今年は本当に素晴らしい作品が多くて選ぶのに贅沢な悩みが。そんな中でのベストは、小池修一郎作・演出の月組『All for One』。エンターテインメント集団、宝塚歌劇の可能性を大きく花開かせた作品。小池作品では星組『THE SCARLET PIMPERNEL』も、前年上演された梅田芸術劇場版で加わったロベスピエールのための新曲を他の場面を削ることなく取り入れ、新たな見せ場を作り出したばかりか、舞台全体をスピードアップ、グレードアップさせる演出が光った。外部作品『グレート・ギャツビー』でも、運命の女性デイジーを追い求め続けるギャツビー(井上芳雄が力演)に、己の演劇的良心を追い求め続ける姿勢を重ね合わせていたのが非常に印象的。
 特別賞に、宝塚歌劇の新たな可能性を切り拓いた上田久美子作・演出の花組『金色の砂漠』と、宝塚歌劇の驚異の三次元再現力を見せつけた小柳奈穂子作・演出花組『はいからさんが通る』。原作となった大和和紀の名作少女漫画についても新たな示唆を与えてくれたこの作品についてはまた記したく。
 もっとも演技がまとまっていたベスト・アンサンブル賞に、谷正純作・演出の雪組『CAPTAIN NEMO』。雪組はこれに先立つ7月の「早霧せいなさよならショー」での男役のラテンの群舞もそれは見事に揃っていて、二階席で観ていて背筋がぞくっとした。さよならショーで退団の感慨以外の感動をあれほど覚えたのは初めてかもしれず。
 東京宝塚劇場公演については記者懇親会という貴重な機会があるので、作品で気になった点についてはその場で直に伝えたり疑問を呈したりすることにした。新人賞は今年は該当者がないものの、来年恐らく複数名の名前を発表できるであろうことが楽しみである。
 素朴な疑問。大野拓史はいったいどうしちゃったの? 『ロシアン・ブルー』、『ヘイズ・コード』、そして『エドワード8世』のような優れた作品を生み出してきた人である。同世代として、「…あの頃はよかった…」と遠い目をすることは許さん(いや、自分も最近まで余生モードでしたが)。ということで、いろいろな人に言ってきて一番効くと思われる言葉を贈ります。
「好きなことやれ〜!」
 2018年の宝塚歌劇がますます発展していくであろうことが、評論家として本当にうれしく、楽しみでならない。
2017-12-28 18:42 この記事だけ表示
 ナチス・ドイツ下の『雨に唄えば』。この問題を突きつめていくと、究極的には、第二次世界大戦下、宝塚歌劇団で例えば『翼の決戦』のような作品が上演されていたことの是非を考えていかざるを得なくなっていくが、『ベルリン、わが愛』作・演出の原田諒はそこまで意識した上で、上層部とも戦い、敢えてハーケンクロイツ旗を舞台に出した由。
 映画作りに純粋な情熱を燃やす主人公の若き映画監督テオ・ヴェーグマン役の紅ゆずると、己の邪な欲望のために映画を利用しようとするナチスの政治家ヨーゼフ・ゲッベルス役の凪七瑠海ががっちり渡り合う。これが初めての専科生としての大劇場公演出演となった凪七は、ルックスだけで言えば線が細く、『エリザベート』タイトルロールも似合ってしまう男役である。だが、ゲッベルスとして権力に女性に邪な欲望をたぎらせる様には、怪演とも言えるぬめぬめとした凄みがあり、美に生きようとする人々を妨害するものの正体をはっきりと暴き出してみせた。そんな凪七ゲッベルスに、組を率いて二作目、トップスターとして着実に成長を遂げつつある紅ヴェーグマンが、仲間をまとめて挑みかかる。二人の力演が対立軸をしっかりと構築し、舞台に緊迫感をもたらした。娘役トップスターの綺咲愛里は、紅ヴェーグマンの映画監督デビュー作に出演して注目され、ゲッベルスに邪な欲望を抱かれる新進女優ジル・クライン役。レビュー・ガールの一人としての舞台への最初の登場シーン、彼女こそがヒロインであるという観客への示唆がなされないのは、自らの監督デビュー作でヒロインではないジルにモノクロ画面映えする化粧を教え、ヒロインを務めるレーニ・リーフェンシュタールには教えないヴェーグマンの姿勢と同じくらい気になるところだが、娘役トップとしてきちんと存在感を発揮するあたり、綺咲の成長も頼もしい。サイレント映画の名優ヴィクトール・ライマンに扮した天寿光希が、「星組に天寿あり」と大いにアピールする、切々とした心情あふれる深い演技を見せた。今後、専科入りも視野に入れ、宝塚のために活躍していって欲しい人材である。ドイツの映画会社UFAの重役やプロデューサーたちに扮した星組男役陣の演技も舞台を引き締めていた。
 『Bouquet de TAKARAZUKA』は、日本初のレビュー『モン・パリ』上演90周年を記念したレビュー作品。ベテラン演出家の酒井澄夫が、決して懐古趣味一辺倒には陥らない趣向で、攻めの姿勢を見せる。トップコンビ以下、三組のデュエット・ダンスに凪七の見事な歌唱が絡むシーンでの、黒、白、赤、紫という色遣いなど、ときに淡く、ときに濃く、衣装の色合わせの美しさに目を見張る。
 この公演で、星組ベテラン男役の壱城あずさが宝塚の舞台を去る。小柄でキュートなルックスの持ち主であっても、情熱と努力によって男役芸を花開かせることができる、そんなお手本のような存在である。前回大劇場公演『THE SCARLET PIMPERNEL』では、ピンパーネル団の番頭的存在デュハースト役として、紅演じる主人公パーシー・ブレイクニーをしっかり助ける様が、そのまま、新トップスターを見守り支える彼女自身の舞台人としての姿勢をもうかがわせる好演だった。今回の『ベルリン、わが愛』では、ゲッベルスの意向も受け、UFAを買収する実業家アルフレート・フーゲンベルク役。フーゲンベルクもまた富と権力に物を言わせ、レーニ・リーフェンシュタールを愛人とする。銀眼鏡を外す、その目にぎらっと邪な欲望を感じさせる様に、ベテラン男役ならではの迫力を見た。レビューで発揮する、ルックスとは裏腹のやさぐれ感もまた持ち味。壱城あずさの存在を通じ、継承されていく星組男役芸もまた、ある。
2017-12-24 00:46 この記事だけ表示
 『王妃の館』の作家・北白川右京は、宙組トップスター朝夏まなとの魅力が存分に生かされた役柄だった。ド派手なファッションに身を包み、長い手足を面妖に振り回して、気の強いヒロインと大いにやり合う。パリを訪れた彼は実はスランプである。ルイ14世の亡霊と遭遇し、これを物語にしようと格闘する。そのうち、物書きとしての自分に目覚める。朝夏の大らかなようで実はナイーブな部分もにじみ出ていた。
 朝夏まなとアメイジングステージ『A Motion』では、もしも彼女がこれらの作品の主人公を演じていたら…という設定で、『ロミオとジュリエット』『ミー・アンド・マイ・ガール』『ファントム』『スカーレット ピンパーネル』からの楽曲が歌われた。実際には演じた経験のない役柄のナンバーを歌ってその作品の世界観を展開するのはなかなか難しいことと思うが、私は客席で、朝夏の歌唱と共に、それぞれの作品が心に与える思いをじっくりと振り返ることができた。『ファントム』のナンバー『お前は私のもの』では、キャリエールのパートを担当した愛月ひかるもナイス・アシストだった。
 明日は明日の風が吹く。今日一日、誇りある宝塚歌劇団の一人として全力投球を!
2017-11-19 00:00 この記事だけ表示
 “美しい”という言葉を使うのは難しい。人によってそれぞれ受け取り方が異なる――それを言い出したら、どの言葉だって同じだけれども。単なる表面的な、外見的な美しさだけを指しているととられる場合がある。単なる綺麗ごとを言っているだけととられる場合もある。
 それでも記す。宙組娘役・伶美うららは美しい人であると。
 “美しい”とされている人がいて、その美しさはときに、その人物が己を“美しい”と思う自意識によって多分に担保されているものだったりする。彼女の場合は違う。私は舞台に立つ彼女からその手の自意識を感じたことがない。それでいて、その美しさを無防備なまでに客席に向かって投げ出す。――こんな光景を目にしていいのかなと、ときに観ていてはっとするほどに。『VIVA! FESTA!』のラインダンスのシーンで、伶美が銀橋を渡っていく場面があった。そして客席に向かって、それはたっぷりと時間を使ったウィンクを投げた。宝塚の娘役が表現し得る魅力の一つとして、ほっこりふくよかに人の心を和ませる女性美があると思うが、その姿はさながら、豊穣を約束する春の女神のようで――。朝夏まなとのライブショー『A Motion』では、ミュージカル『ロミオとジュリエット』の『世界の王』を歌い踊る姿が実に男前だった。それもまた娘役としての成長である。『ヴァンパイア・サクセション』の死神見習い役で見せたパンチの効いた演技もツボだった。
 退団公演『神々の土地』のヒロイン・イリーナ役は、だから彼女にぴったりである。ロシア帝国ロマノフ家の一員として、社交界の華と謳われながら、戦地に身を投じ、看護婦として兵士たちに献身的に尽くす。革命の炎が燃え盛っても、彼女はロシアの地を捨てて逃げようとはしない。王家の一員である以上、そこで生きることが自らの使命だと考えている。毅然とノブリス・オブリージュを知る人。その姿は、『ベルサイユのばら』大詰のマリー・アントワネットを思い起こさせた。
2017-11-19 00:00 この記事だけ表示
 明日10月8日に赤坂ACTシアターにて初日を迎える宝塚花組公演「ハンナのお花屋さん」の舞台稽古を見学。作・演出の植田景子が難しいテーマをも宝塚の世界観に巧みに落とし込んでいて、作者ならではの細やかな美意識が随所に感じられる作品。観劇後、心にぱっと花が咲くような舞台で、あひるは好きです。帰りにお花屋さんに寄りたくなるような。
2017-10-08 22:24 この記事だけ表示
 100周年以降快進撃が続く宝塚歌劇団から、また一つスマッシュ・ヒットが飛び出した。月組公演「All for One」。「三銃士」や「鉄仮面」など、日本でも古くから親しまれてきた、そして宝塚の観客層にとってもなじみのある題材を元に、エンターテインメント集団、宝塚歌劇の可能性を極限まで推し進めると、これほどまでに楽しい世界が広がっている! そんな新鮮な驚きとわくわく感とをもたらしてくれる、座付き作家・小池修一郎のオリジナルでの最高傑作である。
 “太陽王”ことフランス王ルイ14世はある秘密を抱えていた。――実は彼は、女だった! 生まれたときは男と女の双子、それが、双子は災いをもたらすとの進言により、赤子のうちに一方を捨ててしまった。…そう、男の子の方を。そんなバカな〜。「♪王子様を棄てちゃった〜」と、暢気に歌っている場合なのかマザラン!(ここの一樹千尋が実にキュート) 「三銃士」や「鉄仮面」を少女のころよりこよなく愛するわが母がこの作品を観て、「もともと荒唐無稽な話がさらに荒唐無稽に〜〜〜」なる楽しい感想メールを幕間に送ってきたのもむべなるかな。かくして双子の一方は“男”を演じ、王としてフランスを治める羽目に。
 “男”を演じて王を務める。――どこかで聞いた話ではないか。女性が老若男女すべての役を演じ、そして“男”を演じるそのうちの一人がトップスター、すなわち組の“王”を務める劇団。そう、「All for One」は、荒唐無稽でポップでチャーミングな歴史ラブ・コメディであると同時に、宝塚歌劇をこよなく愛する座付き作家による秀逸な宝塚歌劇論でもあるのだった。その根底にはもちろん、宝塚歌劇にインスパイアされて描かれた手塚治虫の「リボンの騎士」へのオマージュも流れている。双子をめぐる騒動や、女性が男性のふりをするあたり、ウィリアム・シェイクスピアの「十二夜」や「お気に召すまま」をも思わせるところがある。
 この作品における一番の難役が、トップ娘役愛希れいかが演じるルイ14世であることは言を俟たない。なんせ彼女は、女性が演じる男役を相手に、“男の王を演じる女の子”を演じなくてはならない。女性が演じる男役とは異なる階層で、“女性が男を演じている”という状態を見せなくてはならない。これは、夏に上演された「魔都夜曲」で、元雪組トップスター壮一帆が、男性の役者の間に入って“男装の麗人”川島芳子を演じたのと背中合わせの難しさである。確かに愛希は入団3年目まで男役を務めており、背も高い。だが、それだけでこの難役が御しきれるというものではない。
 要は、“舞台と客席との間に結ばれる約束事”の問題である。その約束事を、舞台上演じられる虚構のどの階層にまで成立させるべきなのか。その約束事を、演技上、どの階層までは明示し、どの階層からは不提示すべきなのか。そんな高度な判断が、演じる役者に求められているということである。宝塚歌劇は女性が男をも演じる劇団である。だから、愛希が“男の王を演じる女の子”を演じる上では、宝塚の根幹である、女性が演じる男役なる存在の領域を侵さぬよう、パロディにもならぬよう、実に狭隘なところに己の演技を着地させることが求められているわけである。「魔都夜曲」の壮の場合はといえば、宝塚歌劇の舞台で演じてきたのは“男”であって、“男装の麗人”ではない。宝塚の男役という存在そのものは“男装の麗人”ではあっても、男役が舞台上で演じるのはあくまで“男”なのである。階層が違う。宝塚歌劇とは女性が男を演じる劇団であり、壮一帆はそこで男役を務めていた、一方、愛希れいかは娘役だけれども今回は“男の王を演じる女の子”を演じている――という“約束事”をあらかじめ予備知識として共有している観客にとっては、容易に理解できる事項であろう。けれども、例えば何の予備知識もない観客がいたとして――男役を観て、「宝塚にも男がいた」とか「男も入れるの?」という感想が出るというのは、宝塚にまつわるよくある笑い話である――、その観客に対しても、異なる階層において男/女を演じているとその演技のうちに細かに提示していく上では、高度な芸が必要なのである。逆に言えば、愛希れいかの演技力を高く評価しているからこそ、小池修一郎はこのように思い切った宝塚歌劇論を展開することができたとも言える。
 “男の王を演じる女の子”は、主人公ダルタニアンと恋に落ちる。彼女が女性の姿に戻り、その愛を成就させるには、捨てられた双子の兄弟を探し出すしかない。その手がかりは、双子の母であるアンヌが実家スペイン・ハプスブルグ家から持ってきた、双頭の鷲のペンダントの片割れだけ。――このあたり、座付き作家の心情は何だか少しせつなくすら感じられる。…一緒に仕事もしてみたかったのに、もうやめちゃったな。女としての幸せのためだったんなら、しかたないけど…なんて、永遠の乙女の花園に残された方としては思ったりもするのだろうか等と、心中勝手に想像してみる。座付き作家の方も、“男を演じる女の子”の心中を盛大に想像してみている。愛希ルイのナンバー、「もし私が女の子なら」。自分に似合う髪型に迷い、街に出たなら誰か振り向いてくれるか夢想を広げ、「♪お洒落をしたい/だって私本当は/女の子に生まれているの」と歌う。稽古場で日々向き合う、“男”を演じる乙女たちの心中に、座付き作家は思いを馳せている。…ホントは、「私だっていわゆる女の子の服装をしてみたい!」と思っているのかもしれないな…と。それでも、そこは宝塚歌劇である。自分で男役を務めると決めた以上、男を演じなくてはならないし、そんな男役たちに対して、座付き作家は厳しく指導しなくてはならないのだろう…。
 劇場でこの歌を聴いていても、そして、今こうして書き写していても、思うのは、…この歌詞を書いた人は、なんてかわいらしい人なんだろう! ということである。今や日本ミュージカル界を牽引する演出家に対して少々失礼な表現かもしれないけれども、心からそう思う。そして、日本ミュージカル界を牽引する存在である以前に、小池修一郎は宝塚歌劇団の座付き作家だ! と思うのである。その人が愛ある宛書をしてくれる劇団は、この世で宝塚歌劇団の他にない。
 それと同時に感じたことは――。小池修一郎は、「エリザベート」や「スカーレット ピンパーネル」といった、海外ミュージカルの宝塚化の大ヒットで有名でもある。けれども、それら翻案作品では、彼の人間としての魅力の一部しか享受し得ていないのだと、今回つくづく思ったのである。海外、外部の作品をいかに宝塚において上演するか、そこには、すでにあるものを宝塚に合わせていくという苦労がある。「エリザベート」にしても、宝塚版と東宝版を両方観ると、…彼の中ではこれは“すみれコード”に引っかかるんだな…等、苦心がしのばれる。
 けれども、今回の「All for One」は、すべてが小池修一郎の中から生まれ出てきたものである。産みの苦労はあっても、合わせる苦労、苦心はない。そして、すべてがとても愛おしい。ダルタニアンに“壁ドン”からキスされときめくルイ、その彼女に迫ろうとする枢機卿マザランの甥ベルナルド。が、壁が要ること、壁がないことに困惑したり、ルイに「柱じゃダメ!」と言い放たれたり、果てには、ルイとダルタニアンの愛の成就を目の当たりにすることになり、「今分かった。お前が俺の壁だァ!」なるセリフで盛大なオチがつく。この一連の流れにしても、座付き作家が乗りに乗って、心から楽しんでセリフを書き、舞台を創っているのが伝わってくる。
 清く、正しく、美しく。楽しく、明るく、華やかに。そんな精神で、「All for One」の舞台は進んでいく。そして、座付き作家の尽きせぬ愛を受けて、月組&専科の面々が輝いている。クライマックス、敵に囲まれたダルタニアンと三銃士が階段上に現れ、「All for One, One for All」と剣を合わせるときの、あの高揚! 率直に言って月組は過去困難な時期があったが、今、飛躍しようとしている。「All for One」がその大きなきっかけとなることを確信してやまない。
 月組トップスター珠城りょうにとってはこれが二作目。お披露目作「グランドホテル」でのフェリックス・フォン・ガイゲルン男爵役は、正直なところ、五組一若いトップスターの船出には荷が重すぎるように思われた。今回の「All for One」では、彼女の若々しさ、朴訥さが生きる等身大の役、ダルタニアンを宛書されて生き生きとしている。ダルタニアンはフランスを統一したアンリ4世と同じガスコーニュの出身、田舎育ちとそしられようと、ガスコンであることを誇りにし、王への忠誠心を決して忘れない。そしてそれは何も、王に対してへりくだったり、おもねったりするということではない。「♪誰とでも向かい合おう/真実の為なら/たとえ相手が/国王陛下であろうと」との信念をもつ彼は、ルイの剣の指南役候補となり、その相手を務める際にも「嘘は吐けない」と、正々堂々向き合う。その結果、国王に尻餅をつかせてしまい、トラブルが振りかかることとなる。剣士はその剣に嘘はつけない。ついてはいけない。いざというとき剣がひるむ。ストレートなヒーロー像である。一つ気になったのが、例えば「私は、あなたを、愛している。」というセリフがあったとして、「、」も「。」もすべて同じ長さの間で発語しているように聞こえるきらいがあることである。言葉は音符や休符のようには書き表せないけれども、実際には、「、」が感じられないほど言葉がつらつら続いたり、「。」が「、」より短かったり、登場人物のそのときの心情、果てには演じている人間の心情の乗せ方によって、さまざまに変わって来るものだと思う。検討、健闘を期待する。
 難役を見事成立させた愛希れいかは宝塚の娘役の領域を大幅に押し広げた。宝塚史にあざやかにその名を刻む名演である。その芸には“老成”の言葉すら似合う。そこにあるのは、“自分が他者からいかに見えているか/自分が見たものがそのように見える、それは何故なのか”を問う、役者としての優れた、冷徹な目である。彼女は若い。若い娘そのものである。それなのに、“若い娘とはどのようなものなのか、どのようなしぐさや振る舞いをすれば若い娘として見えるのか”ということを、実に冷静に見定めた上で演技を構築している。お洒落をして街に繰り出す場面など、観ている方まで胸がキュンとするほど、とんでもなくキュートなのである。それでいて、その根底にある冷徹な目がどこか恐ろしくすらある。老成している。その老成の芸で、女ながら男の王を演じるルイが、ダルタニアンに恋して愛の成就の困難に悩む、そのせつなさを余すことなく描き出していく。制作発表会のときから、“太陽王”としてあの金ピカの太陽の飾りを頭につけ、タイツを履いて出てきた彼女の姿に、…絵でしか見たことがないこんな恰好が生きている人間として見事成立しているところが凄すぎる! と感服した。その姿で、踊る。踊りの素晴らしさは言うまでもなく。男を演じても、低音の発声が実にかっこいい。そんな愛希を観ていて、思ったのである。シェイクスピアの時代も、すべての役を男が演じており、男が演じる女がさらに男装したりする作品もあった。そのごちゃごちゃ、階層の微妙なズレを、観客もわかっていてツッコミを入れて楽しんだり、ときには男性が演じていることを忘れて感動に誘われたりしたのだろうなと…。太陽王が踊ったバレエも実際のところどんな出来だったのだろうか等々、時を超えた観客の気持ちに思いを馳せた。
 “壁ドン”シークエンスを任されたベルナルド役の月城かなとは、同じ小池修一郎のヒット作「るろうに剣心」での彼女の当たり役、四乃森蒼紫と同系列のダーク・キャラ…と見せて、実はコメディ担当。ダークな色合いの衣裳にさっそうと身を包みながらも、「壁が要るのか…」「壁も無いのに…」と真面目くさってつぶやくこの役で、コミカルな役どころにも強いところをアピール、新境地を大いに拓いた。
 ルイの秘密を出生時から知り、今は宮廷での勢力確保に必死の枢機卿マザラン役の一樹千尋は、男の方のルイ14世が即位することとなり、ルイの母で摂政のアンヌから退任を命じられたときの去り際に実にdignityがある。彼は根っからの悪人ではない。彼には彼の信念があり、その信念をもってルイとアンヌを支えてきた。けれども、その信念が私利私欲に汚されてきたとき、そして国民の声と大きくかけ離れてしまったとき、その者が去ることがやはり国のためとなろう。だが、その者にも当初は信念があったことが、一樹の去り際の立派さによって示される。そう、この作品は、組織論、リーダー論ともなり得ているのだった。
 女と知らずルイに思いを寄せ続ける年上のいとこモンパンシェ公爵夫人をコケティッシュに演じたのは沙央くらま。女の色気でルイを誘惑! と、長いスカートを取って美脚も露わに踊るシーンは見事なショー・ナンバー、ザッツ・ミュージカルの魅力にあふれている。この曲をはじめ、作曲・編曲の太田健による楽曲群は実にバリエーションに富み、耳を楽しませてくれる。座付き作家の活躍を、座付き作曲家の活躍が支える。座付きクリエイター陣の面目躍如である。モンパンシェ公爵夫人はルイに恋するあまり結婚が遅れ気味で、それをからかわれたりもするのだが、女性の観客にとって不快とも映りかねないこの役をめぐるあれやこれやを、沙央の演技は実に巧みにかわしてむしろ共感を誘う。モンパンシェ公爵夫人が「私も剣には心得がございますのよ!」と剣を取って構えるのは、もともとは男役である沙央へのこれまた愛ある宛書であり、結果的に、この作品が体現する宝塚歌劇論を補強する効果をも生んでいる。
 いつまでも若々しく美しい摂政アンヌを演じる憧花ゆりの。マザランの権力独占に対する蜂起の旗頭となるボーフォール公爵を凛と演じる光月るう。芝居の月組の伝統は確かに引き継がれている。アンヌが生き別れの双子の真実を知るのが、剣戟一座による仮面劇「双子の騎士」を観て――というのも、「ハムレット」はたまた熊川哲也の傑作「くるみ割り人形」をも思わせる趣向である。三銃士の隊長アトスに扮した宇月颯も、やっとこの人らしい舞台が観られた感がある。さらなる奮起を!
 今回の心のキャラは、ルイ14世と共にバレエ創作に熱中するリュリ役の佳城葵に。ジャン=バティスト・リュリといえば、バレエ史にその名を残す実在の人物である。バイセクシュアルであったとの史実をも踏まえているとみえ、男の姿のルイがダルタニアンとキスを交わすのを目撃した際、何だか妙にうれしそうな演技に細かい工夫が見られた。佳城は「アーサー王伝説」でアーサーの兄ケイを演じた際も、道化と見せて実は賢い人物像の造形が非常にチャーミングだった。芝居の月組を支える存在へと成長していってほしい。
 月組が群衆芝居に優れた組でもあったことを思い出させてくれる公演でもあった。打倒マザランへと立ち上がる民衆の熱気は、かつての月組のヒット作「スカーレット ピンパーネル」の迫力を彷彿とさせた。民衆の大合唱へとなだれ込む「くたばれマザラン!」の一声を高らかに響かせる居酒屋の主人シモン役の輝城みつるはこの公演で退団である。千秋楽の今日も熱い一声を!
2017-10-08 00:44 この記事だけ表示
 今月初めに花組の項<宝塚花組「邪馬台国の風」「Santé!!」>(http://daisy.stablo.jp/article/452453469.html)でもふれたように、この公演が退団作となる夕霧らいは、決してくどくはなく、むしろ後味はさわやかなれど、ねっとりとエロい、いかにも花組の男役らしい男役である。実は私は長らく、そんな彼女の特質をバロメーターとしてきていた。男役・夕霧らいがねっとりエロスを放っていれば、花組の状態は万全。放っていなければ組の状態に何かしらの問題あり。さて、今回の公演であるが、花組の状態は大丈夫! 夕霧らいはちゃんと個性を発揮していた――いささかさみしげに見えたのは、こちらの心情もあるのかもしれないけれども。組の状態のバロメーターになり得るくらい、彼女は組のあれこれに心を配って舞台に立ち、日々を過ごしていたのだろうと思う。一つの集団がまとまって舞台を創り上げる上で欠くべからざる存在である。
 「邪馬台国の風」で演じた伊都王のように、最近ではベテランらしくどっしり重厚な役を演じることが多かったが、ねっとりエロスの代表作としては「復活」のユスチーノフを挙げたい。娼婦に身を落とすも改心したヒロイン・カチューシャに、医療刑務所で言い寄る役どころで、「お前の身体は世界旅行してたんだな」と言い放つ。すみれコード的にはなかなかなセリフであるが、夕霧の演技はこれをきっちり通した――宝塚歌劇にふさわしい品位と、役どころにふさわしいエロスとをもって。通した分だけ、宝塚歌劇の領域は広がったのである。
 レビュー「Santé!!」のクライマックス、男役の黒燕尾服のダンスで、夕霧が前に出てきてトップスター明日海りおと二人で踊る場面がある。よくある退団者への餞の場面、そう考えてはいけないと思う。これは、その餞にふさわしい力量がある者にしか似つかわしくない場面なのである。そして、花組男役・夕霧らいは集大成にふさわしい姿を見せた。明日海は月組仕込みの花組トップスターで、夕霧は花組一筋の男役で、だから色が違っていて、それでいいのである。ああ、この人は本当に花組の男役らしい男役だな、と思った。黒燕尾服姿に誇りがある。キザってなんぼの花組男役は、決して軽薄というのではなく、少しチャラい感じがあるのが魅力なのである。明日海と共に踊って、そしてどこか控えめなたたずまいでさっと皆の列に加わる黒燕尾服姿に、夕霧らいの男役人生を見る思いだった。

 夕霧と共に退団する娘役・梅咲衣舞は、整った容姿の持ち主ながらもどこか不思議な魅力があって、何故なんだろう……と思っていたのが、最近知ってびっくり、熱烈な男役志望だったという。それで何だか腑に落ちた。クセのある役どころが得意だったり、パンツルックが似合ったりする娘役なのが。
 退団公演ではそんな彼女の魅力が味わえた。「邪馬台国の風」では陰謀を企てるヤマタイ王の娘アケヒの侍女カヌハ。ほくそ笑んだり、目論見通りに行かなくてあ〜れ〜とばかりに連れ去られたり、そんなクセのある役どころを演じて実に生き生きとしている。レビュー「Santé!!」ではパンツルックではつらつと踊る姿が観られて幸せだった。男前とか、男っぽいというのではないのだけれども、何だか妙にしっくりくるのである。男役に心ひかれ、それでも懸命に娘役芸に勤しんできた、そんな彼女だからこそ醸し出せた魅力なのだろうと思う。
 
 二人とも、どうかどうか、これからも幸せな人生を!
2017-08-27 00:10 この記事だけ表示
 前回東京宝塚劇場公演「金色の砂漠」を観て、そしてその東京公演千秋楽の次の日に「omoshii mag vol.9」のための取材を行なって(http://daisy.stablo.jp/article/448839728.html)、舞台人明日海りおへの敬意の念は深まるばかりである。「金色の砂漠」では明日海と、この作品で退団した花乃まりあの花組トップコンビの渾身の演技がすばらしかったが、学年の離れた相手役である花乃をリードし、この難しい作品の難しいヒロインを務めるまでに育て上げた明日海の手腕が光った。
 「邪馬台国の風」「Santé!!」では、明日海は新たに相手役に仙名彩世を迎え、ますます充実した舞台を見せる。「邪馬台国の風」は確かに頭の中に「?」がいくつも飛び交う作品ではある。だが、花組トップスター明日海りおはその「?」を己の力量でねじふせてゆく。宝塚のトップスターとはときにそのような技量を要求されるものである。明日海の心の中には、舞台を少しでもよりよいものにしたい、そうすることで、劇場に集った観客により素敵な時間を過ごしてほしい、世界でここにしかない宝塚歌劇の舞台を心ゆくまで楽しんでほしい、そんな想いが純度高く、熱く燃え盛っている。決して大柄ではないが、舞台では実に大きく見える。頼もしい。今の宝塚歌劇を背負う第一人者である。
 仙名彩世は新人公演ヒロインの経験こそないが、すでに数々の作品で好演を見せてきた実績があり、トップ娘役として明日海をしっかり支える舞台が期待されるところである。「邪馬台国の風」で演じるは、神の声を聞く巫女の中から選ばれて女王卑弥呼となる少女。彼女の落ち着きのある、ときにどこか神性を帯びて聞こえる声は、なるほど巫女なる存在にふさわしい。その声で、レビュー「Santé!!」の後半、ダルマ姿で花組娘役陣を引き連れながら銀橋を渡り、「♪遊びましょ」と歌い踊るとき、何だかイケナイ気持ちに…。その一方で、明日海さんに倣って攻めていくぞ! というかわいらしい勇ましさも感じさせる。おもしろいもので、花組娘役と雪組娘役は“男前”にならない傾向にある。組によっての娘役カルチャーの違いであろう。
 さて、花組トップスター明日海りおの舞台への意気込みに大いに共鳴するからこそ、私は以下の文章を認めることとする。花組全体、もっと燃えていい。一人一人、もっともっと前に出てきていい。もちろん、芸なく品なく「目立ちたい、自分を観て」という出方ではない。「自分がここまで磨いてきた男役芸、娘役芸をもっと観てください!」という出方でである。大丈夫! 多少皆が前に出たところで、明日海はびくともしない。むしろ、自分が信じる宝塚歌劇の舞台を創り上げる上で頼もしく思うことだろう。明日海りおは、花組の組ピラミッドを、どこまでも高く、大きくする気持ちにあふれている。その心強いパートナーとして、芸の人仙名彩世を相手役に迎えたのである。皆の者、トップコンビに続け〜!
 「邪馬台国の風」でも、明日海同様、各場面場面で、己の力量で脚本演出の「?」をねじふせればいい。そこに流れる心情が気迫こもって確かであれば、観る方も、「…何だかすごいものを観たな…」と納得させられるのである。大勢で踊る場面も、もっと動きと感情を合わせることでさらにパワーが出せる。巫女が舞うのは神に祈りを捧げるためだが、そのとき、一人一人はどのような思いを胸に舞うべきなのか。この作品の中で描かれる祭りを、一人一人はどのような思いで迎えているのか。例えば、幸せで飽食な時代に迎える祭りと、争い続きだったり、凶作だったりする中で迎える祭りとでは心情も異なってこよう。「Santé!!」でも、例えば男役が娘役をリフトして回すときのタイミングや角度などももっと揃えられると思う。ただ、私は何も風紀委員のように「ここが揃っていない」と口やかましく言いたいわけではない。そうではなくて、ここが揃って見えたら、それは客席にはすばらしく美しく見えるのではないか、そんな改善点を、組の一人一人が常に自ら意識して舞台に立つとき、客席には新鮮な驚きと感動がもたらされると思うから言うのである。
 男役の黒燕尾服の場面、揃っている。当たり前である。花組の黒燕尾服の踊りが揃っていなかったら、宝塚はほとんど終わっている。それくらい、宝塚花組の男役は誇りをもって舞台を務めるべき存在である。だから、芸の力によって一人一人、もっとアグレッシブに前に出てきていい。それに、組カルチャー的に、花組は、男役が一歩も二歩も前に出てこない限り、下がって男役を立てる娘役は前に出て来られないのである。今公演、一段と若返ってかわいらしさが増した感のある副組長花野じゅりあを筆頭に、かわいこちゃんから個性派まで、娘役の方が一人一人の顔がはっきり見える。多彩な娘役陣をさらに活かすためにも、男役陣のさらなる充実が望まれる。男役の代表格として一例を挙げると、この公演が退団作となる夕霧らいは、“決してくどくはなく、むしろ後味はさわやかなれど、ねっとりとエロい、いかにも花組の男役らしい男役”である。一人一人がこれくらいはっきりとした個性で魅了できれば鬼に金棒! 宝塚が誇る花組の男役の一員として、どんな思いで舞台に立っているのか、男役芸をどのように磨いてきたのか。その気迫輝いてこそ、黒燕尾服の場面も一段上に行けるのである。奮闘を期待する。
2017-08-05 23:50 この記事だけ表示
 早霧せいなは、壮一帆の後を継いで雪組トップスターとなった。……と、早霧の退団公演「幕末太陽傳」「Dramatic “S”!」の制作発表会の場で、宝塚歌劇団の小川友次理事長も、「Dramatic “S”!」の演出家・中村一徳氏も口にして、今ここに私もさらに重ねる。それがどれほどのプレッシャーであったか、僭越ながら、私は多少なりとも知る立場にあったと思う。
 前トップスター壮一帆が組子と共に創り上げた雪組とは、男役娘役問わず、一人一人が持てる最大限の力を発揮して舞台に臨む、そんなプロフェッショナルなタカラジェンヌの集団である。今でも雪組を観ると、驚異と敬意の念を常に抱く。男役は男らしく。娘役は女らしく。揃えるべきところはきっちり揃える。組全体としての演技の方向性が定まっているから、下級生時代からきっちり芝居と向き合うことができるし、そのことによって、舞台人としての個々の個性も磨かれ、際立ってくる。一人一人の顔が見える。組の全員がフルエネルギーで作り上げたとき、宝塚歌劇の舞台とはこんなにもパワーをもって心に迫り得るのだと、わくわくし、感動する。だから雪組の舞台は満員御礼が続いているのである。他の組もそうあってほしいと心から願う。毎年の配属と組替えがあり、各組の構成員のポテンシャルが組によってそんなに異なるとは思えない。舞台人としてどこまで伸びていきたいか、そんな飽くなき成長が可能となる環境であるか、その違いであろうと思う。
 ようは、宝塚でいう組のピラミッドが最大限大きくなった状態がベストなのである。その三角形のてっぺんにトップスターが存在する。――存在しなくてはいけない。既に大きく、高くなっている組のピラミッドの頂点に、自分が好もうと好まざると、最初から自動的に存在しなくてはならない、それが、早霧せいなの抱えたプレッシャーだった。
 トップ二作目の「星逢一夜」は、舞台全体、物語のクオリティはまったく別として、早霧を観ているのがとてもつらいときがあった。トップをやめたいならやめたいで全然かまわないから! そう思った。何も冷たく引導を渡したかったわけではない。舞台人なら、まずは何より自分が舞台に立ちたいから舞台に立つ。物書きなら、まずは何より自分が書きたいから文章を書く。その舞台が、その文章が、観客に、読者に受け入れられるかは、最初のその衝動とはまた別の問題なのである。自分の中に立ちたい、書きたいという衝動があって、それを実現した喜びがあり、その結果、受け入れられるということがあって、そこにはまた別の喜びがある。人に受け入れられたいから舞台に立つ、文章を書く、それでは本末転倒である。
 自分としてはどこか舞台に立ちたくない思いがある、けれども、観客が受け入れてくれるから、喜んでくれるから……、そんな思いで舞台に立っている人物を観ているのは、私個人としてはつらい。私は舞台を観るのが好きだ。舞台に立ちたくてたまらない、自分のその思いをまずは叶えて、その上で、プロフェッショナルとして観客にどう楽しんでもらうか、共に劇場で分かち合う人生の貴重な時間をどう素敵に過ごしてもらうか、考え尽くした舞台を務めている舞台人を観るのが好きだ。愛されたいという願望を舞台で、文章で叶えようとすべきではない。まずは自分が愛さなくてはならない。自分を。他者を。世界を。愛することにまず喜びがある。その上で、いつか愛が返ってくる日もある。その喜びもある。愛すれば愛するほど、愛は無限に広がってゆく。もっともっと、広く、深く愛せるようになってゆく。人間が誰かただ一人だけ愛する生き物だったら、この世は互いに愛し合うと自称する二人組があふれる、さぞや窮屈な場所になっていただろう。
 「星逢一夜」のとき、崩れそうになる早霧を支えていたのは、相手役の咲妃みゆだった。あの必死な舞台姿を思い出すだに、涙があふれる。そして三作目の「るろうに剣心」では、その咲妃の喉の不調が決定的になって……。そのときは早霧が咲妃を支えた。それがよかった。「ローマの休日」という、早霧にとっての代表作も生まれた。記者会見で、それぞれの立場に許された言葉のみで語ることで、互いに気持ちを伝えなくてはならない新聞記者と、王女と、それを見ていた新聞記者の相棒のカメラマンと――。早霧せいなの新聞記者の演技は、物を書く人間にきちんと見えた。その上で、せつない恋の想いを抱えて生きる姿に、男役の美学があった。けれども。今こうして「ローマの休日」について考え、あの美しくもはかない恋の物語を無粋に語ることを承知で書くと、記者と王女が愛を貫くすべだってあったはずである。王位を誰か別の人物に譲るとか、王制を廃して共和制にするとか、もしくは王女であるまま記者と結婚するとか。
 話が逸れた。私が指摘したいのは、なぜ退団公演になってまた「星逢一夜」のときのような舞台になってしまったのかということである。あれから雪組の最強メンバーたちと舞台を重ねて、代表作もできて、その上でなぜまた後戻りなのか。自分を信じられないのか。自分が積み重ねてきた舞台を信じられないのか。
 信じる上では一つしかない。内なる壮一帆のファントム=幻影と闘って、それに打ち克ちなさい。貴方が闘っている相手は“壮一帆”ではない。心の中にある不安が、たまたま壮一帆の姿をしているだけのことである。本物の壮一帆はといえば、今上演中の「魔都夜曲」において、男とも女ともつかない妖しい美しさをたたえたスーツ姿と、女性ならではのまろやかさを感じさせる軍服姿と、“きれいな花には毒がある”と語られるチャイナドレス姿で、シアターコクーンの舞台で縦横無尽な活躍を見せている。それは、壮一帆が、宝塚歌劇を離れてもなお、舞台に立つことを自ら望んだから、そして自らのその喜びのもとに、今に至る道を歩いてきたからである。
 壮一帆の舞台を好きだという人間に、それとは離れたところで、早霧せいなの舞台を好きだと言わせることも可能なのである。それに、日本演劇界は広い。宝塚を退団してしまえば、宝塚に詳しい人以外には、誰が誰の次のトップスターだったとか、そもそも誰がトップスターだったとか、割にどうでもいい話であろう。それより、この人が宝塚時代、どんな力を培ってきて、どのように舞台芸術に貢献できるか、そのことの方が重要である。早霧せいなが宝塚を退団後、どんな道を歩むのか、私は知る由もない。けれども、もしも舞台に立つことを心から望むなら、内なる“壮一帆の幻影”と闘ってこれに打ち克つのは、宝塚の舞台が絶好の機会である。今日一日ある。私はそれを見届けにさよならショーに行く。こう書くことが、そして見届けに行くことが、何よりの絆だと信じるから。
 雪組トップ娘役・咲妃みゆは昨年の「るろうに剣心」あたりからはっきりと喉を痛めていて、そのせいもあるのだろう、何だか彼女らしくない舞台が続いていた。それがここへ来て、退団作「幕末太陽傳」で完全復活。有終の美を飾ることとなった。
 往年の名画を宝塚化したこの作品は、品川の遊郭が舞台。咲妃演じるおそめはしたたかに生き抜く女郎である。この作品の宝塚化も冒険なら、娘役として宝塚で最後に務める役が女郎というのも、思うところがなくはなかったと思う。けれども、ときには人を騙したりして生き抜いていく姿が憎めないこの役どころを演じて、咲妃は楽しそうなのである。生き生きしている。その姿に彼女の女優魂を感じる。下級生のころから客席を魅了してきた女優魂。舞台で生きる人ならではの。おそめと、同じ宮崎県出身の舞咲りん扮するやり手婆おくまとのやりとりも、実にちゃっかり人間くさい。笑ってしまう。たとえ女郎ややり手婆を演じたとして、宝塚の娘役の精神が変わるわけではない。その証拠に、ショー「Dramatic “S”!」では、咲妃も舞咲も、娘役としての魅力を存分に発揮して歌い踊っている。二人がそれぞれ、娘役たちを引き連れて銀橋を歌い渡るシーンを与えられているのは象徴的である。多様な役を演じることと、娘役性とを両立させた者の胸に光る勲章のような――。咲妃が娘役たちを率いて銀橋を渡っていくそのシーンで、私は、……ああ、この人は、月組出身の娘役だな、としみじみと感じた。元月組トップ娘役・蒼乃夕妃の面影が見えた。月娘の粋な力強さと、雪娘の可憐なたおやかさのハイブリッド。
 早霧せいなと咲妃みゆのトップコンビは、相手が崩れそうになるときっちり支える、その関係性が互いに成立していたのが実によかった。「星逢一夜」のころは、……この人は明日にでも退団すると言い出すんじゃなかろうか……くらいのナイーブさを見せる早霧を、咲妃がしっかり支えていた。咲妃が喉を痛めた後は、早霧がさすがのベテランらしさを発揮して咲妃を支えた。そして退団公演、早霧が何だからしくない舞台を務める事態となって、今度は咲妃がしっかり支える番である。宝塚のトップに限らず、コンビ、二人組というものはそうでなくてはと思う。しみじみいいコンビだった。
 本日7月23日付をもって雪組娘役・咲妃みゆは宝塚の舞台を去る。疑似恋愛幻想圧のない、相手役や何や関係ない、そんな舞台でどんな演技を見せてくれるのか。私は再び劇場で貴女に会える日を、本当に楽しみにしているのです。