「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の壮一帆を観ていて、…一瞬、胸がちくりとした。
「…そうか、私、こういうかっこいい女の人に生まれてきたかったんだ…」
 40年以上生きてきてまだそんな幻想を抱いていたのか〜と、自分で自分に猛烈に喝を入れたい気分に…。
 何も宝塚の男役トップスターとは言わない。憧れの先輩として、学生時代、下級生女子たちからきゃあきゃあ言われて、バレンタインのチョコレートをもらったりしてみたかった。かっこいい女性に生まれていたならば、大学を卒業して社会に出てからも、男に伍してもっとバリバリ働けていたのでは? 「…女、つらい…」と思って生きていた時期も、生まれ変わったら男になりたいとは思わなかった。女のまま、もっと幸せになれる道を何とか切り開きたいと思っていて、そう生きているであろうかっこいい女性に憧れた。私の中にも男っぽい部分はあると思うのである。けれども残念なことに、男役向きの風貌ではない。文章については大学時代から男っぽいと言われてきたから、書く上では、自分の男っぽい部分は割に表現され得るのかもしれないけれども。
 自分の幻想と思わず向き合ってしまうような、そんな壮一帆の舞台姿だった。
 私は何も、彼女に自分の理想を投影して崇めているわけではない。あれほどまでに颯爽とかっこいい女性として舞台に現れる上では、日々さまざまな苦労と困難を乗り越えてきているのだと思う。それは彼女の舞台から伝わってくる。一人の人間、女性として、当然あるであろう幾重にも複雑な感情ときちんと向き合った上で、舞台上では、爽快さであったり、磊落さであったり、そのときどきに必要とされる要素を純度高く輝かせてみせる。それは例えば、モーツァルトが、「金〜」とか「妻〜」とか内心では思っていたかもしれないにも関わらず、彼の書いた楽曲は、きちんと演奏されれば美しく響くのに重なる。だからこそ、私は壮一帆の舞台が好きなのである。

 「オーランドー」を読んだのはその直後である。読んですぐ思った。現代日本においてもっとも“オーランドー”に近い存在、それは、宝塚の男役だと。
 1928年に発表された「オーランドー」は、イギリスの女流作家ヴァージニア・ウルフが、女流詩人ヴィタ・サックヴィル=ウエストに捧げた、伝記の体裁をとった小説で、“文学史上最も長くて最も魅力的なラブレター”と評されてもいる。物語はエリザベスT世治下の時代に始まり、そのとき少年オーランドーは16歳。そして彼は、生きる、生きる。約350年もの時を超え、さまざまな時代を経巡り、17世紀末には女性! へと転生して。物語ラストとなる1928年には、女性のオーランドーは36歳、当時のヴィタと同年齢である。
 物語の誕生には背景がある。ヴィタの生家サックヴィル家はノルマン征服時代へと歴史をさかのぼることのできる名家で、今もケント州にある館ノールは、エリザベスT世がヴィタの祖先へ贈った当時、イギリス最大の私邸だった。そして、父を亡くしたヴィタは、1928年、こよなく愛したこの邸を去らねばならなくなる。娘には相続権がなかったから。物語の中のオーランドーは、その350年もの長き生の間、エリザベスT世の寵愛を受け、文学に勤しみ、トルコ大使となり、七日間の昏睡の後、実に自然に女性へと生まれ変わり、ジプシーの仲間となり、やがてイギリスに戻り、文士たちのパトロンとなり、海の男と結婚し、16世紀以来書き続けてきた詩を完成させて文学賞を受賞し、男の子を産む。これらの事実はサックヴィル家の歴代の人々と符丁するところがある。つまり、サックヴィル家の歴史がオーランドーなるキャラクターに集約されて描かれているのである。それは、女性であるがゆえに、代々受け継がれてきた館を父から相続できなかったヴィタに対する、ヴァージニア・ウルフの愛深き慰めに思える。あなたは館は相続できなかった。けれども、サックヴィル家の歴史は、あなたという女性の中に確かに受け継がれているのよ――と。
 そして言うまでもなく、オーランドーのキャラクターにはヴィタその人が投影されている。ヴィタという人は男性女性問わず魅了する大変魅力的な人だったようで、結婚、出産の後、幼なじみだった女性と駆け落ちし、男装して過ごした出奔先のパリで他の女性から思いを寄せられたりもする。ちくま文庫の「オーランドー」には、“オーランドー”として彼女の写真が載せられているが、美しい人である。そして、ウルフの描写によれば、たくましくも美しい脚の持ち主だったようである。
 ヴィタ自身が件の駆け落ちの顛末を綴った文章も読んでみたが(「ある結婚の肖像」平凡社)、ウルフが創り上げた「オーランドー」の方が格段におもしろく、そこに芸術の力を感じた。この伝記の“語り手”、つまり伝記作家は、ときどき読者に直接ユーモラスに語りかけてきたりして、そのスタイルに慣れるまでは少し時間がかかるけれども、読み進めるうちに頁をめくる手が止まらなくなってくる。そして、サックヴィル家の歴史が流れ流れてオーランドー=現在のヴィタへと集約され、オーランドー自身が世界と一つとなり、真に生きる喜びを見出す終章に至って、…私は、1928年から86年もの時を超えて、ヴァージニア・ウルフその人に、「…しっかりね!」と背中を押される思いがしたのだった。女性が物を書くことが歴史上いかに困難であったかについて、ウルフは、「オーランドー」にも、また、この小説とセットで読まれるべき翌年刊行のエッセイ「自分だけの部屋」にもその考察を記している。「自分だけの部屋」においては、例えば、ナポレオン法典において女子教育が軽視されていたことがユーモアたっぷりに皮肉られており、「怒りに任せて書いてはだめよ」と諭されるようである。
 ちなみに、オーランドーといえばすぐに連想されるのがウィリアム・シェイクスピアの「お気に召すまま」の恋のヒーローであるが、男性性と女性性、その双方のバランスのとれた、理想の芸術家たる両性具有者として、ウルフが敬意を表するのがシェイクスピアである。「オーランドー」の物語の冒頭に、シェイクスピアその人が、何やら詩を書きつけている“詩人”として登場するのだが、ウルフがヴィタに捧げたこの小説の中で、シェイクスピアが書いているのもまた、同性の想い人に捧げるソネットであるのかもしれない。
 「オーランドー」で私がとりわけ好きなのは、終章、36歳の女流詩人オーランドーが、ロンドンのハイド・パークのサーペンタイン池のほとりで見るヴィジョンのくだりである。人生と文学について考察にふける彼女は、池を行くおもちゃのボートを、海の男である彼女の夫が乗った帆船と見る。その帆船はあひるの群れを縫って大西洋の彼方の岸辺へと向かい、その光景を目にしたオーランドーは「エクスタシー!」と叫ぶのである。彼女は悟る。大切なのは、命をかけるほどのもの、エクスタシーなのだと。
 そして、ノールの館に戻ったオーランドーは、人間精神の内に宿る数多の人間について思いを馳せる。このくだりを読んでいると、人とは皆“演劇的存在”であると思わずにはいられない。一人の人間の中にはときにまるで別人のような存在もいて、一人の内にいったいどれほど多くの存在がいるかわからず、時と場合、相手によって違った顔が現れる。ヴァージニア・ウルフの名高い“意識の流れ”とは、そのような存在である人間を、文章上写し取ろうとする一つの試みであるかもしれない。そして、一人の人間精神の内に宿る数多の人間存在について、私個人がもっとも考察を深められる場所はといえば、劇場に他ならない。

 「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の作・演出は藤井大介。2014年、創立100周年を迎えた宝塚歌劇団が自らを華々しく祝うショー作品で、東京宝塚劇場ではまさに100周年幕開けのお正月公演として上演された。
 壮がライトに照らし出され、一人踊るところから作品は始まる。黒いベストに黒いパンツ、白いコートという装いだ。やがて雪組生もその踊りに加わる。娘役陣のトップスは黒のキャミソール風という違いはあるが、やはり黒いパンツに白いコート姿である。コートの裾を颯爽と翻しながら壮は踊る。このオープニングでとりわけ感嘆するのは、「聖者の行進」に乗って、娘役陣を引き連れた壮が舞台奥から前方へと進んでくる箇所である。そこにいるのは全員が女性であり、ほぼ同じいでたちをして、同じ振りを踊って、しかしながら、髪型や仕草、立ち居振る舞いの微妙な違いで、男性性と女性性との差異が表現される。
 宝塚の代表的楽曲である「すみれの花咲く頃」に続いて流れるのは、主題歌「CONGRATULATIONS 宝塚!!」(作曲・青木朝子)。ゴスペル風の調べに乗って壮は荘厳に歌う。――と、そこは美の聖堂となる。曲は手拍子せずにはいられないご機嫌なメロディへと変化し、その歌詞には、「もっと進もうよ 壮大な帆を張って」と壮の名前が刻み込まれている。「100周年祝おう 宝塚!」と壮が宣言すれば、「宝塚 MUST GO ON」のリフレインに乗って、雪組生たちが劇場後方通路まで華やかに客席降り。劇場全体が一つになる瞬間である。
 銀橋上、乾杯ソングが歌われて、続くのは通称“男祭り”の場面。女人禁制のクラブで男たちが祝杯を上げているという設定で、登場するのはタキシードを着こなしてキザりにキザる男役のみ。「テキーラ」の曲に乗って、壮を筆頭に、雪組男役陣がその男役芸のすべてをかけて客席を酔わせにかかる。乾杯ソングのエンディングに「…秘密…」とばかりに口元に指をやる仕草、「テキーラ」での、ジャケットの片側を翻したりはだけたりといった力の抜けた風の振りの中、壮の男役芸には遊び人風の危うい色気が濃厚に香る。その色気をとりわけ引き立てるのは、ときにしなやかに、ときにワイルドに動かされる、彼女の大きな手である。
 続く中詰は、ディズニーランドの“エレクトリカル・パレード”の如き光と音の祝祭と、宝塚歌劇との華麗なる融合である。パリにまつわる宝塚の名曲を、銀橋上歌い継ぐ雪組スターたち。髪の毛をびしっと後ろに撫でつけ、シャンパンゴールドの衣装をまとい、オーケストラ・ピットから銀橋中央に登場して壮が歌うは「モン巴里」。1927年初演、岸田辰彌作・演出の日本初のレビュー「モン・パリ」の主題歌の現代風アレンジである。次いで、「夜霧のモンマルトル」に乗って、壮と娘役トップスター愛加あゆとのデュエット・ダンス。大人の男女の駆け引きを思わせる振付で、ここでの壮は「テキーラ」の場面よりさらに辛口でハードな男役芸を見せる。
 ところがところが…、にぎにぎしくも楽しいフレンチ・カンカンの場面に続いて、壮は、この上もなく美しい女性、“グランドエトワール”として登場するのである! 電飾の世界、せりあがってきた壮のゴージャスな輪っかドレスも電飾に彩られている。頭には大きな飾り羽根、幾重にも重なる金の縦ロール、長い首元を引き立てる大きな襟とリボン、そして、フリルとレースとスパンコールに飾られたその優美なドレスは、前面だけがミニ丈で、ゴールドの高いヒールの靴をはいた壮の美しい脚が大胆にあらわになっている。作・演出の藤井は、花組二番手時代の壮に、「ル・パラディ」で妖艶なドレスをまとわせ、その脚の美しさを広く知らしめた人物である(<「舞台は最高のエクスタシー」〜宝塚花組「Le Paradis!!」&「ファントム」の壮一帆>http://daisy.stablo.jp/article/448444696.html)。大変な重量があるというこのドレスをまとった壮は、男役ならではの迫力美に満ち満ちている。いかにも女性好みの甘やかな装飾にあふれたドレスでも、壮が男役の気概をもって着こなすとき、そこには、女王の如き威厳とりりしさとを伴う艶めかしさが備わる。「シャンパーニュ」と心華やぐ歌を歌い、「ジュテーム」の決め台詞に投げキス。ベル・エポックの華、サラ・ベルナールの美しさやかくや、観る者を心酔わせる。
 次の壮の登場はラテンの場面。ハリー・ベラフォンテの「ココナッツ・ウーマン」を明るく歌うその笑顔はあどけなく無邪気で、女性のかわいらしさを大いに生かした男役芸を見せる。だが、オリジナル曲「RED ROSE BLOOD」に変わると一転、打って変わって妖艶な表情で、エロティックなデュエット・ダンスに南国の真夏の激情をほとばしらせる。再び「ココナッツ・ウーマン」に乗って客席後方の扉から登場するときは、太陽のような明るさをまとっているのだけれども。
 続く場面、オープニングと同じ黒いベストに黒いパンツ、白いコートという装いで現れた壮は、“プレイヤー(祈る者)”として、「リパブリック讃歌」を謳い上げる。「His truth is marching on」――神の真理は進みゆく。それは、天上に在る美の神に対する宣言である。この劇場は、美に尽くし美に生きる者の聖堂、美の殿堂であり、そうあらんことを永遠に希求するとの。謳い上げて銀橋を渡り切った壮が本舞台を見やると、大階段上、雪組生による「100」の人文字が現れている。胸しめつけられる瞬間である。宝塚歌劇が今日まで100年もの長きにわたって続いてきたのは、美を希求する日本の少女たちの祈りにも似た想いに支えられてきたからではなかったか――。そして壮は高らかに言祝ぐ。
「CONGRATULATIONS!!」
 主題歌「CONGRATULATIONS 宝塚!!」と「リパブリック讃歌」が絶妙に掛け合わされて流れる中、劇場は再び祝祭ムードに包まれ、この公演で退団する雪組生が、壮の歌に乗って踊る。そして再度の客席降り。今ここに共に宝塚創立100周年を祝えること、今ここに共に生きて在ることの至福――。
 壮がチャーミングな合図と共に袖に引っ込んだ後、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」のアレンジに乗って繰り広げられるラインダンスも大好きである。通常ラインダンスというと下級生たちが初々しさ、フレッシュさを見せるものが多いが、今回は上級生娘役陣がずらっと居並び、衣装もセクシーに戦闘力MAX。私がとりわけ好きなのは、二人ずつ顔を合わせてのキュートな片足上げポーズから、センターのV字フォーメーションの一陣がかぶっていた帽子を手にして踊るところの曲調で、…何だか、今こうしてコケティッシュな魅力を見せている娘役たちも、そして男役たちも、タカラジェンヌとしての始まりはラインダンスからだったのだということを改めて深く認識して、心揺さぶられずにはいられない。
 曲は「Oh Happy Day」。大階段に現れた壮と愛加のデュエット・ダンスは、さきほどのそれとは雰囲気がガラッと違い、微笑みを浮かべた二人がほっこりと温かな幸せを表現する。銀橋上一人残った壮が、ベートーヴェン「交響曲第9番」のあまりに有名なメロディに合わせてくるりと一回転して客席を見やれば、その表情は一転、きりりと引きしまっている。そして、宇宙的、未来的な編曲がなされた「第9」に乗って、雪組男役陣がその勢いをスパークさせ、宝塚歌劇の輝ける未来を祝する。私は、ヒロイン・レオノーレが男装し、フィデリオと名乗って、獄中にある夫を救い出すベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」を思い起こしながら、この場面を観ていた。――「オクタヴィアンと力を合わせ、この世の謎を解き明かしなさい。シェイクスピア、モーツァルト、ベートーヴェン。偉大な芸術家たちはその作品の中に、男装する女性を登場させてきた。それは、性が男と女の二つに分かれていること、そのこと自体がこの世の一つの謎だと、彼らが考えていたからとは思わないかね」――。かつて私は、壮一帆の舞台の上にそんな声を聴いた。そして今、思うのである。男性性と女性性とを自由自在に行き交うことのできる宝塚の男役とは、ヴァージニア・ウルフが「オーランドー」の中に永遠に閉じ込めた美にも重なる存在であると。
 壮一帆は今月末、退団の時を迎える。“男性”から“女性”へ。華麗なる転生の瞬間である。

 胸がちくりとした私は、その後、深く納得したのである。ないものねだりはもはやすまい。今生では、私は自分の理想とするようなかっこいい女性に生まれてはこなかった。それは仕方ない。持って生まれた風貌と、自分自身の内なる男性性と女性性とに折り合いをつけて生きていくしかない。
 けれども、私は、壮一帆の舞台を観、書き記すとき、その折り合いがもっともうまく行っているのを感じる。そして、自分の今生に深く満足するのである。――あひるの群れを縫って彼方の岸辺へと向かう帆船を目にして、「エクスタシー!」と叫ぶかのオーランドーのように。
 初日(8月1日)前の舞台稽古を見学。
 雪組トップスター壮一帆の退団公演にあたる今回の二本立てですが、この舞台を観て、退団公演観、ひいては退団観が変わりました。これまで、「トロイアの女たち」のヘカベの如く、まるでこの世の終わりのように泣いていたのは何だったんだろう……。さわやかで、前向きで、晴れやかで。そして、男役・壮一帆は、退団後の彼女の中にも確かに存在していくのだとはっきりと認識できて、未来もちゃんとここからつながって続いていくのだと感じられる舞台。
 会見後の囲み取材で、8月9日のNHKの特番「第46回 思い出のメロディー」(19時半〜)出演への意気込みもおうかがいしました。東京宝塚劇場からの雪組スペシャル・レビューの生中継、楽しみにしています。
 壮一帆が「冥途の飛脚」を原作とする舞台に主演することがなかったら、私は近松門左衛門作品を読むことはなかっただろう。まんまと嵌って、今や浄瑠璃本の虜である。
 実際にその文章にふれて、女性の肌や脚などの何気ない描写に漂うそこはかとないエロスに、谷崎潤一郎作品に通じるものを感じた。上方のエロティシズム。そして、亀屋忠兵衛役として舞台に現れた関西出身の壮は、まるで錦絵から飛び出してきたかのような、水も滴る色男なのだった。正直、昔の日本男性の髪型は美やエロスからほど遠いものとしてしか感じられなかったのが、目から鱗が落ちた。愛する遊女梅川と接しているのではないときでも、何気ない仕草や佇まいに、この世にただひとつの愛を貫く人間のもつ色気が濃厚に香る。愛し合う二人の運命の行く末を暗示するかのような幻想の場面、追っ手たちから投げかけられた幾重もの紐に絡め取られ縛られたときの、顔と全身のしどけない表情たるや。二人だけの至福の世界へと白の雪山を登っていく際の、白尽くめの清冽、壮絶。
 そして、声。艶めいた声。その低く抑えられた声がもっとも色気を含んで響くのは、姉さん女郎の色町からの華やかな出立を羨むかのような梅川に対し、お前もそれをしたかったんか――と問い掛けるときである。そうしてやりたかった相手へのとめどない愛、そうはしてやれない己への忸怩たる思いが、抑えられた声の内に交錯して流れ出す。
 封印切の場面は美の凄絶である。この場面を観ていて、以前の壮の優れた舞台、「長い春の果てに」(2012年花組全国ツアー公演)を思い出した。この作品で壮が演じたのは、貧しい生まれ故、母親の命を救うことができず、守銭奴となった医師クロード。彼は、自分は誰も、何も信じないから、裏切られることもない、そう絶唱する。この歌を歌って、壮は、そう生きざるを得ない人間の心情をくっきりと描き出す一方で、こう生きざるを得ない人間はとてつもなく哀しく憐れな存在なのだと、自身の心情をも客席に差し出す。そのメカニズムは、今日に至るまでの私の理解では、こうである。舞台上、実際にその役柄として生きる。と同時に、そうして生きる自身をしかと捉える、舞台外からの冷徹な眼差しが存在する――。
 封印切の場面において、このメカニズムはさらなる精緻をもって進化を遂げた。手を付けてはならない金、自らのものではない金、しかし愛する女の命と魂を救う金に、遂には手を付ける忠兵衛。周囲の誰もが狂気の沙汰だと思う。そのとき、壮の忠兵衛は歌う。親不孝も、友の情けも、女郎の微笑も、出世も、この世のすべても、地獄の沙汰も金次第、と。
 ――刹那、狂気は反転する。壮忠兵衛の存在の表皮を軸点として。狂っているのは忠兵衛ではない。世界である。愛だの心だの口先では言いながら、いざとなるとすべてが金次第の、世界の方が。忠兵衛が内なる狂気を突きつけた刹那、その狂気が拡大鏡となって、我々が生きるこの世を照らし出す。
 決して現状維持に飽き足らない、凄まじいまでの反逆のエネルギー。美しい場所としてのこの世を取り戻さんとする、芸術家の。私はこの場面を観て、壮がいつの日か、そんなエネルギーを感じさせるもう一人の役者と共演するのを、さらに心待ちにするようになったのである。四代目市川猿之助。
 「心中・恋の大和路」の公演に先駆けての二月、雪組トップスター壮一帆は宝塚からの卒業を発表した。トップとなった日から退団までのカウントダウンは始まるものであって、私は特に早いと思ったわけではなかったが、この封印切の場面を観たとき、今なのだということを深く納得したのである。芸術家・壮一帆の自由な魂が大きな空と海とに向かって羽ばたいていくのを、何人たりとも止めることはできない。
 今回の宙組「ベルサイユのばら−オスカル編−」で初めて上演された三部会の場面がいい。「ベルサイユのばら」の舞台は、今回取り上げるのはこの段、次はこの段というように、歌舞伎的手法によって作られている。昨年の「オスカルとアンドレ編」も、フランス国王に市民の窮状を上奏しようと考えるオスカルが、居並ぶ貴族たちと対立を深める一幕ラストの緊迫など、実に見応えがあったが、今回、さらに違う場面を抜き出し、異なるバージョンながらやはり同じタイトルの元の物語として成立させており、作劇の妙を感じる。
 三部会の会議場は封鎖されている。貴族と僧侶、フランスのわずか4パーセントにしか満たない特権階級が、平民議員との同席を拒否したからだ。封鎖を真っ先に知るのは、蓮水ゆうや扮する新聞記者ベルナールである。ベルナールは、かつての同級生である平民議員ロベスピエールや集まった市民たちに、自由、平等、友愛の理想が実現する新しい時代は必ずや来ると宣言する。そして、警護のためやってきたオスカル率いる衛兵隊に対し、強い団結を示す。オスカルは心打たれ、扉を開けようとするが、ベルナールは、平民議員を締め出すのが国王の意志であるならば、かえって市民たちに本当のことが伝わると告げる。本当のことを広く伝えるのは無論、彼が帰って書き記す言葉に他ならない。
 ベルナールの同業者の中には、貴族と僧侶、特権階級に都合のいい報道をすることでその中に入り込み、自らもまた特権階級の一部であると勘違いしている輩もいることだろう。ベルナールは決して与しない。彼は信念の人である。理想のもと、人々と共に闘うという揺るぎなき信念の。ベルナールはオスカルに言う。いつかロベスピエールがフランスを救うと信じているのだと。そしてベルナールは、未来において、ロベスピエールもまた、彼の言葉の剣で斬らねばならない。「ベルサイユのばら」の舞台でロベスピエールのキャラクターがひときわクローズアップされるようになったのは、フランス革命の行き過ぎて後を描いた「スカーレット ピンパーネル」が宝塚で大当たりを取って以降のことと記憶している。「スカーレット ピンパーネル」で描かれるロベスピエールは、かつての高邁な理想主義者から、陳腐な独裁者へと堕している。後の時代のそんなロベスピエールを、信念の人ベルナールは斬らねばならない。
 クライマックスのバスティーユ襲撃へと連なる、市民結集の場面でも、ベルナールはロベスピエールと共に仲間たちを奮い立たせる。歌うは「愛する者のために」。2008年の星組全国ツアー「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」で聴いたときから、地獄の底の絶望から人々が立ち上がっていくようなこの曲が好きである。
 いずれの場面でも、青白い炎となって燃える蓮水のベルナールを観ていて、物を書く人間としての己の根本を力強く再確認した。感謝である。今日の日の卒業、本当におめでとう。
 ときにジャルジェ将軍をいさめ、オスカルには優しい心を見せる乳母マロングラッセを演じた専科の一原けい。盲目の少女イザベルに扮して可憐さを見せた愛花ちさき。そして、すみれ乃麗(「誰がために鐘は鳴る」「記者と皇帝」と、北翔海莉と組んだときの彼女はかわいかった)も、蓮水と共に退団である。どうかよき一日を。
 宝塚歌劇百周年の今年、「ベルサイユのばら」作・演出の植田紳爾にとっての理想のオスカル役者、凰稀かなめが在団していたことを、心からうれしく思う。男役・凰稀かなめにインスピレーションを受けて、植田は新たなる「オスカル編」を生み出し、凰稀もよくこれに応えた。
 私は昨年の「オスカルとアンドレ編」に感銘を受けた後、数年前に演出家に対して行なった「ベルサイユのばら」にまつわるインタビューを思い起こしていた。とある一人の宝塚ファンが、彼に手紙を送る。「ベルサイユのばら」という少女漫画が大ヒットしているけれども、宝塚にきっと似合うと思う、と。このとき、演出家は思う。いくら大人気だからといって、宝塚がその人気に乗っかるだけではしゃくだ、と。座付き作家の矜持を感じる。
 原作漫画誕生から40年あまりを経て、オスカルは今なお人気のキャラクターである。そして、女ながら男装して生きる麗人オスカルは、宝塚ファンにとって、自分の贔屓の男役と多分に重なるところがある。極端な話、贔屓のスターがオスカルの扮装をしただけで、そこにオスカル像をみとめることすら可能だろう。しかし、それだけでは決して十分ではないことは、先の演出家の矜持からも明らかである。確かにオスカルは男装の麗人であり、女性が演じる宝塚の男役もまた男装の麗人である。そして、宝塚歌劇で上演するからには、原作から最大限の魅力を引き出すと同時に、宝塚歌劇の魅力、男役の魅力というものもまた最大限に発揮されねばならない。
 私は以前、オスカルは危険な役柄であると書いた。それは、女ながらに男装して生きるオスカルの境遇がそのまま、宝塚の男役の境遇と重なりすぎるからである。今回の「オスカル編」では、衛兵隊や市民の側から、オスカルは貴族だから我々とは最終的に行動を共にしないのではないかという疑念が物語のかなり最後の方まで提示されているから必ずしもそうでもないのだが、以前のバージョンでは、女性ながら男として生きるオスカルの生き方や苦悩が周囲の人々から気高いとして崇められる部分が多かった。そして、演じる男役がこの言葉を男役としての自分に向けられたものとして額面通り受け取ってしまうようなことが生じた場合、多大な危険が生じる。作中のセリフをただただ自分への賛辞として受け止め、男役として生きる自分に酔いしれるような舞台を見せかねない。これでは、ただオスカル人気に乗っかっているだけである。オスカルと宝塚の男役に重なる部分が多いからこそ、役柄との適切な距離感が非常に重要になってくるのである。
 オスカル役は、宝塚の男役にとって、覚醒度合いがわかるリトマス紙のようなところがある。男役として舞台に真摯に生きる覚悟なくしては、人々のため、愛のため、真摯に生きる男装の麗人オスカルを、りりしく美しく演じることは不可能である。
 あわせて、衛兵隊を率いて闘うオスカルの姿は、そのまま組を率いるトップスターの姿とも重なるところがあるのだなと、今回の凰稀の舞台を観ていてしみじみ感じた。衛兵隊を、市民を、周囲の人々を深く思いやり、自分を信じてついてきてくれと語る。凰稀自身がトップスターとして本当にそう考えていなければ、与えられたセリフの数々がこの深度をもって心に響くことはないだろう、そう感じる瞬間が多々あった。凰稀かなめは、本当にいいトップスターになった。

 今回、アンドレ、ジェローデル、アランの三役での役替わりがあり、それぞれの魅力で魅せたが、なかでも、アンドレとアランを演じて優れた舞台を見せたのが緒月遠麻である。自分自身も深くオスカルを愛しながらも、アンドレのオスカルへの愛を前に、すべてを飲み込んでしまう男アラン。その沈黙が、せつない痛みを伴って心に突き刺さる。アランのために書かれた新曲も堂々歌いこなし、銀橋を行く姿は大人の男役の魅力にあふれる。衛兵隊をまとめるボスとしての風格もたっぷり。アランがオスカル隊長を受け入れるからこそ、アランに従ってきた衛兵隊もまたオスカル隊長を受け入れるのである。凰稀オスカルが少女漫画から三次元の世界へとそのまま抜け出てきたような風であるのに対し、緒月はあくまで役者としてアラン役にアプローチしているのがまた、二人の当初の差異を際立たせて実に面白かった。
 そして、アンドレ。舞台は決して役者の関係性でのみ成立するものではないが、凰稀オスカルと緒月アンドレの場合、雪組で同期として切磋琢磨し、数年の後、互いに大きく成長して宙組で再び相見えた、そんな、二人にしかない歴史がそのまま火花となって閃いた。二人の役者の、青春を賭した、人生の大舞台の目撃者となれたことを幸せに思う。アンドレが橋の上で撃たれ、壮絶な死を遂げる名シーンはほとんど、過去の己と訣別し、役者として新たな生を享けたかのようだった。アンドレを演じて後、緒月は再びアラン役に戻ったが、アランとしてアンドレにセリフを発する際などもう、巧まずして“分身”の技をかけているかのようなのである。役者としての今後の活躍からますます目が離せなくなってきた。

 今回新しくなったエンディング及びフィナーレがまたいい。新しくなった物語から自然と続いて、新たな地平へと敢然と踏み込んでいく。壮絶な戦いの末、天上へと昇ったオスカルが歌う新曲「花のいのち」の一節――その花は 女として生まれ 男として生き 人として宙に還る――。
 名ナンバー「ばらのタンゴ」を、凰稀は、ブロンドの長髪に、身体の線もあらわなセクシーな衣裳で踊る。なよなよとした男役が踊ってはこうはいかない。目も当てられないシーンとなるだろう。凰稀のその姿は、美しい女性でありながら、それでいて、男性的なたくましさをも湛えて線の太い、不思議な魅力に満ちている。
 そして、「愛の讃歌」にのってのダンス。黒燕尾服姿の凰稀は、最初のうち、長髪をアップにした姿で、そしてナンバーの途中でそのまとめ髪をはっとふりほどいて踊る。なんとも妖しく艶めかしい。そう、ここは、宝塚の男役の“正体”の、舞台上における種明かしのシーンなのである。オスカルが男性の姿をした美しい女性であるように、宝塚の男役を演じているのは美しい女性である。それは通常、舞台と客席とが互いにふれない約束事である。しかしながら、男装の麗人の物語を描き出した今、その約束事は敢えて種明かしされる。だからといって、興醒めするだろうか。――否。これは、少女漫画史に燦然と輝く名作と、世界に稀なる女性だけの劇団との、幸福なマリアージュの絶頂の瞬間である。日本に生まれ、生きる女性の、その美しさを讃える両者の。
 昨年の「フェルゼン編」における壮一帆のフェルゼンの演技に引き続き、今回の「オスカル編」における凰稀かなめのオスカルの演技で、この二役に対するハードルは非常に高いものとなった。今後の舞台は、この両者をメルクマールとして上演されていくべきである。
 宝塚歌劇百周年の本年もほとんど休みなく舞台に出演、名演技を披露し続ける専科の汝鳥伶である。
 近松門左衛門「冥途の飛脚」を原作とした、3〜4月の雪組「心中・恋の大和路」では、歌舞伎でいう“新口村の段”にあたる場面に登場。壮一帆扮する主人公・忠兵衛の父、孫右衛門役を演じて、ワンシーンのみの出演ながら強烈な印象を残した。血のつながった息子はかわいい、死んでほしくない、けれども、息子のしでかした不祥事で迷惑をかけた養子先への義理、世間への義理もある。直接言葉を交わすことはできないその息子の、格子の向こうから見つめる姿をみとめたときの言葉にならぬ想い。アンビバレントな心情を演じて、見事だった。一つ残念だったのは、直接言葉を交わさない場面だから仕方のないことなのだけれども、汝鳥と壮とが演技で、セリフで、ぶつかり合う様が観られなかったことである。汝鳥伶が外部出演する機会があれば、宝塚歌劇以外の観客にもその演技を堪能する機会が生まれるのにと、最近つくづく思う。
 老いた父親を演じる汝鳥のその姿は、私に、亡くなった母方の祖母を思い出させずにはおかなかった。大好きだった、宝塚ファンの祖母。その場面を観ていると、祖母が今は彼岸から私を愛で包み込み、私の行く末を見守っていることがとりわけ強く感じられるのだった。
 宙組「ベルサイユのばら−オスカル編−」には、ヒロイン・オスカルの父親、ジャルジェ将軍役で出演。今回の「オスカル編」には初めて登場する流れが大きく分けて二つある。オスカル誕生からの流れと、三部会の場面である。そして、オスカル誕生からの流れは、汝鳥のジャルジェ将軍の演技を前提に書かれている。代々フランス王家に軍人として仕えてきたジャルジェ家には、娘ばかりが5人。次に生まれる子は、何としても男でなくてはならない。しかし、またしても女! ジャルジェ将軍はこの娘をオスカルと名付け、男として育てることを決意する。はたして彼の思い通り、オスカルはりりしい軍人として育っていくが、フランスをめぐる情勢は風雲急を告げる。軍人である以上、オスカルは戦闘の矢面に立たなくてはならない。父は苦悩する。この流れが、ジャルジェ将軍の神への独白を軸に描かれていく。
 ジャルジェ将軍を演じる汝鳥を観ていて、私は今度は、昨年亡くなった父のことを思わずにはいられなかった。男に伍してバリバリ働く一方で、結婚したら夫に毎朝味噌汁を作るようなよき妻になってほしいと願っていた父。前には、お父さん欲張りだなあとばかり思っていた。反発していた。その裏には、自分はとても父の願うようなスーパーウーマンにはなれないという挫折感があったのだけれども。
 でも、汝鳥のジャルジェ将軍を観て、思ったのである。父が娘に多くを期待して、その上であれこれ心配して、何が悪いと。それが親の愛なのだと。むしろ、多くを期待してくれて幸せだったと今は素直に思える。その期待と心配のもと、私は自由に育ち、夫の赴任先についていくことはなく、夏場の健康を考えて自分のためにダシをとって味噌汁を作り、天職とも思う仕事に邁進している。父は私にニュースキャスターになってほしいという夢があって、私はぽっちゃり体型故、人前に出るのはあまり好きではなかったので目指しはしなかったけれども、でも、取材をしたり、会見に出席したりというあたりではそんなにはかけ離れてはいないかもしれない。亡くなった後も、こうして父という人間とその心情に対する理解が深められることを、幸せに思う。
 人は決して誰かの代わりにはなれない。だから、代わりを求めてはいけない。誰かが私にとって、私の父の代わり、祖母の代わりになるということはありえないし、そんなことを誰かに求めてはいけない。それは、その相手のありのままを愛することにはならないから。けれども、大切な人を失った心の空虚を、誰か他の人の愛が埋めてくれるということはありうるし、大切な人を失った人がいたら、自分自身もそうして愛で埋めたいと思う。そして、私の場合、汝鳥伶の演技を観ると、自分が多くの年長者の愛に支えられてきたこと、そして、その愛に今も見守られていることを、とりわけ深く思い出すのだ。
 初日(6月20日)前の舞台稽古を見学。オスカル役の凰稀かなめは、原作から抜け出てきたような姿が、“麗人”の一語にふさわしい美しさ。オスカルの兼ね備える男性性と女性性とを、それぞれ絶妙のタイミングで表現し分けてゆく。なまじの男より男らしく、それでいて女性らしさも秘めた魅惑の人。そして、凰稀オスカルは愛の人である。人々がオスカルを愛するから、オスカルが人々を愛し返すのではない。オスカルが人々を深く愛するからこそ、人々はオスカルを深く愛するのである。この基本的な愛のベクトルが表現されて初めて、そこにオスカル像が誕生する。作品の制作発表会で、作・演出の植田紳爾は、凰稀について、「声がオスカルだ、と思った」と語った。理想のオスカル役者を得た演出家は、多分に実験的なフィナーレも含め、男として生きてきた一人の女性の生涯を描くことで、女性が男性を演じる宝塚の男役の究極の魅力について突きつめてゆく。宝塚歌劇創立百周年にふさわしい「ベルサイユのばら」のお目見えである。
 宝塚百周年を記念する月組大劇場公演「TAKARAZUKA 花詩集100!!」には各組トップコンビの特別出演があった。私はそのうち雪組トップコンビ特別出演の回を観劇したが、月組と雪組とで娘役芸がこれほどまでにも違うのか…とほとんどカルチャーショックを受けた。月組公演を観、雪組公演を観ることで、違いがあることはこれまでにもわかってはいたけれども、中詰のラテンの場面で、月組トップ娘役愛希れいかと雪組トップ娘役愛加あゆが並んでそれぞれの相手役と踊ったとき、そのエネルギーのベクトルの方向の違いを目の当たりにして、実に興味深かったのである。
 二組のトップコンビがラテンの熱いデュエットダンスを踊る。愛希は、月組トップスター龍真咲と並び、共に客席にエネルギーをぶつけてくる。愛加は、雪組トップスター壮一帆に自身のエネルギーを注いで集め、壮を通じてエネルギーを客席へと発信する。私にはそのような違いに見えた。愛希が男役に寄り添わないのでもないし、愛加が自身では発信しないのでもない。愛希は愛希できっちり相手役を立てているし、愛加は一人で舞台のセンターに立てば客席へと強く発信する。ただ、男役の隣に立つとき、その寄り添い方が異なるのである。良し悪しの問題ではなく、各組における男役と娘役との甘さと辛さのバランスの問題である。何かあれば自身で客席に直接ゴールを決めてゆかねばならない月娘は、さっそうとした、凛とした美しさがあるし、雪娘は、例えば、組に一大事があれば一本槍で先駆けしていきそうな元気印、舞咲りんであっても、その根本にあるのはあくまでほんわかとした可憐さ、愛くるしさなのである。無論、違いがこれだけはっきりとわかったのも、愛希が月組娘役陣を、愛加が雪組娘役陣を代表するに足る娘役芸をそれぞれ兼ね備えているからだと思う。
 そして、東京公演で「TAKARAZUKA 花詩集100!!」を観たところ、この場面での愛希が、壮一帆の威勢のよさ、きっぷのよさと、愛加の愛くるしさとを早速吸収してますますパワーアップしていたのが頼もしかった。私は他の特出コンビについては観ていないのでわからないけれども、吸収も成長も早い愛希のこと、おそらく、他のコンビからも多くを取り入れたのだろうと思う。とても意義深い特別出演企画だった。
 2012年11月、ディナーショー「So In Love」のラストに、壮一帆はシェールの「You Haven't Seen the Last of Me」を歌った。映画「バーレスク」からのナンバーで、劇中では、シェール演じるテスの経営するバーレスク・ラウンジが絶体絶命の経営危機に陥った際に歌われる。題名を訳するならば、“まだまだ終わっちゃいない、底力は見せきっちゃいない”くらいになろうか。
 私はこの歌を不思議な感慨をもって聴いた。というのは、この曲を手がけたアメリカのソングライター、ダイアン・ウォーレンの数々の作品を、少女時代の私は愛聴していたからである。日本で広く知られている彼女の代表作というと、セリーヌ・ディオンの「Because You Loved Me」やエアロスミスの「I Don't Want to Miss a Thing」、リーバイスのCMに使われていたバッド・イングリッシュの「When I See You Smile」あたりになるのだろうが、私がとりわけ好きだったのは、チープ・トリックが1988年に発表したアルバム「永遠の愛の炎」に収録されている「ゴースト・タウン」という曲である。「君の愛がなければさしずめゴースト・タウン」とせつなく繰り返され、「ベイビー、戻って来ておくれ」と結ばれるそのサビを、何度聴いたことだろう。その曲で初めて、私はダイアン・ウォーレンという名前を知った。作ったのは女の人だったんだ……と思った。そして、その前から好きだったスターシップの「Nothing's Gonna Stop Us Now」(私の大好きなデパート映画「マネキン」の主題歌である)もまた、彼女の手がけた曲であることを知った。
彼女の楽曲には、“ダイアン・ウォーレン節”ともいえる明快な個性がある。「You Haven't Seen the Last of Me」でいえば、サビは無論のこと、第一ヴァースの最終行「Don't count me out just yet」にとりわけ“ダイアン・ウォーレン節”を感じる。壮一帆が“ダイアン・ウォーレン節”を歌うのを聴くのは、不思議に懐かしくも新しい経験だった。少女時代の私は、“ダイアン・ウォーレン節”に幾度励まされたことだろう。昔聴いていたのと違う曲であったとしても、その懐かしい節回しを聴いただけで、たちどころに少女時代に戻ってしまうような思いがする。その一方で、歌っているのは、今現在の自分にインスピレーションを与える人なのだった。――何だか、過去と現在の自分とが二重写しになってそこに存在しているような、そんな不思議な気がした。
 その曲は、壮一帆の“芸術家宣言”に聴こえた。自分が歩いてきた道は、いつしか美の道となっていた。だから、これからもその道をまっすぐに歩いていくのだと――。
 そして、過去と現在とで二重写しになってその曲を聴いていた私にとっても、自分が歩んできた道、歩んでいく道が見える思いだった。
 「You Haven't Seen the Last of Me」。
 壮一帆が雪組トップスターに就任するのは、それから一月後のことである。

 「I Haven’t Seen The Last Of You」。
 そして、今の私は、彼女が新たな作品で、新たな役柄で舞台に登場するのを目の当たりにするたび、そう思うのである。
 そこにはいつも違う人がいる。慣れないうちはドキドキする。私の知らない誰かがいる――と。そして次第に、その知らない誰かもまた、壮一帆の中に確かに存在することを知る。そうして、彼女という存在への理解は深まってゆく。それはこの上なくスリリングな刺激である。恐らく彼女の中には、自身すら知らない誰かがまだまだ存在していて、新たな出会いによって顔を出す日を待っているのだろうと思う。それも、ときには日替わりで。
 誰のイメージにも縛られない。私の知る壮一帆は、そんな役者である。
 2014年5月11日は花組トップスター蘭寿とむの宝塚生活最後の日である。

 とある演劇誌の気になる人物を紹介するコーナーで、まだ下級生だったころの蘭寿さんを取材させていただいたことがある。気になる理由。もちろんそれは、彼女が将来を嘱望されていた若手スターだったからだけれども、もう一つ、すみれコード的にはアレかもしれないが、退団する日ということで大目に見ていただくとして、蘭寿さんと私は、名前の漢字が一字しか違わない「○本真由」同士なのだった。ちなみに今のトップ陣でもう一人「○本真由」さんがいて、その人にもやはり不思議な縁を感じる。
 さて、下級生のころ、男役・蘭寿とむは大変老成して見えた。入団5年目の研5のときは研15、いやいや研25、はたまた、宝塚のトップスターを一度務めた人物が輪廻して再び入団した等々、いろいろ言われていたように思う。学年が上がるに従って若返っていく不思議さがあった。
 まっすぐで若々しい青年らしさは、宙組時代に大きく花開いたと思う。「異議あり!」の決め台詞&決めポーズを生んだ「逆転裁判−蘇る真実−」の主人公の弁護士フェニックス・ライト。歌と手話、そしてあふれんばかりの思いと共に雄弁に銀橋を渡った「Amour それは…」。「♪我々は生きている」の熱血が忘れがたい「カサブランカ」のヴィクター・ラズロ。「ファンキー・サンシャイン」の昭和の青年YUZOのファンキーな楽しさ、明るさ。ほわんとおおらかで、気が優しくて、それでいて突拍子もないおかしみがあって……。そんな舞台の数々を思い出すと、涙が出てくる。
 退団公演の「ラスト・タイクーン」「TAKARAZUKA ∞ 夢眩」を観ていて、久しぶりにそんなほわんとおおらかな部分を堪能することができて、本当にうれしかった。
 F・スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作「ラスト・タイクーン」の主人公モンロー・スターは、37歳で夭折したハリウッドの天才プロデューサー、アーヴィング・タルバーグをモデルとしている。映画史的には「ベン・ハー」や「戦艦バウンティ号の叛乱」「チップス先生さようなら」を代表作として挙げるべきだろうが、彼の手がけた作品群を眺めていると、「メリー・ウィドー」や「肉体と悪魔」(「プロヴァンスの碧い空」と同じズーデルマンの小説が原作)、「グランド・ホテル」など、宝塚歌劇でも舞台化された作品が少なからずあることが興味深い。その作品群の中に、MGMミュージカル第1作目「ブロードウェー・メロディー」があるが、蘭寿が第82期生として初舞台を踏んだときのショー「マンハッタン不夜城」でロケットを踊ったときのナンバーが同名曲であり、「TAKARAZUKA ∞ 夢眩」では、齋藤吉正の愛ある演出により、このナンバーが引用されている。タルバーグが生前最後に取りかかっていた作品が、彼の妻ノーマ・シアラーがタイトルロールを演じた「マリー・アントアネットの生涯」(フィッツジェラルドがノー・クレジットで脚本を担当)であることを知るだに、何だか因縁めいてさえくるけれども。
 映画作りに情熱を賭ける映画プロデューサーを演じて、蘭寿は若々しい青年ぶりを見せた。「ラスト・タイクーン」「TAKARAZUKA ∞ 夢眩」の2本によって、蘭寿とむは私の中に永遠の青年として残るのだと、感慨深い。

 今回は、要所要所での歌唱で活躍した彩城レアと、男前に見えて実はキュートな大ボケキャラ、「ラスト・タイクーン」でもメガネっ子に扮してほんわかおかしみを醸し出していた遼かぐらも退団である。五月晴れの空の下、どうか幸せな1日を!