正直、「ファントム」という作品で“心のキャラ”を選ぶことになるとは、公演が始まるまであまり予期していなかった。というのは、非常に率直に言ってしまえば、この作品には演じ甲斐のある役柄がきわめて少ない印象があったこと、そして、そのことも大きな理由の一つとして、作品自体、どちらかというと苦手だったからである(苦手であるもう一つの理由は無論、キャリエール役の設定があまりにあまりで、それを演じる役者にいろいろな面で負担がかかりすぎることである)。
 しかしながら、花組生&スタッフ一同の頑張りで、今回の舞台は実に楽しいものになった。それも、出演陣がそれぞれに個性を発揮して己の役柄を深めていったがため。そんな中で今回、“心のキャラ”に輝いたのは、愛音羽麗が役替わりで演じた、パリ・オペラ座の新支配人、アラン・ショレ!
 しかし、ここではっきり記しておくべきは、アラン・ショレを演じたもう一人、華形ひかるの演技あってこそ、その好対照として、愛音のショレの造形もまた生きたという事実である。人は単体だけで物事を受け取るよりも、対比しながらの方が思考を深めやすい。華形がきわめて正攻法で、実直な芝居心でもってこの役を造形したとしたら、愛音はかなりの搦め手、変化球でこの役に取り組んだ。あざとさスレスレのきわどいところを、巧みな芸で通し切ったわけだが、全公演通じて愛音のショレだけだったとしたら、観客の中にはううむ…と思ってしまった人もいたかもしれず。男役・華形ひかるの武器とは、実に男っぽく、ワイルドで骨太に見えて、実はその瞳の奥にある、「…いいんだな、本当に俺で、いいんだな…」とでもささやきかけてくるような弱気な光の色気であって、そのナイーヴな光にふれてしまうと思わずキュン。だから、華形はアラン・ショレのような恐妻家の役がよく似合って、「メランコリック・ジゴロ」、「愛のプレリュード」、そして今回と、恐妻家シリーズ三部作である(もしかして、恐妻家の役ではなくても、華形の魅力で恐妻家に見えてしまうのかも?)。
 愛音ショレはまず、見た目からして実にインチキきわまりない。初めて観劇した日、あまりのうさんくささに登場だけで客席から笑いが起きる始末。ナマズ髭風の髭面に、ロンドン・ミュージカル「ジェリー・スプリンガー・ザ・オペラ」でサタンを演じていたデイヴィッド・ベデッラの、愛すべきうさんくささを思わずにはいられなかった。
 愛音ショレを観るだいぶ前のこと、夫と私は、「Le Paradis!!」のタンゴの場面における壮一帆の脚線美について語り合っていて、二人とも大好きなミュージカル「シカゴ」のヴェルマ・ケリーがかっこよく似合いそう…という話をしていた。すると夫が、「それなら悪徳弁護士ビリー・フリンは愛音羽麗がいい!」と言い出して、…え、それはいったい、宝塚の舞台なの、外部なの? とおかしくなってしまったことがあった。そして先月中旬、一時帰国した夫は、愛音ショレのうさんくささを目の当たりにし、「やっぱりビリー・フリンをやってほしい!」と言い残して赴任先に帰って行ったのであった(いったい何をしに帰ってきたんだ…。笑)。
 それくらい、見た目からして実にうさんくさい愛音ショレ。美の殿堂を守らんと尽力してきた芸術家肌の前支配人、壮一帆のキャリエールと好対照である。そして、愛音ショレは、そのうさんくささの中に、意外や意外、妻であるプリマドンナ、カルロッタへの限りなく深い愛を秘めている。君はいつまでもなんてかわゆいんだ! なんたる才能の持ち主なんだ! スイートハニー! 妻ラブ! 華形ショレが妻の尻に敷かれているなら、愛音ショレは妻を平気で図に乗らせている。お姫様だっこまで披露しちゃったりして、その溺愛ぶりは正直、見ていて気恥ずかしいくらい。昔、「趣味は妻」と言って世間を震撼? させた政治家がいたけれども、そんな感じ。横暴な妻がパリ・オペラ座の皆さんに多大な迷惑をかけているのも、君のその野放図なまでの愛し方にあるのでは…? とでも苦言を呈したくなってくる。
 カルロッタの歌声をあんな雑音…と評した怪人エリックは、ヒロイン・クリスティーヌの初主演舞台の前にカルロッタがクリスティーヌに怪しげな飲み物を飲ませたことを知り、復讐のためカルロッタを殺す。観ている方としてはどうしても、エリック、クリスティーヌ側に肩入れしてしまうところがあるが、殺人は殺人、見過ごされるべきではない。最愛の妻の姿が見当たらなくなったことに愛音ショレは激しく動揺し、その死体を目にして、「妻が変わり果てた姿で…」と肩を落とす。そのあまりの憔悴ぶりに、いくらカルロッタが人として許されざることをしでかしたとはいえ、エリックが死という厳罰をもってそれに報いたのははたして正しかったのか…という疑問が生じる。クライマックスの、キャリエールによる息子エリックの射殺へと、あざやかな補助線が拓ける。
 愛音はもう一役、オペラ座の有力なパトロン、シャンパンで財を成したフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵を演じていて、こちらの方は、ロマンティックな貴公子ぶりに、危うく“白の男役”認定をしてしまいそうに。しかし、これはあくまで、彼女が擬態を見せる“カメレオン役者”だからなのだと思う。かつて私は「スカーレット ピンパーネル」が再演されたときのパーシー候補として、壮一帆、愛音羽麗、北翔海莉、龍真咲、明日海りおをあげたことがあるけれども(<2010年あひる心のベストテン発表!!!http://daisy.eplus2.jp/archives/201012-1.html>、今回、一作品にして貴公子とうさんくさい愛妻家をゆきかう愛音を観ていて、愛音がパーシー役を演じた場合、グラパンの扮装を脱ぎ捨て、それはいけしゃあしゃあと「私がスカーレット・ピンパーネルだ!」とパーシーに戻って出てくる箇所はさぞ大爆笑だろうな…と思ってしまった。はたして「カナリア」での愛音羽麗の覚醒はあるのか、楽しみである。
 花組公演「ファントム」において超スピード覚醒を遂げた娘役、華月由舞が、9月11日をもって宝塚を去る。
 これまで一度たりとも直接言葉を交わしたことはないけれども、私は彼女の存在を、宝塚音楽学校に入学する前から知っていた。私の母の女子大時代のとても親しい友人(ちなみに、母の父親とその方の父親も同じ会社に勤めていた親しい間柄で、それが偶然、娘同士も同じ大学で顔を合わせて親しくなったらしい)に、私より年下の、日本のとある名作児童文学シリーズに出てくる姉妹にちなんで名づけられた姉妹のお嬢さんがいて、そのお嬢さんと彼女とが知り合いだったからである。「今度知り合いに宝塚を受ける人がいて…」という話を聞いてから、もう10年以上も経ったのかと思うと本当に感慨深い。
 彼女が宝塚音楽学校に入学した2001年の暮れ、私は勤めていた出版社を辞め、フリーの物書き、演劇ライターとして出発した。その頃、私にはファンだった宝塚のスターがいて、そのスターが退団するまでは、いきなり誰かを好きではなくなるというのも無理な話だからしかたがないけれども、その人が退団した暁には、誰が好きとかそういうことは自分には一切禁じて物を書いていこうと心に決めていた。それが、取材で携わる人間としての責務だと思っていたから。「公私混同はしないように」という家で育って、「取材相手と親しくなるな」という会社で育って、自然とそう考えるようになっていたのである。ちなみに、私が人生で一番太ったのは、件のスターが退団して二年ほど、心の中の一切の“好き”を無視し、何を観ても誰を観てもとにかく客観的であろうと自分を律し続けた頃である。自分の心を殺して生きるとは恐ろしいことであって、絶対にどこかに無理がくるのだと、そのとき私は悟ったのだった。自分の中に、芸や美にまつわる確かな基準ができさえすれば、個人的な好みにとらわれず、すべてを心のままに感じて愛することができると、今の私は思う。そして、この数年、つくづく悟ったのである。自分がこうして人生を費やして追究している事柄はやはり、その向こう側で、同じように人生を費やして追究している相手としか深く語り合えないし、そうした相手としか深く語り合いたいとは思わないものなのだと。無論、それを行なう場は、私にとっては劇場でしかないのかもしれないけれども…。
 知り合いの知り合いである彼女は、2003年に宝塚歌劇団に入団して、「華月由舞」というタカラジェンヌとなった。美少女だった。しかも、名前が「由舞」で、「真由」としては親しみを感じずにはいられない。知り合いを通じてお話してみたいな…と思ったことがなかったわけではない。自分が取材に携わっている分野に知り合いの知り合いがいるのだから、話してみたいと思うのが当たり前だろう。けれども私は、それができなかった。だから、彼女のことも、ただ客席から観ているだけだった。
 彼女の宝塚最後となる「ファントム」の舞台を観ていて、…私が何かを言ったところで何になるわけでもないけれども、知り合い伝手でもいいから、一度くらい、「舞台、頑張ってくださいね」という言葉を彼女に伝えたかった…と思って、ああ、我ながら鈍くさいにもほどがあるなあ…と天を仰いで、…本当に情けなくて泣きたくなった。自分が弱くて、評論家としての基準が知り合いだとか好みだとかいった個人的な事柄に左右されるのがこわくて、この十年間、何だかとても大切なものをどこかに置き去りにしてきたような気がして…。
 けれども、華月由舞は最後の最後で覚醒を遂げて、それを見届けて、私は自分が、評論家と舞台人として彼女と向き合ってきたことは、それはそれでよかったのだ…と思えるようになった。そのことを、彼女に心から感謝している。それくらい、最近の彼女の舞台はまぶしかった。何だかちょっと近寄りがたいようなクールビューティだったけれども、オフビートなボケキャラに挑戦した昨年秋の全国ツアー「メランコリック・ジゴロ」あたりから表情がずいぶんほどけてきた。前回大劇場公演「Le Paradis!!」では、朝夏まなとと組んで踊り、高さも回転も迫力十分の超絶リフトを見せた。そのとき、朝夏の腕に包み込まれる振りでの表情が、ドキッとするほど艶っぽかった。今回の「ファントム」でも、オープニングでの、衣装が白から黒にぱっと変化するダンスシーンで、きりっとした妖艶な表情と背中を披露。フィナーレのダンスシーンで浮かべる顔中に広がる笑顔はキュートな限り。
 「ファントム」で彼女が演じているのはフローラ。パリ・オペラ座の団員である。第1幕第5場、ヒロイン・クリスティーヌ(蘭乃はな)が初めてオペラ座に足を踏み入れるシーンで、「(オペラ座の有力なパトロンである)シャンドン伯爵に言われてここに来たの?」と彼女が声をかけるのだけれども、ここが今回の“心の名場面”である。“かしまし娘”みたいに三人組で出てくるフローレンス(梅咲衣舞)、フルール(月野姫花)と一緒に、クリスティーヌに、胸のロケットに入ったシャンドン伯爵の肖像画を次々と見せる、三人のそのセリフのテンポの間合いがとても軽快。そこに、団員の中ではスター的、大人っぽいあでやかさが魅力のお姉様的存在のソレリ(華耀きらり)と、ファントムが見えてしまうメグ(仙名彩世)も加わって、誰がシャンドン伯爵と一番親しいか喧々諤々、かしましくもかわゆいことこの上ない。ソレリ役の華耀が、シャンドン伯爵が一番気に入っている私は、その後押しでもっと上に行くのよ〜という野心ではなく、彼に対する恋愛感情や憧れの念を前面に押し出している印象なので、ここでみんなが張り合っているのが、シャンドン伯爵の素敵な貴公子ぶりを強調する感じになっている。やいのやいの言っているうち、楽屋番のジャン・クロード(夏美よう)に「早くお帰り」なんて追い出されてしまうのだけれども、パリ・オペラ座ならぬ宝塚の舞台裏もこんな感じなのかな…なんて、楽しい想像をしてしまう。
 最近になって私は、宝塚歌劇団の創設者、小林一三の「アーニイ・パイルの前に立ちて」という文章の中で、彼がパリ・オペラ座に足を踏み入れた晩の日記の一部が引用されているのを読んだ(http://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46657_29245.html「帝劇に夢見た私の計画」)。第1幕第3場、夜のために着替えをしてオペラ座へ出かけよう〜と、団員たちや初日の客、クリスティーヌ、エリックが歌うシーンは、出演者自らの、宝塚歌劇の舞台への真摯な想いが伝わってくる華やかな場面だが、もし今一三氏が生きていてこの場面を見届けたなら、かつて自らが足を踏み入れ、興奮を味わったパリ・オペラ座での夜と比べて、いったいどのような感慨を覚えたことだろう…と思わずにはいられなかった。その場面で、かつてこんな風に胸弾ませて宝塚の劇場にやって来ていた私が、今、その舞台に立っていて、本当に幸せな思いのまま、退団してゆくことができる…と華月が歌っていて、…じーんとしてしまった。
 クールビューティも素敵だけれども、顔いっぱいに笑みを浮かべている美少女もまた、素敵なものである。「メランコリック・ジゴロ」での彼女のセリフを借りるならば、これからの日々も、その笑顔いっぱいで進んでゆけばきっと、「カンペキ、カンペキ、カ〜ンペキ」。幸せな人生を!
 「ファントム」でプリマドンナ、カルロッタを演じている桜一花が実に素晴らしい。宝塚歌劇に年度最優秀助演女優賞があったなら、間違いなく最有力候補の一人である(しかし今年は、「黒い瞳」の晴華みどり、「アルジェの男」の花陽みらがいて、大激戦!)。
 カルロッタは金の力で文化大臣を買収し、パリ・オペラ座に乗り込んでくる。支配人の首を挿げ替えて夫をその地位に就かせ、自らはプリマドンナとして劇場に君臨する腹づもりである。カルロッタは、「この場所は私のもの」なるナンバーで、次のように高らかに歌い上げる。

「すべてのオペラで主役を演じ 物語を書き換える
神のように 女王のように 好きな場面で歌うのよ
他の役の人が 少しでも目立つことは
この私が許さないわ 絶対!

私のためだけに 地球を回らせるの
衣装もセットも照明も拍手も 私のものよ
あらゆる栄光独り占めして 大喝采浴びるのよ」

 この大ナンバーを歌う桜カルロッタだが、実に楽しげ、ときにほとんど恍惚状態…! 聴いていて思う。そりゃ楽しいに決まってる! いつもいつも、他の人々を大勢、脇役、引き立て役と従えて、自分だけが目立つ衣装を着て、主役を張り続ける人生。それも、最高に華やかでゴージャスな劇場で。
 カルロッタまで度を過ぎないまでにしても、こういう人っているよなあ…と思ったものである。私が思い出すのは、日本ではなく、あるアジアの国での話である。数年前、私と母が大好きだったとあるロンドン・ミュージカルで主役を張っていた男優が、そのアジア某国初となる本格的ミュージカルに主演するというので、その国まで母と一緒に観に行ったことがある。彼は、その国の血が混じっているハーフだったこともあって、乞われて出演を決めたのだった。そのエキゾティックな容姿ゆえ、最初の主演作にはフィットしていたけれども、ウエストエンドではなかなか配役的に苦労するところがあったようで、新天地が拓けたのだったら素晴らしいなと、応援の気持ちで観に行ったのだ。物語は、その国の英雄伝説を基にした、ラブロマンスありの冒険活劇で、最初の主演作でマッチョな魅力を発揮した彼にぴったりだった。
 しかし。舞台が始まってびっくり。彼の恋のお相手、ヒロインが、出てきたかと思いきや、三曲立て続けに己のビッグ・ナンバーを披露! その後も何かというとその人にばかりスポットライトが当たって、ロンドンからはるばる飛んできた彼は、ヒーローだというのに何とはなしに十把一絡げに毛の生えた程度の扱い。…女帝? 女帝なの? 客席で動揺といささかの笑いを隠せない母と私。何と彼女は、ヒロインにしてプロデューサーにして、その国の大臣の妻だった…! つまりは、彼女の存在なくして、その作品の上演はありえなかったというわけである。確かに綺麗な人だった。しかしながら、カルロッタの先のナンバーにも「いつもよりもさらに綺麗で 年齢は少しごまかして」とあるけれども、彼女も、その男優より十は歳が行っていたような…。そして、歌も踊りも演技も頑張っていたけれども、ロンドンからはるばるやって来た男優より勝っていたかと問われれば…。最初に観劇した晩は何かの貸切公演で、本来ならば一般でチケットを買えないところ、メールのやりとりをしていた主催会社の方が、遠いところからわざわざ飛んできてくれたのだから…と、好意で母と私を空いている席に座らせてくれた。その空いている席というのがなぜか最前列のセンターで、初めて来たばかりの国でこんな親切にふれることができるなんて! と、それは幸せな気持ちでロンドンから来た彼を見つめる私たち親子に、「…どうしてあなたたち二人は私のことを見ないの…!」とでも言いたげな目線をカーテンコールで浴びせる“女帝”…。
 パリ・オペラ座の“女帝”たらんとするカルロッタに扮した桜の演技が素晴らしいのは、無論、まっとうな、その場に立つ実力なくしてセンターに立ち、スポットライトを浴びることの虚しさを、彼女自身が舞台人として存分に理解しているからである。その理解を、歌に演技に踊り、彼女の実力が確かに支えている。芸ではないものによってそのポジションを得ようとした者の悲哀を、芸の力で表現しきる逆説がここにはある。人の心はお金では買えない。たとえ、衣装の豪華さ、照明のまばゆさにいっとき目を奪われたとしても、生涯を通じて心に残るものは、真心から発露した何かだけである。
 今回の桜カルロッタの演技がもう一点秀逸なのは、この役柄を、ヒロイン・クリスティーヌとの対比において、“美に見放された存在なのに美を表現する場所に執着する者”として演じるのではなく、“彼女は彼女として美を体現すべく日々それは頑張ってはいるのだけれども、その努力が足りず、また、美意識のいささかのずれゆえに、その努力の方向性もどこかおかしい者”として演じているからである。“天使の声”と描写される可憐な歌声の美少女に対し、ドスの効いたおばさんとしてこれを演じるのは、もっともたやすい選択ではある。吊り上がった眉毛のメイクは確かにインパクト大で、彼女の美意識のおかしさをうかがわせるけれども、桜カルロッタにはプリマドンナにふさわしい美しさが十分にある。ということは、桜が演じた場合、カルロッタの悲劇とは、選ばれし“声”がないにもかかわらずプリマドンナを張ろうとした肥大した自意識に起因するものとなる。怪人エリックの父、キャリエール役の壮一帆が、その役柄の造形を通じて物語全体に徹底して“美”を通底させたことにより、今回の「ファントム」の物語は、それでははたして“美”を選び取るのか否か――という最終テーゼにおいて、例えばアンドリュー・ロイド=ウェバー版の「オペラ座の怪人」と比べてよりオープン・エンディングであることが強調されている(アンドリュー・ロイド=ウェバー版ははっきりと“美”を選び取らない作品である)。その方向性を支える上でも、コミカルな中にもなお美が担保された桜カルロッタの造形はきわめてふさわしい。
 人は誰しも己の人生の主役を生きている。しかし、そうして己の人生の主役を生きる上で、同様に人生の主役を生きている他者を自分の人生の“脇役”として扱ったり、自らの人生を他者の人生の“脇役”として扱ったりすることは、決して許される所業ではないのである。だいたいが、後に痛烈なしっぺ返しを食らうことになる。無論、さまざまなシチュエーション、場面場面において、センターを張るべき人、主役となるべき人は当然存在する。それでも、他者の人生を含めて成り立つ複雑不可思議なこの世界で、人生の最初の瞬間から最後の瞬間までずっと真ん中に居続けるということは、主役が最初から最後まで出ずっぱりの舞台がときにまったくおもしろくないように、ありえないのである。主役を演じる場面、支えに回る場面と、時と場合に応じて、自分という役の臨機応変な“演じ方”、もとい、生き方を選択することが大切なのだと思う。
 どちらかというと小柄で、しかも芸達者ゆえ、昨年の春には子役、そして今年の春にはおばあちゃん役を担当するという役の振り幅を誇る桜だが、カルロッタ役を演じて実に大きく見える。プリマドンナ役に似つかわしい、堂々たる存在感、迫力である。前回大劇場公演「Le Paradis!!」でも、オープンカフェの場面で、長身の壮一帆相手に披露する踊りがぱあっと大きいなあ…と見惚れたものである。キュートな役柄の印象が強かったけれども、今回のような大人の女性を演じても、コケティッシュな姐御肌の魅力がある。もっともっといろいろな役で観てみたい人である。
 子供の頃から父親が大好きだった。それを言い出したら、私は母親も弟も大好きだから、ファザコン、マザコン、ブラコンのファミコンということになるかもしれないけれども。とにかく父が憧れで、幼稚園児くらいのときから、お父さんはすごいんだ!、お父さんと同じ大学に行く! と思い込んでいた。その夢は後に、父と同じ職業に就きたい…というものへとふくらんでいった。父に「お父さんと同じ大学に行って、同じ職業に就きなさい」と言われたことは一度もない。ただただ自分の憧れ、思い込み。ミュージカル「エリザベート」に「パパみたいになりたい」というナンバーがあるけれども、あれを地で行く少女だったのである。
 同じ大学には行ったけれども、同じ職業に就く夢は叶わなかった。その職業にたとえ就けていたとしても、そもそもが適性がなくて、本当にすぐに辞めていたと思うけれども……。今でも思い出す。自分のいたところを受けに行っても、お父さんの名前は絶対に出すんじゃないと父に固く釘を刺されたことを。しかし私には「お父さんと同じところに勤めたい」という気持ちしかなかったので、そう言われてしまったら面接官に告げる志望動機がなくて、困り果ててしまったのだった。本当にアホである。面接マニュアルを馬鹿にする人もいるけれども、当時の私は一冊手にとって、「そうか! 他にどの会社を受けていて、第一志望はどこですって言っちゃいけなかったのか!」と目から鱗が落ちるような、何でも正直に言うことが正しいと信じていた大アホ少女だったのである。大学を出たってこんなものである(はは、情けなさすぎ)。
 父と同じ職業には就けなかった。それが私の人生の最初の大きな挫折だとしたら、何とかもぐりこんだ出版社を辞めるに至ったきっかけが二度目の大きな挫折である。大学を卒業して就職するとき、アホ女子として非常に苦労して、自分にはもうこの世に居場所がないのではないか…とまで思ったのが、入った出版社で、最初の数年はそれは楽しく働いていた。それが、ここにも自分の居場所はないのかもしれない…と思いつめて、“トート=死”の声を聴いたのはそんなときである。人は、自分を肯定し、受け入れてくれたと思ったものから拒絶されたとき、さらに深い痛みと絶望とを味わう。この二度目の挫折こそが、私に現在に至るまでの道を選ばせた要因に他ならないのだが、ここ数年、書かなくては…と思いつ書けないでいたその話は、近々、ようやっと書けることになるだろうと思う。
 父と同じ職業には就けず、そして、父が自分に理想として思い描いているように思える“妻”、男に伍してバリバリ働きつつ毎朝味噌汁を作るかわいい奥さんにもなれたわけではない。そちらの方もどう考えても適性がないような…。自分は自分として心のままに生きるしかない、やっとそうふっきれたのはここ数年のことである。それでもどこか、私は父の理想の娘にはなれなかった、そんな思いを抱えている自分がいて…。
「それって、娘じゃなく息子に生まれたかった…ってことじゃないの?」
 ある日、「ファントム」のラスト近く、息子である怪人エリックに自分が父親であると告げ、親子が赦しと和解に至る「You Are My Own」のナンバーを銀橋上で歌う、キャリエール役の壮一帆の演技にそう問いかけられた。心を衝かれて息が止まりそうだった。その日に至るまで自分にはまったくもってその発想はなかった。けれども、言われてみればそうかもしれない…と、素直に思えた。女性が男性を演じる宝塚歌劇の男役という職業を選んだ彼女もまた、女ではなく男、娘ではなく息子に生まれたかった…と考えた日があったのかもしれない、そう思った――。
 しかしながら、ここで一つはっきりと反論しておきたいことがある。昨年私はとあるところで、大変不快な文章を目にした。それは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ作品におけるズボン役、男性する女性歌手の役柄と、宝塚歌劇の男役とを並べて論じようとするものだったが、まったくもってこの魅惑の論点に迫りきれていないばかりか、筆者は少なくとも最近の宝塚の舞台を観ていないことは明白であり、そのため、他の人物がこれを観て嫌悪感を催したという感想をどこからか引いてきてお茶を濁していた。しかも、女性客が宝塚を観て男役なる存在に憧れるのは、自分が女として生まれ、男にはなれなかったという思いを抱えているから云々…。リヒャルト・シュトラウス作品及び宝塚歌劇を愛する者として、憤懣やるかたないとはこのことである! 人はそのような理由で宝塚歌劇の男役に憧れるものではないし、リヒャルト・シュトラウスも決してそのような理由で自らのオペラ作品にズボン役を登場させたわけではあるまい。最近、舞台上の壮一帆の上にリヒャルト・シュトラウス先生が出てきて言うことには、「オクタヴィアンと力を合わせ、この世の謎を解き明かしなさい。シェイクスピア、モーツァルト、ベートーヴェン。偉大な芸術家たちはその作品の中に、男装する女性を登場させてきた。それは、性が男と女の二つに分かれていること、そのこと自体がこの世の一つの謎だと、彼らが考えていたからとは思わないかね」と。その言葉を聴きながら、私は、「ヴェニスの商人」のポーシャ、「フィガロの結婚」のケルビーノ、「フィデリオ」のフィデリオことレオノーレ…と思い出しながら、その性とはまた、二つと分かれた男、女、そのそれぞれの中でまた、男性性と女性性、その二つに分かたれることの神秘に思いを馳せていたのである。宝塚歌劇の男役、そしてそれに相対する娘役とは、女性の中のその男性性/女性性の発露の可能性を極限まで試し、追究することのできる、世界的にも稀な芸術的存在なのだと思う。
 芸術上の反駁が長くなってしまった。とにかく私は、「息子に生まれたかった…ってことじゃないの?」と、キャリエール役の壮一帆に問われて、…人生で初めて、自分のそんな秘めたる思いに気づかされて、本当にびっくりしてしまった。いろいろ思うことは無論、あるのだけれども、基本的には、今生、女として生まれてきて幸せだとずっと思ってきていて、男に生まれたいとは一度も思ったことがなかったから。
 それで私は初めて気づいたのである。自分が父と同じ男に生まれてこなかったことを、どこか父に申し訳なく思っていた自分がいたことを。男に生まれていれば、本当にお父さんみたいになれていたかもしれないのに、自分は女に生まれたから、そうはなれない。無論、男に生まれていれば、父との関係性においてそれはそれでまたいろいろあったと思うけれども、申し訳なく思ってもしかたのないそんなことを、自分はずっと申し訳なく思っていたのだ…と。
 思い出す光景がある。弟がすでに生まれていた頃だったと思うから、私がそれこそ三つくらいのときだっただろうか。父と二人、吉祥寺の井の頭公園に行ったことがある。確か遊園地のあたりで風船を買ってもらったのを、鈍くさい私はすぐに手放してしまって…。非情にも舞い上がっていく風船と、「あ、飛んでっちゃったのか」と私に言う父の困った表情と声音を、今でもはっきり覚えている。
 ――私はずっと、父に謝りたかったのだ。あの日、風船を手放してしまったこと。息子には生まれてこなかったこと。自分が勝手に想像して作り上げた、半ば幻想の“父の理想の娘”にはなれなかったこと。それがわかって、けれども、いまさら、お父さん、ごめんなさい、…と父に直接言うわけにも無論、いかなくて、私は、壮キャリエールの、聴く者誰しもの心をも包み込むようにあたたかな歌声に、ただただ優しく頭をなでられるような思いで、…お父さあん…と、客席で幼子のように泣いていたのである…。
 私は父の“理想”にはなれなくて、父も何も完璧な人間というわけではなくて、それでも私は父をとても深く愛していて、そして父も私を深く愛していて、それでいいのである。
 ちなみに私の父は声がとってもいい。発表会か何かでボーイソプラノを披露したこともあるそうだし、私が子供の頃も、「Take Me Home, Country Roads(カントリー・ロード)」や「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」といった英語の歌を、自宅のカラオケセットで歌っていた。今でも七十歳過ぎとは思えない、若々しいテノール系の美声で、とりわけ絶品なのが電話の声である。もっとも父は極度の電話嫌いなので、かけてもすぐに切られてしまうのだけれども…。先日、いつもは仲がとってもいい母と電話していて、本当にちょっとしたことで口論になってしまったとき(その後すぐに仲直りしましたが)、見るに見かねた父が代わりに電話口に出てきて、早く切ろう、早く切ろうとするのを、いい加減いい歳した娘だけれども、こんなときとばかりに甘えちゃえ…と、「お父さん、ちゃんと私の話を聞いて!」と言い続けて通話を長引かせて、…不肖の娘は、電話口の向こうの父の声を、…やっぱりいい声だなあ…と、うっとり聴いていたのだった。
 「ファントム」第二幕第五場で、パリ・オペラ座に棲む“怪人”エリックは、ヒロイン・クリスティーヌを自分の“領地”に連れてゆく。前場で彼は、クリスティーヌの初主演舞台において彼女に怪しげな飲み物を飲ませ、声をつぶしたオペラ座のプリマドンナ、カルロッタを殺害している。
 エリックの“領地”とは、彼がオペラ座の地下深くにあつらえた“森”である。日の差さない荒地であったその場所を明るい森として整備したと彼は語るのだが、彼の後ろにあるのはどう見ても森のドロップである。つまりそこは、劇場の中に作られた“幻想の森”に過ぎない。ここで彼は、自分の代弁者であるというウィリアム・ブレイクの、「母は僕を南の荒野で産んでくれた」で始まる詩「黒人の少年」の一節をクリスティーヌに朗読させる。
 劇場の中に作られた“幻想の森”。それは、舞台上に生きる人々、そして客席に座る我々にとっても、あまりにおなじみの光景である。舞台上に設置されたものは、極言すればすべてが“まがいもの”である。例えば、ロココの時代を描こうとして、実際にその時代に使われていた“本物”の家具や小物を舞台上に持ち込んだとて、流れている時間が違う、つまり、今現在は21世紀なのであるから、本物のロココの時代がそこに出現するということにはならないだろう。
 すべてはまやかし、まがいもの。それでも人が、劇場空間で、舞台上で展開される世界に心惹かれ、心動かし、泣き、笑い、ときには実人生すら変わってしまうような経験をしてしまうのはなぜだろう。
 あるいは、騙されているだけなのかもしれない。騙されやすい、夢見がちな人間が、劇場や映画館といった、虚構を現出させる装置に心惹かれ、集まってしまうのかもしれない。少女の頃に大好きだったウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」を思い出す。冴えない生活を送るヒロインは足しげく映画館に通っているのだが、上映中の映画「カイロの紫のバラ」のスクリーンから飛び出してきた登場人物と恋に落ちる。そこへ、騒動を収めるため、その登場人物を演じている俳優がやってきて、やはりヒロインと恋に落ちる。同じ顔をした、けれども異なる、現実と虚構の二人と三角関係に落ちて、ヒロインは現実、つまりは登場人物ではなく俳優の方を選ぶ。登場人物はスクリーンに戻ってゆき、俳優も結局は彼女を捨て、それでも彼女は懲りずに映画館に通ってスクリーンに見入り、微笑む。映画好きの母親が「何だか身につまされる話…」と言っていたのだけれども、その言葉の意味は私に年々重みを増して私に迫ってくる。劇場とは、騙し、騙されるだけの場所。そう割り切ってしまえたら、どんなに楽なことだろう――と思う。そう割り切れる舞台人も、観客も、嫌味ではなく、心の底からうらやましくてならない。劇場という場で、真実を、真理を、美を追究したいとなぜか願ってしまった者だけが、そこに七転八倒し続ける人生を選ぶ。
 すべてはまやかし、まがいもの。それでもなお、劇場という場に、そこに集いし者を震わせる本物があるとしたら、それは、心だけである。演じる者の心。見守る者の心。互いから真心を引き出すのはただ、真心のみ。真心が劇場空間を満たし、その空気を動かすとき、まやかし、まがいものだったすべては、真実へとあざやかなまでに反転する。
 だから私は聞きたいのである。あなたの心は本物ですか、と――。

 幻想の森でクリスティーヌは、怪人エリックに、仮面を取って顔を見せてくれるよう頼む。彼女はエリックの父親であるキャリエールから、エリックの産みの親であるベラドーヴァが彼の顔を美しいと心から思っていたことを聞かされている。お母様があなたの顔を見て微笑んだような愛が、自分にもある、だから顔を見せてほしい――とクリスティーヌは願って歌う。心動かされ、エリックは仮面を取る。驚き、悲鳴と共に逃げ去るクリスティーヌ。絶望の悲嘆を叫ぶエリック。刹那、森のドロップは落ち、オペラ座の地下の闇が露になる――。
 海外の地図などを見ていると、劇場の場所は仮面の印で示されていることが多い。仮面は劇場の象徴である。そして、劇場で仮面をつけている者とは、自分自身ではない何かの役柄を演じている役者であるのは言うまでもない。ここに、役者と観客との関係を示す、あまりに痛烈に心抉るアナロジーが成立してしまう。仮面をつけて観客を魅了していた役者が、その仮面を外したとき、観客はいかなる反応を示すのか。この物語のクリスティーヌのように、悲鳴を上げて逃げ去るのか、それともそこに踏み止まって微笑むのか――。
 昨年来日した国立モスクワ音楽劇場バレエが上演した「エスメラルダ」は、ヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」を基にした作品だが、作中、鐘つき男カジモドの顔を見て逃げ出すヒロイン・エスメラルダの姿を見ていて、思ったものである。人の顔を見て醜いと思う、それは容姿に対するあからさまな差別である。では、人の心を見て醜いと思う、それは差別には当たらないのか。あるいは逃げ出したくなるような心の持ち主でも、人は踏み止まって微笑むべきなのか――。
 私は、今回の「ファントム」で、難役キャリエールを見事に共感誘う人間像に創り上げてしまった壮一帆の演技を見て、自らへのこの問いかけは、そもそもが成立するものではなかったことを悟ったのである。人は誰しも内なる美を秘めている。だから、心の醜い人間など、究極的には存在するはずがないのだと。そのとき、たまたま醜いところが現出してしまっただけなのだと。向き合った者の愛によって、その醜さを美しさで置き換えてゆくことができるはずなのだと――。
 私がクリスティーヌならば、仮面を取ったエリックの姿を見て叫んで逃げることはないだろう。そもそも私は、一度も逃げる気などなかった。そこに真心を、美を認める限り、向き合った者の心の美しさをただ信じた。私という“鏡”に映った己の姿を見て自ら逃げ出した者が、あるいはいたかもしれないけれども――。
 だからやはり、私は聞きたいのである。あなたの心は本物ですか、と――。
 宝塚花組公演「ファントム」が面白い。美、芸術について考える上で、実に奥深く示唆に富む。いったんそう思ってしまうと、「いったいどこまで面白くなっていくんだろう…」と、物も言わずにただただ見入って考えに耽ってしまう癖が、私にはある。あと一週間で千秋楽、そろそろ考えをまとめる時期に入ってきてしまっているのが、何だかさみしくてならない。
 「ファントム」はガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」を基にしたアメリカン・ミュージカルであるが、ユニークな切り口によってこの美しくも妖しい作品を料理している。パリ・オペラ座の“ファントム”の父親たる存在を登場させたことで、この作品は、劇場に棲みつく怪人、幻想とはそもそも何の象徴であるのか、観る者により一層問わずにはおかないところがある。そもそも人はなぜ、劇場に怪人が棲みついているなどという「オペラ座の怪人」の物語にこんなにも心惹かれ、数多のバージョンを創り、それを楽しむということを、かくも長きにわたって続けてきたのか――。
 いたずらに複雑に思考を走らせる前に、物事は万事、いったんシンプルな出発点に戻して考えた方がいい場合がある。例えば私はかねてから、「白鳥の湖」という美しく幻想的な物語の出発点とは、次のようなシンプルなところにあると考えてきた。
「湖のほとりに、白鳥とも乙女ともつかぬものがたたずんでいて、それがあまりに美しく見えた――」
 無論、白鳥と乙女とを見間違えてしまうのだから、こう見えてしまう人間は一種の極限状態にあるとしか言いようがないが、“美”に対峙した人間の心理状態とはえてしてそのようなものである。「白鳥の湖」にはここではこれ以上深入りしないで、「オペラ座の怪人」及び「ファントム」の話に戻したい。私にとって、この物語のそもそもの出発点とはこうである。
「劇場という場所にはどこか、怪人や霊、幻影が棲みついているように思える――」
 霊的存在を信じるか否かは無論、人それぞれの心に委ねられているものではある。だがしかし、「霊なんて信じない」と思う方も、「霊的存在を信じる人もこの世にはいるのだ…」くらいの気持ちがないと、「ファントム」や、“トート=死”が登場する「エリザベート」といったような作品はそもそも楽しむことはできないだろう。「美の殿堂を統べるのはただ、美のみ。闘え。闘うのだ。美の殿堂を守る聖なる魂を降ろし、味方につけて。ただ、清らかなる魂しか、聖なる魂を降ろすことはできない」とのリヒャルト・シュトラウスの声を聴いた身としては、――というか、劇場空間においてそもそもリヒャルト・シュトラウスの姿を見、声を聴く者としては――、私は当然のように、劇場に棲みつく精霊の存在を信じるものである(初出は2011年7月15日<美の殿堂を守りきれ!〜NHK交響楽団第1700回定期公演Aプログラム リヒャルト・シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」>http://daisy.stablo.jp/article/448444624.html)。劇場における精霊、また、劇場空間をときとして支配する不思議な力について、偉大な芸術家がどのように考えていたか、そしてその事実を現代の優れた演出家がどのように解釈しているかについて、最近で一番示唆に富んでいたのは、鬼才ジュリー・テイモアが監督し映画化した、ウィリアム・シェイクスピア原作「テンペスト」であるが、この作品についてもここではこれ以上ふれない。
 そして、今回の「ファントム」で私の思考をとらえたのは、「劇場における“ファントム”の正体」なるテーマばかりではない。“ファントム”、幻想とは、何も劇場のみならず、人の心にもまた根強くひそむものでもある。また、そもそも、ファントムのように劇場で仮面をつけている存在とは、役を演じて仮面をつける“役者”のアナロジーなのではないか――という論点も生じる。劇場の立つ地、劇場建築における“地霊(ゲニウス・ロキ)”についても考えざるを得ない(“地霊”なる概念について私の目を拓いてくれたのは、もう十年以上も前に最初に手にした、建築史家・鈴木博之の「東京の[地霊]」、「日本の<地霊>」の二冊である)。また、劇場の地下に棲むファントムがヒロイン・クリスティーヌに歌のレッスンを施す際に歌われる「You Are Music」のあまりの官能性、エロティシズムにふれて、人間の内にひそむ“音楽なる官能”についても考えることとなった。
 今回の「ファントム」がこれほどまでに多様な示唆に富む作品たりえたのは、出演の花組一同及びスタッフの、三度目の上演にあたって前二作より少しでも進化した舞台を創造したいという意欲、奮起があってのことである。なかでも、オペラ座の歌姫との道ならぬ恋に溺れ、不義の子“ファントム”を為した父親、オペラ座前支配人ジェラルド・キャリエールを演じた壮一帆の演技は、前段落で挙げた論点を発見する上で、創造の泉から水が湧き出すようなインスピレーションを私に与えてくれた。“ファントム”=幻影を生み出す人の心の弱さ、それに打ち克とうとする愛の強さ、人間存在にひそむ官能、そして、役者なる不思議の存在について、彼女ほど大いなる霊感を示してくれる人物を、今の私は他に知らない。壮一帆の演技は、「ファントム」なる作品の構造と、キャリエールという人物像を、根本から変えてしまったのである。
 金縛りショックが続いたまま「高円寺阿波踊り」に行ったら人酔いしてぐったりしまったので、取り急ぎ。フィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵役を演じる姿で最終確認。
 朝夏まなとは“白”の男役!
 白&淡い色の衣装を着るとさらに引き立つそのオーラ。まばゆし! 今年に入ってもっとも伸びた一人であること間違いなし。上背&長い手足をもっとフルに生かして、男役の仕草でも魅了できるようになるとなお良し。
 最近、こうやって“白”と感じるのはもしかして、“共感覚”といわれる現象なのかな…と思わないでもなく。文字や音、数に色が見えることはないのだけれども、“ミラータッチ共感覚”(二方向あるうち、他者が対象者にふれられているのを見て、自分がふれられているのと同じ感覚が生ずる方)はたまに起こるような…。ちなみに、この作家はもしかして人に色を感じる共感覚の持ち主なのかな…と、“ブルー”、“ブラック”、“ホワイト”等々、色名で呼ばれる人物ばかりが登場する、ポール・オースター原作の舞台「幽霊たち」を6月に観て思った次第。個人的に非常に不思議な出来事があったこの舞台についてもまた詳しく。
 宝塚大劇場で花組公演「ファントム」を観劇したとき、「あれ、もしかしてヴィジョン出せるようになってきたのかな?」と思った娘役がいた。それが、東京公演の幕が開いて一週間足らずであっという間に覚醒してしまった! パリ・オペラ座の舞台を華やかに彩る“かしまし娘”の一人、華月由舞がその人物。自身が宝塚歌劇の舞台に立つ喜びを、役柄がオペラ座の舞台に立つ喜びに重ね合わせて、壮絶オーラでチャーミングに熱演中。シャープ&セクシーな踊りと共に見せる表情もとっても蠱惑的。今公演で退団とは本当にさみしい限りだけれども、9月11日の千秋楽まで素敵な舞台姿を見守り続ける次第。
 それではここで花組の現在の覚醒状況を発表〜。超覚醒して美の道驀進中の壮一帆の他に、覚醒リーチが三名。そのうち一番覚醒に近いのは愛音羽麗。想念のヴィジョンが出ているのは他に六名。そのうち一人が“白の男役”認定間近で、新人公演学年ではトップ娘役の蘭乃はなともう一人。今公演中にはたして何が起こるか、楽しみ!
 退団作となった「バラの国の王子」で、野獣に変えられた王子の家臣の一人、ミスター・モンキーを演じて、桐生園加は銀橋で軽やかに舞い踊る。恐らく、2009年の「ラスト プレイ」で演じたチンピラ、ヴィクトール役として、相棒と交わした楽しい珍問答、「俺は去る」「猿になるのか?」からの連想ではないかと推察。「ラスト プレイ」の“心のキャラ”ヴィクトールを懐かしく思い出した(http://daisy.stablo.jp/article/448444499.html)。
 昨年の「スカーレット ピンパーネル」でのプリンス・オブ・ウェールズ役での好演については、<頭脳派ダンサー、快演〜宝塚月組「スカーレット ピンパーネル」その7>http://daisy.stablo.jp/article/448444539.htmlにおいて記した。前回大劇場公演の芝居作品「ジプシー男爵」ではセリフでヴィジョンを出していた。併演のショー「Rhapsodic Moon」では、桐生はロケットボーイを務めて観客の心楽しませる銀橋渡りを披露した。このときの姿に連想したのが、彼女が入団し、花組に配属されたときにトップスターを務めていた愛華みれである。ぱあっと明るく華やかに、どこか大陸的な大らかさで客席を包み込み、魅了する様が、「Rhapsodic Moon」を担当した中村一徳が手がけた「ザ・ビューティーズ!」での愛華の姿を彷彿とさせてならなかった。
 桐生園加は“ダンサー”である。ダンサーであるからには、“音”になる瞬間を一度は観てみたい…とずっと願ってきた。その夢が叶ったのが、今年の初め、彼女が芯を務めたダンス公演「Dancing Heroes!」である。第一部の終わりに、出演者一丸となっての気迫のこもった和太鼓の場面があったが、センターに立つ桐生がソロで叩きつ踊った刹那、彼女が“音”と一体となったのを、私は確かに目撃したのだった。
 「バラの国の王子」でも、退団のショー「ONE」の中詰、さまざまな“世界一”を競う楽しい“ギネス”のシーンでは、「くるみ割り人形」の曲に乗せて得意のマリオネット・ダンスを披露している。”One” and only、唯一無二のダンサーぶりを見せて、桐生園加は宝塚を去る。

 「バラの国の王子」で同じく家臣の一人、ジャガーを演じている研ルイスは、ずっとずっと、月組にいる人だと思っていた…。
 あひるは今でこそ、舞台上のパフォーマーが歌っているときばかりではなく、セリフをしゃべっているときにも、そして、作曲家、劇作家、演出家の“想念”のヴィジョンもよく見えるようになった。しかしながら、昨年の「ジプシー男爵」「Rhapsodic Moon」での研ルイスには驚いた。何と、客席に向かって歩いてきただけでヴィジョンが現出! 宝塚歌劇の舞台に賭ける想いが本当に真摯で強い人なのだと感じ入ったものである。
 今年一月半ばの「STUDIO 54」は、そのジャーナリズム、ジャーナリストの描き方にあまりにショックを受け、怒りを通り越して悔し涙が止まらなくなり、自動泣き人形のようになってしまって、記者招待日、近くに座っていた取材仲間を大いなる混乱に巻き込んだあひる(よもや感動のあまり泣いているのではあるまいなと誤解させた模様)。一度でも事実や写真の捏造に手を染めた者が、真実などと言い出しても…。逆に言えば、心あるジャーナリスト、カメラマンならば、己の報道に何とか真実性を担保するために日夜心血を注ぎ続けるものなのである。そんな厳然たる事実を理解しようとはしない者もいるのだと、悲しく思った。
 けれども、その涙は、ジャーナリスト、ボリス・アシュレイを演じた研の高潔さに救われた。ボリスは、君だけの真実を書くのだと、実は息子である主人公ホーリー・アシュレイを励ます。研の落ち着きあるたたずまいが、世界中を旅して回り、己だけの真実を見つめ続けてきた一ジャーナリストの姿を体現していた。作中、ファンキーで個性豊かなキャラが多数大暴れすることができたのも、研がそのキャリアを通じて培ってきたしっかりとした男役芸を見せて、舞台における宝塚性を護っていたからに他ならない。この作品における“心のキャラ”はボリス・アシュレイをおいて他にない。
 「スカーレット ピンパーネル」映画版では、研扮するサン・シール侯爵のギロチン台での絶唱が大写しになったことがうれしかった。
「神よご覧あれ/狂った時代を/いつかお前たちに/報いが来るぞ」
 研ルイスは、宝塚の男役として、芝居の月組の伝統を受け継ぎ、月組カラーを保つことに腐心してきた。何もトップやスターでなくても、そんなタカラジェンヌたちが、いつの時代も、いつの組にも数多存在する。彼女たちの存在は決して軽んじられるべきものではない。このサン・シール侯爵の絶唱が呪詛ともならぬよう祈っている。
 Thank you all and goodbye for now!
 というわけで、雪組の覚醒者第一号は、「黒い瞳」「ロック・オン!」で神々しいまでの舞台を見せている晴華みどりである。己の使命を確信した者だけが見せる、尋常ではないオーラにあふれている。つぼみを愛でる花なのかと長年思っていたら、開花してみたら、このうえなく大輪の麗しの花だった! 晴華みどりのこんな舞台が観られるなんて、本当に感無量である。ずっとずっと、彼女はいったいどこに行ってしまうのだろう…と思わないでもなかったから。
 「黒い瞳」で晴華が演じるのは、ロシアの実在の女帝、エカテリーナU世である。1998年の初演では、後に劇団四季で活躍する実力派娘役、千紘れいかの演技が評判になった。ヒロイン・マーシャをかばい、無実の罪に問われることとなった主人公ニコライ。ニコライを救うため、マーシャは単身ペテルブルグへ赴き、エカテリーナU世に直訴の嘆願を決意する。あひるは昔、偕成社の「少女名作シリーズ」が大好きで、なかでも忘れがたい二冊が、「椿姫」と、ロシアを舞台にした「あらしの白ばと」だった。「あらしの白ばと」は、無実の罪でシベリア送り(という言葉を覚えた作品だった)になった親を救うため、ヒロインが一人ペテルブルグまで旅し、陛下に直訴して赦しを得る物語だったのだけれども、年端もいかない少女が愛と勇気をもって行動し、ほとんど不可能を可能とする、その姿に、少女のあひるは勇気づけられていたのだと思う。
 その「あらしの白ばと」を読んだときの気持ちを思い出させてくれる、「黒い瞳」のエカテリーナとマーシャ対峙のシーンは、あひるの心の宝塚史に残る名場面である。そして、今回の晴華みどりと舞羽美海による演技は、1998年の初演の記憶を超えて、心に深く刻まれることとなった。
 身分や立場を超えて、人間として向かい合うエカテリーナとマーシャ。二人の心の中にはそれぞれ、深い愛ゆえに守りたいものがある。エカテリーナは、亡き夫から受け継いだロシアという国。マーシャは、己の身の危険も顧みず自分の命を救ってくれた、愛するニコライの命。二人は互いの鏡である。エカテリーナはコサックの娘マーシャの中に、自分と同じ愛を見る。そして、国を守ろうとするあまり、立派な女帝を演じようとするあまり、人間として失われていた感情が自分の中にもあったことを思い起こす。彼女は歌う。優しき愛を。夢見る心を。絶唱である。そして、マーシャへの敬意をもってニコライを赦す。
 出てくるだけで周囲を圧するほどの存在感。女帝役にふさわしき位の高さ。そして、誇り高き人間のうちにひそむ心情を伝えてやまない歌唱。晴華みどりにエカテリーナ役をふった人物こそ、今回の雪組全国ツアー公演成功の最大の陰の功労者である。そして、このような人材を生かせる脚本を書くことのできる演出家の登場を痛切に願うものである。多様な人材が活躍を見せてこそ、舞台はますます活気づく。個人的には、今の彼女で一番観てみたいのは、「エリザベート」のゾフィーである。作品の上演史に残る名演が生まれることと思う。
 ショー「ロック・オン!」でも晴華は快進撃を見せる。「第2章 Piano〜Forte」の場面での役どころは、ステージシンガー。ゴールドの帽子にゴールドの衣装、まばゆい姿で彼女は、華やかな舞台への憧れを歌う。「私、今、宝塚の舞台に立っていて、そして、昔自分が客席で観て心奪われ憧れたような舞台ができていて、本当に楽しいの! 心から幸せなの! そのことを誰より、宝塚を愛して劇場に足を運んでくれるお客さまに伝えたいの!」と、心を叫ぶように伝える、輝かしい歌。そして、帽子をとった彼女は、これまで見せたことのないようにりりしく、それでいて優しい愛で包み込むような、一人の大人の女性の顔をしていた…。
 耽美に溺れた紳士の罪を赦して歌う「アメイジング・グレース」も、今の晴華に実にふさわしい歌。そして、パレードでは、歌姫によるしびれるようなエトワールを久々に聴いた…と思った。晴華の歌い上げから拍手のタイミングまで音楽的にちょっと間があるのだけれども、その歌に一瞬も早く喝采を送りたくて、客席がじれる空気が体感できるほど。

 そんな晴華を筆頭に、雪組生が、舞台人、タカラジェンヌとしての原点を確認した上で、宝塚歌劇への愛を語り合う舞台を観ていたら…、世にも不思議な体験をした。
 私の意識はかつて、初めて宝塚歌劇に心奪われたそのときへと確かに戻っていた。
 思い出すのではない。一度、宝塚観劇の記憶の蓄積がすべてリセットされて、あのとき初めて感じたのと同じ心のときめきを再び、けれどもやはりまったく新しいものとして味わっていた。初体験と追体験が同時に訪れてきたとでも言おうか。「こういう舞台が観られるから、宝塚って素敵だなと思えるんだよね」と思うのではない。目の前の舞台が、初めて観る宝塚の舞台として見えて、「こんなに素敵な世界が観られるところだなんて、知らなかった!」と、私は初めて感動していたのである。…こうして書いていても、不思議な体験に、背中の震えがおさまらない。
 そして実際、今の私は、宝塚の舞台を観ていて楽しくて楽しくてしかたがないのである。タカラジェンヌ一人一人に、宝塚との、ときに運命的な、ときに衝撃的な出会いがあり、そして、こんなにも深く宝塚を愛するがゆえにその舞台に立ち続けてきた、その心が、舞台上に生き生きと息づき、躍るのを観られることが、幸せでしかたがないのである。
 もう一つ不思議。
 1999年初演、2001年に再演された月組公演「プロヴァンスの碧い空」は、比喩ではなく、私の生命を救ってくれた舞台作品である。あの舞台がなかったら今日まで生きてはいなかったように思う。「プロヴァンスの碧い空」は太田哲則の作・演出による作品だったが、その流れをもっとも濃厚に汲んでいたのが、太田が2004年に手がけた雪組公演「送られなかった手紙」である。20世紀初頭の帝政ロシアを舞台にしたこの作品は、壮一帆にとってバウホール単独初主演作。そして、晴華みどりにとって初ヒロインを務めた作品である。同じ週に二人がそれぞれ己の使命に一段と深く目覚める様を見届けて、…世界のすべての出来事はやはり、目に見えない糸で複雑にも結ばれているものなのだと感じずにはいられない私がいる。