私の夫は、宝塚を初めて観劇したのが1999年の「ノバ・ボサ・ノバ」なので、その作品で初舞台を踏んだ85期生には特別な思い入れがあるらしい。個人的にも、85期生には忘れ難い思い出がある。5年前のこと、とある雑誌で、組ごとに85期生が集まっての座談会を記事にする機会があり、時間がどうしても合わなくて残念ながら取材を見送った花組以外の組を担当した。最大で一度に8人もが集まって話をするというこの取材は、いろいろな意味で大変で、それだからこそひときわ心に残っているのだけれども、組ごとの雰囲気の違いがわかって興味深かった。あまりに元気がよすぎて集合写真を撮るのも一苦労の組、役割分担がピシッと決まっている組……。
 その中で、月組の85期生は、ちょうど大作「エリザベート」に挑戦中で、新人公演で青樹泉、真野すがた、彩那音がトート、フランツ、ルキーニを演じたばかりだったということもあってか、集まった全員が舞台と役どころについて落ち着いた語り口でじっくり話してくれたのが印象的だった。その後、音姫すなおと涼城まりなと葉月さらが退団し、真野すがたと彩那音が組替えとなった今も、そのときの情景をありありと思い出すことができる。なかでも、お姉さん格の雰囲気をただよわせていたのが美鳳あやだった。彼女の存在が、あの座談会の真面目な空気作りに貢献していた部分も少なくなかったように思う。
 それ以前から、彼女はダンサーとして注目される娘役だった。確か2002年の全国ツアーのときだったのではないかと思うけれども、ショーの一場面で踊る彼女を観て、“エアリイairy”とはこの人のためにあるような言葉だ……と感じたことを思い出す。最近では、芝居作品でもなくてはならないバイプレイヤーとして活躍していて、「スカーレット ピンパーネル」、「ジプシー男爵」と、どこか肝っ玉の据わったような役どころが続いたけれども、私は、あのときの、空気のように軽やかで、娘役としての美徳に満ち満ちていた彼女の舞を、いつまでも忘れることができない。
 今回の「ジプシー男爵」は、結果的にメインストーリーが機能せず、二つのサイドストーリーをより合わせる形で物語を提示せざるを得ない状況になった。実質的主人公を務めることとなった専科の汝鳥伶が演じる豚飼いの王様ジュパンが担ったストーリーがその一つで、もう一方のストーリーにおいて、美鳳は、最優秀助演女優賞ものの大きな役割を果たすこととなった。美鳳演じるジプシーの占い師ツィプラが言う、「その土地の正統な継承者が愛する人を得たとき姿を現す“財宝”」とはいったい何のアレゴリーであったか、そのことが、「ジプシー男爵」なる美しくも宝塚的な作品の最大の論点であったわけだが、美鳳はもちろん、“財宝”の寓意の深い理解あったればこその堂々たる演技を披露した。主なきジプシーたちの、ほとんど女頭領のような役どころで、主人公に、仲間の中にあって人として生きる道を説くその姿には、大いに説得力があった。
 ショー「ラプソディック・ムーン」では、月組のダンスリーダー桐生園加と並び、男役陣に一人混じって踊る“キャラバン”が圧巻である。エアリイな彼女が回転すると、竜巻が起きたかのよう。桐生が率いる1月のバウホールのダンス公演「Dancing Heroes!」を観たらきっと、「もう、お前はいないのか……」と、アンドレを失ったオスカルの如き言葉をつぶやいてしまいそうな、そんな残念な思いでいっぱいである。

 天野ほたるについては、失礼を承知で言えば、まさか12年もの間、宝塚の舞台でその姿を観られるとは思ってもみなかったというのが正直なところである。というのは、彼女は、大変な美人だからである。それも、女優系の凄みのある美人というのではなくて、あくまでたおやかでおっとりとした美人。だから何だか、良縁に恵まれて早くに退団しそうに思っていた……というのは、考えてみれば、美人に対するとんでもない偏見であるわけだが。考えてみれば、芸能界ではあまり目にしないタイプの美人を目の当たりにできるというのも、宝塚歌劇の一つの特質なのだろうと思う。
 「ジプシー男爵」では、天野は、汝鳥扮するジュパンの奥方ヨランダという役どころ。綺麗な顔で、強欲な夫といい感じに調子を合わせているのが何だかとっても業が深そうだ。専科の最終兵器、汝鳥とセリフを交わす様も堂に入っていて、こんな演技ができるようになったのに退団しちゃうのか……と、これまた非常に残念な……。「ラプソディック・ムーン」では、青いドレスで桐生と絡むシーンや、娘役だけの白いドレスのシーンがもう、眼福な限り。

 研7の取材のときには8人いた月組85期生は、今回の二人の退団で、ついに青樹泉一人になってしまう。「ジプシー男爵」で、美鳳ツィプラが青樹扮するホモナイ伯爵に、ヒロイン・ザッフィの出自を明かす手紙を渡す重要場面や、戦争から帰還したホモナイ伯爵がヨランダと無事を祝ってうれしそうに舞い踊っているのを観て、何だか、胸が痛くなってしまった……。
 ちなみに、研7のときの件の取材では、舞台人の目標を問われて、天野は、「割といつもキレイめの役が来るので、汚れ役、悪役をやってみたい」、美鳳は、「舞台は、その人のすべて、それまで経験してきたものがさらけ出される場所だと思うので、人間として、女性として、素敵な人でいたい。女性としての永遠の課題」と答えている。
 私はいつも、娘役がやめるとき、苦労しただけの割にあった宝塚人生が送れたかどうかが本当に気にかかる。ときとして男役至上主義のような心ない主張がなされる宝塚において、娘役とはどれだけ報われる職業なのか、いつも気にかかる。娘役なかりせば、男役も存在できないのに――。私は、二人の夢は見事かなったなと思って、取材した者として何だか本当に感慨深いのだけれども、二人もそう思えて卒業の日を迎えることができたのだとしたら、こんなにうれしいことはない。
――いいえ、月にかけて誓わないで、不実な月は
一月ごとに丸い形を変えてゆくもの
あなたの愛もそのようにうつろうものになってしまう(『ロミオとジュリエット』より)

春――
二人
同じ景色を見ていた
別々の場所で
靄がかった空気の中、ほの白い月の光に照らし出される景色を

秋――
月はやはり闇夜を照らして、でも、二人は同じ景色を見ない
同じ輝きが二人の心を満たすことはもはやない
貴方の鈍い光の矢は
月を陰らせ
夢を壊す

そのためだけに生きる、そう誓った喜びは、貴方が殺した
他の何にも代え難い喜びを、貴方は殺した
今、貴方の歌声が虚しく響いて、誰にも届かない
かつて、月の夜に多くを告げた貴方の歌声が、何も伝えない

広大な砂漠に愛を注ぎすぎて
私の心は干上がってしまった

美しい想い出は霧散し
瓦礫と崩れ去り
荒れ果てた城跡だけが
貴方の生きる縁(よすが)

私の想念の中、浮かぶ貴方はもはや、幻に過ぎず
貴方の想念の中、私はもはや、浮かばない

ほんのひととき、すれ違って、同じ景色を見ていた二人
今は遠く、違う景色を見ている二人
――月だけが、すべてを見透かし、心を射抜くように、今夜も、光る――
 嗚呼、またもや本日、感動の舞台を観た喜びを消費活動によって表現してしまったあひるです。それくらい、このところ、すばらしい公演が続いています。17日にさみしくも終わってしまった宝塚花組公演、新国立劇場オペラ「アラベッラ」、宝塚雪組東京特別公演「オネーギン」、そして今夜、東京オペラシティコンサートホールで聴いてきたばかりの「ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル」……。17日には「アラベッラ」二回目に行ってきたのですが、リヒャルト・シュトラウスの魂をあまりにも激しく受け止めすぎて、感受性の安全弁がぱっかーんと開きっぱなしになってしまって、最後なんかもう、自動泣き人形のように自分ではどうすることもできないくらいただただ涙が流れっぱなしになって、家に帰ってそのままその場に倒れて寝込みました……。ラファウ・ブレハッチについてもまた詳しく書きますが、ショパン生誕2010年をあざやかに彩るオール・ショパン・プログラム。まだ25歳と若いのに、しっかり自分の人生を生きて、それをしっかりショパンの音楽に乗せて表現できる真の芸術家だった! 「一歩一歩を確かに重ねて行って、いつの日かショパンと同じ美の天空の果てまで、僕も昇りつめる!」と空高く翔るアンコールの「英雄ボロネーズ」の神々しくも輝かしいこと! 同じプログラムが聴ける23日の横浜みなとみらいホールでの公演、真剣にお勧めいたします。それにしても。連日連夜激しく心を動かすと、それは疲れる……。あ、花組の続編も忘れてはおりませぬ〜。あひる、もうヘロヘロ……。はは。
 さて、東京公演も残すところあと二日となってしまった「オネーギン」ですが、宝塚の文芸路線の豊かな薫りをたたえた佳作。組名からの連想も多分にあるのかもしれないけれども、雪組とロシア物作品は非常に相性がよいイメージ。硬質で端正な個性とロシアの凍てつく冬景色とが結びつきやすいのかなとも思ったりするのですが、今回の主演を務める轟悠も雪組出身、しかもニヒルでダンディな主人公とくれば似合いのキャラクター。実際、今の段階でも、東京公演が先行とは思えないほど、舞台全体の仕上がりも良し。……なのですが、あひるはここで敢えて言いたい。
 轟悠も雪組一同も、まだまだ行ける!
 「オネーギン」といえば、あひるはチャイコフスキーのオペラが大好き。特に、自分の世界に引きこもりがちなタチヤーナは大いに共感を寄せてしまうヒロイン。オネーギンに想いを吐露するタチヤーナの「手紙」のアリアを聴くといつも、心を思いきって文章にした後の自分をついつい重ねてしまって、その後オネーギンに拒絶されるとき、タチヤーナと一緒になってガーン……とめちゃめちゃ落ち込みがち。
 その一方で、タチヤーナや親友のレンスキーあたりと比べて、オネーギンという虚無に取りつかれた主人公は、表現の難しい静の役どころ。歌う歌手によっては、「……この人、何も考えてないだけなんじゃ……」と思ってしまったりすることもある、かなり受身一辺倒のキャラクターではあります。今回の舞台は、オペラ版に比べ、オネーギンが能動に描かれていて、とある行動を決断するラストが見どころとはなっているのだけれども、今年舞台生活25周年を迎えた轟悠としては、これまで培ってきた人生経験と男役芸とを、静の魅力の中に、なにげない立ち姿や背中で雄弁に表現する好機。何しろ、周りの雪組生にとっては、轟悠は入団したときから憧れとしてきたであろう先輩スター。あひるも、子供のころから憧れてきた演劇人に、大人になって取材等でお会いできたときの晴れがましくも誇らしい気持ちを覚えているからよくわかるのだけれども、そんな憧れの存在と同じ舞台に立って演技の上で対等にやりあえるとなれば、みんなうれしくてうれしくて、若さのエネルギーと心のパワー全開で轟に向かってくるのは当たり前といえば当たり前。そうやって向かってこられて、ついついパワーで返したくなる気持ちも本当によくわかるのだけれども、オネーギンは、感じやすくて頭が切れすぎるがために、社会に絶望してしまって、心がほとんど死んでしまったところを、周囲の人々の熱い思いや情熱、真摯な愛にふれて、最終的に能動の決断を下す、非常に難しい役どころ。革命派の将校たちにどんなに熱く激しく向かってこられても、耐えて耐えて耐えて、想いをためてためてためて、最後で吐き出す役柄とでもいうか。あひるは行ったことはないけれども、轟悠の故郷の人吉はきっと、いいところなんだろうな……等々、想念のヴィジョンはあれこれ感じるのに、少しでもよけいな力が入った瞬間、せっかくのヴィジョンは一瞬にして霧散してしまう。力むと「黎明の風」の白州次郎がちらついてしまうし、やりすぎては「キーン」の二の舞の恐れあり。リラックスして、心をやわらかく解き放って、こめるべきはただただ想いのみ! あひるは16日の11時公演と19日の14時公演を観たのだけれども、16日の第一幕はいまだかつて経験したことのない轟悠の姿に茫然とし、19日は第二幕、タチヤーナに想いを打ち明けようとするあたりからラストにかけてがとりわけよかった。……ということは、16日の第一幕の感じと、19日の第二幕の感じで続けていけば、いまだかつてない新しい“轟悠”が完成するはず! 一度創り上げたものを壊すのは確かに恐ろしい。けれども、その創造と破壊のメタモルフォーゼを繰り返し続けた者だけが、真に一流の表現者たりうる……とは、蜷川幸雄演出作で変容を遂げる役者たちの姿にあひるが教えられた真理。あひるは最近、2014年の創立百周年に向け、宝塚歌劇が今、真の舞台芸術創造集団たらんと、日々刻々と凄まじいスピードで進化しているのを感じずにはいられないのだけれども、その上でも今回、轟悠が新たな男役像を打ち出せるか否かは、後に続く者たちにとって大きなキーとなってくるはず。25年間のうちに培ってきた芸と人間性、そして観客を信じて、心を自由に解き放っていけば、若さのパワー恐れるに足らず。もちろん、周りも、新しく誕生するであろう“轟悠”をさらに大きなものとするためにも、パワー全開でぶつかって行くべし。大丈夫! まだまだ行ける! あひるももう一回行きます。皆様もくれぐれも新しい“轟悠”誕生の瞬間をお見逃しなきよう〜。
 今回の公演は、「麗しのサブリナ」も「EXCITER!!」も楽しいシーンの連続で、選ぶのに大いに迷ってしまったけれども、心の名場面は、「麗しのサブリナ」第13場、観劇デートに出かけるライナスとサブリナを見送ったライナスの二人の秘書、ウィリス役の未涼亜希とマカードル役の桜一花が「ライナス様がデートなんてまた、珍しい」とかまびすしく展開するソング&ダンス! 二人の息の合った一挙手一投足がもう、最高におかしい。あの二人をミニチュアサイズにして家に持ち帰って、落ち込んだとき、机の上で「♪あなたは大丈夫〜」と歌い踊ってもらったら、さぞや元気が出るだろうな……と思った次第。
 未涼と桜は「EXCITER!!」の第6章でもコンビで出てきて歌うシーンがあるが、これがまた絶妙な連携プレイである。真飛聖が前場で披露した、世界への愛と包容力あふれる歌を、未涼が歌い継ぎ、そこに桜が歌声を重ねてゆくという趣向なのだが、真飛の歌で涙を誘われ、一息つこうかと思った間隙を突いて、未涼がすかさず中押し、桜がダメ押しするという、聴く者の心に寸分のスキなく想いをきっちり詰め込む二人の職人技が絶品である。何かを袋に詰め放題の企画があったとして、いくらなんでももうこれ以上は詰められないだろう……と思っていたら、桜が広げた袋の中に、未涼が、「いえ、この向きをこうしてこう変えればここにもっと入ります」と、手際良く冷静にどしどし詰め込んでいく感じ。未涼の雪組への組替え前に、未涼と桜の名コンビぶりが堪能できた公演だった。
 「麗しのサブリナ」では、プラスティック事業拡張の大切さを語るソング&ダンスも本当に楽しかったのだが、ここではもう、まじめくさって披露する、未涼のヒザの前後運動だけで笑えた。もはや身体のわずかな動きで笑いを取れる芸達者、それが男役・未涼亜希である。無心に踊ればストイックなセクシーさが匂い立ち、歌の巧さは言うまでもなし。演じられる役の幅も広い。男性至上主義の封建時代のプロパガンダ演劇を何も宝塚歌劇でやらなくても……と思ってしまった前公演「虞美人−新たなる伝説−」では、作劇のまずさから、項羽でも劉邦でも虞美人でもない、未涼演じる軍師・張良がほとんど主人公になっていて、彼女の演技自体は非常によかった。ああした方がいい、こうしない方がいいと、劉邦をあれこれいさめる役どころなのだけれども、やっぱりポータブルサイズを家に持って帰って、「そろそろ原稿に取りかかられた方が……」とか、「同じ洋服を色違いで何枚も買うのはやめにした方が……」とか、張良先生にあれこれいさめられたら人生万事まじめに生きられるかしら……と夢想するあひるであった。
 その未涼は、2010年宝塚大劇場お正月公演から雪組に参加する。音月桂が新しくトップスターに就任し、若さのパワーではじけてくることが予想される新生雪組だが、人材豊富な娘役陣の色気が供給過多になっており、これをがっちり受け止める男役陣の育成に期待がかかる現在、実力と男役芸とを兼ね備えた未涼のはたす役割は非常に大きくなってくると思われる。音月との銀橋歌合戦や、緒月遠麻との身体能力を駆使したダンス&コメディバトルを期待したいし、桜一花と同期でこれまたエネルギッシュな舞咲りんと今度はコンビを組んでみてほしいなとか、花帆杏奈&涼花リサのお色気二人娘をはべらして両手に花をやってみてほしいなとか、あれこれ楽しみに想像してしまう。芸と心のある舞台人は、どこへ行っても大丈夫! 新天地での大暴れを期待するものである。

*今宵はこれまで。あひる電池切れ〜。
 今月初め、宝塚のトップスター経験者が語り合う地上波テレビ番組が放映されたけれども、……何だか非常に残念な内容だった。もちろん、興味深い話もいくつかあったのだけれども、その発言はさすがにないんじゃないんでしょうか……と思ったのが、「目線が合ったと客を誤解、勘違いさせたら、しめた」みたいなコメント。
 その番組を観ていて、何だか、花組の愛音羽麗だったらどう感じただろう……と思ったのである。愛音羽麗は、まだまだ下級生の時代から“一本釣り”の凄腕業師として知られてきた男役である。“一本釣り”とは、これと狙った観客に強烈なウィンクや流し目を送ってトリコにする、男役の伝統芸の一つである。かねてから評判の高かったそのワザに、私自身が実際に遭遇したのは8年も前、2002年の「エリザベート」宝塚大劇場公演のこと。たまたま前の方で観ていたら、フィナーレで見たのである。バッチンと、それはまた強烈なウィンクを。それまで噂でのみ知っていたワザを実際に目の当たりにすることができて、実に感動的だった。
 そして、その残念な番組の放映後、何だかもやもやとした気持ちを抱えて花組公演を観に行ったら、愛音羽麗はやっていたのである。「今あなたと私の目が合っているのが勘違いや誤解だったら、この世のすべては幻です!」とでも言いたげな、それはえらく気合いの入った、パッショネイトな一本釣りを。目の合った一人一人に確かに自分の心を送りこむ、魂のこもった炎の一本釣りを目の当たりにして、私はすっきりしたのである。私にとって宝塚歌劇とは、舞台上の演者と客席との間に確かな心の交流が感じられることがその大きな魅力の一つなのだけれども、愛音羽麗もその魅力を確かに信じて舞台に立っている人なのだとわかったから――。
 2002年といえばまだ新人公演の学年、そんなみぎりから色気をふりまいてきた愛音だが、“男役の花組”の伝統を確かに守り、受け継ぐ存在として、その色男ぶりには拍車がかかる一方である。「麗しのサブリナ」では、愛音は“ストーリーテラー”として、さまざまな場面に多種多様なキャラクターで顔を出すカメレオン的役どころを担っているが、パリの料理学校でサブリナに料理を教えるシェフ姿の色っぽさに、「シェフにこんなに濃厚な色気があったら、料理そっちのけで見とれていろいろ焦がしそうだな……」と思ってしまった。ライナスとサブリナが出かけるクラブでは、紫の総スパンのスーツでぬっと現れ、二人を強引に取り持つかのようにラブソングをねっとり熱唱。デイヴィッドを治療する医者役ではあふれんばかりの色気を封印しておじいちゃん役に徹し、一瞬、このベテラン男役、誰だっけ? と思ったりして。シェフ帽を脱いだ瞬間、はっと頭をふって髪を乱されさせたり、なぜか夜なのにサングラスをかけて電話をし、しかも通話が終わった瞬間、それは色っぽくサングラスを外してみたり、キャラクター設定上何の意味があるのかよくわからない色気ダダ漏れ大サービス状態で、男役芸の色気を愛する観客の心をわしづかみ。「EXCITER!!」では、ジャケットを半分はだけて真飛聖に迫る、しかもその裏地が紫という、花組の男役同士ならではの超絶セクシーシーンがある。色気のある男役にしか紫は似合わない、そう、力説するものである。
 “紫”で思い出す色気の男役といえば紫吹淳だけれども、「“紫吹淳祭り”と言っても、紫吹さんの男役芸はもともと花組仕込み、あれは“紫吹芸”と言うより“花組男役芸”です!」と、愛音羽麗は、決して大きくはないその身体をめいっぱい使って、いつでも激しく主張している。そのねっとりが、くせになる。愛音羽麗が男役芸の継承者として大暴れする限り、花組の舞台はいつでも“男役祭り”である。
 憧れの運動部の先輩。花組・壮一帆に対する私のイメージは、ここ数年ずっとそんな感じである。さわやかなスポーツマンで、みんなの人気者で、文化部人間だったあひるからすれば、素敵だな……と遠くから眺めるばかりで、一度お話してみたいなと思っていても、なかなか話しかけづらい感じというか、そもそもどんなことお話したらいいの、共通の話題がない〜とあせる感じというか。
 ところが、スポーツにばかり興味があると思っていたその先輩が実は大の演劇好きと知ったら、話は別である。もう、話し倒してしまうことだろう。好きな作品を語るその目にふと影が差す瞬間なんかがあったら、先輩のイメージが変わってしまう。さわやかで、いつも壮快な笑顔をふりまいている先輩の内面には、いったい何があるのだろう……と、気になってしかたなくなってしまう。……以上、やや古き良き少女漫画テイストではありますが。
 しかしながら、男役・壮一帆のイメージが大きく変わった瞬間があったことは事実である。2009年春の主演作「オグリ!」を経た後の秋の本公演「外伝 ベルサイユのばら」「EXCITER!!」あたりだっただろうか。“さわやか”のイメージを具現化したようなその男役像に、確かな影がついた。男役として実体化し、その結果、舞台上の存在感がぐんと増した。このころから歌唱面にも磨きがかかり、じっくり聴かせる歌を歌うようになった。ヒジ下ヒザ下の独特の使い方が回転技にキレを与えるダンスが魅力的なのは言わずもがな。花組育ちなだけあって、黒燕尾服姿も実にシャープである。
 「外伝 ベルサイユのばら」のアラン、「相棒」の神戸尊、そして今回の「麗しのサブリナ」のデイヴィッド・ララビーと、いつも感服するのが、この人の、さりげなく、それでいてしっかりとなされる愛情表現の深さである。「外伝 ベルサイユのばら」では、目が見えないアンドレを戦場につれて行きたくない一心から、目が見えないことを隠しておけと頼まれていたにもかかわらず、周囲に明かしてしまう。冷たいよ! と思ったその瞬間、そこに相手への深い思いやりが隠されていたことがわかって、思わずぐっと来てしまう。「相棒」でも、真飛聖扮する杉下右京とつかず離れずの関係ながらも、根底には相手への敬意が確かにあることが見て取れた。
 今回のデイヴィッド・ララビーも、ヒロイン・サブリナが自分ではなく、兄ライナスを愛していることを知り、兄もまた彼女を愛している、そのことを兄にはっきりとわからせるためにサブリナへの憎まれ口を叩き、わざと殴られる。その瞬間、壮デイヴィッドはそれはさわやかな満面の笑みを浮かべるのである。なんと気のいい! そして、「愛してるんだろ」と、兄にサブリナを追いかけるよう優しく諭す。なんと心憎い! 私は愛情表現というと、単色一色で塗りつぶすというか、好き好き好きの一本やりになりがちなタイプなので、さりげなく深い愛を表現できる人に憧れてしまう。
 そして壮は、モテモテの役が非常に似合う男役でもある。今回も、「僕はドン・ファンなんかじゃない」という、若くして三度の結婚に破綻した俺様モテモテソングを、あっけらかんの笑顔で歌って、嫌味ないどころか大いに魅力的。そう、壮デイヴィッドは、プレイボーイではなくて、ただ、世界中の女性にひそむ美しさを知り尽くしたいという己の欲求に貪欲なだけなのだ。さりげなく愛が深くて、しかも博愛主義者。こういう人だからこそ、たまに真顔で言う「好きだよ」が強烈に効くのである。
 弟さんも素敵、お兄さんも素敵、どうしよう、どちらを選ぼうかしら……という贅沢な悩みを味わえるのが「麗しのサブリナ」の楽しみどころの一つであって、真飛聖の主人公ライナスが素敵であればあるほど、弟デイヴィッドも拮抗する魅力がなくてはならない。兄とは違う魅力で楽しませてくれて、でも、最終的にはフェアプレイで恋を兄に譲る。心映えのフェアさも、男役・壮一帆の魅力である。筋の通らないことや人の心を裏切る行為なんて絶対に通しそうにない正義感に満ち満ちた感じ。
 「麗しのサブリナ」はロマンティック・コメディだから、サブリナ、ライナス、デイヴィッドと、ウィットの効いた会話をコメディにふさわしいテンポのよさで展開していくことが必須の作品だったが、誰と会話を交わしていても、壮のセリフのテンポは聞いていて実に小気味いい。ああ、この間で突っ込んできてほしかったの! というツボつきまくりで、見事な好アシスト。「相棒」のときから深く実感していたことだけれども、壮一帆は、花組トップスター、真飛聖にとってよき“相棒”である。
 スポーツマンを連想してしまうだけあって、壮一帆は舞台上でとてつもなくエネルギッシュな魅力を発散する男役である。一般的に、巨大なエネルギーを発散する存在は、ときに、受け止める側のエネルギーを大いに吸う場合もあって、取材でもたまにそういう存在に遭遇すると、終了後は口もきけないほど疲弊しきってしまったりする。けれども、壮の場合、発散してくるエネルギーが非常に大きいのに、客席で受けていて心地よく、ポジティブなエネルギーを大いに与えてもらえる。人間間のエネルギー循環の術に長けた人なのだと思う。やっぱり、壮一帆は私にとって“憧れの先輩”である。
 過去のすべてを消し去りたい、高いビルの窓から飛び降りてしまいたい、そう思ったことがあると語る「麗しのサブリナ」のライナス・ララビーの気持ちが心からわかる。ライナスを演じる真飛聖の魂がそう、語っていた。
 けれども、自分には、宝塚の舞台が、男役があって、そして今、男役として宝塚の舞台に立つことがこれまでになく幸せなのだと、真飛聖は「EXCITER!!」の“Life Exciter!!−命の革命−”で歌っていた。泣いた。泣いて、本当にちょっぴりだけ、私は口をとがらせていた(あひる口?)。
 ……そんなにつらい想いを今まで一人で抱えてたなんて、もっと早く打ち明けてくれればいいじゃない!!! だってだって、水くさいじゃない!!! ずっと客席に座っていたっていうのに!!! と。打ち明けてっていうのは無論、舞台からですが、この場合。
 でも、ほんのちょっぴりだけあひる口になりながらも、私は心からうれしいのである。9月24日のブログでの予言通り、今回の公演中、花組トップスター真飛聖が、男役として、舞台人として覚醒したことが。そして、その立ち姿に、それは大きなポテンシャルを秘めた舞台人を見られたことが。「EXCITER!!」の最高に楽しい場面、“Men’s Exciter!!−男の革命−”で、キュートなドジっ子Mr.YUが、「チェンジBOX」に入り、麗しくもかっこいい究極の男に変身して観客の前に姿を現す、それくらいのディープ・インパクトが、その覚醒にはあったのである。

 私は決して、2007年末に花組トップに就任してからこれまで、舞台上の真飛聖が奮闘していなかったと言うのではない。宝塚の男役トップスターという存在にかける己の真摯な想いを、王座をめぐる人々の権力闘争に巻き込まれつつも最終的に真の王となる主人公タムドクに重ね合わせて演じた「太王四神記」、全国ツアーと本公演でそれぞれアランとアンドレを演じた「外伝 ベルサイユのばら」など、きっちりとした舞台を着実に務めてきた。ただ、トップスターとしての責任を真面目に果たそうとするあまりか、どこかはじけきれていないようなおとなしい印象を、何とはなしに与えてしまっているようなきらいがあった。
 今となっては、真飛自身、自分の個性をはっきりとつかみあぐねていたのかもしれないと思わないではない。何しろ、トップとなるまでの当たり役は二極分化している。「ベルサイユのばら2001」で演じた荒くれ者のアラン、「雨に唄えば」の悪声の女優リナといった役柄で強い印象を残す一方で、外部出演作「シンデレラ」の王子では立ち姿もエレガントな貴公子ぶりで魅せる。極端なのである。
 主役、トップスターよりも、二番手以下の方が色濃く、“おいしい”役どころが回ってくるということもある。トップとなってからの真飛は、周囲に自由に個性を発揮させながら、己の個性をどう発揮してゆくか、悪戦苦闘していたような気がする。
 風向きが変わってきたのは2009年の秋である。このとき初演されたショー「EXCITER!!」の“Men’s Exciter!!−男の革命−”は、「ハゥ・トゥ・サクシード」に「ビッグ」、「ヘアスプレー」に「ドリームガールズ」のエッセンスを混ぜ合わせたような、アメリカン・ミュージカルのポップなテイストにあふれたシークエンスである。ここで真飛は、ぶかぶかスーツに真ん丸眼鏡のドジっ子、Mr.YUなる役どころを与えられた。かわいらしい声での歌唱もあり、男役芸、そしてコメディ・センスがしっかり身についていない者でなければ到底魅せられない長さのあるシークエンスなのだが、真飛はここで、チャーミングな個性をフルに発揮して観客を大いに魅了した。それは例えば、終始強烈な個性で押し通した2003年の「雨に唄えば」のリナあたりと比べても、格段の進歩を感じさせた。あまりやりすぎてしまうと、コミカルなキャラは鼻につかないでもない。けれども、Mr.YUを演じた真飛は、キャラの押し出し加減や笑いの加減のあんばいが絶妙だった。
 続いて真飛は、年末年始にかけて、シアター・ドラマシティと日本青年館で「相棒」に主演した。そう、テレビ朝日系で放映され、人気を博した、水谷豊主演の刑事ドラマの宝塚版である。ちなみに、この作品の話をすると、「えっ、宝塚ってそんな舞台もやってるんですか???」と驚く人が非常に多いのだけれども、宝塚はそんな舞台もやっているのである。そして、今この文章を読んで少しでも興味をもたれた向きにはDVDでの鑑賞を大いにお勧めしたいスマッシュ・ヒットである。映像から飛び出してきたとんでもなく強烈な個性の面々が繰り広げる、抱腹絶倒でありながらも、宝塚の“清く正しく美しく”にもきっちり則った作品だった。
 しかしながら、ここで真飛に与えられた主人公・杉下右京こそ、近年の宝塚歌劇において最高難度を誇る役どころの一つだった。何しろ、ドラマ版でこの役を演じている水谷豊に似ていなくては話にならない。それでいて、宝塚の男役が演じるからこその滋味をキャラクターに与えられることが要求されてくる。しかもコメディ。ハードルの高さやかくや。けれどもここで、真飛は、周囲の超個性派の面々を自由にはじけさせ、遊ばせながらも、水谷豊の創ったキャラクターに則った、それでいて、男役という存在だけが内包する魅力をきっちりとアピールする好演で、作品の成功の最大の立役者となったのである(これについては何も私一人の意見ではなくて、テレビ朝日事業部の某嬢もまったく同意見でした)。このドラマをまったく観たことがなかった私も、宝塚版を大いに楽しんだだけでなく、今度、ドラマの方も観てみたいなと思わずにはいられなかった。

 そして、2010年秋。「麗しのサブリナ」「EXCITER!!」の二本立てで、真飛聖は遂に決定的進化を遂げた。
 「麗しのサブリナ」での真飛の役柄は、映画版ではハンフリー・ボガートが扮したライナス・ララビー。素直でまっすぐなヒロイン・サブリナの心にふれ、はっちゃけて破天荒な弟デイヴィッドに後押しされて、閉ざしていた心を開いていく、動ではなく静で魅せる役柄である。この耐える男の役どころを、真飛は、コートを羽織った後ろ姿にも哀愁がにじむ、男役の美学薫る演技で体現。派手なナンバーがあるわけではない、渋いたたずまいの中に、サブリナと接するうちに生まれる微妙な心情の変化を確かに見せていった。淡々と日々を送るかに見えたライナスの中には、ビルから飛び降りて命を絶ちたいとまで思った絶望があった。それでも彼は、ビルの下で子供たちが遊んでいるのを見て思いとどまる。実業家として事業の拡張に邁進するのも、お金儲けが目的ではなく、その事業の発展によって恩恵を受ける人々のことを考えればこそ。他人のことを優先する、心優しき人なのである。だから、事業拡張とサブリナへの愛に板挟みになり、サブリナは弟デイヴィッドの方を愛しているだろうと一度は身を引く決心をした彼が、弟に殴られ、心を決めて、サブリナの乗るパリ行きの船“リベルテ”号の甲板に姿を現すとき、観客は心から彼に喝采を送るのである。ああ、彼はやっと、自分の心のままに生きる決心ができて、愛する人と幸せになれるのだ……と。愛を選んで“リベルテ”−自由−号に乗るライナス。その晴れやかな姿は、宝塚の舞台への愛を貫き通した果てに、今、舞台人として覚醒し、真の自由をつかんだ真飛聖の姿と重なる。
 新場面も加わり、再演といえど新たな装いとなったショー「EXCITER!!」の中では、真飛聖はもう、水を得た魚のように自由自在である。オープニング、大階段での登場シーンで着用した衣装の、淡く美しい水色の何と似合うことか。そうして貴公子ぶりでアピールしたかと思うや否や、さっと紅の衣装に早変わりして、ワイルドな魅力を見せる。
 パッショネイトにタンゴを踊るその姿を観ていて、こんなに複雑な男役像を一つに収斂させるまでには、時間がかかるのも無理はない、そう思わずにはいられなかった。何しろ、星組での下級生時代から吸収してきたのであろう、実に多種多様な先輩男役の愛すべき個性が、真飛の中からそれは次々と飛び出してきたからである。真飛が新人公演でその役を三度演じた、星組トップスター、稔幸の洗練。稔の次にトップを務めた香寿たつきの“おっさん”芸。香寿の後を継いだ湖月わたるのオラオラ男前芸。どこか似た個性をもつ、四代前の花組トップスター、真矢みきの粋。星組時代の先輩、安蘭けいのドスの効いた凄みや、前花組トップスター、春野寿美礼の人智を超えた包容力も見えた。しなやかにりりしく強く、骨太に耐える粋な男役。それが、真飛聖という男役が今、達し得た境地なのである。
 そして、Mr.YU。キュートなドジっ子が「チェンジBOX」に入ると、究極の男に変身する――。これはほとんど、宝塚の男役のアナロジーである。男役・真飛聖にとっての「チェンジBOX」とは、「スカーレット ピンパーネル」におけるパーシー/グラパンの如き、役者としての根幹、本質を見せる装置に他ならない。
 だからこそ、Mr.YUとして、真飛聖という男役を成り立たせている存在が本質的にもつキュートさを発揮しつつも、決して女性の部分を見せることはないそのパフォーマンスに、私は逆に、海外ミュージカル作品のヒロインの役どころは、この人にどんなにハマることだろう……と、未来を夢想したのである。今はその男役芸を堪能していたいから、無論、先のことでいいのだけれども。
 もう、先輩男役の誰にも憧れる必要はない。今の真飛なら、海外ミュージカルでも、宝塚ならではのオリジナル作品でも、何でもござれだろう。ただ一つ、芸とは、「これでいいんだ」と思い上がった瞬間、それは笑ってしまうほどにあっけなく情けなく堕落するものだということだけ心に留めて、これまで耐えに耐えて男役芸をじっくり培ってきた精神で、今後もまっすぐに歩んでゆけば、舞台人としての未来はますます拓かれてゆくことと思う。舞台人としての覚醒を、心から祝福するものである。
 男役・水夏希がもたらしてくれた宝塚歌劇論について、私は、発売中のレプリークBis vol.19に、<“行動するリーダー”水夏希を送る>と題して書いている(特集は「ウィ−ン・ミュージカルのすべて」)。さまざまなスターの退団に当たり、このブログでこうしてしたためている「送る言葉」を、今回初めて、写真も交えて誌面に記すことになった。本来ならばもっと早くご紹介すべきだったのだけれども、どうにもできなくて、発売から一ヵ月も経った今、ようやっとご紹介しているのは……、退団がさみしかったからである。取材しているときからまずい! と思うくらいに。だから、退団の日まで考えないようにしていたかもしれない。
 けれども、とうとう考えなくてはいけない日が来てしまって、……今思うのはやはり、どうしようもなく、さみしいなあということである。水夏希は、私がこうして宝塚歌劇の評論を手がけていることには意味があると、明確な形で初めて示してくれたタカラジェンヌだった。

 水が、赤十字の創始者アンリー・デュナンを熱演した「ソルフェリーノの夜明け」を観ていて、私は、大学時代の恩師、鴨武彦氏をどうしようもなく思い出していた。「ソルフェリーノの夜明け」のデュナンは、負傷兵を施設の整った病院まで送り届けようと、緊迫する戦地を無謀にも横断しようとし、周りの多くの人々にその“夢想”を否定される。そんな水デュナンを観ていたら、「世界平和は必ず実現します」と、涼しげな顔で断言してやまなかった一人の国際政治学者の姿が、思い起こされてならなかったのである。大学生なんて生意気盛りもいいところである。周りの男子学生の多くは、「平和なんて実現するわけないじゃねえか」と言い放って憚らなかったし、私自身も内心、……難しそうだよな、先生はロマンティストだな……と思っていたのである。
 それが、負傷兵を救いたいと、血気盛んな軍人たち相手に無謀にも熱弁をふるう水デュナンを観ていて……鴨先生は、世界平和の実現の困難や、反発や否定を受けることなど承知の上で、敢えて、その言葉を口にしていたのではなかったかと思ったのである。
 どんなに実現が困難であろうと、人間には、実現すべき、もしくは、実現に向けて少しずつでもたゆまぬ努力を続けるべき目標がある。それを、無理です、はい、終了と言ってしまっては、何にもならない。何も言ったことにも、何をしたことにもならない。“インテリ”とは、自分が人より知識がある、もしくは、あるかもしれない程度のことを笠に着て、ああでもないこうでもないと、したり顔で批評したり批判したりして、何かをしたつもりになっている人間に対して向けられる、もはや“蔑称”である。何かを成し遂げるためには、行動しなくてはならない。きっちりとした意味をもたらす行動を。
 ――大学を卒業して十五年目にして、恩師の教えが初めて身に沁みた気がして、私は、「ソルフェリーノの夜明け」のラスト、赤十字の大きな旗を振りながら花道を去る水デュナンの姿が、照明によって幕に影を落とす光景が、忘れられない――。

 いつ、なんどき取材することがあっても、水さんは常に平常心に見えた。本当に忙しいときもあったと思うし、実際、今、ホントに大変なんですよ〜と口にすることはあっても、忙しさに揺れる心を相手にぶつけるようなことは決してしなかった。それは、水さんが、「私は誰であれ、“対人間”をモットーにしてきた」と語る人間だったからだと思う。あなたと私は同じ人間で、それぞれに立場があって、世界は全体として成り立っている。そんな方針を常に貫いていた。それは、背負うべき責任があまりに多い、宝塚のトップスターという立場にあっては、ときにとてつもなく難しいことではないかと思うけれども。
 だいぶ前のことになるけれども、水さんが、取材していた私の着ていた黒いワンピースをほめてくれたことがある。トップスとボトムスとが異素材で、スカート部分が三段フリルになっていて、自分としてもけっこう気に入っていた。それを、「ホントかわいいですよね〜」と、例によって、勢い&誠意にあふれる感じで、ほめてくれるのである(注:かわいいのはあひるではなく、あくまでワンピース)。私はそのころ、水さんに乙女の部分が大いにあるとはそんなには知らなかったので、男役として、私には一生着こなせないようなマニッシュな衣装をビシバシ着こなして人々を魅了している人が、フリルをかわいいかわいい言っているのが、何だかおかしかったのである。
 けれども、今となっては、そのフリルをかわいいと思う気持ちを心の内に通底させて、水さんと私は、異なる立場で、宝塚歌劇に情熱を注いでいたように思うのである。そのことを、水さんは理解してくれていた、そう思うから、退団がこんなにもさみしいのである。
 歌劇団での最後の取材のとき、水さんは、「これからもよろしくお願いしますね」と言ったのである。てっきり、退団してもよろしくお願いしますね……という意味だと思っていたら、「宝塚のこと」と続けられて、……私はもう、何だか言葉に詰まってしまったのである。私は、宝塚歌劇団の人間ではないが、宝塚を真摯に愛し続けた人にそう言われてしまっては、「わかりました」と言うしかなかった。しかし、とんでもなくさみしくなって、水さんが、宝塚歌劇検定のHPで、私の書いた「公式テキスト」を、仕事上とはいえ、おもしろいと宣伝してくださったお礼を言うのを忘れてしまったことを悔いている。
 思えば、退団したら宝塚コメンテーターになってほしいと考えたのも、何とかして水さんを宝塚から去らせたくないという想いからかもしれない。実際、四組を経験した水さんの言葉には、深みがあると思うのである。「スカーレット ピンパーネル」の星組版と月組版の違いも、水さんがかつて解説してくれた組ごとの分析によって理解できた部分も少なくなかった。
 ちなみに、件の黒いワンピースだが、「水さんがほめてくれたあれを着よう」と、かなりヘビーローテーションして、着古してしまった。けれども今も、お守りのように、私のクローゼットにかかっている。
 宝塚雪組公演「ロジェ」を観ていて、私は、作・演出の正塚晴彦の心と“対話”していた。何度も泣いた。
 前作「ラスト プレイ」について、昨年暮れ、私はこう記したものである(<「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編>http://daisy.stablo.jp/article/448444499.html)。
<「ラスト プレイ」とは、作・演出の正塚晴彦にとって、自分の演劇的良心と対話を遂げる話なのだなと思い至ったのである。物を書く人間である以上、正塚自身、筆が進まなくて苦悩することも大いにあるだろう。そして、書き上げた脚本を酷評され、自分自身が否定されたと感じて思いつめたことが一度もなかったとは言いきれまい。もう書けない、書くことなんてできなくていい――そこまで追いつめられたときに、劇作家自身が、自らが演劇に向かう初心、良心といま一度向き合って、交わす会話。それが、アリステアとムーアのあの、「弾け!」「弾けない!」の火花を散らすようなやりとりなのである。>
 このたびの「ロジェ」という作品では、正塚は、かつて自分の心を踏みにじって追いつめ、書けないような状態に追いやった過去の事実について、ときに率直すぎるほどに語る。家族を無残に殺された主人公ロジェは、24年もの間、復讐の念一筋に生きてきて、結局はその殺した相手を殺さない。一見、復讐は成らなかったように見えるけれども、劇作家自身は、この作品を書き上げたことで見事に“復讐”を果たしている。あっぱれという他ない。表現者は、自分の選んだ表現手段で“復讐”を遂げるべきなのである。
 24年間も憎んできた相手を、殺そうと思えば殺せたけれども、結局は殺さなかった。それは、ロジェが、そのように無残に人を殺せる人間など人間ではなく、獣でしかないと固く信じてきたにも関わらず、いざ向き合った相手シュミットは、どうしようもなく弱さを内包した、人間だったからである。収容所にいる全員の処刑命令を拒んだおかげで死を宣告されたシュミットが、逃亡して飢え、食料を探して盗みに入ったのが少年ロジェの家だった。ロジェの父親に発砲されたシュミットは、ここで死ぬのか……という一心でナイフで応戦してしまったのである。獣と蔑み、憎んできた相手もまた、人間でしかなかった。そんな厳然たる事実を突き付けられたロジェは、シュミットを殺さない。殺せない。
 追いつめられて、人を殺す人間と、殺さない人間とがいる。シュミットは前者で、ロジェは後者で、けれども、どちらもやはり、人間である。そして、殺す人間の中にもやはり、“清く正しく美しく”は存在するのかもしれない――。人間存在をここまで描き切ってしまったことで、もはや、宝塚歌劇においては安易な復讐譚は成立しない。その意味で、「ロジェ」は宝塚歌劇の新たな地平を拓く作品なのである。傑作である。
 「ロジェ」は雪組トップスター水夏希の退団公演にあたる。退団公演において、佳作が生まれることは決して少なくないが、傑作が生まれることは決して多くはない。惜別の念があふれすぎてしまうケースも少なくない。「ロジェ」の前、文句なしに傑作だったと言えるのは……と歴史をたどって思い浮かぶのは、かつて正塚自身が、正塚の作品世界を誰よりも巧みに体現できる男役として名高かった月組トップスター・久世星佳のために書いた「バロンの末裔」(1996〜1997)である。貴族家の次男坊を演じた久世が、生家を去るにあたり、「(私は)バロンの末裔なのだから!」と高らかに言い切るシーンは、宝塚を去るにあたり、卒業生としての誇りをもって生きていってほしい……との、正塚の思いがこめられた名場面だった。久世と、トップ娘役の風花舞が緊迫したやりとりを重ね、深く愛し合いながらも結局は別離を選ぶ“雉打ちの場面”も、芝居作品におけるトップコンビの可能性の一つの頂点として、今も深く心に残っている。

 「バロンの末裔」から13年の時が流れて、雪組トップスター水夏希が、「ロジェ」で退団する。水は月組での下級生時代、「バロンの末裔」に出演していたという縁がある。2008年の「マリポーサの花」もそうだが、水夏希は、正塚晴彦に一歩踏み込ませてしまう、書かせてしまう男役なのである。人生の途に迷いたたずむ男性像の魅力を多く書いてきた正塚が、水に対しては、能動を、行動を書いてしまう。能動を書き切る行為こそ、また能動に他ならない。そして、水夏希ならば演じられる――と、劇作家の真摯な思いを手渡されることは、演者にとって最高の餞でなくてなんであろう。
 作品は、銀橋にたたずむロジェが、舞台上を埋め尽くす雪組生と共に、人と人との出会いの不思議とその尊さを祝福して歌い、見送られて花道を去って終わる。憎んだ相手シュミットも含め、登場人物全員に見送られるロジェ。その姿は、今、宝塚歌劇に別れを告げる水夏希の姿とそのまま重なる。何か不思議な運命に導かれて、人は出会い、束の間の時を共に過ごし、別れてゆく。それが人生の必然である。“卒業”の制度のある宝塚で、ときにとりわけ明示的になる必然である。多くのタカラジェンヌと出会い、作品創りに情熱を共に傾け、そして、別れがあったこと。ここで正塚は、宝塚における己の表現者としての人生を肯定する。そう、「ロジェ」は、宝塚の座付き作家として創造に情熱を燃やす人生を生きてきた正塚晴彦が、表現者としてのかつての無念を晴らし、己の人生を受け入れた、どこかほろ苦くもせつない喜びに満ちた作品なのである。
 ロジェのかたわらに終始寄り添うバシュレ役を、正塚作品の常連ともいえる存在、専科の未沙のえるが演じているのがまた、象徴的である。去りゆくことが必然の宝塚にあって、去らない存在。その未沙自身、長らく、呪縛から解けずにいた。“未沙のえる”という名の呪縛から。この人はもう、“未沙のえる”を演じることにしか興味はないのだろうか――何度、そう書こうと思ったことか。それは決して、未沙一人の責任に帰すべき問題ではない。“未沙のえる”に“未沙のえる”を演じることを求めてきた者すべてに帰すべき問題なのである。けれども、「ロジェ」での未沙のえるは、長きの呪縛から解けて、別人のような舞台を見せていた。この人にはこんな表情が、こんな一面があったのだ、未沙のえるとはこんな演者だったのだ……と、新鮮な驚きを感じさせて、……だから、私は心からうれしかったのである。
 正塚晴彦と未沙のえる、二人の次の公演は「はじめて愛した」。水夏希の後を継いでトップスターとなる音月桂のプレお披露目公演で、二人にとって、宝塚歌劇にとって、新たな世界が広がるのを、楽しみにしている。――タカラジェンヌは去っても、去らない観客もまた、いるのである。
 雪組トップ娘役・愛原実花は実によく白が似合った。白の衣装で登場すると、まるで発光しているように、圧倒的なオーラを放つ。そのままの姿で初日前の囲み会見に現れると、間近で目の当たりにするあまりのまばゆさに、目が、目がまぶしいよう〜と思ったものである。
 囲み会見での彼女は、雪組トップスター水夏希の言葉を、それは真剣な表情で、集中して聞き入っているのだった。「この人の言葉には、一言だって聞き洩らしてはならない、これほどまでに真摯に聞かねばならない重みがあるのです!!!」と全身で訴えるその様子に、宝塚のトップコンビの美点の一つを感じ入らずにはいられなかった。トップスターが歌い、踊り、セリフを語る、その真横に、「そう、その通りです!」と、微笑みや目線で肯定してくれる存在があればこそ、トップスターの一挙手一投足がさらなる説得力をもって客席に届くのである。
 彼女が質問に答える番が来ると、今度は、水夏希が、大丈夫かな、ちゃんと質問意図を理解した答えができるかなと見守っている。何だかまるで、先生と生徒みたいだな……と、何とも微笑ましかったのを覚えている。
 それでいて、組んでのダンスシーンともなれば攻守逆転、妖艶な愛原の踊りに、トップスターが翻弄され、男役としてまた奥深い色気をふりまいてゆくのが、人の関係の不思議を思わせて、興味深くてならなかった。なかでも印象深いのが、「カルネヴァーレ睡夢」の“カナルグランデ 深夜”の場面である。コンテンポラリーの要素が盛り込まれたこのダンスシーンで、愛原の長い腕はしなやかに、雄弁に、魅力を放っていた。かつて、2004年月組公演「薔薇の封印」で、ヴァンパイアの主人公を演じる紫吹淳が、島崎徹の振付による、時を超えるダンスを踊って圧倒したことがある。その時以来となる、宝塚の舞台におけるコンテンポラリーダンスの名場面……と思っていたのだが、その後、愛原が実際に島崎の指導を受けたことがあると知って、何だか一人納得していたのだった。
 「カルネヴァーレ睡夢」では、パンツルックに身を包み、炎の鳥となった水を再び翻弄する“カルネヴァーレU 炎”の場面も印象に残っている。パンツルックでそれは颯爽と踊っても、愛原の表現は決して“男前”とはならない。それは潔くてかっこよい、“少女”なのである。宝塚の娘役には“男前”と“絶対的少女性”の方向性が可能性としてあることに思い至った瞬間だった。
 もっとも、彼女の舞台人としての魅力は、宝塚においてフルに発揮されたとは言い難い。「歌劇」誌で、演出家・小池修一郎が彼女をそれは残念気に送った言葉に、同意する。人生の決断に水を差すものではないけれども、宝塚の舞台で彼女をもっともっと観ていたかった、そう思う気持ちでいっぱいである。

 宝塚大劇場での退団公演中に、愛原は父君、つかこうへい氏を亡くした。それでも彼女は舞台に立った。私は、実家の愛犬が死んだ夜は原稿が書けなかった弱い人間である。彼女が舞台に捧げる真摯な想いを、心から尊敬する。
 演劇人つかこうへいについていえば、私は完璧に遅れてきた世代である。取材の機会がやってくることは、結局、ないままに終わってしまった。
 それでも、一度だけ、氏の素顔にふれる機会があった。氏のとある作品を手がけている演出家と、その主演女優とが交際していて、二人の初めての公式なツーショットを、私が当時勤務していた雑誌で披露させてもらえることになったのである。演出家と私の上司が知り合いだったから、事前に話はついていた。けれども、実際現場に出向くと、どうも雲行きが怪しい。このままじゃ写真を押さえられないな、編集部に帰ったらどんなに怒られるだろう……と内心おびえていたあひる。そこへ、近くでやりとりを聞いていたつか氏が、初めて口を開いてこう言い放ったのである。
「ゲスな感じじゃなきゃいいんだろ」
 “ゲス”という言葉を日常会話で聞いたのは生まれて初めてかもしれない……と思いつつも、私は、その“ゲス”という言葉がまったくもって“ゲス”ではなく、むしろ品のよさと、それでいて、その言葉が当然もつべき凄みを伴って発されたことに、驚いたのである。その一言で現場の空気は一変、まだまだひよこ時代のあひる記者は無事ツーショット写真を入手し、編集部に帰還することができたのだった。もっとも、この話をここで書くのは、何も、つか氏にそのときの恩義を感じていたから、その娘さんを好意をもって見守っていたということでは決してない。氏への感謝の念と、愛原実花という舞台人に魅力を感じるのとは、まったく別の話である。
 私にはずっと、夢があったのである。現在、宙組が全国ツアー公演において、氏の「蒲田行進曲」を原作とする「銀ちゃんの恋」を上演中だが、自身の作品と宝塚歌劇の舞台との比較、宝塚歌劇を舞台芸術としてどう評するか、そして、愛娘を舞台人としてどう評するか、直撃してみたかった。その夢はかなわぬままになってしまったけれども、愛原実花の宝塚卒業にあたって、私は、氏に聞くのではなく、むしろ、氏にきっぱり言うべきなのだろうと思うのである。
 お嬢さんは、魅力的な宝塚のトップ娘役でした……と。
 退団公演の初日前の囲み会見では、水夏希の言葉に耳を傾けるあのかわいらしい姿が見られなかったのが残念である。本当に、本当にお疲れ様。そして、心から微笑むことのできる日が来たら、また舞台に戻ってきてほしいなと……。愛原実花はやはり、舞台に生きる人だと思うから。そのときは、不肖あひるが、お父上に負けない厳しい目で、見ています――。