女性像で、原作ありの作品なのに宛て書きしたようにぴったりの役どころだった。『BADDY』では、宇月扮するバッドボーイ、クールと恋に落ちてしまう王女役。グッディとバッディ、善と悪とがデュエット・ダンスで壮絶な対決を繰り広げ、奈落へと沈んでいった後、宇月と早乙女が水色の衣裳で踊る。――浄化の舞。二人が、宝塚の世界へと別れを告げる、その清々しい思いが、清めの念を一層引き立てていた。
 とびっきり楽しい二作品だから、今日一日、はちゃめちゃに楽しい千秋楽を!
2018-05-06 02:48 この記事だけ表示
 萩尾望都の名作少女漫画『ポーの一族』を読んだのは、大学に入ってからのことである。もともと少女漫画が好きだったけれども、大学に入って、名作とされる作品はすべて読んでみようと思い立ったのだった。一時期、実家の部屋に少女漫画だけで何千冊あっただろうか。大人になり、人生いろいろあった今、読み返しても心震える作品はもちろん残してある。『ポーの一族』もそんな作品の一つである。
 改めて、不思議な物語である。永遠に生きる、吸血鬼の一族。どこか、ふわっと風にたなびく、羽衣のような……。そんな物語に心ひかれ、舞台化を夢見た一人の青年がいた。若き日の小池修一郎である。このたび宝塚花組での舞台化が実現するにあたってのふれこみは、「同作品をミュージカル化したいと夢見て宝塚歌劇団に入団した小池修一郎が、1985年に『いつか劇化させて欲しい』と申し出て以来30年余り、萩尾望都があらゆる上演希望を断り続けた幻の舞台が遂に実現する」。この間、原作者の萩尾望都も、舞台化されるのをまだかまだかと待っていたそうである。多くの人々を長らく待たせて、小池修一郎潤色の『ポーの一族』、遂に宝塚の舞台に登場である。
 彼はすでに、『蒼いくちづけ』、『薔薇の封印 −バンパイア・レクイエム−』といったヴァンパイアものを手掛けてきている。『ポーの一族』を観た今、小池修一郎は、この『ポーの一族』という美しい作品に、長い長い片思いをしてきたようにも思えるのだった……。自分は、演出家として、あの唯一無二の世界を、宝塚歌劇の舞台に再現できるのか。いかなる方法をもってそれは可能となるのか。……彼の心の中でずっと、そんな自問自答が繰り返され続けていたのではないか。彼は他でもない、自分自身をも長らく待たせていたのだった。
 その“片思い”は美しい“恋”へと結実した。宝塚版の見事な舞台。小池修一郎が長年、宝塚の座付き作家として、そして、ミュージカル界の第一人者として培ってきたすべてが、そこに惜しみなく注ぎ込まれていた。寸分の隙もない。原作の世界観を濃厚に香らせながら、宝塚ならではの華やかな要素と演出術が盛り込まれている。それは、『ポーの一族』の世界であり、宝塚歌劇の世界であり、そして、小池修一郎の世界でもある。
 舞台作品には上演時間という制約があり、原作の物語のすべてを舞台化することは難しい。何らかの形での凝縮が必要となるが、今回、小池は、原作ではもっと後の時代のエピソードとして登場する「降霊会」を、1789年のブラックプールでの出来事に設定、心霊主義の世界で名高い実在の人物ブラヴァツキー夫人を登場させ、ポーの一族と絡ませた。心霊主義といえば、19世紀後半のイギリスを席巻、『シャーロック・ホームズの冒険』で名高い作家のアーサー・コナン・ドイルや詩人のウィリアム・バトラー・イェイツ、画家のワシリー・カンディンスキーやピエト・モンドリアン、「田園調布」という街が日本に生まれるきっかけとなったイギリス田園都市運動を提唱したエベネザー・ハワードといった文化人たちに影響を与えた精神運動である。産業革命が起こり、近代化が進む一方で、人々は心霊主義の諸現象に興味を抱いていた。そんな人々の心にこそ、吸血鬼もまた魅惑的な存在として寄り添い得る。時代背景を物語る上で、これは実に面白い趣向となっていた。よって、心のキャラは、このブラヴァツキー夫人を実にコケティッシュな魅力で造形した芽吹幸奈に。ブラヴァツキー夫人は降霊会で、自分自身でもよくわからぬまま、ポーの一族でもっとも長く生き、もっとも濃い血をもつキング・ポーを降ろしてしまう。そして、何だかすごいエネルギーが要った云々、大ボケをかますのだが、芽吹自身のとぼけたキャラクターともあいまって、非常にほっこり笑いを誘っていた。
 原作のキャラクターと、花組生の個性とが双方存分に活かされた配役の妙も光った。主人公エドガー役の明日海りお、彼に一族へといざなわれるアラン役の柚香光、二人のヴィジュアルの美しさなくして、この作品の舞台化は困難だったろう。そして、原作をも超えた魅力を放ったのが、男爵夫人シーラ役の仙名彩世である。吸血鬼となる前、なった後では、声色さえ使い分ける。その、心にひそみ寄るように響いてくる声のもたらす陶然に、――女吸血鬼に魅入られるとはこのような状態なのだ――と思わずにはいられない。
 吸血鬼は永遠に生きる。「永遠に生きる」を考えるとは、「永遠に生きない」を考えることにつながる。つまり、吸血鬼を考えるとは、永遠には生きない人間存在を考えることと、ポジとネガの状態にある。人々は吸血鬼の存在に魅入られ、数々の芸術作品の中にその姿を描き出してきた。――芸術。美。人の命の長さを超えて生き永らえるもの。何百年の彼方に生きた者と、今を生きる我らとを結ぶもの。彼岸と此岸をも結ぶもの――。
 だから、吸血鬼は、美に生きること、芸術に生きることのメタファーともなり得る。仙名の演技が魅惑的なのも、そのメタファーを体現しているからこそである。
 他ならぬ宝塚歌劇団がそのような集団ではないか。百年の長きを超えて、舞台を創る者、それを観る者、多くの人々の、愛を、夢を、憧れを吸い、その者たちの命を超えて生き永らえていく。と、記す私の命をも、きっと。だいたいが、すみれコードなる年齢非公開の不文律をもつこの劇団に所属する人々は、恐ろしく年齢不詳である。ときに異様に若い。出演者のみならず、演出家も。『ポーの一族』を演出して、他ならぬ小池修一郎自身がまた若返っている。血ではなく、美を吸っている。気を吸っている。
 芸術史を紐解けば、美を吸い合い、美によって生きた、そんな者たちの交歓が記されている。互いの芸術作品から美を吸う。ミューズの存在から美を吸う。そうして芸術家たちは美の世界に永遠に生きる。芸術に、美にふれるとはそういうことである。私自身、舞台評論家として、美に飢えるときがある。そうなってしまっては、書けない。心が枯渇する。だから常に美のエネルギー源を探し続ける。より広く、より多く、美を求め続ける。先月末、Kバレエカンパニー『死霊の恋』で、浅川紫織がこれまた世にも美しい女吸血鬼を演じていたけれども、――何だかそのとき、蠱惑的なこの世ならざる者に何かを吸われていたような、何かを吸っていたような、そんな感触さえ残っている。そして家人は、帰ってきた私の顔の肌艶を見て、その日観てきた舞台の出来を、美しさを推し量っている。
 舞台の大詰で、演出家は、自らの来し方を振り返る――その刹那、例えば私が咄嗟に思い出したのは、古代人の遺伝子が現代人の身体に入り込んで起こる騒動を描くファンタジー作品『LUNA−月の伝言−』である――。その眼差しに、胸締め付けられる。小池修一郎は、ミュージカル界の第一人者である前に、宝塚歌劇団の座付き作家なのだ。宝塚歌劇は彼の内なる美をも吸い、そして生き永らえていくだろう。その金字塔に『ポーの一族』がある。

 それにしても。作中、ポーの一族は美しく、彼らに心ひかれる人間たちもまた美しい。そして、その対比のように描かれる人々がいる。自らのゆがんだ欲望ゆえ、美しき者たちの心を傷つけることも厭わない人々――。
 となれば、永遠に少年のまま生きるエドガーたち、穢れなき者たちとして生きるエドガーたちは、醜く穢れた大人となることを拒否する者たちの写し絵でもある。
 ――大丈夫! かつて少女だった私、もはや少女ではない私は、後ろを振り返って宣言する。後に続く者たちに呼びかける。人とは皆、長じて醜く穢れていくものでもない。
 私は、自分のこの胸の内にあるどんな愛をも恐れない。その愛を穢し、貶める、どんな者にも屈しない。そして、その愛のすべてをもって、他者の胸の内にあるすべての愛を祝福する。
 だから、恐れず大人になりなさい。

 少女漫画と宝塚歌劇が見事融合を果たしたこの舞台を最後に、旅立つ仲間がいる。ブラヴァツキー夫人の取り巻きの一人をキュートに演じた菜那くらら。花組の強力娘役陣の一人として長らく活躍してきた。そして、専科の飛鳥裕。雪組組長、月組組長として、厳しく、温かく、人々を見守り続けた男役。退団公演でも娘を温かく見守る父親役を演じていた。退団者たちの命もまた、宝塚歌劇団の一部となって、生き永らえ続ける。
2018-03-25 03:34 この記事だけ表示
 大和和紀の名作少女漫画『はいからさんが通る』は、は私の少女時代の愛読書である。昨年10月、宝塚花組による公演を観る前、久方ぶりにコミックス版を手に取ってみた。奥付の日付は昭和60年(1985年)。カナダから帰国した13歳の年に入手したことになる。ページを開けば、――一瞬にして少女のころに時が巻き戻り、その懐かしさに胸締め付けられるようで、そして、物語序盤、ヒロイン紅緒の親友環が、平塚らいてうが「青踏」発刊に際して記した有名な一文、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」を高らかに発するところで、涙、涙……。思えば自分も、その後の人生、ずっとはいからさん魂で生きてきた。女がどうのと言われればはねっ返してきた。ときにはつらいことももちろんあった。でも、総じて、ひるまずくじけずへこたれず、堂々と強く生きてきた。その意味で、『はいからさんが通る』という作品が私の人生に与えてくれたものは大きい。『ベルサイユのばら』『キャンディ・キャンディ』と並んで、もっとも影響を受けた少女漫画である。
 さて、花組『はいからさんが通る』が日本青年館ホールで上演された2017年10月、東京では他に、東京宝塚劇場で宙組の『神々の土地』、赤坂ACTシアターで花組『ハンナのお花屋さん−Hanna’s Florist−』と、三つの宝塚の公演が行われていたが、そのいずれもが女性演出家による作品だった。『ハンナのお花屋さん』の作・演出が、女性演出助手として初めて入団、宝塚歌劇団に女性演出家の道を拓いた植田景子。『はいからさんが通る』の作・演出は、『ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−』や『幕末太陽傳』など異色素材の宝塚化を次々成功させている小柳奈穂子。『神々の土地』の作・演出は、『星逢一夜』や『金色の砂漠』といったオリジナル作品で大いに注目される上田久美子。同時上演となった三作品とも、それぞれの個性と強みが生きた充実の舞台となっていた。そして、『はいからさんが通る』宝塚版では、はいからさんこと紅緒が花嫁修業する伊集院家の家訓が<清く正しく美しく>。この、原作にはないオリジナルの設定に思わずくすりと笑ってしまった。ジャジャ馬娘紅緒は、はいからさん魂で伊集院家に新しい風を吹き込んでゆく。女性演出家三人、“はいからさんたちが通る”! と、痛快な思いになって。
 紅緒は生まれつきの許嫁である伊集院忍少尉に反発しながらも次第にひかれてゆき、愛を確かめ合う。だが、シベリアに出征した少尉の戦死が伝えられ、紅緒は二夫にまみえずの誓いを立てて、少尉のいない伊集院家を守ってゆくことを決意する。今回の宝塚版ではここまでを原作に則って描き、その後、編集者となった紅緒の悪戦苦闘や、少尉とうり二つのルックスで紅緒の心をかき乱すロシアからの亡命貴族サーシャ・ミハイロフ侯爵(実は生きていた伊集院少尉)をめぐる物語をぎゅっと凝縮する構成となっていた。その結果、例えば、出征した少尉がロシアで鬼島軍曹ら荒くれ者の部下たちを手なずけるくだりは舞台に登場しないことになったが、実は今回、コミックスを読み返していて、……このくだり、『ベルサイユのばら』でオスカルが衛兵隊に転属してアラン以下荒くれ者の部下たちを手なずけるくだりに影響を受けているのでは……と思うところがあった。それなら宝塚の舞台ですでに何度も上演されている名場面である。潤色の妙を感じた。
 それにしても。今回、改めて痛感する機会となった。少女のころ、自分が非常に恵まれていたことを。日本にはすばらしい少女漫画の数々がある。それら作品が私を育ててくれた。『はいからさんが通る』の紅緒に、『ベルサイユのばら』のオスカルに、生きる姿勢を、多くのことを教えられた。作品を通じて、大正時代に、フランス革命の時代に、目を拓かれていった。
 ――翻って。今の自分は、後に生まれた世代に、多くのものを与えられているだろうか。日本の女の子に生まれてきてよかった! と、後の世代が思えるような生き方を、自分自身、できているだろうか――。

 今回の舞台では、花組メンバーが驚異的な三次元再現率で、原作の個性あふれる魅惑のキャラクターを演じてみせた。原作の少尉には長身で涼やかな声というイメージを何となく抱いていたが、小柄ながら漫画のキャラクターさながらの圧巻の等身バランスを誇り、ハスキーボイスの柚香光の演じる少尉も実に魅力的だった。少尉が紅緒に向かって言う「好きですよ」も、漫画で読んでいたときは特段思い入れはなかったのだが、舞台版で柚香の声で聞いて、心の名セリフの殿堂入り。当たり役である。
 紅緒が「へっ編集長」といつもどもって呼んでしまう青江冬星を演じた鳳月杏は、驚異の原作再現率だった。見た目といい演技といい、誌面から抜け出てきたよう。惜しくも舞台ではカットされたセリフをカーテンコールで再現する趣向があり、鳳月が「来たな恋人」の名セリフを発したとき、あまりに胸がきゅーんと痛くなり、あわてて両手で押さえたあひる45歳(観劇当時)(笑)。個性豊かな面々が揃う中、心のキャラは、車引きの牛五郎を演じた天真みちるに。原作でも物語を引っかき回す愛すべきキャラクターだが、天真が出てきた瞬間、大爆笑! 牛五郎でしかない! その瞬間、舞台にぐっと引き込まれた。カーテンコールまで牛五郎さながらのお辞儀を見せる芸達者ぶりだった。当初は紅緒につらくあたるも彼女によって次第に変わっていく伊集院伯爵役の英真なおき、危なっかしい紅緒を見守り続ける父花村少佐役の冴月瑠那の温かな演技も心に残る。紅緒と少尉にインネンをつける印念中佐役の矢吹世奈は、印念にしか見えない! なのに不思議とかっこいい! 造形だった。
 アニメ版も観ていたので、アニメの主題歌のイメージが強く残っていたけれども、宝塚版のテーマソングもポップで軽快で口ずさみやすい。原作でも取り上げられている浅草オペラで名高い曲や、歌舞伎の名シーンも盛り込まれ、小柳奈穂子の手腕が大いに光った。唯一の不満といえば、東京公演の期間が一週間とあまりにも短く、宝塚ファンにも、『はいからさんが通る』ファンにも、十分に観劇の機会がなかったであろうこと。再演を望む。
2018-03-25 03:33 この記事だけ表示
 今でこそ強くなった雪組だが、少し前には大変な時代もあって、沙央くらまはそんな時代に組を支える一人だった。『仮面の男』が宝塚大劇場公演から東京宝塚劇場公演の間の短い日程で改変されることになり、その改変の大きな部分を沙央が担うこととなっていて、東京公演の舞台稽古でびっくりし、休憩時間に客席に姿を見せた彼女をねぎらった記憶がある――出演者が休憩時間に姿を見せることも稀なら、私が出演者に思い切って声をかけようと思うこともまた稀なので、よく覚えている。そして沙央は雪組から、今度は大変な時代の月組へと異動し、支えた。無論、専科に移ってからは、出演したその組を。それが可能だったのも、沙央くらまが芸の人だったからだ。たとえ作品に?となることがあっても、「でも、沙央くらまの演技はよかったな」と思うことがしばしばあった。ちょっとシニカルな観察眼があって、それが役柄の人物造形を面白いものにしていた。そんな沙央が、月組が大変な時代を乗り越えるきっかけとなった昨年の『All for One』出演を経て、雪組の『ひかりふる路/SUPER VOYAGER!』公演を最後に宝塚の舞台を去ることが、何だか非常に感慨深い。
 『ひかりふる路』では主人公である革命家ロベスピエールと途中袂を分かつも、何とか友情と、恐怖政治によらない道とを取り戻そうとする、革命家・ジャーナリストのカミーユ・デムーラン役。少年のようなキュートさを最後まで持ち続けた男役像を見せた。『SUPER VOYAGER!』ではコケティッシュな女性の姿で歌うシーンもあった。『All for One』で演じたモンパンシエ公爵夫人もそうだが、男役も女役も両方いけた人だから、ふさわしい花道であると思った。
 芝居でもショーでも、心の底からの絶唱を響かせる沙央の歌声を聴いていて、感じたことがある。確かに雪組は強くなった。けれども、まだ上に行ける。芸の道には決して終わりがない――だからこそ、その道を歩こうと決めた者は、その果てしない道をこの先もいかに歩いていくか、手段なり同行者なりを懸命に模索して、たとえどんな小さな一歩であっても少しでも前に進んでいこうとあがき続ける。まだまだ上に行きたい、そのように志す上では、組が大変な時代であっても芸を培い、磨いてきた、沙央の歌声に大きなヒントが隠されているように私には思える。
 宝塚歌劇の世界を出たら、また別の世界が広がっている。環境が変わる。それでも、貴女の心の中に、何か表現したいと燃え盛るものがあって、それを表現する場が舞台であるのだとしたら。役者・沙央くらまにまた劇場で逢える日を、私は心待ちにします。
2018-02-11 00:08 この記事だけ表示
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、2日に初日を迎えた公演の舞台稽古を見学してきましたが、2018年も雪組は強い! とりわけレヴュー作品は観ていて背筋がぞくぞくするシーンのオンパレード。芸の道に前進あるのみ! 、初観劇がそんな舞台で、2018年、幸先のいいスタート!
2018-01-02 23:40 この記事だけ表示